赤穂浪士引き揚げコース(本所・松坂町~芝・高輪泉岳寺)

 今回のウォーキングは言ってみれば番外編のようなもので旧街道を歩くという主旨からはずれることになるが、元禄15年(1702)12月15日未明、本所・松坂町の吉良上野介邸に討ち入った赤穂浪士が、主君浅野内匠頭の眠る芝・高輪泉岳寺まで引き揚げたコースを辿ることにする。
実際に討ち入った日付は12月15日未明から早朝にかけてのことだったが、当時の時間概念では日の出から一日が始まるというのが常識だったため、日の出前に行われた討ち入りは12月14日のこととされている。

どうせ歩くなら同じ12月15日にしてやろうかと思っていたのだが、毎年12月13・14日は泉岳寺にお参りする人が数万人もいるというし、2007年の12月15日は土曜日にあたるので大混雑が予想されるため、日付をずらして決行することにした。現在の時刻で朝の3~4時頃に討ち入った赤穂浪士は6時頃に吉良邸を出発し、泉岳寺に到着したのは8時頃のことだったという。地図上でコースを計測してみると約12km弱、これを2時間ほどで歩いているから時速約6km、歩くというよりはほとんど駆け足に近いスピードである。ただ単に2時間歩いたのではない、その前に2~3時間刀を振るって死闘を繰り広げた後の12kmである。昔の人の体力がどうとか健脚がどうとかのレベルを通り越した話なのだ。

当時の浪士たちは討ち入りが終わった後の集合場所や最終的に泉岳寺へ向かうことなどは決めていたようだが、具体的な道筋は決めていなかったようだ。後に書き残したものや聞き取って記録に残されたものを見てもまちまちで、通過した橋や町の名前は書いてはあるのだが、現代の地形変化や道路事情の変化も相まって、部分的にどこを通ったか分からなくなっているところもあるようだ。まあ、何ヶ所か間違いなくここを通ったというチェックポイントもあるので、それほど大きくはずれたコースということにはならないだろう。


 12月6日
私の住んでいる千葉県船橋市から本所松坂町(現・両国3丁目)の吉良邸跡に行くには都心部へ向かう格好になるので、朝の7時過ぎから8時半頃まではモロに通勤ラッシュと重なってしまう。ピーク時を避けて9時少し前の電車に乗って出発、それでも座席はほぼ満杯状態でフレックス通勤が広まってきた証だろうか。それにしてもサラリーマン風の人たちに混じって街道ウォーキングスタイルというのは、なんとなく申し訳ないような気がしないでもない(笑)

JR両国駅から南へ下る形で吉良邸跡・現在の本所松坂町公園にたどり着いたのがちょうど10:00、公園は武家屋敷をイメージした海鼠塀で囲まれており大人3~40人も入れば満杯状態、よくもまあこんな狭いところに47人も、というのはお約束のボケで、討ち入り当時の吉良邸は敷地の東西凡そ130m南北65mほどで、2557坪・約8400㎡の広さがあったという。国立競技場の芝生面が107mの71mだそうだから、ほとんど遜色ない大きさである。元々吉良邸は呉服橋御門内の御曲輪内と言われる一等地にあったが、松の廊下事件の後、吉良上野介の隠居願いが許され、新興開発地であった本所松坂町に屋敷替えとなったもので、当時の感覚から言えば郊外を通り越して江戸市中の外という感じだったらしい。


まるで「赤穂のみなさん、吉良を討つなら討ってもいいよ、ただしやるなら江戸の外でやってね」と言わんばかりの仕打ちに、吉良上野介は不満たらたらだったようだ。なにしろ御曲輪内といえば現在の外堀通りの内側で、旧吉良邸は後に北町奉行所(現在の東京駅北側)が置かれたくらいの一等地であり、当時の徳川一門・譜代の大名や旗本にしてみれば御曲輪内に屋敷を持つことが一種のステータスシンボルみたいなものだったのだろう。それがまだ人家も疎らな本所あたりへ行けというのは、吉良にしてみればほとんど島流しに遭ったくらいのショックだったに違いない。

12月15日未明、寝込みを襲われた吉良側は、死者16名・重軽傷23名を出すほど必死の防戦をするが、ついには吉良上野介の首級を挙げられてしまった。勝手の一部に炭小屋があり、中にいた数人が奮闘するも切り伏せられ、奥にいた吉良に間十次郎が槍で突くと脇差しを抜いて出てきたので、武林唯七が一刀のもとに切り倒したという。

一説によると当日吉良邸の長屋には中間・足軽などを含め100名ほどがいたそうだが、浪士側が討ち入った早々に長屋の出入り口に閂を掛けて閉じこめてしまったのだという。そうしておいて口々に「50人組は裏へ向かえ!」とか「100人組は屋敷内へ!」とか叫びながら駆け回ったものだから、吉良側はよほどの大軍に襲撃されたと思い込み、出るに出られなくなったものらしい。赤穂側の頭脳プレーの勝利というか、ここ一番のハッタリ作戦成功というところだろうか。

ちょうど公園前で道路工事をやっており工事車両や工具がいっぱい置いてある。どうも絵柄になりにくいとデジカメのシャッターを押しそびれていたら、向こう側から中年の団体さんがどやどやとやって来た。忠臣蔵の法被を着たガイドさん付きのツアーらしい。今日は12月の6日で討ち入りにはまだ間があるし、特に忠臣蔵には関係なさそうな日で、それも平日木曜日の朝10時である。いやはや忠臣蔵人気というのは凄いもんだと、思わずつられてシャッターを押してしまった(笑)

吉良邸に討ち入った赤穂浪士は事が終わった後、北西にある回向院前に集結する段取りだったらしい。吉良邸の北側は塀を境に旗本本多内蔵助邸・土屋平八郎邸があり間に道路はなかった。当時の回向院は吉良邸を上回るほどの広さを持ち、南側の道路がなく表門も東向きにあったようだから、赤穂浪士一行は吉良邸の裏門(西側)から出て回向院へ向かったようだ。当初は回向院で身支度を整え上杉家からの討っ手に備える計画だったらしいが、なんと回向院では関わり合いになるのを恐れて赤穂浪士に門前払いを食わせてしまった。この時、境内の一画にでも入れて白湯の一杯も出しておけば、回向院の名声は今日の比ではなかったに違いない。惜しいことをしたものだ(笑)

        


仕方なく浪士一行は両国橋東詰の広小路に向かい、そこで上杉家からの追っ手を待ち受けることにしたが一向に敵が現れないので泉岳寺へ向けて歩き出すことになる。ここから船で隅田川を下るという計画もあったようだが、夜明け前に血塗れの不審な浪士47名を乗せる船頭もいなかったろう。上杉家の藩主綱憲は吉良上野介の実子であり、上野介の跡継ぎである左兵衛吉周は上杉綱憲の実子なのである。上杉綱憲にとっては実の親と実の子が襲撃されたことになるのだから、当然応援・報復の軍勢を繰り出すのは予想されるところである。当日の15日は大名・旗本の江戸城登城日にあたっており、両国橋からの道路を多数の大名・旗本が通ることが予想されるため、混乱を避けて隅田川東岸縁を南下するコースを辿ったようだ。今でこそ空き地の一つもない場所だが、討ち入り当時は人目を避ける意味からなるべく人家の少ない道筋を選んだのだろう。

間もなく一之橋で堅川を渡る。この付近で堀部安兵衛らの剣術の師匠であった堀内源左衛門の門弟が待ち構えており、一行に大願成就の祝意を伝えたというが、時間はまだ朝の6時前後、時期的にようやく空が白み始めた頃であるから、市中に討ち入りの噂が広まるには早すぎる。そうなると堀部は師匠に討ち入りの日程や時間を教えていたことになるが、いくら剣術の師匠でもそう簡単に討ち入り決行の期日をうち明けるとも思えない。これは伝説の類かと思うがどんなものか?

        


一之橋を渡った右手は江戸幕府の海軍とも言える御舟蔵があったところで大小艦船の格納庫になっており、14棟の建物が並んでいたという。その先右手に見える黄色い支柱が新大橋。新大橋が墨田川に架かる3番目の橋として架橋されたのは元禄6年(1693)のこと。単に「大橋」と呼ばれていた両国橋に続く橋として「新大橋」と名付けられた。この橋は不思議に流失・焼落の多い橋で、20回を超える再架橋が記録されているという。歌川広重が描いた江戸名所百景の中の「大はしあたけの夕立」はこの新大橋を描いたもので、後にゴッホが模写したことでも知られる有名な絵だ。「あたけ」というのは上記の幕府御舟蔵に、図体がデカすぎて持て余されていた御座船安宅丸(あたけまる)が繋ぎっ放しになっていたことから、俗に新大橋付近のことを「あたけ」と呼んでいたことによる。現代に広重と同じ構図を見ようとすると川縁のビルにでも上らなければ不可能だが、当時の新大橋はもう少し下流に架かっていたようだ。

        


少し道を進むと右手に芭蕉記念館というモダンな建物があり、脇にそれっぽい門が作られている。松尾芭蕉が最初に本所深川のあたりに庵を結んだのが延宝8年(1680)のことだという。その後火災に遭ったり奥の細道の旅に出たりしてして何度か建て直されているが、最後に深川を離れたのが元禄7年(1694)5月11日というから、浪士一行がここを通ったのはその8年後ということになる。

小名木川に架かる橋が満年橋で、松尾芭蕉が住んでいた古庵というのはこの北詰にあったらしい。おそらくこの小名木川から船に乗った芭蕉は墨田川(当時は荒川)を遡り「奥の細道」へ旅立った。向こうに見えているのは清洲橋で、芭蕉当時も赤穂浪士の引き揚げ当時も無かった橋だ。小名木川は堀割水路として開削された川なので、船の運航に支障がないように少し高い位置に橋が架かっていたため、富士山の眺望が良い名所として知られていた場所だそうだ。満年橋を渡って右折、墨田川の川縁を進むが周囲は工場や配送センターのような大きな建物が並ぶ。

        


満年橋から永代橋までの間、かつては堀割水路がたくさんあり下るにつれて上之橋・中之橋・下之橋と並んでいたが、現在は「かみのはし」というプレートの入った橋の親柱のようなモニュメントだけが残されている。上之橋が架かっていた水路は仙台堀で、この水路を遡っていくと木置場、つまり現在の江東区木場に繋がっている。よく江戸八百八町、大阪は八百八橋などと言うが、江戸時代の古地図を見ると江戸も八百八橋と言っていいくらいあちこちに橋が架かっている。


永代橋で隅田川を渡る。永代橋は元禄11年(1698)5代将軍綱吉の50歳を祝って架橋されたものだという。赤穂浪士が渡った頃はまだ架橋から4年ほどの新築ほやほやだったことになる。永代橋は隅田川の最下流に架かる橋で、「西に富士、北に筑波、東に上総、南に箱根」と称されるほど眺望の良い場所であったというが、現在は東西南北どちらを向いてもビルばかりだ。江戸時代当時はもう少し上流に架かっていたそうで、下写真の↑付近、現在の日本橋箱崎町あたりだと思われる。

        


永代橋を渡って右折、豊海橋を渡って箱崎町に入る。隅田川に注ぐ川は日本橋川で、この少し上流の日本橋小網町付近が行徳船の発着する行徳河岸があったところ。日本橋川に沿って歩き出すと右手に「日本銀行創業の地」という記念碑があった。明治15年10月10日に日本銀行が創業したのはこの地だったそうで、明治29年に日本橋石町の現在地に移転するまでここで営業を続けていたのだとか。左折して湊橋を渡る。右手の亀島川を挟んだ向こうは八丁堀だ。町奉行所の組屋敷がずらりと並んでいる場所である。赤穂浪士一行もちょっとひやひやしながら歩いたかもしれない(笑)

亀島川を高橋で渡って左折、すぐに稲荷橋を渡ったはずだが現在は埋め立てられて橋はない。かつては正面に橋の名前の由来である鉄砲洲稲荷神社・通称鉄砲洲浪除け稲荷があったが現在は移転されて200mほど先にある。この稲荷神社が江戸湊の出入り口にあたり、海陸輸送物資の積み卸しで賑わった場所だという。湊町1丁目の交差点を越えた先の左手に移転された鉄砲洲稲荷神社があった。境内の案内板には「西北隅には富士塚があり・・・中略・・・江戸名所図絵にも描かれた有名なものでした・・・区内唯一の富士信仰の名残をとどめている点から、中央区の文化財に登録云々」と書いてあったが、神社が移転したのは明治元年のこと、富士塚まで移転したとも考えにくい。ぐるっと境内を見ても富士塚らしきものは見あたらなかったので、富士塚だけは元の場所にあるということなのだろうか?


佃大橋へ続く道を渡れば明石町、浅野家上屋敷はもう目と鼻の距離である。築地鉄砲洲の赤穂藩浅野家上屋敷は現在の明石町・聖路加看護大学から聖路加国際病院にかけての一帯で、敷地は約8900坪、㎡じゃないよ、坪だよ(笑)吉良邸なら三つと半分入る。旗本4千2百石と大名5万3千石の違いだろうが、これでも大名の上屋敷としてはさほど大きな部類ではない。

聖路加看護大学前の植え込みの中に「浅野内匠頭邸跡」の石碑が建っていた。浅野家改易の後ここは若狭小浜藩酒井籾負邸になっていたそうだが、浪士一行がここまでやってくると東側に隣接していた丹後宮津藩奥平大膳太夫中屋敷の門番・番士に「何れもあしき体に相い見え申候」と誰何された。
「十五日の朝六ツ過に御門前通り申候 其節御門前敵討の者有之由 下々申候間早速罷出候処に 内匠頭殿家来二十人許にて鑓・長刀・さや無御座候・・・中略・・・装束は黒き小袖・半着物一同に着申候 鑓・長刀・太刀・着類等にも血付申候」
討ち入り後の一行の様子が生々しく書き残されている。奥平家の家臣・桜井惣右衛門という人物が応対に出て、
「酒井靱負様前通り候時分何者やらん怪き者と見へとがめ申候、奥平熊太郎様御門前を通申候節侍らしき者一人罷出怪敷体にて通申候間委細申間可申由申候に付右の段々申罷通り候由申上候・・・中略・・・ばつと江戸中取沙汰仕候、尤も内匠頭殿御家来拙者承り申候節拙者名を聞申候間名のりきかせ申候、奥田孫太夫と申候、存の外成時節に出合上々様下々迄拙者名を知られ申候、一分の大慶御家の御外聞能御座候て喜悦仕候・・・」
いいところに出くわして自分の名前は有名になるし奥平家の評判は上がるしで、こんな嬉しいことはないと書状に書き残している。これ以後あちこちの大名屋敷前で「怪しいやつらだ」と不審尋問?を受けるが、無理に押し止められるようなことはなかったようだ。



かつては築地川の堀割水路が流れていたところが現在は築地川公園になっている。距離的にはちょうど半分くらい来たことになるだろうか、とりあえず一休みしよう、11:35、日射しがあるのでそれほど寒さは感じないが、逆にこれ以上気温が上がると汗が出るので、この季節としてはちょうどいいくらいかもしれない。

築地川公園に沿って進むと築地本願寺に行き当たる。ドーム型の尖塔が寺院というより西アジアの遺跡みたいに見える。当初本願寺は浅草にあったが、明暦3年(1657)の振り袖火事で焼失、大火後の幕府による区画整理で旧地への再建が許されず、替え地として下付されたのが八丁堀の海上だったという。埋め立てた土地に本堂を再建したのが延宝7年(1679)のこと、築地という地名そのものがこの埋め立て工事に由来するものだという。当時は正面が西南側を向いていたそうだが、関東大震災で倒壊した後、現在見られるような古代インド様式の石造寺院として再建され、正面も西側に改められたものだそうだ。浪士一行は本願寺前から現・晴海通りへと出る。



昭和通りに出る右手に歌舞伎座、浅野内匠頭の弟・浅野大学長広の屋敷跡である。この築地本願寺から歌舞伎座へかけて現在の晴海通りを行く間、赤穂浪士一行は相当緊張感が高まったに違いない。と言うのは、この現・晴海通りを真っ直ぐ1kmほども行けば外桜田の上杉家上屋敷があるのだ。つまり浪士一行は上杉家上屋敷にどんどん近付いていく格好になるのである。現在はビルや高速道路などで見通しが利かないが、古地図で見ると現・歌舞伎座の先は町屋が続いていたようでさほど大きな建物もなかったろうから、かなりのところまで見通せた筈だ。浪士一行の動向が上杉方に伝わっているとすれば、襲撃・待ち伏せをかけるには都合のいい位置関係なのである。



実際に赤穂浪士吉良邸討ち入りの一報が入ると上杉家では十分な人数を手配し、いつでも出動できる態勢を整えていたという。第二報で吉良上野介が討たれたことを知り、上野介の首級奪還の報復攻撃に出ようとしたが、既に浪士一行は吉良邸を立ち去っており、行き先が掴めないまま待機を続けているうちに幕府から「赤穂浪士の処分は幕府で行うから上杉家は手出しすることあいならぬ」旨の通達が届いてしまったという。もしこの時、浪士一行が上杉家屋敷に近付いていることが上杉側に伝わっていたら、歌舞伎座付近で迎え撃ったことは十分に考えられる話である。吉良邸討ち入りはある種不意打ちに近いが、もしも上杉家の襲撃部隊と激突していたら双方共にやる気の集団であるからして、ほとんど戦争と言っていいくらいの斬り合いになっていただろうことは想像に難くない。

TVドラマなどでは上杉綱憲が槍を抱えて救援に駆けつけようとするのを、家老の千坂兵部・色部又四郎が止めたというお馴染みのシーンだが、実際には千坂は数年前に亡くなっており色部も当日は父の法事で出仕しておらず、老中からの出兵差し止め命令を伝えにきた畠山某が綱憲を止めたのだとか。これに限らず忠臣蔵の話には事実と違っていろいろ脚色が施されているのだが、現在と違って著作権などという面倒くさいものがなかった時代のことだ、年を経るにつれて脚色がなされ現在のような洗練された形に進化していったのだろう。

どうでもいい話だが、吉良邸から上杉家上屋敷へ赤穂浪士討ち入りを知らせたのは吉良邸を脱出した足軽門番だったそうだが、門番はどの道を通って上杉家まで走ったのだろう?古地図を見ると両国橋を渡って旧日光街道を通るか、その一本北の現・江戸通りから常磐橋か呉服橋を渡り、八代洲河岸・現在の日比谷通りを通るのが近そうだが、このコースだと常磐橋御門か呉服橋御門のどちらかと日比谷御門を通らなければならないことになる。これらの御門は江戸城に通じるところからそれぞれ枡形門があって、厳重な警備が行われていた筈なのだ。

赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったのが午前3時から4時頃、討ち入り直後に門番が脱出したとして御門に差し掛かる頃はまだ夜明け前である。御門や木戸は明け六つにならないと開門しない筈だから、いかに門番が「天下の一大事でございます!」と事情を説明したにせよ、それで「はいそうですか」と門を通すようなら門の意味がない。おそらく事情説明やら事実確認で、門を通過するまでに相当の時間がかかったのではないか。

閑話休題、昭和通りに出たところで左折、新橋・汐留方面へ向かう。ちょうどサラリーマンの昼食時で人の姿がやたらと増えてきた。江戸時代当時は木挽町の5~6丁目といったあたりで、浅草猿若町に移転する前の芝居町がここにあった。歩道橋の下に「建物の礎石(汐留遺跡)」という案内板があり、何の変哲もない石が半分埋まっている。仙台藩伊達家の上屋敷御殿土台に使われていた礎石だという。古地図で見ると、現在首都高速環状線の通っているところが堀割水路になっており、水路に架かる汐留橋の手前が奥平大膳太夫上屋敷、橋を渡ったところは脇坂淡路守上屋敷があったところで、伊達家上屋敷はその先になっている。建物の礎石がそのままの位置にあるとすれば奥平邸か脇坂邸の礎石のような気がするが、何か考古学的な裏付けのある案内板なのだろうか?

やけに長い歩道橋を上ったり下ったりして道路を渡る。この付近に汐留橋が架かっており橋の南詰あたりで吉田忠左衛門と富森助右衛門の2名が、大目付仙石伯耆守屋敷へ自訴するため隊列を離脱した。旧新橋ステーション前に出る。旧東海道を歩いた際、2006年の3月に見た建物だ。間もなく2年ほどになるがずいぶん昔の出来事のような気がする。

        


道は国道15号・旧東海道へ出る一本手前で左折、汐留の再開発地域で大きなビルが建ち並んでおり、途中の太い道路と交差するところに信号がなく、デカい歩道橋のようなところを上っていったら「ゆりかもめ」の乗り場みたいなところへ出てしまってちょっとうろうろした。この付近は江戸時代当時は大名屋敷が並んでいた通りで、左手の日本テレビ前には「仙台藩上屋敷表門跡」の案内板が建っていた。それによると赤穂浪士一行はここで粥のもてなしを受けたと書いてあるのだが、別の資料によると、仙台藩の足軽門番と「通せ・通さぬ」の押し問答の末揉み合いとなったと書いてある。後に赤穂浪士の討ち入りが有名になったため、仙台藩も赤穂浪士を大切に扱ったんですよという後出しジャンケンのような気がしないでもない(笑)

JR高架線路をくぐったところで討ち入りコースから一時離れ、田村右京太夫邸跡を見にいくことにする。元禄14年3月14日、江戸城松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ浅野内匠頭は奥州一関藩・田村右京太夫邸にお預けとなり即日切腹の処分が下された。現在の住所では新橋4丁目にあたるとのことだったが、これがなかなか見つからない。付近は高速道路だか地下鉄だかの工事をやっており、あちこち工事用のフェンスやらシートで覆われ、どこに跡碑が建っているものやら見当がつかないのだ。そうこうしているうちに「忠臣蔵 切腹最中」という幟を立てた和菓子屋さんを発見、この和菓子屋さん自体がかつての田村邸跡に建っているとのことで「浅野内匠頭終焉の地」碑は更に西へ進んだ日比谷通りに建っていると教えてもらった。


一関藩田村家は所領3万石、そもそもは仙台藩伊達家の支藩で一族である伊達兵部宗勝が治めていたが、伊達騒動で廃藩となり後に田村家が3万石で入封し代々右京太夫を名乗った。浅野内匠頭は江戸城で一応の取り調べを受けた後、田村家にお預けとなり、この屋敷で切腹ということになる。大目付の指示とはいえ5万石の大名を庭先で切腹させたということで、後に赤穂贔屓の人たちからかなり非難されたようだ。切腹の後、片岡源五衛門ら江戸詰の赤穂藩士が田村家裏門で内匠頭の遺骸を引き取って泉岳寺へ運んだ。この田村家裏門が杉並の東運寺に移築されて現存しているという。その肝心の田村右京太夫邸だが、浅野内匠頭終焉の地と刻まれた石碑が何故か車道側を向いて建っており、うっかりすると気が付かずに通り過ぎてしまいそうだ。碑の前に田村碁盤店というお店があったが、右京太夫さんに関係ある苗字なのだろうか?


引き揚げコースに戻って通りを南下、金杉橋で国道15号・旧東海道に出る。橋の袂に小公園があり一息入れることにする、12:55、ちょうど昼休みの最中で、天気が良いこともあるのか付近のサラリーマンが公園に大勢いてタバコを吸ったり缶コーヒーを飲んだりしている。最近はどこの会社でも建物内は禁煙、都心部の区では歩きタバコ禁止などの規制で喫煙家は肩身が狭いようだ(笑)

10分ほどでスタート、ここからは旧東海道になるので昨年(2006)通った見覚えのある通り・・・と言いたいところだが、前後左右似たり寄ったりのビルばっかりで見覚えなんてあったものではない。右手のビル壁面にひょろ長い御田八幡神社の看板?が見える。10階建てビルの上から下まで使ったデカい看板である。この神社前で赤穂浪士の盟約から脱退した高田郡兵衛が祝い酒を用意して浪士一行を待ち受けていたという説があるそうだ。「いやあご苦労さん、よくやってくれた、ワシも元同士としてハナが高い」と言ったかどうかは知らないが、一行は完全無視だったという。

札の辻交差点を歩道橋で渡り、さあもう泉岳寺は目の前だというところに高輪木戸の石垣が現れた。さすがにこれには見覚えがある(笑)赤穂浪士がここを通過したのは午前8時前後のことだった筈だから木戸はもう開いていたろうが、木戸の門番たちはどんな顔をして一行を見送ったのだろう。高田郡兵衛が待ち受けていたという話が本当なら、当然このあたりにも噂は伝わっていたことになる。ヒーローとして羨望の眼差しで見送ったか、或いは回向院の僧侶のように触らぬ神には祟りなしとばかり知らぬフリを決め込んだか、ちょっと気になる木戸風景ではある。

                    


泉岳寺交差点を右折すると泉岳寺へ向けて上り坂が待ち構えていた。距離にするとたかだか100mほどだが、今日のコースはほとんど平坦な道のりだったのでずいぶんキツく感じる。赤穂浪士も12km歩いてきた末の上り坂でアゴが上がったかもしれない(笑)

いよいよ泉岳寺だ。門前には土産物を売る店が数軒並んでいる。赤穂浪士煎餅や陣太鼓など討ち入りに因んだ土産物が見える。赤穂浪士だけでちゃんと商売になっているところが凄い。境内に入ると観光客らしい人があちこちに20人ほども見える。命日や討ち入りの日でもないのに人気あるなあ。国籍不明の外国人までいたのには驚いた。浅草や鎌倉などに外国人観光客がたくさんいるのは承知しているが、泉岳寺にまでいるとは思わなかった。泉岳寺は曹洞宗の寺で慶長17年(1612)創建と、このテの有名寺院としては比較的新しい部類に入る。寛永年間に焼失したが3代将軍家光の命で毛利・浅野など6家の大名により現在地へ再建された。討ち入り当時の川柳に、
 それまでは ただの寺なり 泉岳寺


左側の山門をくぐった一画に赤穂浪士47名と浅野内匠頭・同夫人の墓が並んでいた、13:35
 内匠頭様、吉良上野介の首の代わりに切腹最中を買って参りました(笑)
浪士一党の墓は戒名が刻まれており、案内図を見なければどれが誰の墓やら見当がつかない。墓の入口でお参り用に火のついた線香一束100円で売っており、まあ、別に私の身内とか親戚というわけではないが、せっかくここまで足を運んだことでもあるし線香の一束くらいは挙げていこうかと100円玉を取り出した。以前TVで赤穂浪士の墓地にお参りする人が絶えないというニュースで、線香の煙が火事みたいにもうもうと立ちこめていた光景を観た記憶があったのだが、幸い今日は墓地内には数人の人影が見えるだけで混雑しているというわけではなかったのでゆっくり回って見ることができた。

               


結局吉良邸跡から泉岳寺まで3時間半ほど、休憩時間や寄り道時間を除いても正味3時間程度はかかった計算になる。これでは上杉家からの追っ手がかかったら逃げ切れそうもない(笑)まあ、江戸時代には信号や歩道橋はなかったろうから今よりはスムーズに歩き続けられたにしても、2~3時間チャンバラを続けた後の12kmはきつかったろう。私なら歩きたくないとダダをこねたかもしれない(笑)


本日の歩行距離 約12㎞

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