住吉神社
すみよしじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】住吉神社 播磨国 賀茂郡鎮座

   【現社名】住吉神社
   【住所】兵庫県加東市上鴨川571
       北緯34度58分0秒、東経135度3分34秒
   【祭神】上筒之男命 中筒男命 底筒男命 息長足姫命
   【例祭】10月4-5日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】創立年月不詳
       正和5年(1316)造営
       永享6年(1434)造営
       明応2年(1493)造営
       寛文6年(1666)氏子間に紛争が生じ各地区が住吉神社を建てて独立
       明治7年2月村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造檜皮葺
       拝殿・神饌所

   【境内社】

棟木銘によると本殿が正和5年(1316)に創建、その後永享6年(1434)に建て替えられた。昭和35年(1960)に国の重要文化財に指定され、室町時代中期建築物の特徴をよく今に伝えている。
宮座があり重要無形民俗文化財の「神事舞」が伝わる。


住吉神社

播磨平野の広がりがようやく東北の産地にかかろうとする所、加東郡社町上鴨川野尻山麓に住吉神社がある。
その宮居のたたずまいもさることながら、厳格な宮座組織に支えられ、7世紀の永きにわたって毎年欠かす事なく伝え続けられてきた神事舞は、古式をよく残し、全国的に見てもその価値は高い。中世のかおりを色濃く残した数々の神事芸能は、その遺風から芸能成立のプロセスや系譜を探るのにはこよなく貴重な存在である。
毎年、10月4・5日両日に繰り広げられる祭事は、これを挟んで一年間精進潔斎して行われる多くの神事のいわばクライマックス。村人たちが、五穀豊饒・無病息災を願って神前に祈る素朴で敬慶な心情の凝固を、今に伝えたのがこの神事舞である。
昭和52年5月17日、神事舞としては兵庫県下ではじめで国の重要無形民族文化財指定を受けた。
厳格な宮座制度
上鴨川住吉の神事は、厳格な世襲的宮座制度によって支えられている。
この宮座は、若衆・清座・年老・横座により組織されるが、宮座に入ることができるのは、上鴨川村70余軒すなわち住吉神社氏子のなかで、この地に生まれた長男のみに限られる。どんなに古い格式の家柄であっても、次男三男以下であれば絶対に入ることは許されず、ギオン(祇園)座と呼ばれる別の座で祭儀の末端的奉仕役を努めるだけである。
また、女性は、本殿、長床、舞堂などへ足を踏み入れることも厳禁され、神事にでる子供の身繕いさえ手伝うことも許されない。
宮座の組織
若衆…一家の長男で、8歳から9歳ぐらいで宮座入りする。次の「清座」になるまで17、8年もっぱら祭りの舞いを行う。
清座…8人。若衆を終わった者が毎年一人ずつ入り、これと入れ替わりに一人が「年老」になる。若衆の指導、先導的役割。祭りの実質的指揮者。
年老…「清座」を終えた者全部がこれになり、32、3歳から一生涯続く。神事に直接関与せず、神事の根本的なことや経済面などを協議する。
横座…正副横座があり、神事の最高責任者。「年老」の最高位。
神事舞
10月4日、午後5時少し前、宮座の若衆、清座の衆が村を出発し1キロメートほど離れた神社へ向かう。太刀を先頭に、本鼓の音で囃しながら。 畔には赤い曼珠沙華が風に揺れ、稲穂は黄色く色付き刈り取りを待っている。
神山川と鴨川の合流するところに住吉神社は鎮座する。若衆はこの神山川で水浴び潔斎をすませ、正面の石段から宮入りする。
若衆は、本殿前の割拝殿で宮めぐりの身支度をする。侍烏帽子、紺地に白く鶴亀模様を染め出した麻地の素襖、袴。小刀を帯し、右手に白扇、左手に洗米一握りを白紙に載せて捧げる。素足である。
午後6時ごろ、清座3名が持つ松明に火が灯され、これに先導され、あるいは促され、太刀を先頭に宮めぐりが始まる。おごそかに、最も厳粛に。「上鴨川住吉神社 神事舞」の始まりである。
●宵祭/10月4日
PM6:00 宮めぐり
    盃ごと(長床)
    斎灯
    御神楽 (割拝殿。斎灯中に)
    太刀舞  @
    獅子舞  @
    田楽   @
    扇の舞  @
    願済   @
    (@の繰り返し)
●本祭/10月5日
    AM11:00 盃ごと
    太刀舞  
    獅子舞  
    田楽
    扇の舞
    高足
    能舞七番
     ●いど
     ●萬才楽
     ●六ぶん
     ●翁
     ●たからもの
     ●くわじゃ
     ●父の尉
    神相撲
PM4:00 餅まき
【住吉神社の建築】
▽当社の境内には前庭をはさんで割拝殿・舞殿・長床などが配され、古い神社構成の形式を残している。本殿は昭和35年6月9日に国の重要文化財指定をうけ、昭和45年1月から同年12月にかけて解体復元修理が施された。
この本殿は三間社流造桧皮葺箱棟銅板包みで、内陣を一段高くとって5区に分け、向って右4区に住吉四社〔上筒男命・中筒男命・底筒男命・息長足姫命〕を祭っている。
こうした形式は、近くの大川瀬・住吉神社本殿(重文・室町初期)にもみられ・この種の神社の地方色をよく示したものといえる。細部の手法もすぐれており、ことに向拝(こうはい)の手挟(たばさみ)は美しく、輪郭も力強く、葉飾りの彫刻意匠はすばらしい。
向拝など一部に後補はあるが、妻飾り・つなぎ虹梁・内陣まわりなどは、室町時代中期の特徴をよくとどめている。
棟木に書かれた墨書銘によると、鎌倉時代の正和5年(1316)に創建され、つづいて永享6年(1434)・に再建、ついで明応2年(1493)に建立したのがいまの本殿であるという。さらに、天井梁・内陣扉口小脇板内面などに書かれた墨書から、本殿は明応元年12月に杣始(そまはじめ)がおこなわれ、同2年6月上棟されたことがわかる。
その後の修理については、棟札と墨書により貞享3年(1686)年に丸桁(がんぎょう)を含む軒廻り以上の大修理があり、向拝頭貫(こうはいかしらぬき)・木鼻蛙股などが取替えられた。さらに、享保6年(1721)に小屋組と屋根の修理があり、文久2年(1862)には、屋根を葺き替えた記録などがある。
▽ 当社の神事舞に用いられる5面の他、尉面(3)・媼面・陵王面・鬼面・冠者面の7面、合せて12面の神事能面は、昭和43年3月29日県の重要文化財指定をうけている。
宵祭
10月4日、拝殿石段下に大幟と枠提灯がならび、境内には斎灯の柴が組まれる。若衆全員が榊の葉を口にして宮めぐりを行い、長床で盃ごとをする。この間に、当屋八人がシオカキ(水垢離)のうえ斎灯に点火、火焔が頂点に達する時、神事舞がはじまる。
まず、神楽、太刀舞、獅子舞、田楽、扇の舞と続き、その後、ガンサイ(願祭・願済)をすませて宵祭は終る。
本祭
翌5日、諸神事の後、正午過ぎから太刀舞がはじまる。宵祭と同じ順序で神事舞が進められ、扇の舞につづいて高足が演じられ、これの終了後、舞堂前の粗莚の上で能舞七番がつぎの順に奉納されていく。いど・萬歳楽・六ぶん・翁・たからもの・くわじゃ・父の尉。演能が終ると、村の子どもたちの相撲、ついで餅まきを行い神事のすべてを終了する。
【太刀舞】
別名リョンサンの舞という。口伝によると、坂上田村麻呂が東征のおり、戦勝祈願をこめここに詣でて演じ、帯していた太刀を献じたという。その踏舞形は、舞楽の“陵王”に由来し、囃子も舞楽的で“呪師の方固め”即ち東西南北、天地陰陽を祓い潔め、豊饒と鎮護を祈願する舞である。 舞人は、頭に鳥兜を頂き、上方に反った長鼻の面をつけ、チョウガクシという胴衣、柿渋染麻布の抱、そして大太刀と小刀を帯し、鉾を持って荘重に舞う。
【田楽】
田楽は平安中期頃から民間におこり、宮廷に伝わり貴族の間に流行した芸能です。当地では、三人の締太鼓、四人のびんささら(拍板)、それにチョボ(金属楽器)と小鼓が各一人加わる。頭にガッソウという白紙の幣(しで)の冠をかぶり、身には柿渋染めの法被をまとい、裸足で“中門口”こという序芸を演じる。
これの意味するものは、諸神事に共通する豊かな稔りと招福除災である。
【扇の舞】
別名イリマイと呼ばれており、田楽の後、その舞人が扇を手に舞殿の前庭で一人づつ行うもので、田楽の中の一部ではないかと思われる。大太鼓の囃子で扇を指し、あるいはかざしつつ片足で跳ぶようにして踊る特徴的な舞で、その所作は一人約二、三十秒と短い。
【高足】
古来、田楽につきものの芸能で、その所作は農耕をあらわすものか、また、中国から渡来した“唐散更”にある一足、侏儒舞、輪鼓などといった諸芸に由来するものか定かではない。木棒の横桟に足をかけ飛び跳ね、アクロバチックな動作をする。
【能舞七番】
“いど”にはじまり“萬歳楽”“六ぶん”と前奏的なものがつづき、これに“翁”とその分割されたものと思われる“たからもの”そして“くわじゃ”・“父の尉”の七番からなる。能楽“翁”の源流である“翁・延命冠者・父の尉”の組合せは、国内各地に伝わる三番叟のある翁より以前の古い形で、当社独特のものである。しかも、これらの謡詞は現在の能楽諸流とは全く異り、他地方に残る翁舞との相似性は少い。なお、能舞の所作は長年にわたる伝承の間にかなりの崩れ、簡略がみうけられるが、能楽の源流である猿楽能の古態を残し、我が国芸能史上に占める価値は極めて高い。

由緒書



播磨国INDEXへ        TOPページへ



順悠社