賀茂神社
かもじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】穴太部神社 尾張国 葉栗郡鎮座
   【延喜式神名帳】阿遅加神社 尾張国 葉栗郡鎮座

   【現社名】賀茂神社
   【住所】愛知県一宮市木曽川町玉ノ井穴太部 4
       北緯35度20分11秒,東経136度45分36秒
   【祭神】玉依姫命 (配祀)賀茂別雷命
       本来の祭神は穴太部氏の祖神であろう

   【例祭】10月22日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】欽明天皇の御宇玉の井の霊泉の辺に祀る
       寛治4年(1090)賀茂別雷命を合祀し賀茂神社と改称
       寿永3年(1184)4月武家の狼藉を禁令
       昭和4年12月27日郷社

   【関係氏族】穴太部氏
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿・御供所・神馬舎・舞殿

   【境内社】稲荷社・八剱社・春日社・金刀比羅社・津島社
        出雲社・祖霊社・霊泉玉井清水


穴太部神社(あなほべ)と読まれる。
たまのい駅北東に鎮座する。
欽明天皇の御世に玉ノ井の霊泉の辺りに神徳霊験著しきにより、穴太部神社が創設せられたという。
寛治4(1090)に賀茂別雷神社の御厨がこの地に置かれ、そのとき改称と伝う。
境内に「玉ノ井霊泉」がある。
穴太部神社は「はやく廃社となりて、今は其旧地も知る人なし。」『尾張志』とされていた。
当社を阿遅加神社に比定する説もある。


由緒

祭神  
玉依姫命
賀茂別雷命
由緒  
祭神 玉依姫命  奉祀年代不詳なれども欽明天皇の御宇、皇紀1199年(西暦539年)・皇紀1231年(西暦571年)、玉の井の霊泉の邊りに、穴太部神社の祭神として奉祀せりと伝えられる。
祭神 賀茂別雷命  堀河天皇寛治4年(皇紀1750年、西暦1090年)庚午、四十二所の一なる御厨を置かれ、賀茂別雷命を合祀し賀茂神社と改称せり。
謹みて按ずるに祭神玉依姫命は賀茂別雷命の御母神にましまして共に京都下鴨神社の御祭神なり。
折々当神社は濃尾の大平野を流れる木曽川の畔に神鎮まりまして境内は古来より廣大鬱蒼として風致備り蒼生の心根を浄化する霊場として尊崇篤く、堀河天皇寛治7年(皇紀1753年、西暦1093年)以来、天下泰平五穀豊穣を祈願して執行される競馬の第十八番を、尾張国五井庄の馬として牽引、馬料を奉献するを例とせられたり。
後白河法皇寿永3年(皇紀1844年、西暦1184年)甲辰4月、院廳の御下文に依り武家の狼藉を禁令せられ、又同年源頼朝も亦之を奉じて保護に任せり。
当社は木曽川を遠く隔てて美濃国羽栗郡一帯の氏神として崇敬者多数ありしが、種々の不便の為、水尾天皇慶長4年(皇紀2259年、西暦1599年)12月24日、美濃国羽栗郡南及村(岐阜県羽島市正木町南及)氏子の勧請により分社し、美濃国一帯の氏子の氏神となせり。
昭和4年12月27日、郷社に列せられ、又昭和21年1月10日附にて県社に該当すと昇格の通知ありたり。
玉の井霊泉
境内に湧出する清水は、古来より名高く聖武天皇の御宇皇紀1389年(西暦729年)・皇紀1408年(西暦748年)、光明皇后病気平癒祈願成就の為、境内に神宮寺を創建せられたり。又当社に参拝し霊水を用ひる時は種々の疫病眼病を治癒すると云ひ、雷除けの御神符を家々に祀る時は雷災を避け得る霊験ありと伝えられ遠近よりの参拝者後を断たざる有様なりき。
永仁4年(皇紀1956年、西暦1296年)、参議飛鳥井雅経、本社に参拝し、
  「思ひつや みたらし川にせしみそぎ わすれぬ袖の玉の井の里」
の歌を奉献し、また秋隆も、
  「汲みゝれは 遠きむかしのおもかけは こゝろにうつる 玉の井の水」
と詠進せり。
享保2年(皇紀2377年、西暦1717年)、偶然境内の林中を発掘せしに、「天平3年辛未3月5日」(皇紀1391年、西暦731年)と墨書せる古井筒楔と古井桁数片を見出せり、これ霊泉「玉の井」の跡にやあらん。此の地は往昔鎌倉街道に沿ひ境内に清水の涌出せる故、旅人の渇を医し、文人墨客も亦杖を止めて参詣し、古今詩歌に詠ぜられし場所なりと。
近世江戸時代、当地が尾張藩に属するや寛保元年(皇紀2401年、西暦1741年)、藩の老職瀧川豊後守は石燈篭壹基を寄進し、宝暦6年(皇紀2416年、西暦1756年)、藩守宗勝も亦同じく壹基を献じ、北方奉行所は毎年備銀を供し神門及び名泉「玉の井」の修理を命じたり。
天保2年(皇紀2491年、西暦1831年)、藩廳に於いては本社に対し四反歩、末社三社に壹町七反八畝拾歩の除地を附与し、天保14年(皇紀2503年、西暦1843年)、藩守齋荘参拝の折「萬歳」の二字を染筆奉納する等篤き崇敬を寄せられたり。
明治11年(皇紀2538年、西暦1878年)、「玉の井」清水の後世名所古跡として失われんことを慮り、時の県令安場保和は「玉井清水」の献碑をなせり。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




賀茂神社

社伝によれば欽明天皇の御宇(540)玉の井の霊泉の辺りに奉祀せりと伝えらる。延喜式神名帳の葉栗郡穴太部神社(御子・穴太部王を祀る)本国帳従三位穴太部天神が当社である。堀河天皇寛治4年(1090)京都加茂四十二所の御厨の一つが此のこの所に置かれ、賀茂別雷命を合祀し賀茂神社と改称せり。
謹みて按ずるに祭神玉依姫命は賀茂別雷命の御母神にましまして共に京都賀茂別雷神社(上賀茂)賀茂御祖神社(下鴨)の御祭神なり。
当神社は濃尾の大平野を流れる木曽川の畔に神鎮まりまして、境内は古来より広大鬱蒼として風致備わり蒼生の心根を浄化する霊場として尊崇篤く、寛治7年(1093)以来天下泰平五穀豊穣の祈願として執行される葵祭りの競馬の第十八番を尾張国玉井庄の馬として牽引馬料を奉献するを例とせられたり。

社頭掲示板



玉の井の霊泉

境内に湧出する清水は古来より名高く、聖武天皇の御宇(729)霊泉により光明皇后病気御平癒以来当社参拝し霊泉を用いる時は種々の疫病眼病を治癒すると云ひ、雷神の御神符を家々に祭る時は雷災を避け得る霊験ありと伝えられ遠近よりの参拝者後を絶たざる有様なりき。
永仁4年(1296)参議飛鳥井雅経当社に参拝し
   「思ひいつや みたらし川に せしみそき
            わすれぬ袖の 玉の井の里」
の歌を奉献し、又秋隆も
   「汲みゝれは 遠きむかしの おもかけは
      こころにうつる 玉の井の水」と詠進せり
近世江戸時代当地が尾張藩に属するや寛保元年(1741)藩の老職瀧川豊後守は石燈籠壹基を寄進し宝暦6年(1756)藩主宗勝も又同じく壹基を献じ北方奉行所は毎年備銀を供し神門及び霊泉「玉の井」の修理を命じたり。
明治11年3月(1878)玉の井清水の後世名所古跡として失われん事を慮り、時の県令安場保和は「玉井清水」の献碑をなせり。

社頭掲示板



古神門

高172cm 横254cm
鎌倉時代に作られたとされるが、老朽甚だしく、建立当時の全容を知ることはできない。木鼻の形状は珍しく、広島の厳島神社などにあるのみである。「尾張名所図会」に「古桟門、こは殊に古代の物にて、左甚五郎作とも武田番匠の作ともいひつたえたり」とあるが、誰によって作られたかは分かっていない。
社伝によれば、天明年間(1781〜1788)に尾張藩主が視察、覆屋を作って保存するよう命令があり、現在の地に移されたという。その後、明治23年(1890)宝物取調官川田剛らの指示により、さらに棚を設けられた。
一宮市教育委員会

社頭掲示板



古神門由緒

この古神門は以前神橋の北側に建てられていた。
鎌倉時代に建てられていたといわれているが作者不詳、特に木鼻が珍しい形で厳島神社に一例あるのみといわれている。
天明年間に尾張藩主徳川宗睦が賀茂神社に参拝された折りあまりの老巧化を心配され覆屋を作って保存するよう命令された。その後文政年間と嘉永年間及び明治24年に修理されている。土のひくいのは修理のたびに柱の根を徐々にきり上げた故という。
明治27年には柵を張りめぐらせて保護につとめた。昭和16年に現在地に移し建てた。平成2年10月吉日に土台下に石の台を作り約60cmかさあげし覆屋を建て変えた。その折り旧覆屋の柱上部に天保4年己8月吉日尾州葉栗郡黒田村神辺秀厳、祖父江孫八、神戸九太郎と墨書されていた。

社頭掲示板



尾張国INDEXへ        TOPページへ


認定こども園住所