「満州とシベリア」

善意の報酬



 大連港に着いたとき、埠頭は白一色に凍てついた。骨身を刺す痛いほどの寒さと、はじめて見る異国の珍しい風景の中で、母国を離れた心細さと、厳しい軍隊生活への慄きと不安を感じ、早くも体じゅうが強張った。

南満州鉄道の大きな蒸気機関車の、カラン、カランと打ち鳴らしながら走る鐘が、この大陸の新天地の明日を呼ぶ開拓の槌のひびきに似て、若き兵隊たちは皆その平和への警護の使者としての、熱い使命感に酔わされていた。

やがて北満の町、孫呉の、国境警備隊に配属された。初年兵教育の日夜を分たぬ猛訓練に、この身が粉々に打ち砕かれ、息絶えるまでしごかれるかと思われる程の幾月かを過ごすこととなる。やっと苦難に耐え、一期の検閲も経ったある日、それは昭和16年も残りわずかで暮れようとしていた吹雪に明けた日のことだった。

検閲が過ぎると、各種の演習訓練も大分楽になって、初年兵も古年兵と同じく、使役という雑用労働作業に就くようになった。

その日、私は火薬庫の使役に割り当てられた。この使役には同じ班の三年兵と二人で出かけることになった。
三年兵といえば軍隊でいう神様である。 班長よりも中隊長よりもこわく、ほんとうに神の位であった。

だが私と同じ使役に行くこの三年兵は、小柄で温和な、班内では決して初年兵をリンチしない古年兵だったが、暇さえあれば寝台にねそべっては雑誌ばかりを読んでいて、どちらかと云えば優秀な兵隊ではなかった。

そのためか、いまだに万年一等兵だった。 そんな彼との使役は、私にとってとても気楽に思えた。 だが火薬庫での作業は、彼は何もしなかったし、相変わらず雑誌などを持ち込んでは読みふけっていた。

火薬庫係下士官は乙幹(乙種幹部候補生)の二年兵だったから、文句も言えず黙っていた。 そのかわり私がその分働かされたが、それでも解放感に満たされた私は、心楽しかった。

翌日も神様と私は火薬庫への使役が決まって、二人で出かけたが、係の下士官が来ないので調剤室に入れず困ってしまった。 つまり仕事は昨日で終わったのだが、もう一日使役を出すように段取れと、係の下士官に強請したので、今日またここに来られたのだが、無論仕事はないので、この辺りで一日サボろうと言った。

私は仕事がないのなら中隊へ帰りましょうと臆病になったが、彼はたまには骨休みだと言って、火薬庫の土手裏にある空箱集積所の中にもぐり込んだ。 神様の言うことに逆らうわけにはいかないし、さりとてこのことがバレたら、それこそ大変だと思うふたつの気持ちが私をさいなんだ。

彼は相変わらず雑誌をひろげて読みふけっているし、あたりは雪がふりつづいていて、じっと空箱の洞穴の中に篭っているのは、私には退屈で何の楽しみでも骨休めでもなかった。

ただぼんやりと営庭をとり囲む鉄柵に添って、一直線に走っている巾広い軍用道路を往き交うトラックや、荷馬車などを飽かずに眺めているだけだった。

だが、ふと変わったことに気がついた。

さっき、幌をつけたドラックが通りすぎたと覚しき路上に、黒くポツンと何かがおちているかのように見える。 雪が降っているので、確かについさっき通りすぎたトラックからの落し物ではないかと判断したが、鉄柵からは一歩も外へ出ることは出来ない。

だがあれが何であるかを確かめてみたくて仕方なかった。 靴の片方かも知れないし、大金の入った鞄かも知れないと想像してみたものの、手の届かないじれったさである。

だんだん雪にうもれて見えなくなってゆくので、心はあせるがどうしようもない。 と、運よくそこへ、マーチョ(乗合馬車)がシャン、シャンと通りかかったので、大声で呼び止めた。

マーチョはぎょ者だけで、これから商売に出かけるらしく、ちょっと緊張した風だったが、けげんな顔で柵のそばへ寄って来た。 そこで指差しながら

「あそこに見える黒いポツンとしたものをこちらに持って来い。」

と命じた。ぎょ者は何が何だか腑に落ちない態だったが、その黒いポツンを拾って来て、柵の上から投げてよこした。 それは紫の絹布でくるんだ包みであった。

解いてみると、中から上革のハンドバックが出てきたので驚いた。

バックを開けると、プーンとうら若い女性を想わせる香水の匂いが鼻をついた。

中身は拾円札が縦に折って20枚位、その外に預金通帳と印章、口紅やら小銭の入った蝦蟇口などが詰まっていて、通帳には300円ばかり預金がしてあった。

当時、初年兵の給料は、外地手当てを含めて月7円50銭、そのうち5円を強制的に貯金させられていたから、月々2円50銭の小遣いしか持てない頃だったので、この大金(現在の100万円相当)には驚いた。 すぐ古年兵にそれを見せて相談した。

「落とした人がさぞ青くなっているであろうから連隊本部へ届けて、落し主をさかしてもらいましょう」と。

だが古年兵は即座にそれは勿体ない、天の恵みを有り難く頂だいするのだと言ってきかない。 金だけとって、あとはペチカの中に放りこんでしまえば、灰になって誰にも知れっこない、マーチョのおやじも包みの中が何であったかは知らないし、軍のかかわりあいにはなりたくないであろうから誰にも話すまい、大丈夫だ、やっと俺たちにも運が向いてきたと喜んだ。

だが私は気がきではなかった。 10円位の拾い物だったら、さして良心も痛むまいが、こんな大金は処置に困り果てた。

届け出るとすれば、どうしてわれわれが今日ここに居たのかの説明がつかないし、明らかにサボっていたことがバレるであろう、考えてみればとんだ災難でもあった。

外地での落し物は、全くといってもよいほど、拾われて届けられる望みはないのだから、このバックの落し主もきっと失望して泣いていることだろうと思うと、どうしてでも届け出るべきだと古年兵にさからって、同意を求めた。

ようやく温和な古年兵は納得してくれて、そうするのがよかろうと言ってくれた。

その夜、昼間楽をして体を使わなかったせいもあろうが、興奮してなかなか寝つかれぬまま、思い切って中隊事務室に出向いた。 事務室にはまだ古参の准尉が勤務割などの事務を執っていたので、決心してそのことを打ち明けた。 准尉は温厚な人でもあったし、私も幹部候補生志願の初年兵で、ときどき消灯後この事務室で勉強させてもらっていたので、思ったより報告し易かった。

翌朝、点呼のとき、週番から朝食後准尉の使役のため、中隊事務室へ行け、と言われた。

事務室に入るなり、准尉はアレをとりに行って来いと言った。 やがて持ち帰ったハンドバックを開けてみた准尉は、放出する芳香に酔いしれ、私の昨日の日課や行動のことについては、一切ふれずにすませてくれた。

中隊から大隊本部へ、大隊から連隊本部へ、本部から師団司令部へと連絡が流れ、その日の夕方、預金通帳の住所と名前から落し主が確認され、無事に本人の手に戻った。

その人は某商社に勤める重役の奥さんだった。あの日は大雪だったので、定期バスが運休し、軍用トラックに便乗したため、幌の隙間から落したものらしかった。

それから数日経ったある朝、中隊全員は朝食後兵舎の前に整列せよとの達しがあり、そのさい、私だけが帯剣して出るようにと言われた。

中隊長は朝礼台に立つと、咳一咳、私が拾い物をして届け出、幸いにして落し主に戻ることが出来たこと、この民間人(軍人以外の人)は大変喜んで感謝していること、そしてこのことによって軍の威信を高め、わが中隊の面目をも昂揚せしめたことをほめたい、という主意の訓話があって、

「本日落し主よりの謝礼金が届いているので、本官から伝達する。」

と中隊長から有難く金50円也(現今の10万円―昭和40年代―)を頂いた。 私は早速その中から20円を准尉のところへ持ってゆき、貯金すると言ったが、准尉はあとまだ30円を所持することになる、つまり、7円50銭以上持つことになり、それは禁じていることだと言った。

だが、今回は外でもない金子ゆえ、特別の計らいにしてやろうと言ってくれ、残りの30円をあの時の古年兵にやることにしたが、神様は偉い人で、20円でよいと言った。 そこで残った10円を三年兵みんなで使って下さいと差し出してしまったので、自分の財布へは一銭も入らないこととなった。

だが、心の中は満足感と安堵で満たされ、快よいものであった。



そのほとぼりのさめかけた頃のある晩、班長室に呼ばれ、明日公用外出をさせるから朝食後に来いと言われた。

初年兵はまだ外出など許される時期でもなかったし、私には何のことかよく解らなかったが、翌朝公用腕章を渡されて班長と二人で営外に出ることになった。 衛兵所には出門の手続きだけで裏門から出た。門のわきにはバケツと釣竿が二本用意されていて、はじめて事の次第がのみ込めた。 この間の善行の褒賞として、一日の外出をさせてくれるわけであった。 班長は二人分の弁当も用意して来てくれ、小半時歩いたところの小川で釣り糸を垂れた。

餌は別に要らなかった。めし粒で忙しいほどよく釣れた。 しまいには餌をつけないでも釣れたし、まごまごしていると針がとれないほど呑み込まれて困った位だった。 班長は水筒を傾けては仰向けにひっくり返って、空を眺めながら歌を口ずさんでいた。 多分、班長の水筒には酒が詰めてあったらしく思われた。

昼飯をすませてからは魚は川へ放してやり、釣竿もそこへ置き放しにして、街まで出かけたが、半年ぶりに味わう娑婆の空気は鼓動を高め、望郷の切なさ、人焦がれる思いだった。



やがてその年も暮れ、正月を迎えて半年ばかり経った頃、再び公用外出の許可が出た。 バスが街へさしかかる頃、班長から

「この間の落し主が、是非とも直かに本人に礼を述べたいし、お昼なりと召し上がってもらいたいという申し出があったので、これから訪ねるのだ」

ということだった。

訪問先では、殺風景な兵舎の中とは違って、目にふれる家具調度の何からなにまで豪華に映り、別世界に在る心地して、堅くかしこまるばかりだった。 数々の珍味、心づくしの手料理をご馳走になって、帰路は私の希望を容れてもらって、マーチョにゆられながら兵営に向った。
もしや、あのときのぎょ者にめぐり会えるかと思いながら・・・・。

遥かなる平地は、沈みかけた大きな太陽に映えて茜に染まり、夕餉の炊煙たな引く国境の街並は、小豚を追う小輩らの喚声に賑わっていた。



マーチョがゆれて、鈴が振れ、

シャン、シャン、と鳴く。

人恋しく、懐っこく、

この辺境だけが戦争を忘れていた。 当時の私には、その日の陽ぐれこそ、値、幾百万金の幸せを得た思いだった。








編集後記:昭和16年(1941)、当時22歳になったばかりの若者が、『若き兵隊たちは皆その平和への警護の使者としての、熱い使命感に酔わされ』異郷の地に赴いて行く。戦争中とはいえ、まだ秩序があり、その異常な環境の中で、精一杯生きている若かりし日々の父の姿に触れた。

回想記は昭和45年(1970)頃のものです。この他に短編が4つあり、順次編集して参りますので、どうぞまたよろしくお付き合いください。ありがとうございました。

2005年11月30日(水)



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