夜比良神社
やひらじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】夜比良神社 播磨国 揖保郡鎮座
   【延喜式神名帳】阿波遅神社 播磨国 揖保郡鎮座 

   【現社名】夜比良神社
   【住所】兵庫県たつの市揖保町揖保上391
       北緯34度50分16秒、東経134度32分13秒
   【祭神】国作大己貴命
   【例祭】10月9-10日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】創立年月は不詳
       明治7年2月郷社
       大正2年2月県社
       大正2年7月神饌幣帛料供進神社指定階

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八牧明神」と称していた
   【社殿】本殿流造檜皮葺
       拝殿・絵馬殿・社務所・神器庫・神饌所・雑庫・手水舎

   【境内社】稲荷神社・建速神社

播磨国宍粟郡の式内社一の宮伊和神社を北宝殿と云うのに対し、本社を南宝殿と云う。その訳は両社共に祭神が同じで、伊和神社が北向きに建つていて主として国内の北部を経営されたのに対し、本社は南向きで、国内の南方を開拓されたからと云う。


由緒

創立年月不詳なれども播磨風土記に祭神の又の御名たる葦原醜男命此地に天穂日命と國占の論ありしより見れば早くより此地開拓の祖神として祀られしものならむ延喜式の制小社となり明治7年2月郷社に列せられ同24年拝殿を新築し大正7年2月縣社に昇格す。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



夜比良神社

御祭神 国作大己貴命(大国主命・大汝命)
家運隆盛・学業成就・病気平癒・縁結ぴの神として篤く信仰されている。
御鎮座 兵庫県龍野市揖保町揖保上391番地
旧社格 明治7年2月郷社に列せられる。
大正2年7月 神饌幣帛料供進神社に指定される。
大正2年2月県社に列せられる。
神紋 子持ち亀甲に米 丸に左三つ巴
本殿 一間社入母屋造り(平入り)
   正面向拝付屋根銅板葺
境内神社 建速神社(御祭神 須佐之男命)
稲荷神社(御祭神 天宇受売命・稲倉魂命・佐田比古命)
夜比良神社と伊和神社
夜比良神社の拝殿に南方殿と書かれた扁額が架けられているように、本社を南方殿と呼ぷことがあります。これに対して宍粟郡一の宮の伊和神社を北方殿と呼びます。これは夜比良神社と伊和神社の御祭神が同神であるだけでなく、吉代播磨国で勢力を誇っていた豪族の勢力の拠点としての意味をもっていたと考えられます。
すなわち揖保川流域において北方の拠点が伊和神社であり、南方の拠点が夜比良神社であったことが知られます。つまり「いひぼの里」(揖保里・粒里)とよばれていた古代風土記の時代から、揖保川水系における、南部の地域の守護神として尊崇されていたことがわかります。
古代日本の文献に見られる夜比良神社
『類聚国史』(892年成立)という日本の古代史を研究するための貴重な書物があります。『類聚国史』は、学間の神様として有名な菅原道真公が、当時の歴史や制度について編集されたものです。この書物には、五畿七道の267社の神社の階位がまとめられています。このうち播磨国では夜比良神社の北方殿である伊和神社と粒坐天照神社の二社の記載が見られます。奈良時代の初期に編纂された『播磨国風土記』の世界の物語りとともに、夜比良神社が播磨国で重要な地位を占めていた様子がうかがえる史料です。
そして10世紀初頭(平安時代)の醍醐天皇の時代に編纂された『延喜式』「神名帳」には、夜比良神社の名前が見られます。「式内社」と言う呼び方は、この延喜式に記載されているという意味ですが、このことは10世紀初めにはすでに古社としての歴史と格式をもつ神社となっていたことを物語っています。
また古代にあっては、夜比良神社一帯は、揖保(伊比奉)郷と呼ばれていました。この揖保郷には、『和名抄』(承平年間・931〜937成立)に見られる神戸郷(旧神戸村)も含まれていたことが次の史料によって推察されます。
東大寺領畠注進状 「揖西郡揖保郷神戸村畠八町弐段……」(東大寺文書/平安遺文929)
明治維新以前は旧神戸村十六箇村が、夜比良神社の氏子域であったことと符合する史料として、あるいは古代揖保川流域の歴史を知るうえでも貴重な文書です。
夜比良神社と揖保川の流れ
揖保川の堤防が現在のように強固なものになる以前、揖保川は西に東に揺れ動いて流れていました。
11世紀のころ、奈良時代からの行政区画であった揖保郡が揖東郡と揖西郡に分かれました。両郡の境は当時の揖保川であったと考えられます。当時の揖保川はおおよそ今の浦上用水の線を流れていたと想定されています。夜比良神社はその右岸、揖西郡にあったのです。鎌倉時代には揖保川の右岸に上揖保荘・下揖保荘と呼ばれる荘園が成立しました。上揖保荘は龍野町、日山、小神などが該当します。いっぼう下揖保荘の荘域は、龍野市揖保町の揖保上・揖保中・今市と揖保郡揖保川町の野田・新在家・正條を含む地域でした。そしてこの下揖保荘の鎮守の社として崇敬をあつめていたのが夜比良神社でした。このうち野田以外の村々は、現在に至るまで夜比良神社の氏子として、夜比良神社を崇め護り続けています。現在、氏子域が揖保川の左岸、右岸にまたがってあり、やや奇異に思えますが、当初は氏子域はすべて揖保川右岸にあったのです。それが永正13年(1516)か、享禄年間(1528〜31)の洪水で揖保川の本流が西に移り、今日みられる流れとなったために、夜比良神社の氏子域が分断されることになったのです。
このように氏子域が揖保川によって分断された後も、夜比良神社と氏子の結びつきは堅く、正條や新在家の人々は渡し舟(「夜比良の渡し」)を利用し、参詣を怠りませんでした。
夜比良神社と赤松氏
中世の播磨国を支配したのは赤松氏でした。赤松氏は下揖保荘の鎮守である夜比良神社を守護神とし、「八尋(やひろ)の神」と言い、厚く崇敬しました。また「神式は赤松政村これを定む」と今に伝えられています。鎌倉時代には野田・新在家・正條・揖保上・揖保中・今市を含む地域には下揖保荘が成立しました。
この下揖保荘の領家職は冷泉家、山科家等の交替がありましたが、延徳3(1491)年には、山科家から赤松政秀が半分代宮職に任じられています。この下揖保荘には関所があって関銭収入があったこと、当時、正條村がすでに宿場町的性格をもっていてかなりのにぎわいを見せていたことがわかっています。赤松氏にとって富裕な下揖保荘は魅力のある地域であったのです。
また記録のうえでは、八枚(八尋)社刀踊り等の故事があったと言われていますが、今では残念ながら途絶えてしまいました。
 やひら手を取りにし神もあらましを
    きねか鼓(つづみ)の音は絶せぬ
             赤松広秀(鶏寵山上にあった古龍野城の最後の城主)

由緒書



夜比良神社

祭神 大己貴神(大国主命)
ご由緒 大巳貴神は大国主命とも申し、出雲大社の御祭神と同一の神であり、始め出雲を中心として国土を開拓平定され、因幡を経て播磨に入り、揖保川の流域に沿うて南下せられて粒丘に足を留め給い地方を開き、人々をいつくしみ災禍を払いのぞかれた。粒は揖保に通じ、揖保の名称は当神社御祭神の由緒より出た物である。古来農業の神、病気平癒の神、福の神として崇められ、その創建は古いが、その年月日等は詳かでない。戦前は県社に列せられ明治維新前は、16ヶ部落、千数十余戸の氏子を持っていたが、神社制度の不備や地理上の便否などにより随時分離して今では僅かに5部落となっている。しかし、その高い御神徳を慕い、参詣祈願する人は日を追って増加している。

社頭掲示板



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