旦椋神社
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   【延喜式神名帳】旦椋神社 山城国 久世郡鎮座
          (旧地)旦椋神社【旧地】

   【現社名】旦椋神社
   【住所】京都府宇治市大久保町北の山109-1
       北緯34度52分20秒,東経135度46分29秒
   【祭神】高皇産靈神
   【例祭】1月1日 元旦祭 10月8日 秋季大祭 12月10日前後 新嘗祭
   【社格】旧村社
   【由緒】旧社は天文19(1550)に焼失
       現在地にあった「天満天神」がそのころ20余年断絶していた
       天神を再興するとき旦椋神社と天神を合祀した        明治6年8月村社
       明治10年6月延喜式内旦椋神社と認定

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初鎮座の地は当社の西の野にあり、その地の字名を淺食と称していた
        天文19年(1550)に現地へ遷座した

   【祭祀対象】栗隈に所在した屯倉の穀霊を祀った信仰
   【祭祀】栗隈社とか栗隈天神と呼ばれていた。祭神も現在とは異なっていた
   【別当】近世には慈尊院という真言宗の別当寺が存在した

旧観音堂村の産土神で、旦椋(あさくら)は、穀物を収納する校倉(あぜくら)の古語である。また、平治の乱で知られる以仁王(もちひとおう)の胄(かぶと)を祀っていたので、「胄神社」とも称した。本殿は、覆屋で囲われ、二間社流造、こけら葺で、桃山時代の建築様式を伝えている。なお、境内は、広い社地。平地であり、樫(かし)の木が殆どで、緑豊かな鎮守の森を作り、京都府環境保全地区となっている。
旦椋神社が栗隈天神と呼ばれたのは、旦椋の社が栗隈の地にまつられていたからである。旦椋は浅倉とも書き、このアサクラは校倉 (あぜくら) に由来すると推定される。栗隈に所在した屯倉 (みやけ) の穀霊を祀った信仰がこの古社の淵源という。
もとアマツカミの意味で本社を栗隈天神社などと称したことがあるが、天満宮信仰の昂まりとともに、これを天満天神と解するようになつたことがうかがえる。
旧社は天文19(1550)に焼失。現在地にあった「天満天神」がそのころ20余年断絶していたので、天神を再興するとき旦椋神社と天神を合祀したという。
旦椋神祉の旧鎮座地とされているのは、一面の田の中にぽつんと小さな盛土を残す所で、宇治市大久保町旦椋に所在する。


旦椋神社

京都府 登録有形文化財
平安時代の延喜年間(901〜923年)に編さんされた『延喜式』に旦椋神社が見えます。神社の成立は古く「日本書記」にも「栗限県」(宇冶市大久保町旦椋)の地に在ったと伝えられていますが、この社は天文19年11月(1550年)に焼失しました。神社の跡地はあきらかではありません。
一方大久保地区の「産土神」として祀られていました「天満天神」は、現在の旦椋神社の神域に在りましたが、たまたま天文年間の頃に、20年余の間、断絶していました。
これを再興するため、新たに本殿を造営して、ここにもとの旦椋神社と天満神社が合祀されました。
神社の再興に助力した京都吉田神社の神官、吉田兼右の日記「兼右郷記』の、永禄9年8月23日の条に
「山城国玖世郡大窪村天神社、及廿年余断絶、今度造立致新社、神躰奉造立之、供養事申候間遣了、座像タ力サー尺余」と記されています。
また、旦椋神社が保管する最古の棟礼に「造営、永禄9年8月吉日」の年記が明記されています。
神社の再興後は村の「産土神」として、天神社、栗隈天神社、栗隈天満宮などと呼ばれて信仰されてきました。
明治10年6月、式内旦掠神社と認定され、その後時代の変遷とともに、旦椋神社として現在に至っています。
旦椋神社の御祭神は、
高皇産霊神・神皇産霊神・天満天神の三神を奉祀しています。
○昭和60年5月15日。旦椋神社本殿及び棟札7枚」が、京都府登録有形文化財に登録されました。
本殿は、たち高い一間神流造り、屋根は檜皮葺き構造
組物は、三斗組中備として四面に蟇股を置き、肩の盛上りは雄大な感じを与えています。松や梅などをはめ込む妻飾りは優美であります。また木鼻の、絵模様もこみ入つており、木鼻全体」の姿は、動物にも似た感があります。
棟札は,創建以降の建物の歴史を知る上で資重なものであることから登録されています。その年号は次のとおりです。
永禄9年(1566年) 慶安3年(1650年) 明暦3年(1637年)
延宝2年(1627年) 宝暦8年(1753年) 寛政6年(1794年)
嘉永5年(1852年)
○後世の改造は、正面扉廻り及び脇格子廻りを変る程度で、その保管状態が良く、江戸時代初期の様相をそのまま残している社殿として高く評価されています。
しかし本殿の彩色剥脱激しいため、京都府並びに宇冶市の指導と助成を得て、平成元年〜2年にわたり極彩色復原工事を施工、見事完成しました。神社では引読き拝所、本殿四囲の透塀及び回廊石敷工事を完成し。神社の荘厳維持に努めています。
平成3年12月
宇治市大久保町北ノ山109-1
宗教法人旦椋神社

由緒書




旦椋神社旧跡

本社跡と呼ばれ旦椋神社の旧鎮座地とされている所の現状は田の中に長径5.3m、短径3.6m高さ50cmの盛り土が残っていた。発掘によって、草の繁茂した表土下に、20cmぐらいの大きさの河原石が、平坦に敷かれていることがわかった。
石敷の内、ほぼ大きさの揃い、高さの揃った石は、南に開いた馬蹄形に巡っている。比較的北側に石が多かった。いずれも礎石と考えられるものではないが、表面近くから近世の瓦片が出土することから、石敷の上に小さな社がおそらく南面してあったと推定される。
石敷の間およびその下層の褐色土層および灰褐色土層から、近世の茶碗片、平安時代の須恵器片、古墳時代の高杯の脚片等、各時代の土器片が出土した。後述する七ツ塚に多く出土する3本脚の鼎式土釜の脚片も出ている。地山は灰色粘土層で、その上面に須恵器片、細片化した土師器が散布していた。埋葬された遺物や地下の掘り方は認められなかった。

発掘調査の結果



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