JR両国駅から南へ下る形で吉良邸跡・現在の本所松坂町公園にたどり着いたのがちょうど10:00、公園は武家屋敷をイメージした海鼠塀で囲まれており大人3~40人も入れば満杯状態、よくもまあこんな狭いところに47人も、というのはお約束のボケで、討ち入り当時の吉良邸は敷地の東西凡そ130m南北65mほどで、2557坪・約8400㎡の広さがあったという。国立競技場の芝生面が107mの71mだそうだから、ほとんど遜色ない大きさである。元々吉良邸は呉服橋御門内の御曲輪内と言われる一等地にあったが、松の廊下事件の後、吉良上野介の隠居願いが許され、新興開発地であった本所松坂町に屋敷替えとなったもので、当時の感覚から言えば郊外を通り越して江戸市中の外という感じだったらしい。




満年橋から永代橋までの間、かつては堀割水路がたくさんあり下るにつれて上之橋・中之橋・下之橋と並んでいたが、現在は「かみのはし」というプレートの入った橋の親柱のようなモニュメントだけが残されている。上之橋が架かっていた水路は仙台堀で、この水路を遡っていくと木置場、つまり現在の江東区木場に繋がっている。よく江戸八百八町、大阪は八百八橋などと言うが、江戸時代の古地図を見ると江戸も八百八橋と言っていいくらいあちこちに橋が架かっている。

亀島川を高橋で渡って左折、すぐに稲荷橋を渡ったはずだが現在は埋め立てられて橋はない。かつては正面に橋の名前の由来である鉄砲洲稲荷神社・通称鉄砲洲浪除け稲荷があったが現在は移転されて200mほど先にある。この稲荷神社が江戸湊の出入り口にあたり、海陸輸送物資の積み卸しで賑わった場所だという。湊町1丁目の交差点を越えた先の左手に移転された鉄砲洲稲荷神社があった。境内の案内板には「西北隅には富士塚があり・・・中略・・・江戸名所図絵にも描かれた有名なものでした・・・区内唯一の富士信仰の名残をとどめている点から、中央区の文化財に登録云々」と書いてあったが、神社が移転したのは明治元年のこと、富士塚まで移転したとも考えにくい。ぐるっと境内を見ても富士塚らしきものは見あたらなかったので、富士塚だけは元の場所にあるということなのだろうか?
聖路加看護大学前の植え込みの中に「浅野内匠頭邸跡」の石碑が建っていた。浅野家改易の後ここは若狭小浜藩酒井籾負邸になっていたそうだが、浪士一行がここまでやってくると東側に隣接していた丹後宮津藩奥平大膳太夫中屋敷の門番・番士に「何れもあしき体に相い見え申候」と誰何された。
築地川公園に沿って進むと築地本願寺に行き当たる。ドーム型の尖塔が寺院というより西アジアの遺跡みたいに見える。当初本願寺は浅草にあったが、明暦3年(1657)の振り袖火事で焼失、大火後の幕府による区画整理で旧地への再建が許されず、替え地として下付されたのが八丁堀の海上だったという。埋め立てた土地に本堂を再建したのが延宝7年(1679)のこと、築地という地名そのものがこの埋め立て工事に由来するものだという。当時は正面が西南側を向いていたそうだが、関東大震災で倒壊した後、現在見られるような古代インド様式の石造寺院として再建され、正面も西側に改められたものだそうだ。浪士一行は本願寺前から現・晴海通りへと出る。
昭和通りに出る右手に歌舞伎座、浅野内匠頭の弟・浅野大学長広の屋敷跡である。この築地本願寺から歌舞伎座へかけて現在の晴海通りを行く間、赤穂浪士一行は相当緊張感が高まったに違いない。と言うのは、この現・晴海通りを真っ直ぐ1kmほども行けば外桜田の上杉家上屋敷があるのだ。つまり浪士一行は上杉家上屋敷にどんどん近付いていく格好になるのである。現在はビルや高速道路などで見通しが利かないが、古地図で見ると現・歌舞伎座の先は町屋が続いていたようでさほど大きな建物もなかったろうから、かなりのところまで見通せた筈だ。浪士一行の動向が上杉方に伝わっているとすれば、襲撃・待ち伏せをかけるには都合のいい位置関係なのである。

JR高架線路をくぐったところで討ち入りコースから一時離れ、田村右京太夫邸跡を見にいくことにする。元禄14年3月14日、江戸城松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ浅野内匠頭は奥州一関藩・田村右京太夫邸にお預けとなり即日切腹の処分が下された。現在の住所では新橋4丁目にあたるとのことだったが、これがなかなか見つからない。付近は高速道路だか地下鉄だかの工事をやっており、あちこち工事用のフェンスやらシートで覆われ、どこに跡碑が建っているものやら見当がつかないのだ。そうこうしているうちに「忠臣蔵 切腹最中」という幟を立てた和菓子屋さんを発見、この和菓子屋さん自体がかつての田村邸跡に建っているとのことで「浅野内匠頭終焉の地」碑は更に西へ進んだ日比谷通りに建っていると教えてもらった。
一関藩田村家は所領3万石、そもそもは仙台藩伊達家の支藩で一族である伊達兵部宗勝が治めていたが、伊達騒動で廃藩となり後に田村家が3万石で入封し代々右京太夫を名乗った。浅野内匠頭は江戸城で一応の取り調べを受けた後、田村家にお預けとなり、この屋敷で切腹ということになる。大目付の指示とはいえ5万石の大名を庭先で切腹させたということで、後に赤穂贔屓の人たちからかなり非難されたようだ。切腹の後、片岡源五衛門ら江戸詰の赤穂藩士が田村家裏門で内匠頭の遺骸を引き取って泉岳寺へ運んだ。この田村家裏門が杉並の東運寺に移築されて現存しているという。その肝心の田村右京太夫邸だが、浅野内匠頭終焉の地と刻まれた石碑が何故か車道側を向いて建っており、うっかりすると気が付かずに通り過ぎてしまいそうだ。碑の前に田村碁盤店というお店があったが、右京太夫さんに関係ある苗字なのだろうか?

いよいよ泉岳寺だ。門前には土産物を売る店が数軒並んでいる。赤穂浪士煎餅や陣太鼓など討ち入りに因んだ土産物が見える。赤穂浪士だけでちゃんと商売になっているところが凄い。境内に入ると観光客らしい人があちこちに20人ほども見える。命日や討ち入りの日でもないのに人気あるなあ。国籍不明の外国人までいたのには驚いた。浅草や鎌倉などに外国人観光客がたくさんいるのは承知しているが、泉岳寺にまでいるとは思わなかった。泉岳寺は曹洞宗の寺で慶長17年(1612)創建と、このテの有名寺院としては比較的新しい部類に入る。寛永年間に焼失したが3代将軍家光の命で毛利・浅野など6家の大名により現在地へ再建された。討ち入り当時の川柳に、
