酒屋神社[屯倉神社境内社]
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   【延喜式神名帳】酒屋神社 鍬靫 河内国 丹比郡鎮座
          (旧地)酒屋神社(旧地)

   【現社名】酒屋神社
   【住所】大阪府松原市三宅中4-1-8
       北緯34度35分19秒,東経135度33分19秒
   【祭神】津速魂命
       明治12年『神社明細帳』津速魂命
       『河内国式内社目録稿本』「所祭酒屋連祖神津速魂神」
       『神社覈録』「中臣酒屋連祖神歟」

   【例祭】
   【社格】旧村社
   【由緒】貞観7年(865)12月26日従五位下『三大実録』
       明治5年(1872)村社
       明治40年4月8日、三宅村の屯倉神社に移転合併
       同44年5月25日神饌幣帛料供進社(屯倉神社)

   【関係氏族】中臣ノ酒屋連
   【鎮座地】旧地は松原市三宅中6丁目2番2号
        明治40年4月8日、三宅村の屯倉神社に移転合併

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「権現」と称していた
   【社殿】本殿

   【境内社】

大海池の北西、三宅小学校北東にある屯倉神社の社殿の北側に西向きの社殿をもつ境内社として祀られている。
旧地は松原市三宅中6丁目2番2号で児童公園になっているが、その地には前方後円墳の権現山古墳が築造されていた。権現山古墳は全壊しているが、その名の由来は、酒屋神社が酒屋権現ともよばれていたことによる。
旧社地の西側に酒蓋池があり、その池の東北に「酒屋井」という井戸があって、そこから酒屋神が出現したと伝えている。この酒蓋池は昭和39年(1964)に埋め立てられた。
旧社地の400m北を南限とした彌生時代の瓜破遺跡は宏大な遺跡で、早くから大和川川床で土器が採集されたりしている。この遺跡北部で彌生時代に中国から渡来した『貨泉』や五世紀代の須恵器を大量に含む包含層や奈良時代末の寺院址が検出されている。
この遺跡は摂津国住吉郡楯原神社と等社の間に存した集落の遺跡として非常に重要な意味をもっている。



酒屋神社

御祭神
本殿 津速魂命(酒屋権現)
酒屋神社
旧社跡 松原市三宅中6丁目2番2号
元本社は、字「西ノロ」にあり、「延喜式神名帳」によれば丹比郡三宅郷の中に酒屋神社があり、「式内社」と呼ばれる神社であったが、明治40年4月8日、屯倉神社に合祀された。又「河内名所図会」によると、三宅村の西あり、俗に酒屋権現として親しまれている。その社地の西側に「酒蓋池」があり、池の東北の隅に1間四方の井戸があつて、この酒屋井より神が出現したので酒屋権現と称したもので、付近には字名として権現下、権現坂と呼ばれている所がある。貞観7年12月(約1120年前)に、「酒泉神」に従五位下を授けたとあり、後に「酒屋神」と称されたものである。(三代実緑による)また弘仁6年(約1170年程前)の「新撰姓氏録」によると、河内国神別の項に「中臣酒屋連、津速魂命十九世孫、真人連公の後也」とあり、即ち酒屋神社は、中臣酒屋連の祖神である津速魂命を祀っている。中臣酒屋連は、古代の有力氏族である中臣氏と同族で、三宅にも当時居住していたことを伺がわせる。そして酒屋連は、屯倉の米を酒屋井の水にて酒を造り、官田からの産出の米の一部を酒米として朝廷に貢していたのではないかと思われる。
また酒屋神社が何故三宅村の西口に祀られていたのかとの疑問に、古くから酒蓋池の酒屋井の出現伝説によって答えられて来たが、近年、江戸時代の「三宅村絵図」によって、酒屋神社(旧社跡)の北側の字「リクマ」に、前方後円墳の痕跡が見つかり、中臣酒屋連の祖神の墓として祀られていることが明らかになり、墳墓の西南に当る鬼門とするところに、守護神として祀ったのではないかと考えられる。

屯倉神社由緒書抜粋




酒屋神社

酒屋神社は延長5年(927)に完成された延喜式神名帳にその名がでている式内社で祭神は中臣酒屋連の祖神である津速魂命をお祀りしている。
明治40年(1907)字「西の口」にあったものが合祀された。

社頭掲示板



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