観察と感想100・菊地惠善の哲学ノート © 2008 Eiyoshi Kikuchi

1

学校、仕事、恋愛、子育て、病気、趣味等々、人生のあれこれの話題については、その情報や知識が世の中に出回っている。しかし、不思議なことに、人生そのものについては、それを正面から問題にするものはほとんどない。あるとすれば、過去の偉人の、波乱に満ちた生涯のドキュメントのようなものばかりである。普通の人の、誰もが同じように経験する一般的な人生が、全体として取り上げられることがない。人生のあれこれではなく、人生そのもの、生きていることそのことについて、多くの人は一体どのように考えているのだろうか。例えば、性についても、語られるのは性行為についてばかりであって、人生における性はほとんど語られない。しかし、こちらの方がはるかに興味深いし、重要であると思われる。人が人生を語らないのは、人生の経験を積むうちにいつしか、これがおよそ人生というものなのだろうといった、諦念の入り混じった見極めをつけてしまうからなのだろうか。そこで結局、「人の皆行ふことで人の皆言わないことがある」(鴎外)ということになるのだろう。人は皆それぞれの人生を生きる、しかし、その人生を語らない。一度きりの人生で、驚きに満ちた経験である(あった)のに、不思議である。(1111日)

2

頭がよい人は、何か問題を見ると、すぐにその答えを知りたがり、問題と答えを丸ごと理解して片付けようとする。決して問題そのものに立ち止まり、その答えを自分で探し出そうとはしない。頭がよい人はこうして、何でも理解するが、自分では何も考えない人間になる。

3

NHKの夜7時のニュース番組。ニュース番組は、その日の出来事を正確に速く伝えるのが使命であるにもかかわらず、番組初めのヘッドライン紹介で、「誰それさんが何々に参加しましたが、さてその結果は…」といった仕方で、話題を頭だけ出して、その結果は後に回すという番組構成が頻繁にされるようになった。最初に視聴者の興味を掻き立てて、その結果を知りたいという期待によって番組の視聴率を上げようとする、ディレクターの魂胆がありありと見て取れる。でも、これはニュース番組である。最初に「誰それが何々に参加しましたが、2位でした」と結果も含めてヘッドラインで報道すべきである。視聴率を上げるために視聴者を待たせる「タメ」(業界用語)を作るのは、できる限り止めるべきだと思うが、どうだろうか。

ある番組(民放)では、一つの話題を二つに分けて、その間に別の話題を丸ごと割り込ませて、番組の最後にようやく、その分割された話題の結末を流していた。これは視聴率を稼ぐために究極の演出である。できるだけ長い時間、できればその番組全部を見てもらおうとする商売上のテクニックであるとしても、あまりに視聴者をバカにしている。また、二時間ドラマとか映画とか長い番組では、その番組の最後の15分くらいになると、番組が細切れにされて、コマーシャルが頻繁に流されるというテクニックも使われる。作品の鑑賞とスポンサーの宣伝効果とのバランスが失われ、宣伝のために作品がずたずたに切り刻まれているのである。このような演出やテクニックばかりやっていると、テレビを見る人はますます少なくなるに違いない。いや、もう既に視聴者が減っているので、こういう末期的な状態になっているのかもしれない。もっとも、これだけテレビ局とテレビ番組が多ければ、テレビが飽きられるのは当然であるとも言えるだろうが。

4

よりよいものを作ることと、その作ったものを売って生計を立てること、この二つのことが二律背反の関係に置かれていること、これが現代の資本主義、貨幣経済の難問である。少数の高級ブランド商品はこの難問をクリアできても、日常品の場合には、過度の価格競争はこの難問を一層激化させる。ウナギ、牛肉、餃子、米など、食品偽装が起きるのは、単に個人や企業のモラルの問題ではなく、より多くは経済システムの問題である。モラルを問題にすることは、たとえそれが正しいにしても、背後にあるシステムの問題を見えなくさせる。モラルの観点は分かりやすいがために、人間の眼を覆い隠す邪魔者である。正直に誠実に商売をやろうとしても、それで商売が成り立たなければ、仕事にならないのである。誰もが知っているこの冷徹な現実を、誰もが問題にしないのは一体なぜだろうか。

ひとは他人に対しては、事柄をモラルの問題として理解して済まそうとする傾向がある。それを自分の問題として考えると、単にモラルの問題だけでは片付かないことを知っているからである。こうしてモラルは、自他の間で決して公平でもなければ対称でもない。かのイエスは当然このことを知っていた。イエスは言った、「自らを省みて恥じることのない者は、この女に石を投げるがよい。」イエスはモラルの限界と欺瞞を知っていたのだ。(1110日)

5

テニスでもゴルフでも野球でも、一つのボールの打ち方を覚えるまでには、何千回何万回と乱打を繰り返さなければならない。そうやってようやくコツを摑むのである。

6

総額2兆円の特別給付金。広く、薄く、しかもたった一度きりのためにこれほどの税金をばら撒くのは、どうしてもやはり、政府与党の選挙対策としか理解できない。まとまったお金は、まとまって使ってこそ効果のある目的のためにこそ使うべきではないか。実際に例えば、100人に一万円ずつ配っては誰も助からないが、50万円、30万円、20万円必要な人3人に配れば、確実に3人は助けることができる。平等や公平の理念は、それを杓子定規に厳密に適用しようとすれば、その理念自体を損なうのである。

7

一個のリンゴを描くことと一本のリンゴの木を描くのとはおのずから違った手法が必要になる。また、一個のリンゴを描くことと自然の風景や街並みや人間を描くのとでも、描写の手法は違ってくる。題材によって描法は違ってきて当然である。もし何でも描ける技術があるとすれば、それは一体どういう技術だろう。ものは何でも同じように存在し、同じように表現できるものなのだろうか。(119日)

8

だってみんな人間だもの、といった相田みつを風、あるいは、人間みんな違ってみんないい、といった金子みすず風、このような人間と人生の素直過ぎる真実を素直に表現した作品があれやこれや世の中に蔓延っている。相田みつをや金子みすずは確かに、独創的で、その内容も真実で、それを表現する動機も率直だったかもしれない。きっとそうだろう。しかし、それを模倣する人間たちは、たとえそれが身障者だったり、犯罪者だったり、フリーターだったりしても、模倣者である限りにおいて、表現の動機も、表現の内容も不純である。マスコミは、そして大衆も、そうした模倣行為を、彼らが何らかの意味において不利な立場にあることに遠慮して、大目に見て、場合によってはわざとらしく賞賛したりさえもする。これは逆差別である。いかがわしい「おべっか(こびへつらい)」である。模倣である点において、しかもそれを売り物にする点において、それを厳しく糾弾すべきである。君のやっていることは他人の真似で、下らないと。これは彼らには酷だろうか。いやそんなことはない。もし彼らが健常者で、普通の職業人であるならば、当然、そのような欺瞞に付き合っていないはずだからである。ヒューマニズムを売り物にするのは、ともかく嫌らしい。

9

さまざまな現れを通じて存在し続ける同一なもの、すなわち、何かある自同的なものを定立することが理性の本質な機能である。それをハイデッガーは「理性の創作的(試作的)本質」と呼んでいる(『ニーチェ』第3講義「認識としての力への意志」)。

(1) 一本の白樺の木であれ、一つの建物であれ、その見える姿は多様な射映的現出であり、一本の白樺の木そのもの、一つの校舎そのものが見えるわけではない。しかし、それにもかかわらず、私たち人間は、それらの射映的現出を取りも直さず、一つの対象、同一的存在者の現われとして見る。これはあまりに一般的な作業であり、何の困難もなく成し遂げられてしまっているので、取り立てて特定の能力の所産であると気付かれてもいない。E1E2E3、…と現出が連続していくうちに、私たちは、それを対象Aの現われとして、すなわち、[A]={a1a2a3、…}と捉える。左辺の[A]は直接現象しない、現象するのは右辺の{a1a2a3、…}である。

(2) さて、この場合、どちらが本当に存在するものなのだろうか。私たち人間は、Aという自同的な存在者を存在すると考えるのではないだろうか。だがしかし、この場合注意すべきは、それが上記右辺の現象を超越するものとして定立されたものだということ、つまり、左辺と右辺とは水準を異にするということであり、また、左辺の超越的な存在者は理性が定立するものだということである。

(3) 事情が以上のようであるとすれば、「存在」とは何かを問う「存在」への問いは、どう理解できるだろうか。「存在」とは何かという問いは、時に、あるいは、しばしば、究極的に存在するもの(存在者)は何かという形で問われることがあるが、このような形で「存在」を問うとすれば、決してそのような「存在」あるいは「存在者」は見出されるはずはない、と答えられなければならない。なぜなら、「存在」とは、自同的「存在者」を定立する理性の機能のことだからである。また、この理性の機能は、常に、多様な現出の蓄積に対して、後から(最初の現出からすれば常に後から)自同的な存在者を探す作業として発動されるのであるから、それをあらゆる物事の起源(Ursprung)や始源(Anfang)であるかのように想定することは明らかに間違いであると言わなければならない。(117日)

10

雑草や樹木でも、あるいは昆虫や鳥獣でも、生物の形態や生態は一般に、自然の変化に対応するように巧妙に出来上がっている。オオバコ、カタツムリ、カッコウ、その他何であれ生物は、気候の変化や自分の食べる餌や自分を襲う捕食者などとの関係を自分の生存の条件として組み込んでいる。ということは、生物は自然の恒常性や安定性を大前提にしているということである。したがって、反対に、自然に急激な変化が生じた場合にはそれに対応できず、絶滅せざるを得ないということである。

11

宇宙船の中で眼を覚ますと、窓一杯に広がる大きな地球の姿が眼に飛び込んできた。太陽の光を受けた地球は光り輝いていた。地球の表面は、その大部分が青い海であり、ところどころにインドのナンのように歪な形の陸地が散らばっている。青い海に比べてその陸地は赤茶けていて、緑の部分はひどく小さい。その緑の部分には時々線状の筋が光って見える。あれは川であろう。そのような地球の表面の模様は、その上に薄く広がるベールによって覆われている。雲である。そのベールは衣紋のような襞を作っていて、宇宙船から見た地球はとても美しかった。だが、生き物がいるかどうかはまるきり分からない。果てしない漆黒の闇の中を太陽の光に照らされながら動いている地球には、生物の姿など全く見えないのだ。宇宙船から見た地球には、人間がいることも、その人間が長い歴史を生き続けてきたことも眼では確かめることができない。それに気付いた時、私は宇宙大の孤独を感じた。(116日)

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本物を知っていれば偽物に騙されない。そばでも豆腐でもラーメンでも。同様にして、芸術でも学問でも人間でも。

13

高い金を払ってものを買うから、ものを見る眼が鍛えられる。だとすれば、安い金で偽物を摑まされても、それは当然と言えば当然である。安い金で本物は買えないはずだからである。このような常識が現代では失われている。

14

ジョークは礼儀と本音の交錯させるところにその妙味がある。両者を別々にし、礼儀を貫く場面と、本音を吐露する場面を棲み分ける日本人はしたがって、ジョークが苦手である。

15

私たち人間は空間を移動する。そこで、どこへ行っても、自分の視点から世界を見ているので、その「自分の視点から見ている」ということにかえって気付かない。ところが、その同じ移動することによってこそ、自分は世界を「自分の視点から見ている」ということに気付くこともできるのである。この例からすれば、同じ条件が忘却の理由でもあれば、発見の理由でもあることになる。

16

ある対象がそれだけ単独であったとしたら、それがどれ位の大きさか、自分からどれ位離れたところにあるのか、あるいはさらに、それが本当にあるのかないのか(ないというのは、想像や記憶や幻想であるということであり、あることを現実とした場合に、それとの対比において言えることである)分からない。したがって、対象は他の対象との関係、それら複数の対象を相互に位置付ける一定の背景との関係において初めて、その存在が知られると言うことができる。

17

漱石の小説『こころ』。先生はなぜ自殺することを決意したのか。奥さんとの結婚に際して、同じく奥さん(お嬢さん)を愛していた友人を出し抜いて結婚を申し込み、その結果、友人を裏切ったことになり、その罪悪感から死を選んだのだとされている。先生本人がそう告白している。しかし、結婚して(恐らく)20年以上も経つ細君に対する関係よりも、20年以上前に自殺した友人との関係を優先するというのは、どうにも理解しにくいところがある。

友人を裏切ってお嬢さんとの結婚に成功した段階で、何も知らないお嬢さんに自分の卑劣な行いを正直に告白するのは、その罪の重さを感じる先生にとっても、そういう重荷をいきなり背負わされるお嬢さんにとっても、不可能であり避けられるべきことだったことは理解できる。(それを告白されていたとしたら、恐らくお嬢さんは結婚の申し込みを受け容れられなかったに違いない。)これに対して、結婚して20年以上も経つ細君については、自分だけ罪を背負って自殺するよりはむしろ、正直にかつての事情を告白することの方がよりよい選択であるように思われる。長く続いた幸せな結婚生活は、過去の恥ずべき行いを悔い続けること以上の重さがあるはずである。

先生はしかし、どうもそうは考えていないようであり、結局、先生は自殺の道を選ぶ。それほど先生にとっては結婚生活も、夫婦という男女関係も軽いものだったらしい。夫婦という人間関係よりも男同士の友人関係を重視するのが、明治の男性の一般的な価値観だったのだろうか。女性は男性がそれに対して誠実であるべき人間とは認められていなかったのだろうか。先生に細君よりも友人を選ばせた漱石は、一体何を言いたかったのだろうか。誰を選ぶかということではなく、誰かを選ぶことが必然的に他の者を差し置くことにならざるを得ないという人間の業を示したかったのだろうか。(115日)

18

「生きるとは、死のうとする何ものかを絶えず突き放すことだ」とニーチェは書いている(『悦ばしき知識』26)。ということは、ニーチェは、生きることを努力や戦いと感じていたということである。つまり、彼には、生きることをそのまま喜びと感じる積極的な体験や行為が欠けていたのである。生きるとは、ニーチェの言うように、努力や戦いそのものなのだろうか、それとも、(努力や戦いが必要であるとしても、それらが生きることのすべてではなくて)努力や戦いを超えたものなのだろうか。ニーチェも、この後の著作『ツァラトゥストラ』では、子どもの遊びを理想の境地と言っている。

19

現実であり真実だと思っていたことが、単なる「思い込み(ドクサ)」であり、自分たちが作り出した虚構だと知ったところで、その前と後では一体何がどう違うと言うのか。ソクラテスやニーチェなど哲学者の言うことは大衆には理解できないし、それと知ったところで全く意味がないと、ドストエフスキーの大審問官なら言うだろう。

20

所得が高額になると、生活もそれに合わせて高水準になる。すると、その生活を続けるために、ずっと高額な所得を維持し続けなければならないことになる。それがうまく行かない場合、高額な借金や負債が生じることになる。所得が多くなれば負債も多くなるのだ。

21

砂浜に小魚がたくさん打ち上げられていた。何かの稚魚らしく、幅5mm、長さ34cmほどの大きさだった。浜辺の近くで泳いでいて、いつしか浜辺に打ち寄せる波に運ばれて、砂浜に打ち上げられ、砂の上に取り残されてしまったらしい。この小魚を襲ったような不運は、生物ならば当然、他の生物にもよくある現象であろう。例えば、リゾート開発で都会の資金が大量に押し寄せた地方が、景気後退や流行の変化によって、その資金のすべてが引き潮のように引き返し、後は荒廃した残骸だけになるといった現象。

22

学問的研究がそれとして成り立つのは、その内容によってか、それともその手続きによってか。おそらく後者である。そうでなければ、これほど多くの研究者が研究者を名乗っていられないはずである。つまり、学問的な研究の手続きを踏んでいるので学術的な研究であるように見えるが、その内容はいたって平凡な、自分の思い込みでしかないようなものが大半なのだ。学者や研究者は、言わば始末に悪い群盲である。(自然科学は事情が異なるかもしれない。いや、やはり同じかもしれない。)

23

ジョン・ウー監督の最新作「レッドクリフPart1」。その中で、劉備・孫権の連合軍が、曹操の騎馬軍を亀甲紋型の陣形に誘い込んで闘うという戦術を取る場面がある。実際に、その戦術は功を奏し、堅固な陣形の中に閉じ込めた敵軍を徹底的に打ち破って連合軍は勝利を収める。だが、この戦術は自軍が敵軍より数において上回るのでなければ成り立たない戦術である。敵軍が多過ぎれば、それを取り囲むことができないからである。南下する曹操の大軍は水軍を多くして、地上軍は少なくしていたのだろうか。劉備・孫権の連合軍の偵察隊が、いち早くその地上軍の勢力と進路を探っていたのだろうか。あまりの大成功に少しばかり話がうま過ぎるような印象を持ったのは、決して私ばかりではないだろう。

それにしても戦闘や戦闘は、規模が大きくなればなるほど、その戦いは、人間を相手にした戦いではなく、虫けらを相手にした機械的な処理作業になるようだ。軍事的な戦術や戦法は、魚を取る漁法や獣を取る狩猟法と同じである。この恐ろしい事実をこの映画はまざまざと見せてくれる。関羽や張飛といった英雄も、あまりに超人的過ぎてまるで殺人マシーンのようである。(113日)

24

獲得形質は遺伝しないと生物の授業で習った。だが、トビウオは魚であるにもかかわらず、かなりの時間空を飛ぶ。(NHKによれば45秒が現在までに観測された最長記録だそうだ。)空を飛ぶための能力と構造を、トビウオは一体どのようにして獲得したのだろうか。それはやはり、最初に空を飛ぼうとしたトビウオの先祖から始まって、何世代にも亘って、何億匹というトビウオが空を飛ぶ練習を繰り返してきたからではないのか。(もちろん、トビウオは、スポーツとして飛行に挑戦したのではなく、自分を食おうと襲いかかるシイラの口から必死で逃げようとして海面の上に向かってジャンプしたのだ。)親から子へという2世代単位では遺伝しないかも知れないが、何万年、何兆匹という単位では、やはり獲得された形質は徐々に遺伝されていくのではないだろうか。突然変異でできた変種から環境に適したものが最善のものとして選択されて残ったというのは、無理なお話であるように思えるが、どうだろう。

25

荘子について四題。

(1) 荘子は万物の根源あるいは万物の運動全体を「道」と呼んでいるが、それはあくまで仮の名前である。根源あるいは全体は一つのものであり、あれこれのものではないとすれば、あれこれのものについてのものである普通の名前と同じ名前で呼ぶことはできないはずである。本来何かとして呼ぶことのできないものを便宜的に呼ぶことになれば、その名前は何でもいいはずである。例えば、ペットボトルとか、(ビールの)泡とか。なぜ荘子は、それを「道」と呼んだのだろうか。

(2) 世界や自然の中にあるあれこれのものではないが、それらのすべてに関与し、共通し、臨在するものが一なるあのもの、すなわち「道」であるとすれば、その「道」は任意のどれについても、それを見る眼がありさえすれば、洞察し把握することができるはずである。事実、荘子は、「道」は「屎溺」(知北遊篇)にも存すると述べている。(ハイデッガーは、その「存在」について、ここまで徹底して語ってはいない。「存在」はやはり、西洋人の彼にとっては何か超越的なものとして考えられているのだろう。)

(3) 荘子について、あるいは一般的に言って、何であれ何か思想や哲学について、それを知識や論理として理解することと、それを自分の見方や生き方として理解する(体得する)こととは、決定的に違うことである。それはちょうど、芸術作品について、それが名作であると知って鑑賞はしても、それに全く感動しないことがあるのと同様である。あるいは、ある芸術にずっと長い間親しんでいても、その作品を頭で理解しているだけで、それがその人の人格の奥底まで浸透していないという人間があるのと同様である。

(4) 荘子は人間的な価値評価から自由になることを説いている。しかし、これは、人間的な価値評価そのものを否定し廃棄することを意味するだろうか。例えば、小学校の運動会のかけっこで、順位を付けるのが格差に通じるので、順位を付けずに全員に「頑張ったで賞」をあげる、というようなことを意味しているのだろうか。このような措置は一見、いかにも価値評価を否定しているように見える。しかし、これは、価値評価から自由になるというよりも、価値評価を表面上見えないようにするだけの、事実の隠蔽であり、ごまかしである。かけっこでビリだった子どもはその時は救われるが、ビリだったという事実はただ隠されただけである。彼はその事実を受け容れて、それに耐えて、そこから自由になったのではなく、ただ一時的に隠された事実を一生負わされたに過ぎない。だから、多分、いやきっと必ず、荘子が人間的な価値評価の相対性を説き、それにとらわれない自由な生き方を説いた時、荘子は、価値評価自体を隠蔽しごまかすことをよしとはしなかったはずである。実際に、そのような表面的な価値評価のごまかしは、反対に、価値評価をそれとして認めないことによって、それにも拘わらず、価値評価を気にかけていることによって(気にかけているからこそ隠蔽し目を逸らそうとしているのである)、他人の下す価値評価に簡単に騙される危険を持っていると言えるだろう。そこで逆説的ながら、価値評価から自由になるためには、価値評価をそれとして認め、自分もまた物事を評価する厳しい眼を具えることこそが必要になると考えるべきである。いいもの、優れたものを正しく見極める眼を持っていれば、いい加減なものに騙されないで済むし、自分がたとえ劣っていたとしても、それを恥じる必要はさらさらなくなるはずである。否定とか自由とか言っても、それは単なるごまかしである場合もあるので要注意である。

26

ヘーゲルの主著『精神現象学』には難解な箇所が数多くあるが、「自己意識」の章、正確には「4自己自身の確信の真理」の次の箇所もその一つである。

......durch das Aufheben seines Andersseins; zweitens aber gibt es das andere Selbstbewußsein ihm wieder ebenso zurück, denn es war sich im andern, es hebt dies sein Sein im andern auf, entläßt also das andere wieder frei.(S.109)

この箇所の問題点は、下線を引いた部分である。「ihm」は一体何を指すのか。一番手に入れやすい翻訳である樫山欽四郎訳(平凡社ライブラリー)では、次のように訳されている。「自己意識は他方の自己意識に自らを取り戻させる。」(上220頁)訳文から見ると、樫山訳は「ihm」を「das andere Selbstbewußsein」に取っているようである、しかし、「他方の自己意識に自らを取り戻させる」とはどういうことを意味するのか、今一つ判然としない。そこで他の翻訳を参照すると、金子武蔵訳(岩波書店)では「自己意識は自分に他の自己意識を与え戻す(他の自己意識を再興する)」[記憶による]となっていて、「ihm」を「es(=Selbstbewußsein)」と取っている。また、最新の長谷川宏訳では「(自己意識は他の自己意識を)こちらに対峙させる」[記憶による]となっていて、非常に曖昧な意訳であるが、文法的には金子訳と同じ理解だと推測できる。

さて、ihm」は何を指すのか。@es」、Adas andere Selbstbewußsein」、そしてさらに考えられるのは、ベイリーの英訳のように(語順が違うのであるが)B「Anderssein」である。文法的な検討は一先ず措いて、「denn」以下の説明を読むと、自己意識は「他の自己意識の中にある自分の存在」、すなわち「他在(Anderssein)」を廃棄し、それによって他者、すなわち「他の自己意識」再び自由なものに放免する、とある。ということは、(一方の)自己意識が他方の自己意識の内にある「他在」を否定し廃棄すると、その「他在」がその自己意識に対して消滅するだけではなく、他方の自己意識にとってもその「他在」が消滅するという、同時的に生じる事態を言っていることがわかる。だとすれば、(一方の)自己意識は、その「他在」を否定し廃棄することによって、その同じ「他在」から「他の自己意識」をも解放することになる、言い換えれば、その「他在」を「他在」ではなくすることによって、それを自立した「他の自己意識」に戻してやる、ということになる。以上をまとめて訳せば、「自己意識は他在に再び他の自己意識(という自立した在り方)を戻してやる」とするのが一番妥当であるように思われる。つまり、Bに取るのがよい。これがこの小さな考察の結論である。(11月1日)

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道徳を度外視して考えると、世の中の現象はいろいろな解釈が可能になる。

(1) 例えば、一夫一婦制。この結婚制度では、夫の財産は一人の妻とその間にできた子に相続される。しかし、夫が有能で大金持ちであった場合でも、この制度の下では、財力にどんなに余裕があったとしても、それはその妻子だけに独占的に使われてしまう。そこでもし、妾(妻以外の女性)を持つことが許された場合を考えると、その男の資産は、妾やその間にできた子の扶養にも当然使われることになる。つまり、一夫多妻制が認められるとすれば、男の資産は複数の女とその子の扶養にも使われることになり、男の資産は複数の人間の福祉に使われることになるのだ。財力もあり、精力もあり、生活の面倒を見るだけの愛情もある男には、社会福祉の観点からは、一夫一婦制ではなく一夫多妻制を認めてもよいように思われる。そこで日本の歴史を振り返ると、日本でも明治以前は、あるいは戦前は、財力や資産のある男性が複数の女性と付き合い、それを養うことは、社会的に許容されてきたと思われるが、これは以上の理由からして、当然と言えば当然であると納得できる。

(2) イスラム教で一夫多妻制が認められているのは、その信者が砂漠の民で、女性が経済的に自立する道が閉ざされていたためであろうと推察できる。他方、日本で一夫一婦制が支持されてきたのは、農業をするには人手が必要であり、妻としての女性の労働力を必要としていたからであり、しかも、女性にとっても農家に嫁して農業に従事すれば最低限口に糊することができたからである。道徳は、決して単に道徳な根拠によって成り立つのではなく、ある特定の社会的な背景の下に合理的なシステムとして構築されるのである。

(3) 直系の男子、しかも長子が継承することになっている、現在の天皇の地位。これは一夫一婦制の下では到底維持しがたいものである。天皇家は代々男の子を生み続けなければないが、必ず男の子が生まれるという保証はどこにもない。直系だけではなく傍系にまで天皇家一族の範囲を広げて考えれば、男の子が生まれる確率は高まるだろう。しかし、そうなると、天皇家一族を国費で支え続けなければならず、どの範囲まで、いつまで国家が面倒を見るのか、おそろしく厄介な問題が出てくるだろう。そこで、反対に、天皇、皇太子に限って一夫多妻制を認めるということも考えられるが、これも国民全体の一般的なルールに反する措置で、例外を作ることになり、国民全体の反感を招くものと思われる。さて、どうするか。天皇制と一夫一婦制という二律背反に明快な解決策はあるだろうか。(カントの二律背反を研究しているカント学者よ、あなた方はこの現実の二律背反をどう解くか。) (1031日)

28

自分が電車で座っていると、眼の前に上司が現れ、声をかけてくる。しかし、隣は空いていない。さて、どうするか。やはり、自分が立って席を譲るか、あるいは、自分が立って上司と一緒に立ち続けるか、どちらかしない。─そう思いながら観察していると、彼、見知らぬ男性客は、私の予想通り、席を立って上司と一緒に立っていることを選んだ。

29

一世帯当たり6万円の特別給付金を支給します、しかし、3年後に消費税の税率を上げます。政府のこの景気対策は、まるで朝三暮四そのままである。つまり、差引勘定は同じなのに、最初に多くもらうと喜ぶだろうと、政府は国民を猿程度に考えたようにも思える。一世帯が6万円ずつ使えば、日本の景気は多少上向くのであればいいが、6万円は一度使えばそれっきりで、夏の打ち水くらいにしか思えないが、果してどうなのだろうか。

30

樽の箍が外れるように、人間の人格も箍が外れて壊れることがある。(1030日)

31

仕事も慣れれば、毎日が同じことの繰り返しである。30年間働いても、そこで経験することは同じようなことの繰り返しで、特別学ぶこともない。しかし、全く別の仕事で、全く別の人間環境の中に置かれると、毎日が緊張と興味の連続で、毎日が新しい経験の連続になる。そこで、30年間の人生よりも、その特殊な仕事をしていた1年の方が、格段に多くのことを学んだ人生だったということにもなる。─こんなことを、ある温泉場で一緒になった、退職したばかりの男性が話していた。彼は70近い老人で、数年前奥さんを失くし、その奥さんの写真を持って、週に一度ほど、あちこち温泉場を訪ね歩いているのだと言っていた。話し好きのようで、自分の話をするばかりで、こちらのことはほとんど聞こうともしなかった。

32

一個のカラスウリを描いても、ただの写生である。また、一本の菜の花を描いても、それもまたただの写生である。では、10個のカラスウリ(と葉や蔓)、100本の菜の花を精緻に描いたらどうか。きっと単なる「写生」ではなく、一つの現実を創造する「写実」になるだろう。単なる数の問題ではないとしても、写生が写実になるためには描かれるものの数も大きな問題になるのではないか。高島野十郎の「菜の花」や「カラスウリ」の絵を見ると、そんなことを考える。反対にしかし、落ち葉を数枚描いただけの奥村土牛の絵は、それだけで秋の雰囲気を髣髴させる名作で、必ずしも数の問題でもないとも思えてくる。数がどれ位になるかは、やはり、主題や表現方法によって違ってくるのか。

33

いじめや意地悪や嫌がらせや嫌味などは、軽いものから重いものまで幅広く存在する。病的なものや犯罪的なものは排除すべきだとしても、到底すべてを排除することはできない。また、全く排除してしまうとしたら、人間は自他の摩擦や軋轢を学ぶことができなくなるし、さらに、相手を傷付けるのを恐れて、言うべきことを遠慮しなければならないとしたら、誰も他人に教えられないし、他人から教えられなくなる。実際、「こんなやり方ではダメだ。こんないい加減な仕事をするくらいなら、もうやめてしまえ」と言わざるを得ない時がある。

34

(ニーチェが確か言っていたように)苦労を共にすると、同士に友情や愛情が芽生える。しかし、(映画「スピード」にあった台詞のように)苦労をきっかけにして始まった恋愛は、いずれダメになる。

35

松林の中の草叢にすこし入ってから林道に戻ると、ズボン一面にまるで剣山のように、紡錘型の草の種がたくさん突き刺さっていた。鋭く突き刺さっているので、手で払ったくらいでは全然取れない。一々指でつまんで毟り取るよりしかない。腹立たしい思いで毟り取っていると、あっという間に三十分が過ぎた。

ところで、このような草の種は、何かに突き刺さることで遠くに運ばれることを目論んでいるわけであるから、当然、何か動物を当てにしているはずである。それはウサギやイタチ、あるいは狐や狸かもしれない。しかし、人里近い林の中では、今ではそのような動物はいない。すると、この種の種を付ける草は、今では何を当てにしているのだろうか。生態を変えない植物は一体どのようにして環境の変化に対応しているのだろうと、大いに気になった午後の散歩であった。

36

実体の消失。──

(1)「実体」とは、同一性を保つものであり、その同一性によって他のものから区別されるものである。したがって、区別される限りにおいて、ものは別々のものとして存在し、逆に、区別されない限りにおいて、同一のものと見なされる。

(2) このような定義に従って現代社会を見ると、現代社会のあらゆる場面から、かつては実体と見なされていたものが、次第にその境界が曖昧になり、ものとしての存在を徐々に失っていっている、言い換えれば、いろいろな実体が消失しつつあるように思われる。それは例えば、学校、会社、家族、土地、お金、国家などである。

(3) 学校は統合や廃校によって、あるいは名称の変更によって、母校という連続性は簡単に失われる。会社もまた、買収や合併によって変化するし、転勤や配置転換によって自分の仕事も簡単に変化する。家族もまた、かつては土地に根差し、血縁に繋がり、延々と歴史を貫いて連続して来たものであったが、今では両性の合意によって、夫婦も親子も仮初の関係を営むだけになっている。お金は、かつては金銀財宝といって所有物の典型であったが、今では銀行口座の通帳に記される数字やカードでやり取りされる計算になってしまい、文字通り名目だけの存在になっている。携帯で株を売買し、大損して自己破産しても、それは数字の操作で生じた事実でしかなく、本当か嘘か、その事実を実感しようにも確かめようがない。そして、国家。国家との関係はただ、国政選挙の投票や旅券の申請に際して意識されるだけで、日本国民として意識が上るのは、スポーツの国際試合くらいのものでしかない。国政の最高責任者である総理大臣でさえ、任期途中であっさり職を投げ出すのであるから、国家や国民の意識は相当希薄になっていると言えるだろう。(いつか近い将来、万世一系の天皇でさえ、自ら退位して民間人になりたいと表明するかもしれない。)

(4) 実体の消滅は、実体に支えられていた現実の存在が曖昧になり、薄弱になるということである。実態はその自己同一性によって、内と外、自己と他者を区別していた。しかし、その実体が消失するとすれば、それを基盤にして築かれていた現実が現実であることを失うということを意味する。学校や会社や家族がその連続性を失い、いつなくなるかもしれない仮の集合体でしかないとすれば、個人としての人間も自分の連続性を失うことになる。単なる数字でしかないお金も、携帯電話で繋がるだけの友人も、実体があるのかないのか、益々曖昧になっている。こんな虚構の人生で唯一つ確かなのは、自分の決断であり実行であるとして、自殺によって現実を取り戻そうとしても、自殺によって証明されるのは人生が虚構であるということだけである。死んでしまえば、元よりなかったも同然な人生であることを確かめただけのことになるだろう。

(5) 殺人事件も一旦テレビの画面からニュース映像として放送されると、虚構のドラマと区別がつかない。このようにすべてが虚構めいた人生と現実の中で、さて、何が一体本当に「存在する」のだろうか。(1028日)

(6) すべてのものが実体性を失い、現実全体が一つの大きな虚構のように見えてくる、この時、これが丸ごと反転して、この虚(構)である現実が、正に虚であることによって、虚であるがままに全体として大きな現実であることが知られる、これが荘子の言う「道」であり、その「一」を知ることが「天籟を聞く」ということなのかもしれない。そう言えば、荘子こそ、確実なものが何一つない戦乱の最中に生きた思想家ではなかったか。現代日本の不確実性など、中国の戦国時代のそれと比べれば、まだまだ高が知れたもののはずである。(1030日)