野間神社
のまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】野間神社 加賀国 加賀郡鎮座

   【現社名】野間神社
   【住所】石川県金沢市小坂町ツ1
       北緯36度35分24秒、東経136度40分46秒
   【祭神】草野比売神 (配祀)武甕槌命 経津主命 天児屋根命 比淘蜷_
   【例祭】8月16日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】元正天皇の時代に創建
       弘仁14年(823)加賀建国に際し勅使奉幣
       天長6年(829)祠殿造営神領寄進
       天長7年(830)閏12月藤原良房幣帛を奉納
       戦国期衰退前田氏入城してより当社も復元
       明治38年7月郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】もと中町紙屋庄三郎の宅地にあり
        その後現在の地に

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿神明造
       幣殿・拝殿・神饌所・社務所

   【境内社】水神社・稲荷神社

御社殿に向つて左に御神木の眞榊がある。明治の明細帳に記された「古老傳説」によると、昔、小坂村役人庄屋庄右衛門が、夢に伊勢の五十鈴川の大神より榊木を賜わるといふ霊夢を見、翌朝村人をひき連れて急ぎ赴いたところ、江州(滋賀県)高市のあたりで榊をかつぎ野間神社ヘ向うと言ふ老翁に会い、これがその榊であると言うを聞きて、ありがたきことと持ち帰り、移植したものであるという


由緒

野間神社略縁起
由緒
本神社は、草野比売大神を主神と仰ぎ、後に春日四座の神々を合祀した延喜式内の名社であります。
その創始は遼遠の太古に遡り、今その初めをつまびらかにするを得ませんが、総国加賀風土記に、「加賀郡(後の河北郡)野間神社、斉明天皇2年丙辰9月始奉圭田加神礼有神家巫戸」との記載がありますので、当時よりすでに規模宏壮な大社であったことが窺われるのであります。
又、享保18年に「鎮座千年祭」を斉行した旨の加賀藩庁の記録があり、更に本神社にも、天保4年8月に10日間にも亘る長期間の「御鎮座千百歳慶賀大祭執行」と墨書された桧材の大掲示板が現存していること等よりすれば、野間神社が小坂の地にご鎮座になったのは、凡そ元正天皇の御代と云われております。
往古の河北潟は広大にして小坂の地辺まで湖沼や大湿地帯であったので、国土生成の祖神である草野比売大神の神霊を鎮斉して、この土地の守護神と仰いで今日に至ったのであります。
近年に至るまで小坂地内に一の津、二の津、三の津、前波などの地名の存したことや、沖、磯部等の町が現存することなどその証左と云えましょう。
又、河北潟の周辺には、神谷内町の野蚊神社など、草野比売神を鎮斉した神社が点在しております。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



野間神社

野間神社略縁起
一、鎮座地 石川県金沢市小坂町東一番地
一、境内地 壱千八百拾四坪
一、御祭神 草野比売大神
一、配祀  武甕槌命 経津主命
      天見屋根命 比淘蜷_
由緒
本神社は、草野比売大神を主神と仰ぎ、後に春日四座の神々を合祀した延喜式内の名社であります。その創始は遼遠の太古に遡り、今その初めをつまびらかにするを得ませんが、総国加賀風土記に、「加賀郡(後の河北郡)野間神社斉明天皇2年丙辰9月始奉圭田加神礼有神家巫戸」との記載がありますので、当時よりすでに規模宏壮な大社であったことが窺われるのであります「又、享保18年に「鎮座千年祭」を斉行した旨の加賀藩庁の記録があり、更に本神社にも、天保4年8月に十日間にも亘る長期間の「御鎮座千百歳慶賀大祭執行」と墨書された桧材の大掲示板が現存していること等よりすれば、野間神社が小坂の地にで鎮座になったのは、凡そ元正天皇の御代と云われております。
往古の河北潟は広大にして小坂の地辺まで湖沼や大湿地帯であったので、国土生成の祖神(おやがみ)である草野比売大神の神霊を鎮斉して、この土地の守護神と仰いで今日に至ったのであります。近年に至るまで小坂地内に一の津、二の津、三の津、前波などの地名の存したことや、沖、磯部等の町が現存することなどその証左と云えましょう。
又、河北潟の周辺には、神谷内町の野蚊神社など、草野比売神を鎮斉した神社が点在しております。
沿革
当神社の境内地は、古くから加賀郡小坂庄に属し、往古にあっては小坂庄は、奈良春日神社の神領であり、旧小坂村、浅川村、金沢市の一部をも含む二十三ケ村を数える大庄園であったが、当社は実にこの小坂庄二十三ケ村の総鎮守神であり、御霊験赫灼として四方ご神徳を仰ぎ奉り、社頭の隆美なることは近隣に冠たるものがありました。特に歴代の朝廷、国守、介、守護等、或いは戦国武将の本神社を崇敬すること実に篤く、屡々幣帛を奉り、神階を授け給い、又社領を寄進されております。嵯峨天皇弘仁14年には、加賀建国に際し勅使を差して之を当社に奉告し給い、紀朝臣未成は天長6年、使を当社に遺して祠殿を造営し神領を寄進し、同じく7年閏12月藤原朝臣良房が加賀守に任ぜられ、国中を巡視の際、親しく当社に詣で幣帛を奉っております。
更に光厳帝建武元年には二条権大納言師基加賀国司となり、加賀郡に居舘して近国の政を兼掌したが、その地は今の御所町であり、当社と相接し師基大いに当社を尊信し、祠殿を改造し末社を建立し、小坂庄を挙げて祭祀を奉ぜしめられたと社記は伝えております。然るに久しからすして漸く兵馬倥偬の世となり、本神社も又その累を被り、社頭は俄かに荒廃し、規模大いに衰微したのであります。やがて信長、秀吉に依って戦国の平定成り、天正年間、加賀には前田氏入城してより当社も復元し、小坂村の地を割きて社領とされるに至りました。後の上宮田、下宮田の二字は即ちこれであります。尚、この時当神社に対し「河北一郡総社」の取扱いを為すべき旨、仰せだされたのであります。因みに文化年間、中村用水改修の折、これに懸る石橋をかけ替えたる所、その裏面に前述の文字が刻まれていたのが、現在当社手水舎前に建てられている自然石の社標であります。境内は昭和初期までは、樹令四百年、五百年を越える老樹名木がうつ然として繁茂し、天日をさえぎり、昼尚暗い静幽の霊域であったが、惜しむらくは、その後次第に枯れ損じ、今は旧の百一にも如からざる状態となったことは、まことに残念至極であります。今は樺、たぶ、しで等の大木が僅かに当時をしのばせています。明治38年には石川県より郷社に列せられ、三大祭に際し幣帛供進使の参向あり、甚だ重い待遇を受けておりました。当時河北郡には郷社は、わずかに四社を数えるのみでありました。かくして終戦に及び、戦後は小坂地区の総氏神として、近隣の尊崇深く、御神威の愈々いやさこなるものを拝する次第であります。
御宝物
本神社にも古くより多くの宝物の存ぜしことが社記にしるされていますが、戦国の兵乱にかかりすべて鳥有に帰し、現存せるものはわずかに左の一、二に数えるにすぎません。
建武式条一巻 国司師基祐晴ニ賜ふ
和歌十二首  内大臣雅孝奉納
古鏡一面   平野神右ヱ門奉納
太刀一振   洲崎兵庫奉納
社號額    前田斉泰奉納
御神號掛軸  前田斉泰奉納
伝説
其の上或る夜半、村役人庄右衛門に神夢あり、夢に告げて云ふ「五十鈴川の大神より神木を賜り在り、汝是を取り寄せよ」と庄右衛門、夢覚めて恍惚たり、かくの如きこと連夜なり。
庄右衛門茲に村人に相謀り、数人を引連れ度會大宮に行かんと、江州(滋賀県)高宮のあたりを行きしに、遥か向ふより二、三の翁、榊木を担ぎ来れり。庄右衛門奇異の思ひをなし、「貴方何処へ行き給へるか」と尋しに、「吾等は伊勢度會大宮より来り、加賀野間神社へ行くものなり」と答ふ。庄右衛門「吾等は野間神社の使にて度會の大宮に詣で榊木御受けのため行く者なり」と云へしに、翁等の日く「是即ち其榊木なり、よき処に出合しぞ、慥に受けとられよ」と云ひて渡したる侭、翁等何処へ行かれしか跡形もなし。庄右衛門等は夢の如くに思ひつゝ、持ち帰り、當社拝殿の左翼に植え神木と称え其頃より厳に幣を奉り来れり。同木は今尚繁茂して、榊には実に稀なる大木となり、神木の称奉幣の儀式は尚、旧の如くである。

由緒書



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