伊古乃速御玉比売神社
いこのはやみたまひめのじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】伊古乃速御玉比売神社 武蔵国 比企郡鎮座
          (旧地=奥宮)伊古乃速御玉比売神社

   【現社名】伊古乃速御玉比売神社
   【住所】埼玉県比企郡滑川町伊古1242
       北緯36度4分27秒,東経139度20分23秒
   【祭神】気長足姫命 大鞆和気命 武内宿禰
       本来の祭神は速御玉比売命

   【例祭】10月15日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】仁賢天皇のとき創祀
       文明元(1469)年当地に遷座
       享保14年(1729)閏9月29日正一位
       明治6年郷社
       明治40年4月2日神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初は二ノ宮山(131.8m)に鎮座していた
        文明元(1469)年当地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「淡洲明神」と称していた
   【社殿】本殿方形造
       幣殿・拝殿・社務所

   【境内社】

仁賢天皇の時代蘇我石川宿禰の末裔がこの里を開き、君祖三韓平治の広徳を仰いで、二宮山上に弓箭の祖安産の祖と崇敬して三柱の神霊を祭祀したという。
文明元年(1469)または天正4(1576)年現在地に遷座。


伊古乃速御玉比売神社

滑川町大字伊古
昔は二ノ宮山上にあつたが文明元(1469)年当地に遷座したと伝える。
第60代醍醐天皇は藤原忠平に命じて延喜式を編さん、武蔵国で44座を数えた。その中の一社で県内でも古社の一つで、比企総社となっている。
境内全域に自生する樹水は、南半部にアラガシを主とする暖帯常緑樹、北半部はアカシデ、ソロを主とする温帯落葉樹で両帯樹が相生していて学術上きわめて重要なため、県指定天然記念物である。
段を登りきったところにそびえ立つ御神木「ハラミ松」は箭弓安産の祭神と相まって近年でも広く信仰がなされている。
平成三年 敬白
滑川町観光協会
滑川町教育委員会

社頭掲示板



滑川村伊古乃速御玉比売神社社叢

ふるさとの森
昭和55年3月25日指定
身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようとこの社叢が「ふるさとの森」に指定されました。
社叢は、神社の歴史的遺産と一体となり、本県でも有数のふるさとを象徴する緑です。
アラカシ・アカシデを主とした暖帯林の中に針葉樹のモミが混生しているところに社叢の特徴があります。
境内の西側にはアカシデ・イヌシデ、北側にはモミ、南東にはアラカシが、それぞれ生育しています。
今後も皆様の手でふるさとの森を守り、育ててくださるようお願いいたします。昭和55年10月
埼玉県

社頭掲示板



伊古乃速御玉比売神社

一ニ淡州明神ト云、今ハ専ラ伊古乃御玉比賣神社ト唱ヘリ、此社元ハ村ノ坤ノ方小名二ノ宮ニアリシヲ、天正四年東北ノ方今ノ地二移シ祀レリ。祭神詳ナラズ。左右二稲荷、愛宕ヲ相殿トス。当社ハ郡中ノ総社ニシテ、延喜式神名帳、二比企郡伊古乃速御玉比売神社トアルハ、即チ此社ノコトナリ。往古ハ殊二大社ニテ、一ノ鳥居ハ、近村石橋村ノ小名内青鳥ト云所二立リシト云、按ルニ此内青鳥ト云所ハ小田原役帳二青鳥居トアリ。サレバ古へ鳥居ノアリシヨリ地名ニモ負ヒシナド云ハ、サモアルベケレド、當社ノ鳥居ナリシコトハ疑フべシ。コトニ其間二里余ヲ隔テタリ。又此社式内ノ神社ト云コト、正キ証ハ得サレド、村名ヲモ伊古トイヒ、且此郡中総社トモ崇ルコトナレバ、社傳二云ル如ク、式社ナルモシルべカラズ。トニカク、旧記等モナケレバ、詳ナラズ。
例祭九月九日ナリ、別当円光寺 天台宗、東叡山ノ末、岩曜山明星院ト号ス。

新編武蔵風土記稿



伊古乃速御玉比売神社

当社は「和名抄」に載る比企郡渭後郷に比定される。読みは、水辺を表す「沼乃之利(ぬのしり)」とされる。この名残として、式内社である当社は、社名に伊古(渭後)を冠している。渭後は滑川に沿う細長い谷間の土地で、山あいに数多くの溜池が設けられ農業用水に利用されている。現在の溜池を古代にまで遡ることはできないが、古代においても溜池から水を引く方式は認められてよく、このことから渭後の地名も付けられたのであろう。
 なお、この渭後郷の地名については、渡来系氏族壬生吉志(みぶきし)と関連があったとする仮説が「東松山市と周辺の古代」(原島礼二)「古代東国史の研究」(金井塚良一)に載る。七世紀初頭前後に、比企及び男衾方面に横渟屯倉(よこぬみやけ)の管掌者として摂津国難波から入植した壬生吉志は、本拠地である難波の地名を比企の渭後、都家、高生、さらに男衾の榎津にもたらしたとする。葬制においても、これらの地は、従前の横穴式石室の腹部に膨みをもたせて胴張型に変化し、渡来系氏族の墓地として想定し得る。渭後郷を難波にある地名と関連づける理由は、渭後が「いかしり」とも読めるので、摂津国西成郡に鎮座する式内社座摩(いかすり)神社とかかわりがあるという。また、座摩の御巫が祀る神は、「延喜式」神名帳の宮中神に見える生井神、福井神、綱長井神、波比祇神、阿須波神の五座を示す。いずれも、井水や敷地を守護する神である。
 当社は「延喜式」神名帳の「比企郡一座 小 伊古乃速御玉比売神社」に比定される。
 由緒は「明細帳」に、「人皇二十四代、仁賢天皇ノ御宇、蘇我石川宿弥ノ末裔、此里ヲ開キ君祖三幹平治ノ広徳ヲ仰キ字二ノ宮ノ山上ニ弓箭ノ祖、安産ノ祖ト崇敬シ三柱ノ神霊ヲ祭祀シ、延喜式内ニシテ比企郡ノ惣社タルコト皆世人ノ知ル処ナリ」とある。
 祭神は、元来、渭後の地に坐す「速御玉比売神」である。これについては、「古代祭祀と文学」の「武蔵国式内社考」で、西角井正慶氏は、速御玉は渭後に坐す姫神の霊威を讃えたものであろうと述べている。「明細帳」には、当社祭神を、大靹和気命、気長足姫命、武内宿禰の三柱を載せる。
 また、別に当社の神を「淡洲明神」といい、これは「風土記稿」にも記録がある。「神社覈録」に当社の速御玉比売命は、安房国一ノ宮の天太玉命の后神である天比理乃(あめのひりのめ)神の異名であると記される。「比企郡神社誌」の一説には、淡洲明神の洲は「しま」と読むことから紀伊国海草郡加太之浦に鎮座する淡島明神、つまり加太神社の神を当社に分霊したと思われる、とする。縁起によると、淡島明神は、住吉明神の妃で、帯下の病により淡島に流されている。以来、女人の下の病を守る神として、更に安産の神として信仰される。なお、当社付近には、分社であると考えられる淡洲神社が、滑川町水房、山田(二社)、福田、土塩、嵐山町勝田、太郎丸に鎮座する。
 「風土記稿」によると、別当は天台宗東叡山寛永寺末の岩曜山明星院円光寺である。三世秀海は貞享三年(1686)に示寂する。円光寺には、薬師堂があり、ここに安置する薬師如来像は、当社の本地仏である。社蔵の金幣にも「御垂迹速御玉比売神社」「武州比企郡伊古村本地薬師如来と刻まれる。当社の神は、本地薬師との関係か、諸病快癒、安産の信仰を伝える。ちなみに同寺は、中武蔵七十二薬師のうち、七十一番札所となっている。
 滑川町一帯では、農業用水として数多くの溜池が造られているが、日照りの続く年は、二ノ宮山上で雨乞いを行う。雨乞いの時は、村人が当社に集まり、生きた「やまかがし」を入れた長さ5m余りの藁蛇を作る。この蛇は、笛や太鼓の囃子で送り出され、伊古堰と新沼に入り、大いに揉む。次いで二ノ宮山頂に登り、山上の松の古木に蛇を縛りつける。蛇は、天に昇って竜となり雨を降らせる

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