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《 中国を楽しく旅行する 》

西安から上海へ東漸の旅・古都を訪ねる(2)

古都 揚州

 1998年11月



もやに霞む五亭橋 (揚州 痩西湖) 

 揚州 といえばすぐ思いつくのは、柳と水、運河、煬帝、遣隋使・遣唐使、鑑真、李白に杜牧・・・といろいろあるが、 わたしが揚州に一番強く惹かれたのは、やはり杜牧の詩であった。

 揚州は日本人には鑑真ゆかりの街として知られる。七世紀、隋の煬帝はこの街をこよなく愛した。北京ー揚州ー杭州間の京杭大運河を完成したのは、煬帝である。聖徳太子が「日出ずる国の天子」から「日没する国の天子」に宛てた国書の相手も煬帝であることも頭の隅に入れておこう。 数ある観光スポットの中でも、痩西湖にかかる五亭橋は一見に値する。(控えめにいった。ほんとうは「必見 」といいたかった。)

 揚州は、およそ2500年前の春秋時代に呉王の夫差がこの地に築城したことから始まる。隋代に完成した大運河により、この街は大きく発展する。しかし、輸送手段の多様化により、大運河時代が終焉すると、この街は静かな地方都市となった。

1998年11月16日 再び夜行列車で揚州へ


 開封の観光を終えて、開封駅から再び夜行列車に乗って、鎮江へ向かった。

 午前4:30 南京駅を出る。かなり長時間停車したあと、静かに動き出す。このまえ南京に来たのは、昨(1997)年5月だった。上海駅を朝9時に出て、12時前に南京駅に着いた。人の出入りの多い、大きな駅というのが、最初の印象だった。ちょっと懐かしい気がするが、いまはまだ、暗くて南京駅のイメージが出ない。

 鎮江までは、あと1時間だ。手足の指を揉んだり、頭、目を揉んだりしているうち、うとうとしたらしい。目が覚めて時計を見ると5:30 あともう少しで到着だ。トイレをすまし、昨夜は全く手を付けなかった荷物を持って、廊下に出る。下の人は 午前零時半頃下車した。隣の下の人は、暑いらしく裸で寝ている。車掌が換票証と切符を取り替えに来た。就要到了(もうすぐ着くわよ)といって出ていった。夜行列車では、乗客管理のため、車掌が回ってきて切符を預かり、換票証をくれる。車掌は各人がどこで下車するかを把握しているので、下車時刻が近くなると、この換票証と引き替えに、切符を返しに来てくれる。だから、寝過ごして下車をミスすることはない。

  列車は少し遅れて鎮江駅に到着。外はまだ暗い。リュックを背に改札を出ると、相変わらずの人込み。揚州といったら通じたらしく、あっちのバスに乗れという。タクシーの運転手もやってきて、100元で行くという。バスには一番で乗り込んで、運転手のすぐ後ろに腰掛けた。暫くすると、満員で腰掛けもないくらい。運転手の横は荷物置き場で、自分にももたれかかってくる。窮屈だが、ここは我慢。

 6時出発。バスはしばらく走って、長江の渡しに入る。車内で10元払ったら、車掌が何やらいっているが、分からないので、無視していたら、そのままになった。他の人はどうやらフェリー代を追加して払っているようだった。 長江の川幅は南京よりもさらに広くなっている。対岸が見えない。 バスは乗客を乗せたまま、舟に乗る。 2005年に鎮江・揚州間に長江を跨ぐ潤揚大橋ができたので、いまは両市間をタクシー、バスなどで直接往来できる。交通は格段に便利になったが、旅人としては、やはり長江の広大さが実感できる渡しに乗ってみるべきだろう。因みに揚州は長江の北、鎮江は南にある。

 故人西辞黄鶴楼  故人 西のかた黄鶴楼を辞し
 煙花三月下揚州  煙花三月 揚州に下る
 孤帆遠影碧空尽  孤帆の遠影 碧空に尽きる
 唯見長江天際流  唯見る 長江の天際に流るるを

 説明するまでもなく、李白が孟浩然を見送った時に詠んだ詩である。孟浩然は、煙花三月、黄鶴楼のある武昌から、揚州に向かって、舟で長江を下った。李白は孤帆が滔々と流れる長江の天際に消えるまで孟浩然を見送った。それ以来、どれほど多くの文人騒客をはじめとする旅人が、「煙花三月」に誘われてこの地を訪れたことか。わたしはわずか1.5キロほどの長江をフェリーで渡る。しかも、いまは菊花の季節、煙花三月でないのが、残念である。

 わたしは昨(1997)年5月に南京で長江を渡っている。中山碼頭から対岸の浦口までおよそ15分間のフェリーであったが、初めてE茫(びょうぼう)たる長江の広大さを体験して、感激したのを思い起こした。日本にはこれほどの川幅を持った河は存在しない。

 荊呉相接水為郷   荊呉(けいご)相接して水を郷と為す
 君去春江正E茫   君去りて 春江 正にE茫(びょうぼう)たり
 日暮弧舟何処泊   日暮れて 弧舟 何れの処にか泊する
 天涯一望断人腸   天涯一望 人の腸(はらわた)を断つ
 
     荊は楚の国(いま湖北省)。呉の国(いま江蘇省)は東、揚子江の下流になる。

 この七言絶句は、孟浩然が杜十四を送るときに詠んだもので、春江とは、春の長江を指す。E望たる(果てしもなく広がっている)は、まさに言い得ているが、天涯一望断人腸もすごい句である。

 
揚子江--見渡す限りの水面                   揚子江を渡るフェリー

     泊舟瓜州     王安石

 京口瓜州一水間  京口瓜洲 一水の間
 鐘山只隔数重山  鍾山 ただ隔つ 数重の山
 春風自緑江南岸  春風は自のずから江南の岸を緑にす
 明月何時照我還  明月は何時か我が還るを照らさん

 北宋の文人政治家・王安石が失脚し、南京に隠棲していたところ、復権して当時の都・開封に戻る際につくった詩である。ここでいう京口はいまの鎮江、瓜州は揚子江の対岸になる。開封は黄河沿いにある。揚州から大運河を北上して黄河に入るのであろう。

 私たちを乗せたフェリーは、鎮江から揚子江を渡って、およそ15分で「一水の間」対岸の瓜州に着いた。ヤンツーリバー、揚子江は少年時代からの夢であった。バスはそこから半時ほど田舎道を走って、7時過ぎに揚州西バスターミナルに着いた。

 ここは市の中心から離れているようで、どうするのか、戸惑っていると、若い男が来て、いろいろ世話を焼いてくれた。まず、地図を2元で買う。市の中心に宿を取れといっているようだ。この辺りは新開区で、ホテルがたくさんある。が、石塔辺りがいいという。しかし、石塔辺りのホテルは高い。地図を眺めているうちに、男がこれに乗れとバスまで案内してくれた。

 12路のバスが発車。地図上で監天賓館に目星をつけ、車掌に聞いてみると、還可以(まあまあでしょう)という。ここで降ろして貰って、フロントに行くと、160元で空きがあるという。パスポートを出すと、外人はダメだと断られた。渉外ホテルではなかったらしい。隣の紅河谷賓館はどうかと聞いたら、太貴了(とっても高いよ)という。試しに通りがかりに紅河谷賓館のフロントに行って聞いたら、200元といっていた。

 フロントの女性のいうことにしたがって、春蘭大酒店までバスで一駅戻った。一泊 248元だの 268元だのという。しまった。紅河谷賓館にしておけば良かった。と、思ったが後の祭りとはこういうことだ。少し粘っていたら、八折(二割引)の214元でどうだというのでここに決めた。どっちにしろ、揚州には一泊しかしない。早飯(ザオファン)はと聞いたら、切符をくれた。ただし、明日の朝食だという。

 部屋に入って、早速ビデオのバッテリーの充電をする。昨日うっかりしていて、2日分は充電していなかった。とくに ビデオ Simple-Hi8 のスペアバッテリーが赤だったのは、ショックだった。

 バッテリーの充電中、お風呂に入った。ゆっくり浴槽に浸かって、旅の疲れをいやした。が、頭が少しぼんやりしている。疲れがたまりつつあるようだ。朝食代わりにカロリーメート半分、ビスケット少々、ミルクコーヒー、りんごを食べた。

 なにやかやしているうちに、ベッドに横になる暇もなく、10時を過ぎてしまった。急いで外出の用意。 まずは揚州最大の観光スポットの五亭橋か。フロントで水上遊覧船のことを聞くと、タクシーで行けという。バスで行きたいのだがというと、12路で文昌路に出て、5路に乗れといわれた。

 表通りに出て、12路のバスを待ったが、なかなか来ないので、やはりタクシーに乗った。タクシーの運転手のいうことが分からないので、途中で止めて、書いて貰うと、こちらのいうとおりに、御碼頭に行くということを確認したかったようだ。御碼頭を知らなかったので、通じなかっただけだ。8元 

-- 御碼頭 --

 御碼頭とは、いかにも大げさな呼称だが、その昔、清の乾隆帝が、1753年に南巡されたとき、天寧寺西園に行宮が、そして、その前に痩西湖へ行くための舟の乗り場として碼頭が造られた。それがこの御碼頭である。さすが立派な建物であり、辺りが華やかに映える。

 
                                                                                 手前に見える黄色い屋根が画舫(遊覧船)

 御碼頭に着いてみると、数隻の船が繋がれている。勇んで切符売り場に行って見ると、団体用なのか、個人ではダメだという。仕方ない。上に上がって案内板を見ると、9時に出る乗り合いの遊覧船があったようだ。あと観光バスの案内もあった。やはり街の中心のホテルを取った方が、このような観光案内は充実しているのではなかったか。 あとで分かったのだが、痩西湖の南大門から入れば、そこから遊覧船が出ていたようだ。

 この辺りなかなか整備されている。さすが観光の目玉だけある。しばらく揚州二十四景のひとつ、「西園曲水」の水路に沿って歩いたのち、5路のバスで大明寺まで行く。

-- 大明寺 --

  大明寺は痩西湖最北端の眺めの良い高台、蜀岡にある。

 大明寺は、鑑真和尚(がんじんわじょう)で有名だが、中国人観光客も結構たくさん来ていた。ここは、お寺さんというよりは公園、庭園に来ているような風光明媚なところで、あたかも痩西湖最北端を占める風致地区であるかのような景観であった。

 大明寺の創建は五世紀、南北朝時代、宋・孝武帝の大明年間 (457-464) で、そこからこの寺の名が来ている。1500年の古い歴史を持つ寺であるが、建築群は幾たびも焼失、破壊を受け、そのつど再建された。清代の康煕・乾隆帝時代には拡建され、揚州最大の寺となったが、これも1853年の太平天国の乱の際に兵火を受けて毀損した。その後、幾たびか修建され、規模も拡大されて、今日に至ったもので、したがって、いまの景色からは古刹といった雰囲気はあまり感じられない。また、仏像なども、他の多くの寺廟と同様に、紅衛兵の”破四旧”による被害を受けている。いわゆる文化大革命後、寺廟は全面改修され、大明寺は一新された。 (大明寺は、棲霊寺とも呼ばれ、幾度か改名されている。とくに清の乾隆帝は、本寺を法浄寺と改名した。のちに述べる鑑真像の里帰りを契機に、もとの大明寺に戻した。)  

 大明寺には、山門の前に牌楼があった。扁額には「棲霊遺址」とある。古棲霊寺、古棲霊塔の勿忘草なのだろう。大明寺は、隋代には棲霊寺と呼ばれていた。ここは大明寺のシンボルタワーの棲霊塔を背景に、いい絵が撮れる撮影スポットである。

 
大明寺牌楼 奥の黄色い壁の建物が天王殿                 牌楼の右奥の塔が棲霊塔 

 牌楼をくぐると、すぐ山門だが、ここは天王殿ともなっている。例の如く、布袋様然とした慈顔常笑の弥勒菩薩像に迎えられる。その背後には、本堂をにらむようにして護法神韋駄天像が立っている。もちろん、天王殿だから、両側四方に四天王像も置かれている。定位置は向かって右(東側)の、奥が北、手前が東、左(西側)の手前が南、奥が西になる、つまり、右手前の像から、東南西北の時計回りでそれぞれの位置を占めている。

 東方持国天王,手持琵琶,能護持国土;南方搨キ天王,手持宝剑,能令人善根搨キ;西方広目天王,左手持宝珠,右手握竜,能够静眼観察,護持民衆;北方多聞天王,左手按銀鼠,右手持傘,能護持人民財富,多聞福コ。

 四天王はいうまでもなく東西南北の四方四州を守る守護神だから、威嚇的な様子であらわされるのが普通である。古都・平遙近郊の双林寺の四天王像が、さしずめその典型といえよう。だが、ここの四天王は、柔和な表情をしているのが珍しく、面白かった。 平遙、双林寺についてはここをクリック

 この寺の四天王像を見て、飛鳥時代に造像されたわが国最古の四天王像を思い起こした。

 日本最古の四天王像は、聖徳太子が自ら白膠(ぬるで)の木に刻まれた像であるといわれている。六世紀後半、欽明天皇のとき、蘇我氏と物部氏との間の勢力争いは熾烈であった。蘇我氏は仏教派、物部氏は反仏教派、疫病をもたらしたのは仏教だと廃仏毀釈を行った。深く仏教に帰依されていた聖徳太子は、蘇我氏側につき、物部軍と闘った。太子は「我を守り給え」と、四天王像を彫り、髪にかざして打って出た。戦は蘇我氏の勝利に終わった。太子はそのときの誓願に報いるため、難波に四天王寺を建立してこの四天王像を安置したと「日本書紀」は伝えている。この寺に祀られた四天王像は、その後の戦災などで亡失してしまったが、鎌倉時代の図像書「別尊雑記」に四天王寺四天王像の図がある。この図と太子ゆかりの法隆寺金堂の四天王像は、きわめてよく似ている。この法隆寺金堂に祀られている四天王像は、飛鳥時代の七世紀中葉に造作されたものと見られており、現存の最古の四天王像である。

 法隆寺金堂に祀られている四天王像は、その後の四天王像とちがう。その後、主流となった四天王像は、たとえば奈良時代の東大寺戒壇院四天王像のように、動的で威嚇的な忿怒形で表されている。それに対し、法隆寺のそれは、像は直立し、表情はおだやか、きわめて静的である。ほほえみさえ感じさせる。

 聖徳太子の遺訓は「和を以て貴しと為し、忤(さから)ふなきを宗と為せ」。太子が刻まれた四天王像は、悪いものを懲らしめるという懲罰的な表情ではなく、悪いことをしてはならぬ、釈迦の説かれる戒めを守れ、須弥山の高いところから民衆を見守る表情を持っているのが特徴である。

 専門家の意見では、法隆寺金堂の四天王像は、中国南北朝期の様式を踏襲したものであろう、という。中国でも、唐代以降では、写実的で動的な造像が主流になった。

 南北朝時代の五世紀後半に創建された大明寺の四天王と法隆寺の四天王に、どんな関係があるのか、あるいは、まったく互いに関係ないのか、分からないが、こんなことを思い起こさせる四天王像であった。

 天王殿を過ぎると、広い境内の奥に堂々たる大雄宝殿がある。清代に重建されたものである。正面の本尊は釈迦牟尼坐像で、すぐその両脇に迦葉、阿難の二人の弟子の立像が控えている。本尊の東側には東方浄瑠璃界の教主・薬師如来、西側には西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来坐像が安置されている。 寺廟は基本的に南向きに立てられているから、向かって右が東、左が西になる。

 

 高い基壇の上に蓮華座している本尊をはじめ、すべての像が黄金色に輝き、挙身光(きょしんこう)は極彩色にいろどられていて、柱はすべて鮮やかなファイアレッド、いささか辟易した。本寺入り口で、最初にお目にかかった弥勒菩薩像、四天王像も同様に金ピカ、極彩色であった。

 大雄宝殿から北に向かってやや東よりに行くと、立派な鑑真紀念堂がある。揚州を訪ねてみたいと思ったひとつの理由が、あの鑑真和尚が生まれた地、生活した寺をこの眼で見たかったことである。

 鑑真和尚 (688-763) は揚州で生まれ、14歳で出家、長安、洛陽などで修行した後、26歳のとき、揚州に戻った。その後、30年間、この大明寺で仏教活動に精励した。742年、鑑真55歳のとき、聖武天皇の命を受けた二人の僧が日本からはるばる遣唐使船で渡ってきて、伝律授戒の高僧を日本に派遣して欲しいと要請した。

 しかし、大明寺の僧侶はこれに応えようとしなかった。すでに老境に達していた鑑真であったが、これを看過することはできなかった。高齢を押してでも自ら渡日する決意をしたが、その後、何度も航海に失敗してもくじけず、あくまで初志を貫徹して、ようやく日本に渡ることができたのは、753年で、すでに66歳となっていた。

 来日後、東大寺に日本初の戒壇を設け、聖武上皇などに授戒し、759年には、律宗の開祖として奈良に唐招提寺を創建したことはよく知られているところだ。その偉業を日本人はみな忘れない。戒壇については北京再来(2)の戒台寺の項にやや詳しく書いた。東大寺の戒壇院にも触れている。ここをクリック

 その鑑真がかつてここに住んだ、ここを歩いたと、かすかでもその息吹を感じるだけでよかった。

 ところで、いま目の前にしている鑑真紀念堂は、他の再建された堂宇より、さらに新しい。鑑真円寂1200周忌にあたる1963年に、紀念堂を建設する計画が決定された。が、その後の文化大革命の影響を受け、計画より遅れて、1973年に着工、翌74年に竣工したものである。

 
鑑真紀念堂                       日本の国宝、唐招提寺金堂

 写真を見比べれば分かるが、日本の国宝 唐招提寺金堂の風格をもった荘厳な堂宇である。中国の著名な建築家が、来日の上、金堂その他の日本の寺院を参観し、これらを参考にして設計したというから宜なるかなである。柱はみなエンタシスに造られており、たおやかな線を持った大屋根の上に飾られている一対の鴟尾が美しく、なによりも日本の国宝、天平の瓦をのせた美しい大屋根を持つ唐招提寺の金堂を思わせた。

 大明持のシンボルタワーの棲霊塔も新しい。

 隋仁寿元年(601)、隋の文帝60歳の還暦を祝って、全国に30の塔を建て、仏舎利を納めさせた。棲霊塔はその中のひとつであった。だから、最初の塔は隋代に創建されたもので、1400年を超える古い歴史を持っている。李白、高適(こうせき)、白居易などが、この塔を詩に詠い込んでいる。

 残念なことに、最初の九層木塔は、唐武宗の会昌三年(843)に焼失し、宋代に再建された塔も壊れてしまった。

 1980年に鑑真像が日本から里帰りした際(日中国交正常化は1978年である)、棲霊塔を再建しようという話が持ち上がり、1995年に新たな塔が完成した。現在の塔は、方形九層で、塔の高さは10メートルの尖塔を含めて70メートルである。面白いのは層ごとに高さが異なり、一層は8.20メートルであるが、二層は6.30メートル、以上各層ごとに若干ずつ低く造られている。第二層には、鑑真和尚が日本に将来した仏舎利の一部が里帰りして納められているという。新しいだけに、コンクリート造りのしっかりした建築に仕上がっているが、やや宗教的な雰囲気に欠ける。やはり大明寺に古刹としてのたたずまいを感ずることができない一因ともなっている。

 棲霊塔は、大明寺境内のほぼ東端にあたるが、ここから反対に西側に歩いた。大雄宝殿の西にある、欧陽修を記念して蘇東坡が作ったという谷林堂(宋代の1092年、現在の建物は清代のもの)を過ぎ、偏月門をくぐってさらに西に歩くと、目下に放生池(ほうじょういけ)が見える。まるで痩西湖の延長かと思われるほど美しい。ちょっと見たところ、本当に痩西湖の一部かと思ってしまった。

 この地区は西苑と呼ばれる。乾隆元年(1736)に造園された庭園である(同十六年 1751年 重修)。ここには康煕帝と乾隆帝の御碑が立っている。この他に、観瀑亭、待月亭などが建てられているように、この丘の上からの眺めは格別で、揚州随一といわれている。揚州の太守であった欧陽修も蘇東坡もこの素晴らしい眺めを楽しんだはずである。

 

 目当ては天下第五泉である。これまで、天下第一泉、第二泉を見ているので、興味があった。が、見たのは、曲阜の孔廟にあった孔宅故井より、しょぼいものだった。ただし、見たところ、の話であって、水そのものについては分からない(孔宅故井はここをクリック 孔廟の最後、孔府の前にある。)

 ここを天下第五泉としたのは、唐代に茶聖と謳われた陸羽である。陸羽がランク付けしたのは、

 第一泉は鎮江金山公園内にある中冷泉
 第二泉は無錫の錫恵公園内に恵山泉
 第三泉は蘇州虎丘石泉(観音泉、憨憨泉ともいう)
 第四泉が江蘇省丹陽県観音寺水
 第五泉がここにある大明寺の泉水である。

 自薦、他薦を含めると、中国内には、天下第一泉というのが、少なくとも四つある。陸羽が第一泉とした鎮江の中冷泉のほかに、江西の廬山谷簾泉、かつては皇室専用の水とされた北京の玉泉と、豊富な湧き水で知られた済南の[足勺]突泉である。([足勺]突泉を天下第一泉に封じたのは乾隆帝である。ここをクリック

 龍井茶で有名な杭州にある虎跑寺境内にある虎跑泉も名泉で、古来 ” 龍井茶葉虎跑水” といわれているように、銘茶にこの水は欠かせないといわれていて、これを天下第三泉と称するが、これもだぶっている。(さきに挙げた陸羽は、これを天下第四泉としているという人もいる。)

 とにかく、第三泉、第四泉に異論はあっても、ここが第五泉であることは確かであるようだ。自ら、天下第五泉と名乗るものも出てこないだろうから間違いない。

 この天下第五泉の東に鶴塚がある。言い伝えでは、住持和尚の星悟禅師が平山堂に二羽の鶴を飼っていた。二羽はたいへん仲睦まじく、和尚もいたく可愛がっていたが、一羽が足の病気で死んでしまった。他の一羽の悲しみは深く、絶食して、まもなくこれも亡くなってしまった。禅師はこれに深く感動して、この二羽の鶴のために、ここに塚を建ててやった。清代の話である。

 天下一の美景を誇る杭州西湖の中でも絶勝とされる孤島--孤山に隠遁していた北宋の詩人・林和靖(967-1028)が、庵の庭に梅を植え、鶴を飼って「梅妻鶴子」(梅を妻とし、鶴を子)として一生妻をめとらず、出仕せず、孤高を守って暮らした、という話を思い起こさせる。

-- 痩西湖 --

 大明寺を見たあと、5路のバスで、揚州最大の目玉、痩西湖の五亭橋まで戻った。大明寺に来るときと同じバスだった。このところ良くあることだ。北大門から入る。入場料 25元

 痩西湖は、天下の名勝、杭州の西湖とは、また違った美しさを持っている。運河に流れ込んでいた水路をせき止めて造られた、いわば人工湖で、南北にクランク形に広がる、長さ約5キロメートルの細長い湖である。幅は最も広い場所でも100メートルしかない。こんな形から、西湖に匹敵する美しい風景を持つ湖として「痩西湖」と呼ばれる。 痩西湖マップはここをクリック)

 ここの風光明媚な景観は、隋唐の古い時代に始まり、おもに清代に築かれたものである。とくに乾隆帝は、たびたびの南方巡幸のつど、揚州に行幸していたため、皇帝の歓心を得ようとした揚州の塩商人たちが資金力にまかせて、大規模な建築、造園工事を行っている。

  北大門から入ると、痩西湖最大の目玉である五亭橋は近い。五亭橋はさすがに美しい。がっしりした石積みの基台の上に乗った五つのあずまや、その影を映す水の広がり、遠く水辺に佇むようにひっそりと立つ茶室風のあずまや、丘の上に起つ白塔、その組み合わせの風景は絶妙で、ながらく夢に見ていた姿を目の前にして、しばらくうっとりとこの景観を眺めた。

 日本からも昔から数多くの文人墨客が当地を訪れ、それぞれに深い感慨を述べているが、中でも印象に深く残っているのがこれである。

 ”白い石と朱塗りの柱と黒い屋根との色の配合から云っても、湾曲せる橋下のトンネルと傾斜せる橋の階段、直立せる橋上の亭の柱と空に向かって美しい曲線を描いている屋根、それらの線の調和から云っても如何にも美しい。・・・・・・ その女性的に嬋娟な姿が水上に浮び出ている有様は、竜宮と見立てて古くさいならニンフが深山の池に戯れていると云おうか、それがバタ臭ければ洛水の神女が羅韈に塵を生じつつ行きては戻り戻りては行く、・・・。” (青木正児著「江南春」)嬋娟(せんけん)うつくしくあでやか。羅韈(らべつ)うすぎぬのたび。韈は、ころもへんにも作る。本字は韤

 文人は続けて "とても私の平凡な頭で形容できないが" と謙遜しているが、それほど筆舌に尽くしがたい美しさがある。

 
南から見た五亭橋                         東側上り口

 「煙花三月、揚州に下る」と詠んだのは、唐代の李白である。古今、文人騒客はいうに及ばず、多くの旅人がこの名句に誘われて、この地を訪れている。

 五亭橋の景観は、格別に素晴らしいが、この橋にのぼり欄干にもたれて、湖の風景を見るのも素晴らしい。釣魚台(吹台)など、水辺に点在するあずまや風の建物も、湖の自然の風景にとけ込んで、渾然一体の景観を造っている。

 釣魚台は、乾隆帝行幸の折、皇帝が湖上を行くときに、水辺で楽隊が音楽を吹奏するために造ったものであるので、吹台と呼ばれたが、水辺にあるその姿が、いかにも魚釣りのあずまやに見えるところから、いまは一般に釣魚台と呼ばれている。このあずまやには、大きな丸窓があって、その丸窓の借景、とくに水面に浮かぶ五亭橋を丸く切り取って撮すことができるスポットとしても、好事家の間で知られている名所である。

 
釣魚台から五亭橋を望む。左上に白塔が見える(パンフから複製)。   五亭橋から釣魚台を望む(中央左よりの遠景)。

 乾隆帝は実際ここで釣りをしたという話も伝えられている。帝が釣り糸を垂れるたびに、蓮の葉で身を隠して近づき、蓮の茎で呼吸をして水中に潜っては、釣り糸の先に生魚を付けて、皇帝がそれを釣り上げるたびに、なみいる皆が拍手喝采して、皇帝を喜ばせたという。本当の話がどうかは、請け合いかねる。あくまで、そういう話もあるということだ。

 この五亭橋も、清の乾隆帝南巡の際に揚州に立ち寄られた機会に造られた。乾隆二十三年、1757年のことである。だから、すでに250年たっている。橋の長さは、およそ56メートルである。つまり、痩西湖の幅は、この地点では56メートルである。

 五亭橋を上から見ると、五つの亭が、真ん中に大きい亭を置き、その左右に二亭ずつ配置されているのが、あたかも蓮花のように見えるところから、蓮花橋とも呼ばれる。この蓮花は仏教に深く根ざした植物ではあり、多くの人に愛されているが、大明寺とくに鑑真和尚ゆかりの花である。蓮花堤にかかる橋で蓮花橋という説もある。

 奈良の唐招提寺にはいろいろな蓮が見られることで知られているが、このうち唐招提寺蓮というのは、鑑真和尚が揚州から日本に帯来した蓮の子孫であるといわれている。そして、いま大明寺には日本から里帰りした唐招提寺蓮が、日中友誼蓮とともに季節を飾る。

 資料によると、1918年、孫文は遼東半島大連郊外の普蘭店で出土した古代蓮の種子四粒を日本にもたらした。大賀博士がこの種と鑑真和尚帯来の蓮とを交配したのが、孫文蓮、いまいう唐招提寺青蓮である。大賀博士はその後、1950年に2000年ほどむかしの原始蓮の種子を発見し、この発芽に成功された。そして、これを孫文蓮と交配してできたのが、大賀蓮である。

 1963年、大賀博士はこの種子100粒を郭沫若に贈り、同氏はこれを武漢の植物研究所はじめ各地の植物園で培育させた。武漢植物研究所では、この種と普蘭店出土の種とを交配し、これを”中日友誼蓮”と名付けた。いわば日本の古代蓮と中国の古代蓮の申し子である。1980年の鑑真像里帰りには、この蓮が花を添えた。蓮花が取り持つ合縁奇縁である。

 たしかに五亭橋は、形の上では見ようと思えば蓮花にも見える。だから、多くの人がこれを蓮花橋と呼ぶ。しかし、わたしにはこの配置の背景には、中国伝統の陰陽五行説があるようにみえる。中心に黄龍、東南西北に青龍、朱雀、白虎、玄武を配する。あるいは、いま大明寺で見てきた弥勒菩薩を中心にして、四方に四天王を配する。そんな形がここに表現されていると思えてならない。もちろん、黄龍と弥勒菩薩は、皇帝を示唆しているのではないだろうか。

 橋を降りて、蓮性寺(原名:法海寺 元代創建)の白塔に行った。北京の北海公園にある白塔にそっくりである。北海の白塔が高さ36メートルに対し、ここの白塔は28メートル弱で、ややほっそりとした感じがする。現存の塔は乾隆年間に造られたものである。穏やかな丸い線と白さが、周りの緑に映えて、いっそう美しく見える。揚州二十四景のひとつ「白塔晴雲」といわれる絶佳景である。 

 五亭と白塔は乾隆帝が愛した北京の北海公園を模したものではないか。事実、 乾隆帝が南巡の折、揚州に立ち寄られたときに、帝の歓心を得るため、一夜にして白塔 を造ったという伝説があるくらいである。

 北海公園の五龍亭は、歴代皇帝らの釣りや観月の場として、 湖岸にあたかも水上に立つかのように建てられたもので、痩西湖の五亭橋の五亭は、その形状が北海公園のそれに似ている。北海公園の五龍亭は皇帝のために造られただけあって、さすがに豪華な 装飾であるが、しかし、揚州のそれは、風雨橋の優雅さに融合させて、まったく水上に浮き上がったよ うに造られているところが、北海公園のそれよりはるかに秀逸である。 北海公園については、ここをクリック。風雨橋については ここをクリック 

 暫く辺りを巡ってビデオと写真を撮る。これが目当て だったから、これさえ見れば、以て瞑すべしだ。揚州まできた甲斐があったというものだ。

 五亭橋近くのレストランで、名物の揚州炒飯を食べようとして注文したら、大盤 15元しかないという。別の所では中盤 6元というのがあったが、あまり気が進まなかったので食べなかった。結局、昼飯を食べ損なった。

 湖を取り囲む柳が美しい。白塔を見てから、二十四橋まで湖岸を歩いた。

  二十四橋というのは石積みの単孔アーチ橋、つまり太鼓橋である。蘇州盤門近くの運河にかかる呉門橋ほど大きくはないが、遠目にも近目にも大きく見える。長さは24メートル、幅は2.4メートル、欄干の柱は24本、橋の石段は24段、だから二十四橋と呼ぶのだと早合点してはいけない。おそらくこれはあとづけの単なる数合わせに過ぎないだろう。

 なぜ、二十四橋と命名したのだろうか。いろいろな説がある。

 いわく、”むかし、ここで二十四人の美女が簫を奏した、ところから、その名が来ている。” いわく、・・・・・・ あとの説明はどうでもいい。

 橋の上で明月の夜、二十四人の美女が簫を奏したという説だけでいい。杜牧の詩がある。千古絶唱と謳われた名詩である。

  寄揚州韓綽判官    杜牧

 山隱隱水遙遙,  青山隠隠として 水遙遙たり
 秋盡江南草木凋。 秋尽きて 江南 草木凋む
 二十四橋明月夜,  二十四橋 明月の夜
 玉人何處ヘ吹簫? 玉人 何れの処にか簫を吹くことを教(し)かむ

 玉人とは美女あるいは風流才子、後者をとって韓綽判官その人とする説もあるが、ここは素直に美女としておこう。ことに杜牧が揚州にあったとき、入り浸って贔屓にしていた妓女を指しているのだろう。この玉人は、単数なのか、複数なのか。美女たちとの解釈もある。しかし、わたしは、ひとりにしぼる。

 青い山は霞んで、水面は遥かに遠くまで広々としている。明月が二十四橋を照らしている夜、あの女(ひと)は、いま、どこで、誰のために簫を奏でているのだろうか。

 杜牧 ( 803-853年) は26才で進士に及第、洪州に2年、宣州に2年に勤務したあと、揚州で2年過ごした。揚州は風光明媚なうえ、酒と女の街。杜牧はここでたくさんの詩を作り、揚州の夢を存分に楽しんだ。「楚腰繊細掌中軽」(遺懐)など杜牧ならではないか。この句のあと、彼は「十年一覚揚州夢」と続けている。とにかく杜牧の詩想はあでやかで、つややかである。例を挙げればきりがないが、たとえば「霜葉紅於二月花」など凄い。陰暦二月といえば、春真盛り、いろいろの花が一斉に咲き誇る頃だが、秋、霜降る頃の紅葉は、それよりも燃えるような「くれない」だと詠う。心を打つ。

  遣 懷

落魄江南載酒行  江湖に落魄して 酒を載せて行く
楚腰繊細掌中輕  楚腰繊細にして 掌中に輕ろし
十年一覺揚州夢  十年一たび覚む 揚州の夢
贏得樓薄倖名  贏 (あま)し得たり 青楼 薄倖の名

 江南に身を持ち崩して、酒びたり。江南の美女のたおやかな腰は、かろやかで手のひらにも乗りそう。揚州での十年は一場の夢であった。その夢も醒めたいま、残ったのはただ色街でのはかない浮名だけだ。青楼とは、冗言を費やすまでもなく妓楼を指す。

 中国最古の運河は、春秋時代、紀元前五世紀に開削された邗溝(かんこう。かんは干におおざと)である。春秋時代、呉王扶差がこれを構築した当時は、いま大明寺がある蜀岡の南東から東に伸びていた。その後、この古運河は改修され、隋の文帝の頃、六世紀後半には、江沢民の生地・揚州と周恩来の生地・淮安、言い換えれば、淮水と揚子江を結んだ。揚州の一番賑やかな色街は、この邗溝沿いにあった。右図は春秋時代の「古邗溝」でなく、隋代の「邗溝」を示す。「江都」とあるのが、現在の揚州である。出典:吉岡力著:世界史 旺文社刊 図を拡大してみるには < ここをクリックする。>

 明代に張岱が著わした 《 陶庵夢憶 》 の中の「二十四橋の風月」には、こう描写されている。(松枝茂夫訳、中国古典文学大系56 記録文学集 平凡社) この場合、「風月」というのは、風流--風流人--色事の系列で、色恋の意である。

 ” 揚州の二十四橋の風月は、邗溝になおその名残をとどめている。鈔関(しょうかん)を渡ると、ずらりと半里ほどにわたって、・・・・・・(小路、横町に)すきを凝らした家が櫛の歯のように軒をつらね、名妓醜妓いりまじって住んでいる。・・・・・・芸妓は五、六百人がとこもおり、毎日夕方になるとめかしこんで横町の入口に出てきて茶館や酒店の前に屯し、・・・・・・茶館や酒店の岸の上には絹張り提灯が百もさがっていて、芸妓たちはその間をちらちら見えかくれし・・・・・・素見(ひやかし)の客が梭(おさ、ママ)のようにゆきかい・・・・・・”

 鈔関とは、いまでいう海関、つまり税関である。資料によると、1429年に鈔関が杭州、九江、淮安などに設置され、揚州には 1951年まで市南部の南通路と埂子街が交わる古運河沿いに鈔関門があった。古時、門外には浮き橋が設けられていたという。かつて、この辺りは、北京の八大胡同、南京の秦淮河、上海の四馬路、蘇州の閶*門などと並ぶ妓院集中の地であった。 *閶=もんがまえに昌 北京の八大胡同とは、大柵欄の西側にある百順胡同、因脂胡同、韓家潭(いま韓家胡同)、陜西巷、石頭胡同、王広福斜街(いま棕樹斜街)、朱家胡同、李紗帽胡同(いま大力胡同/小力胡同)の8つの胡同がある地区を指す。遊郭街として知られた。

 日本で売春が禁止されて、紅灯の巷が閉鎖されたのは、大学に在学中で、当時、東京にはこのような街区がいくつもあった。1958年4月1日、売春防止法の施行と同時に、日本の赤い灯、青い灯は消えた(当時は赤線、青線と呼んでいた)。

 もっとも、杜牧が酒と女の毎日で、夢幻の生を送っていたのは、1200年も前のことであるので、この場所とは直接関係はなかったかも知れない。

 杜牧のむかしから、揚州は美女が多いことで知られていたらしい(自分の目で見たところでは、にわかに断言しがたい)。中国の友人がいったことだが、隋の煬帝は、全国から美女三千人を集めた。彼が殺されたあと、大勢の美女が揚州に残った。揚州に美女が多いのは、当然だろう。もちろん、冗談である。

 中国語に「痩馬」という表現がある。痩せ馬に違いないが、中国語ではそれ以外にある特定の意味を持っている。とくに「揚州痩馬」が有名だ。さきにあげた 《 陶庵夢憶 》 にもいきなり「揚州の痩馬」と出てくる。

 とにかく揚州の女子は「苗条」(すらりとしていてうつくしい、プロポーションがいい)と評判だった。宋代の揚州は、大運河のおかげで、商業が盛んであった。明清代になると、とくに塩商人は大富豪であった。これらの大富豪は、争って若いすらりとした美女を妾に囲ったという。これを「痩馬」と呼んだ。「豊乳肥臀」に疲れた商人たちには、ことのほかもてはやされた。杜牧がいう「楚腰繊細にして 掌中に輕ろし」にぴったり符合する。

 この風潮は、明清代に最高潮に達したといわれている。もちろん、わたしがいま歩いている揚州の街に灯紅酒緑の面影を偲ばせるものはなにもない。ただ翠の柳とそれを映す水があるだけだ。

 風月の話より、やっぱり揚州には明月の方があうようだ。杜牧には、こんな詩もある。杜牧に限らずとにかく揚州には名詩がおおい。揚州に行こうという気になったのも、そんな詩に惹かれたからである。

  揚州三首 其一  杜牧

 煬帝雷塘土  煬帝 雷塘の土
 迷蔵有旧楼  迷蔵 旧楼有り
 誰家唱水調  誰が家ぞ 水調を唱うる
 明月満揚州  明月 揚州に満つ  

 遊蕩の限りを尽くした煬帝だが、いまや土に還った。明月はかわらず揚州を照らしている。

 隋・煬帝( 569-618年 在位604-618年)は、杭州から北京まで南北をつなぐ大運河を造営した偉大な皇帝であったが、一方において、重税、過酷な使役などで人民の恨みを買った。最後は臣下によって殺害された。隋王朝は二代、わずか37年の短命に終わった。いま煬帝は揚州市北郊の雷塘の陵に眠っている。秦の始皇帝は、存命中から自らの広大な陵墓を造営したが、煬帝の墓は粗末な土饅頭にすぎなかった。いまのような陵が造られたのは、清朝時代になってからで、死後1000年もたっていた。煬帝は揚州で殺害され、その遺体はついに都・長安に戻ることはなかった。あるいは、却ってその方が煬帝にとって幸せだったのかも知れない。繁栄を誇った唐の都・長安は、煬帝が十万人を動員して築城したのを引き継いだものである。

 煬帝があまたの船を従えて、大運河を揚州まで下ってきては、遊興の限りを尽くした話は、よく語られているが、森本哲郎著「中国詩境の旅」の次の文章は、胸につかえていた。

 ”揚州、かつての江都は呉王夫差の居地だった。運河は夫差が手をつけ、隋の煬帝が完成させた。ここから遠く長安へ達しているその運河を煬帝は龍船で巡幸したが、従う船は数千隻、その船を曳く人間は八万人、船列は二百余里にのぼったという。煬帝は江都の風景を愛し、ついにこの地を死場所にえらんだ。彼は高句麗遠征に失敗し不穏な空気みなぎるなかを、またしても江都へ巡幸したのである。そして江都の宮殿で反乱軍に殺されてしまうのだ。”

 果たして煬帝は「この地を死場所にえらんだ」のだろうか。この疑問符は依然束になって胸につかえたままで、すとんと落ちないでいる。

 小野妹子が第2回遣隋使として国書を持参したのは、煬帝の治世である。「日出ずる国の天子・・・」に煬帝は激怒したという話は有名である。1200年前、七世紀はじめに揚州を訪れた遣隋使たちは、この明月を楽しんだだろうか。

 ” 青い空に白い月、これこそこの世で最も快いものの一つである。” といったのは、宋代の代表詩人蘇東坡である。(「東坡志林」巻八)

 

 いまこの痩西湖で見上げる空には、一杯に雲が 広がっていて、あいにく青い空がまったく見えない。二十四橋から、痩西湖を挟んで眺める五亭橋は、もやの中に浮かんでいるようにかすんでいる。空にはまん丸の白い太陽が微かな光を放っていた。きっと、名月揚州に満つというのは、こんな風景なんだろうなと夢想した。この項に掲げた写真の多くは、こんな特異な天候の下で撮影したもので、痩西湖のふつうの風景ではない。

 二十四橋に近い西大門から外に出て、7路のバスで街の中心にある文昌閣に向かった。最初、逆方向に乗ってしまい、一停留所行ってから戻った。車掌は一元返してくれた。 文昌閣からバスを2つ乗り換えるのが、面倒なのでタクシーに乗って(6元) 個園に行ったら、何と工事中ではないか。これでタクシーに乗って二つ空振りした。

-- 三月冶春 --

 歩いて戻って、御碼頭あたりの運河沿いに散歩した。少し雨が降ってきたが、濡れるほどではなかった。運河沿いの川辺で新婚カップルがいろいろポーズをして、写真を撮っていた。この辺りは、揚州でも一、二を争う美しい風景を持っている。それもそのはず、この辺は「三月冶春」という揚州二十四景の一つにあげられていところである。「冶」は妖冶などというように、なまめかしくてうつくしい、ことをいう。きっと素晴らしい新婚写真になるだろう。

  

 しばらく汶([シ文])河北路を南下して歩いた。この通りは揚州一の商店街のようだが、とても盛り場とはいえない。大きな建物はあるが、客がいない。バス停が分からないので、四望亭、文昌閣を見ながら、結局、石塔寺バス停まで歩いてしまった。

-- 四望亭 --

 四望亭は、大通りの汶([シ文])河北路に四望亭路がその東端でT字形にぶつかるところにある。しかも、四望亭路の道路の真ん中に鎮座している。この四望亭は19世紀半ばに起きた太平天国の乱の遺址である。学生時代、東洋史はまったく苦手であった。とにかく、いろいろ出てくる重要人物がまったく憶えられない。西洋の小説なら、登場人物は限られており、しかも裏表紙などに人物紹介があるので、何とかなったが、歴史上の人物、とくに東洋史の人物はまったく超えることのできない難関であった。だから、太平天国の乱は知っていたが、その首領であった洪秀全の名前は、今回の旅行前に付け刃的に仕込んできた知識でしかない。わたしにとって、太平天国の乱のキーワードは、重税、貧農、農民の反乱、キリスト教、減満興漢(反満=反清)などであるが、とくに感慨はなく、いま目の前にある八角三層の楼閣は、そのかたちはまったく三重塔そっくりだという印象にしか過ぎなかった。

 ところが、翻って我が身を見れば、この時期、日本も清国に劣らず混乱のさなかにあった。ペリーが浦賀に来航したのは、なんと1853年、ちょうと揚州が太平天国軍に占領された年である。くしくもわが国においても、1860年代には、開国後、経済の混乱と生活の窮乏から、百姓一揆や打ち壊しが激しくなっていたのである。違ったのは、その後、外国勢力の干渉を中国ほど激しく受けなかったことであろう。

 四望亭の一層は東西南北の四面にアーチ形の門口があり、中を通り抜けられるように造られている。そのため、一名、「過街亭」(街路を通り抜ける亭)とも呼ばれている。創建は明代の1559年、のちに重修されている。もともとは、揚州県学の魁星楼として建てられたものである。原名は「文奎楼」、のちに「魁星閣」と呼ばれた。たとえば、地下道、地下連絡道路を「過街地道」という。

 魁星楼の建造の目的は、科挙考試に成功することを祈念するものであった。魁星は北斗星の一番目の星で文運を司る神、科挙の試験に合格、しかも、願わくば一番で、との思いが詰まっている。日本でいえば、いわば学問の神様、天神様をお祀りして、合格祈願をするようなものである。学問の神様で思い出したが、西安から韓城に旅行したとき、古い四合院の建物が犇めいて現存していることで有名な党家村の小学校の校庭の一角に文星閣と呼ぶ六角六層の素朴な塔を見た。奇妙な組み合わせだったが、あれが学問の神様に献じられたものであると聞かされ、なるほどと感心したことを思い出した(風水上の魔よけの塔ともいう)。何しろこの村には科挙に合格した人が大勢いるというのが自慢の種なのである。

 四望亭の現名は、清代の1853年、明治維新を遡ることわずか15年前、太平天国の乱の太平軍が揚州を占領したとき、この塔を清軍の動静を監視する塔として使ったところから、「四望亭」と呼んだことに由来する(この乱が始まったのは1851年、終結したのは1864年である)。いまはビルの谷間に埋まっているので、ここから四方八方が望まれたなどとは到底想像できない。

 李自成の反乱によって北京が攻略され、明朝が滅亡したのが、1644年であった。明朝の残党は南に落ち延びて、南京に福王を擁立して、亡命政権を樹立。清軍は逃げる李自成を西安に追い、これを滅ぼしたのち、さらに南京に攻め入って、1645年4月、福王の南明政権を屠った。

 大虐殺というとすぐ南京大虐殺に目が向けられがちだが、中国の長い歴史の中には、皆殺しの事例は少なくない。「屠城」という言葉がある。軍、民を問わず、街の人を皆殺しにすることをいう。

 南明・福王政権の忠臣であった史可法は、このとき大軍を率いた清軍の度重なる降伏勧告に応ぜず、揚州城に立てこもって徹底抗戦をはかった。逃亡、あるいは、降伏せず、徹底抗戦をする敵軍は、城市の人民を含めて皆殺しにされる。屠城とは、まさにこれをいう。このとき街は焼かれ、八十万人が殺害されたという。八十万人は誇張かも知れないが、多数の人が虐殺されたことは 《揚州十日記》 に、克明に記述されている。このとき、清軍を指揮していたのは、ヌルハチの十五男、ドド(多鐸)であった。

 ” 烈しい日射しに蒸されて、死臭が人の鼻をついた。前後左右、あちらでもこちらでも死体を焼き、その煙が霧のように立ちこめて、腥(なまぐさ)さは数十里さきまでもにおった。”

 これは 《揚州十日記》 の一節である。これを読んで、わたしはすぐ広島の原爆投下時の悲惨な手記を思い出した。

  ” 中心部に入るに従って被害はひどく、横川を過ぎるあたりでは、着物が殆ど焼けちぎれた裸姿で、頭や上半身からは血が流れ、顔は皮がむけて火ぶくれし、手の皮はむけて爪の先から長くぶら下がり、水、水と叫びながら幽霊のように彷徨(さまよ)っている人を何人も見た。煙で暗い空の下であちらこちらに 残り火が燃えており、次第に重苦しい気持ちになった。幟町の電車の停留場では、防火用水に4〜5人が顔を突っ込んで死んでおり、焼けぼっくりに近い死骸が沢山あって、それを避けて通るのに苦労した。" ( 岡田 悌次「被爆について思うこと」 −2005年11月記− 著者は当時広島県立第一中学校の4年生であった。)

 《揚州十日記》 は、こう結んでいる。

 ” 十日間に、われとわが身に経験したこと、われとわが目に見たこと、とりとめもなく書きつけること以上のごとくである。・・・・・・この先、幸いに太平の世に生まれ、平穏無事の日々を楽しんで、自ら修養反省につとめず、ひたすらものを粗末にする人々は、これを読んで恐れ警(いまし)める所があればと願う次第である。”

 広島の原爆による死者は、直後に4−5万人、年末までには十数万に達したというが、揚州の八十万人まで行かなくとも、その犠牲の大きさ、悲惨さにに目を背けてはならない。そのことは、すでに350年以上も前に、《揚州十日記》 が鋭く指摘しているところである。

 揚州大虐殺は、太平天国の乱よりさらに200年遡るが、四望亭はこの様子もつぶさに見ていた生き証人である。

 さらに 1937年11月14日 揚州は日本軍に占領された。日本兵が隊列を組んで行進する姿を再びこの塔は見下ろすことになった。1943年に揚州中学(高校)を卒業した江沢民は、これも占領下にあった南京に移って、中央大学に入学している(のちに上海交通大学に移っている)。南京ばかりが大きく取り上げられて、揚州でも日本軍による虐殺があったか否かは不分明であるが、江沢民の親類筋で、殺された人もいるらしい。江沢民の日本に対する厳しい歴史認識、中国人への愛国教育の徹底などの背景にもなっているのかも知れない。揚州を占領した日本軍の隊長天谷少将(のちに南京警備司令官)は、揚州においては中国人と日本人の間はうまくいっていた、と報告している。(1938年2月5日、日本大使館に南京駐在の各国大使を招待した歓迎会において言明)

 いま、この辺りは揚州美食街として知られているが、いまや四望亭は太平天国の乱の遺址あるいは戦乱の生き残り証人というより、むしろ美食街のシンボル的存在である。平和そのものではないか。多くの観光客は、揚州名物料理を楽しむため、これを目標にして、ここに押し掛けてくる。だが、今回の短い滞在では、食を楽しむなどという時間的余裕がなかったのが、非常に残念であった。

-- 文昌亭 --

 ここから、汶河路を少し歩いて南下し文昌閣に来た。文昌閣は汶河路と石塔路(この路は現在文昌路と改称されている)の交差点内にある。西安の鐘楼のようにあたかもロータリーのような形になっていて、車が回っている。四望亭をはるかに上回る剛胆ぶりである。

 文昌閣が最初に建てられたのは明の万暦十三年(1585)、文津橋という橋の上だったという。いまではにわかに信じられないことだが、当時、ここには汶河が流れていたのだ。この最初の楼閣は10年後に焼失し、翌年に再建されている。なお、現在の建物は清代に重建されたものである。八角形三層の建物で、高さは25メートルほど、かたちはかなり小型だが、外観は北京の天壇祈年殿に似る。

 文昌閣は、揚州府学の魁星楼として建てられたもので、その意図するところは四望亭に同じである。いま文昌閣と称する楼閣は、北京、天津、蘇州、昆明、貴陽はじめ、あちこちに多数見られる。おもに明、清代に建てられたものである。ところで、不思議に思った河と橋であるが、1952年には汶河は埋め立てられて汶河路になり、文津橋は地下に埋められた。いま文昌閣はメインストリートのど真ん中に鎮座して、揚州市のシンボル的存在になっている。夜はライトアップされる観光スポットでもある。

 歴史的な建造物が、大通りの真ん中に鎮座するというのは、ちょっと考え難いなと思ったりしたが、しかし、西安、酒泉、大同など街の中心の大通りの真ん中に、このような楼閣を残していて、堂々と街のシンボルとして存在感を示している例が少なくない。逆に考えてみると、北京の鐘楼、鼓楼は大通りからはずれていて、あまり注目されていない現実を見ると、これもありかなと思った。

 石塔寺バス停から、12路のバスでホテルまで戻る。車掌に自分の降りるところをいってそこに来たら教えてほしいと頼んだ。最初自分の発音が分からないようだったが、結局分かってくれ、まかしておけという。

 16時、少し早めにホテルに帰着。何しろ夜行列車で到着し、その足で街の見物に出たので、かなり疲れた。見物場所の点数は稼げなかったが、見たかったところは見たから、満足した。ホテルに帰り、710号室といったが、フロントの女性は 1305の鍵をくれた。710 は昨夜の開封のホテルの部屋番号だった。すぐ風呂に入って足をいたわってやった。ビール、二鍋頭酒、干だらを食べてみたが塩辛い。前庭で突然花火。しかし、二度だけ。テレビは Star TV の映りが悪い。風呂に入ってしまうともう外出する気もなくなるので、自分の部屋で有り合わせで夕食をすました。

 日記でも付けようかと途中まで書いたが、疲れてベッドに横になったら、そのまま寝たしまった。11時半に目が覚めて、歯を磨き、薬を飲んでから、改めて電気を消して寝た。

春蘭大酒店  揚州市石塔西路94号  電話:0514-7883458 FAX: 7888167 電話・テレビ・バス(浴槽)つき 双人間 214元(朝食付き)


南京と啓東365Kmを結ぶ寧啓鉄道の南京ー揚州間が、2004年5月に開通した。翌 2005年4月には長江を跨いで、揚州と鎮江を結ぶ 潤揚大橋が完成しており、揚州への交通は多様化されている。潤揚大橋は長江を跨ぐ主要部分が1212m、両端の取り付け道路を含めればおよそ36Kmで、世界第三位、中国第一位の吊り橋となった。

1998年11月17日 揚州から蘇州へ

 昨日の午後から寒くなった。部屋の窓ガラスに露がびっしり、冷えたようだ。夜中に目が覚めて咳がでるので、長袖Tシャツ、長ズボン下を着て寝たらおさまった。肌がでていると放熱があるようで、少し冷えたのかも知れない。朝、目が覚めたら6時、すぐ起きる。外では、小鳥の声が聞こえた。久しぶりのことだ。荷造りしてから外に出てホテルとその周辺の写真を撮る。

 7:20 朝食。お粥と餃子など、たまごはなかった。 8:20 チェックアウト。タクシーで西站へ。10元  9:00 鎮江行きバス 13元 火車站行きはないというので、仕方なく乗ったが、隣りに乗っていたおばさんがしきりに車掌に火車站といっているのを小耳に挟んで、この人について長江を渡ったところで、バスを乗り換えた。1元 

  鎮江駅の写真を撮ってから售票処(切符売り場)へ。駅舎に向かって右端にある。あまり込んではいなかった。10:45 と 11.01 の2つを書いて出したら、11:01 の旅游 K215 の硬座をくれた。24元 案外すんなりいって、あっけなかった。時間的には 10:45 も間にあったと思うが、この方が焦らずに済んで良かった。駅構内のトイレ 2毛 パンを買おうと思ったら 5.5元という。高い。別の店で 2.5元のを買った。上海に近づくにつれ、物価が上がってきているように思う。

 
鎮江駅                       ダブルデッカー旅游列車

 これで揚州の旅は終わった。十年一覚 揚州の夢か。二日足らずの短い滞在では夢もないものだと、つぶやきながら、押し合いへし合いをのりこえて、列車に乗り込んだ。

 硬座だったが、座席指定だから助かる。席は満席で窮屈。いったん坐ったら動けない。幸い食べ物は卓の上においたので、発車直後にりんごを、12時にみかんを食べることが出来た。パンは買ったが、列車内では食べられなかった。

 旅游列車内は、相変わらず物売りがひっきりなしに来る。良いのだか、悪いのだか。開水も来るが、コーヒーつきだと4元という。コップ代が2元なのか、開水が2元なのか分からなかったが、多分前者だと思う。コップに開水を足して貰っていたが、金は払っていなかった。少し居眠りをする。この辺りは、すでに2往復している。

 やはりこの辺りは、江南の田園風景が広がっていて、とくに水と柳が目立つ。特有の景色だ。柳はまだ青々しているが、プラタナスは黄葉し、半分以上葉を失っている。ポプラは枝の先に僅かばかりの葉を残すのみで、風に吹かれていた。

 2時間ほどの列車の旅はあっけない。10:30 無錫を出てからすぐ支度にかかり、ドアのそばに控える。人混みに巻き込まれないようにするコツだ。

 11:06 定刻に蘇州着。3回目の蘇州駅に降り立つ。前回からはほぼ1年半ぶりだ。 

 今回の揚州訪問は、ほぼ満足の行くものだった。少しだけ残念だったのは、鎮江を見る時間がなかったことである。蘇州で大学時代の同級生たちと会う約束があったので、時間的に余裕がなかった。


(2008.05.10) (2008.06.10改)(2008.07.09改)(2011.04.28改)(2011.06.26改) 
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