田坐神社[柴篭神社境内社]
たざじんじゃ             . 所在地ボタン 社名ボタン

















   【延喜式神名帳】田坐坤社 河内国 丹比郡鎮座
          (参照)田坐神社(田井城 )

   【現社名】田坐神社
   【住所】大阪府松原市上田7-12-22
       北緯34度34分19秒,東経135度33分35秒
   【祭神】田座神
       『神社明細帳』『神社覈録』『河内國式内社目録稿本』不詳
       『大阪府史蹟名勝天然記念物』依羅宿禰及び呉服・漢織の女神
       『河内国式神私考』瑞歯別天皇

   【例祭】
   【社格】旧村社
   【由緒】貞観4年(862)4月26日従五位下『三代実録』
       同年5月17日官社
       明治5年(1872)村社
       大正14(1925)旧地に復活


   【関係氏族】
   【鎮座地】旧地は松原市田井城 5-11
        明治41年3月23日村社柴籬神社に移転合併

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八幡」と称していた
   【社殿】本殿
       

   【境内社】

柴離神社は反正天皇柴離宮跡と伝う。同社の拝殿裏、幣殿に向つて左側に祀られている。
万葉集の次の二首は、田坐の地を詠んでいるものと考えられ、古代の田園地帯の景観が知られる。
  鶴がねの聞ゆる田井にいほりして 吾旅なりと妹に告げこそ
  春霞棚引く田井にいほりして 秋田苅るまで思はしむらく


田坐神社

柴籠神社は仁賢天皇の勅命により創建され、第18代反正天皇(瑞歯別命)・菅原道真・依羅宿禰を祭神として祀られている。
またこの付近は反正天皇の皇居、丹比柴籠宮祉と考えられており、記紀(古事記・日本書記)によるとその時代は天下泰平、五穀豊穣の平和な時代であったと記されている。
平安時代に清和天皇より幣帛を賜わり、南北朝時代の足利直義、戦国時代の河内国守護畠山氏も厚く保護したと記録されている。
明治5年(1872)神仏分離により、境内の神宮寺広場山観念寺は廃寺となり、本尊は上田の観音堂に釣鐘は願正寺へ、また明治40年(1907)に大塚山古墳にあった天満宮(大塚社)を合祀し、同時に手水鉢も当社へ移された。

社頭掲示板



田坐神社

開運松原六社参りのひとつ。社伝によれば、6世紀前半に24代仁賢天皇の勅命で創建されたという。18代反正天皇・依羅宿根・菅原道真を祀る。
本地は5世紀前半、反正天皇がミヤコとした丹比柴籠宮の跡と伝える。『古事記』によると、反正天皇は生まれた時、珠のような美しい歯を持っていたので瑞歯別命と名付けられたとある。社務所の真向かいに歯神社があり、毎年8月8日の夜8時8分に万燈籠のもと、歯の神様の祭礼がとり行われるが、これは天皇の歯が立派であったことに由来する。
社務所の場所には、明治初年まで神宮寺の広場山観念寺(真言宗)があった。南門は観念寺の山門である。拝殿右側には慶安5年(1652)、左側には寛文11年(1671)の石燈籠が建つ。江戸時代前半、井原西鶴は同社に参詣して「柴籠宮むくけうへてゆふ柴垣の都哉」の句を詠み、『河内鑑名所記』(延宝7年、1679年)に載せられている。
拝殿に嘉永7年(1854)8月、立部村氏子26名が奉納した「三十六歌仙図」が掛かる。
参集殿前には「天満宮享和元年(1801)9月」と刻した手水鉢が置かれているが、これは全国で5番目に大きな前方後円墳の河内大塚山古墳(西大塚)の石室材と考えられる。墳丘上に祀られた菅原神社(明治41年に柴離神社に合祀)の手水鉢に転用されていたものである。

社頭掲示板



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