富士川の合戦とは、伊豆で打倒平家を旗印に挙兵した源頼朝が関東の武士団の支持を得て、頼朝追討のために下ってきた平維盛率いる7万の平家軍と決戦するはずの戦いだったのである。

そもそも源頼朝に打倒平家などと挙兵する意志があったのかどうか?事は当時源氏の武将として唯一平清盛方についていた源頼政が、後白河上皇の第二皇子以仁王に謀反を勧めたのがきっかけということになっている。だいたいが第二皇子で「王」ってのがヘンだ。普通なら親王が本当の肩書きになるはずである。しかもこの以仁「王」が全国の源氏系関係者に平家打倒の令旨を出したという。本来「令旨」は皇太子の肩書きを持った者が出す命令書のことである。

それはともかく、この源頼政・以仁王の倒幕計画は杜撰なもので、あっという間に平家側に漏れてしまい、宇治川であっさり敗れて頼政は自害、以仁王は逃れる途中流れ矢に当たって命を落としてしまう。こうして発行責任者がいなくなった打倒平家の「令旨」だけが全国各地の源氏系関係者に到着するという妙なことになってしまうのだ。

この令旨が源頼朝に届いた時、頼朝は挙兵する意志などなかったのである。ところが令旨の存在は早くから平家側に知られており、いずれは頼朝のところにも追討の軍勢が押し寄せること必至の状態だったのだ。黙っててもいずれはやられる状況だったのである。つまり頼朝は「窮鼠猫を噛む」の窮鼠状態で挙兵したわけだ。

手始めに伊豆の目代山木兼隆を討つが、この時の頼朝軍の主力は北条時政一党で、山木邸に討ち入った攻撃部隊から応援要請が来たので、頼朝のそばにいた予備兵力を応援に走らせたら、頼朝のそばには誰もいなくなってしまったという。この時に走らせた予備兵力というのが2騎なのである。これから考えても頼朝軍の総兵力は100人程度ではなかったろうか。現に山木兼隆を討った後、近隣の豪族が頼朝の陣に駆けつけ兵力が増えるが、それでも300騎だったのだ。

源頼朝挙兵の知らせを受けた平清盛は、頼朝軍の勢いがつかないうちに急ぎ追討軍を編成し嫡孫維盛を大将に据え、副将には息子忠度をつけて3万の軍勢を揃え9月20日に京都を出発、途中各地で平家方の兵士を味方に加え、10月18日駿河国興津に到着する頃には7万の軍勢に膨れ上がっていた。平維盛は平清盛の孫でこの時23歳、19歳の折り後白河法皇の50歳祝賀の時に披露した舞の美しさから桜梅少将と呼ばれ、光源氏の再来とまで言われたほどの美形だったという。

維盛はこのまま軍を進めて足柄山を越え板東、つまり関東で頼朝軍と決戦するつもりだったが、参謀格の平上総介忠清が長旅による疲労と寄せ集めの軍勢であるところの不安からここで後続を待つべしという主張に押し切られ、富士川に陣を敷くこととなる。

そうこうしているうちに頼朝軍に参加していた常陸源氏佐竹忠義の家来が、主人の手紙を持って京都へ向かっていたところ平家軍に捕まってしまい、平忠清が頼朝軍の情勢を尋ねたところ、「野や山は軍勢で埋め尽くされており、黄瀬川で人に聞いたところでは総勢20万とも言っていた」と告げたものだからさあ大変、平家軍はすっかり及び腰になってしまった。

戦で軍勢を誇大に伝えるのはよくあることだが、それにしても20万は多すぎる。石橋山で敗れた時が300騎、その後海路安房に逃れて千葉常胤や上総介広常をはじめ関東武士団の味方があったにせよ、富士川で平家軍と対峙する頃には多くても平家軍と同じくらいの兵力だったのではないか。

大将の維盛も予想外のことに驚き、陣中にいた斉藤別当実盛を呼んだ。斉藤実盛は元々源氏に従っていた武蔵国の板東武者で、自分の領地の支配者が平家に変わったため平家軍に加わっていたのである。
「お主ほどの弓の強い武者は板東にどれほどいるか」と維盛が尋ねたのに対し実盛は
「御大将は実盛の弓が強いと思っておられるが、たかだか十三束の矢にすぎません」
束というのは弓の長さを表す単位のことで一束は人の拳一つ分の長さにあたり、当時は十二束の長さが標準であったという。長さが長いほど力も必要となり矢の威力も増すことから、長い弓を引ける者ほど強者として認められていた。
「弓が強い者というのは十五束以上の弓を引く者のことで、自分ほどの者は板東にはいくらもおります。また板東武者は馬に乗れば落ちることを知らず、難所を走っても馬を転ばせたりはしません」
「板東の戦いというものは親が討たれようが子が討たれようが、その死骸を乗り越えて戦うものです。西国の戦いでは親が討たれたといっては孝養し、子が討たれたといっては嘆き、夏は暑い冬は寒いと言って戦を嫌うのとは大違いです」
何度も実戦の修羅場をくぐってきた実盛の言葉である。貴族化して実戦経験の少ない平家軍の幹部は実盛の話ですっかり震え上がってしまった。

戦が近いことを察した近在の百姓らが付近から離れ、野や山に非難してその場で炊事の火を焚いたところ、平家側から見ると富士川の対岸に源氏の大軍が進撃の準備をしているように見えた。斉藤実盛の話が下敷きになって益々疑心暗鬼の平家軍である。10月23日の夜半、翌日の開戦に先立って甲斐源氏の武田一党が富士川上流を渡って奇襲攻撃をかけるため迂回していると、その気配に驚いた水鳥が一斉に飛び立った。そうでなくても斉藤実盛の話を聞いてビビっていた平家軍である。真っ暗闇の中で響く水鳥の羽音を源氏の総攻撃と思い込み、我先にと逃げ出してしまったのだ。

「弓取るものは矢をしらず、矢取るものは弓をしらず、人の馬には我乗り、我が馬をば人に乗らる。或はつないだる馬に乗って杭をめぐることかぎりなし。」

頼朝軍の本陣でも対岸の大きな音は聞こえたが、平家軍の敵前逃亡には気付かなかったらしく、翌朝全軍で富士川の河原に押し寄せ鬨の声を挙げてみたが反応がない。戦闘らしい戦闘もしないまま敵が逃げてしまったのである。頼朝軍の呆気ない勝利であった。

・・・と、平家物語に書いてあるのである。平家物語というのは「盛者必衰の理をあらわす・・・おごれる者は久しからず」というくらいで、平家の隆盛から滅亡を主題にした話だから、ことさら平家のダメさ加減を強調して書いてあるのだが、斉藤別当実盛にしてからがこの戦いには参加していなかったというのが定説になっているくらいで、単に平家軍をビビらす役として登場しているだけなのである。いずれにせよ戦闘らしい戦闘は行われなかったのが歴史上名高い「富士川の合戦」なのであった。


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富士川の合戦