Diary of KENTARO EBIKO'S WEB SITE



ジャズベーシスト蛯子健太郎のホームページはこちらに移動しました。
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日記

2013.7.30




「時間が余る」




思いの外、色々はかどり、時間が余りました。時間が余ったので「未来世紀ブラジル」をツタヤに借りに行こうか迷っているうちに、一人でインプロを始めてしまい、気付いたら借りに行くのが面倒になってました。少しお酒飲んで、さっさと寝ようと思ったとたん、お酒飲むのも面倒臭く思えて来ました。いい感じです。そうだ、余ってるスイカ食べよう、と思ったらもう歯を磨いた後でした。いい感じです。水飲んで寝ます。






2013.7.27



「夢:7月24日か25日」



夜勤のバイト先にいる。オフィスには自分と2番目に偉い上司がいる。時刻は夜。他には誰もいない。突然上司が部屋の隅を見つめながら、「あぁ、始まっちゃった!」と言う。実際には無い場所に背の高い事務用ロッカーがあり、その扉が勝手にバタバタ開閉する。ロッカーの中(自分の立ち位置からは斜めで見えない)からドンドン!と壁を叩く音がする。


(7月9日の食器戸棚の夢と同系列)





2013.7.25




「ツヨシとゴロー」



普段は中々会えない友達夫婦と久しぶりに家で食事をしようと、スケジュール調整を何ヶ月も前からして、いよいよ明日、という日になって5匹いる飼い猫のうち、ツヨシとゴローがいきなり食事を食べず、ろくに動けず、の原因不明の体調になり、すべてキャンセルになりました。実は友達の家でも猫を飼っていて、しばらく前に大怪我をしてしまい、やはり、残して家に来るのが気になっていた様です。しかし、猫達と友達夫婦にも失礼な話ですが、なんだか不思議と腑に落ちる休日でした。

誤解の無い様、言っておきますが、とても食事会は楽しみにしていたのです。でも、「猫って不思議だな」と思わざるを得ない、独特の時間の流れを感じました。ツヨシは病院行くだけで辛くて、大変でしたが、食事量が少ない他は、いつも通りになってきました。若い暴れん坊ゴローは、一日目はそれ程ひどくなかったのに、病院から帰宅後、徐々にシンドそうになり、次の日病院にまた行ったら、空いてたのに受付がカルテ出し忘れ、もの凄く待たされ、猫も人も更に具合悪くなりそうになり、帰宅後は普段入らない洗濯機の中でうずくまってましたが、ササミを刻んだら食べるようになり、今朝は目力が戻って来た様です。

結局うちの奥さんと二人で、ツヨシとゴローの事を心配しつつ、病院で疲れつつ、静かな二日間を過ごしました。来る筈だった友人ともメールで「猫以外考えられない展開なので、次回は猫に聴かれないように暗号を使ってプランニングしましょう、きっと無駄ですが」というやりとりに何故か納得。

考え過ぎかもしれませんが、休むという事に関しても、響くものがある感じです。

ゆっくりと、元気になって欲しいと思います。





2013.7.18




「ピンク フロイドと自分」



休むという、有意義な苦行、の最中なので、日記も更新していなかったのですが、Facebook上で、二日連続でピンクフロイド関係の告知に吸い寄せられてしまい、その事をここで書くぐらいなら良いではないか、と思いました。思えば高校一年になりたての時期に、映画THE WALL(A.パーカー監督)のビデオをいきなり直感で購入して、昼間でも幕がかかったみたいに一段階暗い世界、に現実に包まれてしまい、とても希有な時期を体験したきっかけになったバンドです。自分は固有名詞もどんどん忘れてしまうし、評論家でもコレクターでも何でも無く、ジャンルを分類したり、にはあまり興味が無いのですが、このバンドのおかげで、個人的に一時期、皆既日食みたいな日々を過ごした事があるのです。それってやはり、個人的にはとても大切な思い出です。今ではdark side of the moonしかCDもっていないのですが、当時はお金がないので、貸しレコード屋で借りて、テープに録音して大事に聴いていました。改めて個人的に大事なんだな、と、いつからか、過去の自分を軽くみていた自分に気付かされます。






2013.7.9




「夢/休む様に怒られる」


夢7/9:家で現実の様に寝ている。台所から奥さんの呼ぶ声。行くと、見知らぬ茶箪笥があり、「この中に赤い物を入れると叫ぶ」と言う。あり得ないと思い、タバスコの瓶を中に入れてみると音がしない。何でも無いじゃないか、と思った瞬間、ひそひそ声で2〜3人の話し声が一瞬聴こえる。奥さんはそれには気付かないので、「しーっ」と言って、聞き耳をたてる。

・・・


最近、ある方から、殆ど怒られる様にして「やすみなさい」と言われた。お前は、自分の事なんか、全然わかっていないんだ、と。意外でもあったし、とにかく、そうか、と休む事にした。休んで、すぐに、気付いて、本当にわかってないんだ、と思った、確かに休んでなかったと思う。少し恥ずかしい程。自分を、意識しているよりもずっと、粗末にしていた。具体的には、まさに何もしない、心の中でも何もしない、休みになる様な事を「雑に」するのは全然休みでは無いのだと、気付いた。一体そんなに忙しくして、何になりたいのか?生きる事が、いつからそんなに恐くなったのか?罪悪感はどこから来るのか?何をやっても良いが、休む為には、先ず「休む」事が必要だと思った。かなり意図的に、丁寧に「休む」と決意しないと、「休みらしいこと」を雑にこなしがちなのかもしれない。

昨日、3歳にもう少しの姪と遊んだ。一体あの子がどんなすごい事をしたから、あんなにすごいと言うのか?元気で、生きているって言うのは、思ってたよりもずっとすごい事だった。

子供に比べると、ものすごく絡まった世界で大人は生きているのかもしれない。殆ど怒られる様にして、言われて、初めて「休む」事を、自分が如何に、なめていたか、気付かされた。「機械の様に充電すれば良い」というイメージ自体が貧しいのだ。世界の様々な宗教では「安息日」が決められている。この話は特定の宗教とは全く関係ないが、「休む」事は宗教性にも繋がると思う。それらをひっくるめて、自分は、なめて、いたのかもしれない。「休む」という事自体に、頭を垂れてみてはいかがでしょう。




2013.7.5



「遠況報告」



夜勤明けで、作業開始前の目覚まし、も兼ねて日記書いています。

90年代の終わり頃から、自分を知る手がかりとして、文学作品以外にも、参考になる様な本を読んできました。その内容にあまり触れないのは、あくまでも個人的な文脈で話したく、それがデータ化される事を避ける為です。ちなみに特別な本では無く、どこででも入手出来る、学問の種類です。専門家の方も沢山いらっしゃいます。

15年近く、関係の本を芋づる式に読んで行くうちに、1年前に、自分にとって、その中でも特に参考になる本、に行き当たりました。読む度に理解が深まり、結局12回連続して読みました。スポンジみたいに心が栄養と手がかりを求めるのです。

12回も読むと、かなり理解した、飽和感が出て来て、自ずと、さらに先に進みたくなりました。様々な事が重なり、ネットで検索すると、昔はあまり紹介されていなかった、さらに先、に進む為の訳書や和書がこの10年で一気に出版されていました。時の流れと、時代の要請、の様な物を感じます。財布に響きましたが、4冊注文しました。

紹介している著者の方も、一世代若くなって、それは、具体的にどのような感じがするかと言うと、より切迫した今の世界の空気がにじみ出ている、という事です。

自分の中でもやはり切迫していて、疲れても、とにかく必要なので、読み続けています。これはこの数日間の事ですが。

何の本の事を言ってるのか、データをお伝えすることが出来ません。秘密ではなく、腑に落ちない、資格が無い、と思ってしまうからです。そして、やはり自分にとって意味を持つ個人的な事、なので、「遠況報告」になります。

それよりも、この事で、自分が少しでも進むべき方向に進めれば。長い間求めて来て、大きな手がかりに出会えたのと、自分が年齢を重ねつつあるのと、関係もある様に思われます。自分自身と身の回りの人達に対して、良い事になればと、思うからです。








2013.7.2



「こねこ」



きぃちゃんは相変わらず姿を見せない。今日は奥さんも休みで、家で掃除したり、布団干したり、練習したり、読書したり。昼前に2匹の子猫を連れた三毛猫のお母さんがご飯を食べに来た。自分が食べる前に、子供達に先に、食べさせている。奥さんが喜んで、窓から観察していた。自分は、練習終わったら左手が腱鞘炎っぽくなってしまった。夜中に黒猫吾郎が網戸の破れめから脱走する。今まで無かったパターンなので、きぃちゃんの事もあり、焦る。懐中電灯もって探したら車の下に居た。奥さんが引っ張りだして事無きを得る。アホだけど吾郎はかわいい。





2013.7.1




「きぃちゃん」




ひょんななり行きで、外猫に朝晩ご飯をあげる事になった。すこしややこしいのだが、元々あげるつもりではなかった別の猫が朝晩必ず、玄関先で「きぃ〜、きぃ〜、」と鳴いてご飯を催促する様になった、茶色で、家中で飼っている5匹のスポイルされた猫達より一回り小さい。ちょっと黄色がかった茶色だということもあり、「きぃちゃん」と名付けた。とてもかわいい。おとといの朝、そのきぃちゃんが朝ご飯を食べに来た時に、ケージに入れて動物病院に奥さんと連れて行った。近所で野良猫が増えてるし、TNR(トラップ、ニューター、リリース)と言って、捕獲、虚勢、リリース、をした方が良い、という事で、ボランティア価格で手術してもらえたらしい。

ケージの中でもおとなしく、良い子にしてた、きぃちゃん。「明日の朝まで水もご飯も与えないで下さい、出来ればケージの中に居てもよいです」との事で、車の中でケージで夜明かしすることになった。何の病気も無いとの事。麻酔のせいもあり、帰り道はぐったりして、行きの時よりも可哀想になる。夜中に奥さんとチェックしに車に行くと、辛かったらしく、奥さんの膝の上に頭を載せて、目を閉じていた。

とても穏やかで、人懐っこく、余裕があれば家で6匹目として飼いたいくらいだった。だけど一番気になったのが、既にかなり高齢の3匹の家猫、その他の家猫との相性。大人のきぃちゃんが、いきなり家に来たらどうなるか、見当がつかなかった。結局、翌朝、ケージから出して、ご飯をあげて、そのままリリースした。その時もうちの奥さんに頭をすり寄せたり、ベッタリだったらしい。

次の日から、朝、きぃちゃんの声で起こされなくなった。ご飯を出しておいても、別の猫(もともとご飯あげる予定だった猫)は来るのに、近所でもきぃちゃんを見かけなくなってしまった。あんなに良い子で、病気も無かったから、家猫への感染の心配も無いのに、どうして、貰わなかったのか。名前を付けちゃったんだから、運命的に、貰うのがずっと自然な流れだったような感覚が否めない。どこでどうしているのか、心配になる。

奥さんもかなり後悔しているらしく、病院なんか連れて行かなければよかった、という気持ちらしい。悲しい。TNRとか、何が正しいとか、理屈とか、確かにそうなんだけど、そこには関係だってちゃんと生まれたと思う。そして、理屈ではなく、きぃちゃんは戻ってこないし、家の中は少し悲しい。









2013.6.29



「イメージをaffirmするもの」




もう10年も前でしょうか、カリフォルニアの友人の家に2週間お世話になった事があります。既に僕は日本に住んでいて、2年近く経ってました。用事があって訪米したのですが、それも済み、せっかくの環境を楽しもうと、地元の、のんびりしたカフェで、ボーっとしてました。はい、国が変わってもやる事は同じです。でもその時、啓示と言っても良い、ひらめきを得たのです。「あ、日本人って、自分がイメージしたものをあまり信じないんだ」と、頭の中で「カチン」と歯車が噛み合った様な感覚でした。もちろんアメリカの世界に比較して、です。

かと言って、ここで日米のイメージに対する捉え方の比較、を検討するのは、自分には出来ないし、それが言いたい事ではありません。言いたいのは、イメージをaffirmするような、友達、師、環境、その他諸々を、イメージそのものが必要としているし、そのようなイメージの存在を、副次的なものにせざるを得ない、環境は、感覚として一番貧しい感じがする。と、いうことです。人間が自然に感じる感覚を、瞬時に、類型化し、社会性を持った予定調和の方向を、計算しつつ、という感じでしょうか。自分がイメージしたものを信じる事に、最初からストレスが、かかりやすい。

僕自身の、子供時代から持っているイメージについて、この日記には良く登場します。何故か悪夢ばかりですが:髪の毛で覆われた世界についての悪夢、大きな窓、ガラスケースの中の怒り、沼地と滑車、etc.

早い話が、最近、それらのイメージも含む、イメージというものをaffirmするような、文章に出会い、少しだけ、孤独から、解放された様な気がし始めました。同時に、他人の作品などを、通じて、現前するイメージに対する受け止め方も、少しだけ、深くなった様な気がします。

(僕の場合、読書に助けられて生きています。日本とか、言ってますけど、全て僕個人の印象であって、そう言う物言いで、自分自身を捉えようとしているのです。)






2013.6.27


「アルバイト」




今朝は早く目覚めて、しばらく作業、サイン波の作品。体力が切れたので、皿洗い、ゴミ出し、簡単な朝食、夕方からバイトなのでシャワー、晴れてるので洗濯、いまコーヒー飲みながら日記書いてます。バイトまでの間に、読書、練習、制作の続きが出来たらすごいけど、多分このうちの1つは出来ないでしょう。練習の前に読書が来るのが良いです。自分をより見つめる事になるので、読書も練習、というより、「練習」っていう言葉がなんか、せせこましい、偉そうな、感じが少しします。



2013.6.26

「潮の流れ」


昨夜寝付けずに、気持ちを整理しようとして書いた日記(「半分」という題でした)がとても恥ずかしくなって、明け方削除しました。確かに、昨日は、何をやっても、半分しか感覚が無い程、疲れを感じてました。疲れすぎて眠れず、その事を、日記に書きなぐって、いい加減にごまかした気になって、寝たのですが、明け方意識が戻って来ると、とても恥ずかしくなったのです。それで、削除して気付くと、白鯨の物語、メルヴィルのMOBY-DICK、に呼ばれた様に感じました。マッコウクジラを求めて航海している帆船の甲板で、イシュマエルが、今でもモノローグを続けていて、それが、小さな声で聴こえる様な、というよりも、それ、を含んだ潮の流れに、引き寄せられて、そのまま本の続きを、しばらく読みましたが、とても楽しかったです。その後は、いい感じに眠くなって、夜勤明けの、奥さんを、病院に迎えに行くまで、ぐっすり良く眠れました。





2013.6.23


「物語2」



ソフィカル作品アドレスブック読み終わった。やはり、素晴しく「物語だけ」が混じりっけ無しにぽっかり残る作品、というのが印象です。

「現時点での自分」をまとめてみたくなります。

恐怖1:世界が同質のもので満たされる事。そこでは物語は情報に、コミュニケーションは情報交換に取って代わられる。自由は形骸化し、だれも他人の話を聴かず、群居性のみがもてはやされる。

恐怖2:物語という形をとらずに、誰にも記憶されずに死んで行く事。

恐怖3:1、2、の具現化として想像される戦争という集団ヒステリー状態。

希望1:コミュニケーションという与えられたキーワード。

希望2:物語そのもの、読書。

希望3:1、2、の具現化としてのライブラリ。

希望4:自分が少しでも成長すること。






2013.6.23


「物語」



物語が提示され、接近して来る。スピードが早いです。曖昧な物を曖昧なまま受け取る物の見方、が物語なのかもしれない。今、ソフィカルのアドレスブックという物語を、急いで読まねば、と思っています。
話がずれますが、物語を面白くする為に、生きてしまう事程、非現実的で、悪い意味でトンチンカンな事はないと思います。だけど、自律性を持ったかの様な、物語という形で提示される流れ、を意識する事によって生まれる、感受性と一体になった忍耐力/受け止める力、というのがあるように感じます。生きるのは恐い事でもあると思うのですが。

それにしても、物語と一人きりになれる場所っていうのが、スタバとはね。よいビジネスを考えついた物です。トムネコゴがチェーン店になればいいのに。

そして昨日は三角さんと群馬に行ってきました。三角さんすごいです。自然の一部の様に、他の様々な物が共振を始めます。間違いなくそんな感じがしました。





2013.6.17


「父の日」



昨日は父の日だったので、実家に行った。母の日も、何もしなかったので、それも込み、のつもりでもあった。弟とも久しぶりにお茶をした。当たり前だが、みんな歳をとる。アロハシャツを着ていったら、父親に、5回くらい「変わった服を着てるな」と言われた。「そうだね」とか「アロハだよ」とか答えた。実家には立派なステレオ装置があり、帰りがけに、弟とクラッシックのLPを聴いた。シベリウスとマーラー。もの凄く久しぶりだったけど、実家でも、そのステレオで音楽がかかるのは久しぶりとの事だった。音楽は感動的で、最近のCDみたいに、各楽器の分離、も関係ないといった感じの、一つの響き、みたいに聴こえる方が、自分には余程楽しかった。伝わる。いろんな事が、伝わりにくい家の中で。アンバランスな程に。





2013.6.11



「物語に呼ばれる」



数日前からポール・オースター著「Leviathan」を読み返している。とにかく、そこに人が居てくれる様に感じるのが、嬉しい。架空の人間なのに。淡々と、物語ってくれる。それ自体が何を意味するのか、勿論、語られる物語そのものと表裏一体なんだろうけど、救われる。理屈ではない、呼ばれている感覚(いつも自分は物語に呼ばれる気がする)。まずは、決めつけないで、読んでみなさい。小さく見えていた物事が大小では無くなって行く。意外と、自分の事を乱暴に扱っていた事に気付く。自分には自分の物語があり、それは他の人とは違う。その境目がぼやけていては、何かをまき散らしはするかもしれないけど、この主人公の様に、読者である自分にとって、そこに居てくれるのが嬉しい、とはならない。もっと自分を大切にしようと思う。それは意外と難しい。物語は箇条書きに出来ない。順番に、耳を傾ける。






2013.6.8



「うれしい」


昨夜は僕のバンド、ライブラリのコンサートが四谷三丁目総合藝術茶房喫茶茶会記であった。

本当に嬉しい出来事があり、もう、十分、嬉しい出来事があり、一晩経った今朝、奥さんを勤め先に、車で送った帰り、涙が出てきた。本当にありがとうございます。

とにかくベストを尽くすしか無く、昨夜が今現在の、自分のベストです。現場では、思いが一杯で、逆に、何も感じなくなり、さっき漸く、涙が出てきました。もう、十分嬉しいです。

ありがとうございます。





2013.6.5


「メロドラマ」


練習と作曲をした。先日届いたアンプスタンド、良い物。しかも2000円台。効果が素晴しい。もっと早く買っていればよかった。サイン波の新曲に昨日から取りかかっている。今から作業再開すると4時まで起きてるので、やめておく。晩ご飯に冷や麦食べながら映画「ドニー・ダーコ」観た。たぶん今まで4回くらい観てる。最初観たときは、自分もアメリカから帰ってきたばかりで、何だかとても観ていて恥ずかしかったのに(細かい部分がステレオタイプで安っぽく感じた)、何故かまた借りてしまう。意外な事に歳を取ると、恥ずかしくないし、細かい事突っ込んで馬鹿にしないし、変な言い方だけど公平に楽しめた(何様だ)。メロドラマでもあるけど、今回はお父さんお母さん役に共感した。歳とともに楽しめる(笑)変わった好きな映画。





2013.6.4


「どうか、届きます様に」



明日は朝7:30に家を出るので、早く寝なければなりません。今日は品川の美術館でソフィ・カルさんの展示を観て来ました。詩人の三角みづ紀さんに、ポール・オースターの小説リヴァイアサンとつながりのある作家として存在を教えてもらったのです。展示は「最後のとき/最初のとき」というタイトルです。素晴しく、見事でした。内容には触れませんが、物語を痛烈に感じました。ところで、作品を作って、展示する。このシンプルさ、にしばらく前から惹き付けられています。演奏活動も良いですが、コミュニケーションが目的だとすると、間に挟まる要素が多すぎると思う事も最近ありました。金曜日に僕のバンド、図書館系ジャズユニット・ライブラリのライヴが四谷三丁目であります。詩や物語という言葉を通じて心に繰り返し描かれた軌跡を音にした様なバンドです。さらにそれを言葉に置き換える、要素も加わってきました。どうか、届きます様に。

図書館系ジャズユニット・ライブラリ ライヴ@総合藝術茶房喫茶茶会記 6月7日 19:30開場 20:00開演




2013.6.3



「真空」



前回の日記から引きずっている、同質の物が際限なく入れ替わり、実は入れ替わらなくてもそれ程違いは無いが、そこに誇張された意味が張り付く、事を、コミュニケーションと呼んでいる、というイメージがなかなか払拭出来ずにいたら、自分が以前飛び込み、作曲という形で参加した物語の方から会いに来ました。頭が悪くて、突っ込んで考えらえないけど、同質で無い部分が浮き上がるのが物語なのかもしれない、ような気もします。と、言うわけで、明日はポール・オースターの小説Leviathanに出て来るマリア・ターナーのモデルとなったソフィ・カル の作品を原美術館に観に行こうと思います。fallというライブラリの1stアルバム最後の曲の題材になった小説ですが、これを機に本も読み直したいと思います。


「嫉妬」


ある有名な人の特集記事を雑誌で読んで、たまらなく嫉妬した。二日間ふらふらした挙げ句「自分は別にこの人みたいになりたい訳じゃ無いんだ、全然違う」事に気付いた。未来の事は分らない。ぼんやりしてると、いい加減な自己像がより社会的な力と存在に同化してしまう。








2013.5.31



「髪の毛の世界」



楽器を弾いている時は良いのですが、当然、弾き続けるわけにはいきません。音楽の不思議な作用は徐々に消えて行きます。どうしても、人と人のコミュニケーションや、社会、の事に思考が吸い寄せられて行きます。

幼稚園の頃に、見た悪夢です。世界中が髪の毛で埋め尽くされています。世界中、髪の毛以外何も存在しません。圧倒的な量の人間の髪の毛。今思うと、その夢程、孤独の本質に近付いた事は無いかもしれません。視界を埋め尽くす髪の毛を見て、自分は打ちのめされます「見えていない部分、つまりこの世界のどこまで行こうが、髪の毛しか存在しない」と、直感で解るからです。孤独はそこでは地球と同じ大きさをしています。巨大な髪の毛の縺れから、老人の顔が出て来て「お前はこれを解かなければならない」と言います。地球程大きく、同質な物が、どこまでも絡み合った世界、それを「解く」って?そこで叫びながら目を覚ましました。

同質で均一な物同士が際限なく入れ替わり、そこに無理矢理「意味」を貼付けて行く、という悪夢の様なコミュニケーション、のイメージに思考が浸食されてしまいがちなのですが、元々自分に備わった傾向だとしたら、一寸考えてしまいます。






2013.5.30



「楽器と遊ぶ」



今日は夜勤明けで、たくさん練習しました。楽器練習はセラピーです。心が不思議と軽くなりました。目もはっきり見える様な感じがします。勿論、そんな気がする、ということですが。だいたい、今日練習を始める前は、自分が楽器を手に取る事を想像するだけで、こめかみの辺りが「キーン」と痛みました。とてもじゃないけど、そんな事は出来ない、そんな力も、音楽的な内容も、自分には、もう何も残っていない「キーン」、エネルギーマイナス。だと思っていました。仕方ないので、コンビニに自動車税を払いに行くついでに、駐車場でファミリーマートのアイス最中を食べて、ライブラリの音源カーステレオで聴いて、気持ちを落ちつかせ、税金を払ったリズムで、そのまま楽器をセットし、音を出しました。上手く行ったみたいです。ヒューッと何かが胸から抜けて行く様な感じがして、弦や楽器の感触、音、に導かれて、ドンドン何かが軽くなって、と言う具合に、とても楽しみました。練習というよりも楽器と遊んでたみたいな感じです。なんなんだろう。不思議です。




2013.5.29



「夢 5/29」



週刊誌を読んでいる。なかなか面白く、最後まで読んでしまう。裏表紙を見ると「自民党」と大きく広告がしてあった。

あるバンドのロゴを見る。それを頼りにネットで調べると、リハーサルの場所が分かり、聴きに行く。自分の卒業したCalArtsと縁のあるロックバンドらしい。壁越しに聴こえる音楽が素晴しい。演奏が終わって、会ってみると、皆CalArtsを卒業した(?)日本人で、知っている顔もある(現実には誰一人知らない)。







2013.5.27




「さてさてさてさて」


村上春樹の小説「ダンスダンスダンス」の中で、主人公が「さて」と自問すると、頭の中で「さて、さて、さて、さて、」とこだまする場面があるのですが、ちょうどそんな感じです。アルバムの音が完成してみると、(ちなみにメンバーの皆さん、お渡ししたCDRから、大幅な曲順の変更と2曲削除があります)思いの外、レコーディングの時よりも更に「蜘蛛の脱皮状態」(2013.1.13「レコーディングを終えて」参照)を引きずってしまっていて、頭がボワボワしています。しかし、また、半年前よりも、ともすれば過ぎ去ってしまう感情や気分を、ピンで固定する様に、「まった」をかけて、眺め、受け入れ、その背後にあるものを、想像する、事が出来る様になって来ています。例えば怒り、を感じ、雪だるま的に、振り回される代わりに、自分の意識出来ていない部分、が、何かに反応し、この怒りを引き起こしている。それ自体は、自然なことで、恥ずべき事でも、否定するべき事でもない。れっきとした自分自身の一部であり、「怒りつつも眺め、聞き耳をたてる」事で、より、自分自身に近付く事が出来、感じる物がある(解る、ということは決して無いと思います)。微妙なニュアンスですが、ある意味、求めていない感情や、気分が手がかりになる、という部分もあります。勿論、そんな内省が必要ない様な、酷い出来事は、実際に起きますが、それとは別の話です。それとは別に、ちょうど自分の頭が「ボワボワ」している様に、白鯨のイメージが知らず知らずのうちに心に住みついていた様に、羊男に実際会えた様に、一人で運転中急に叫びたくなる様に、自分というジャンクションを、「認識」出来ていようがいまいが、様々な、感情や気分、イメージが通過して行く。それらを恥じたり、否定したりせずに、目を凝らし、聞き耳をたて、そして、語りかける。






2013.5.24



「気付くと」



ふと気付くと、読書にぴったりの精神状態になってる。特にメルヴィルの「白鯨」の続きが読みたい。もう一年近く断続的に読んでるんだけど、やはりすごい小説なんだと、改めて感じる。だけど、プルーストの「失われた時を求めて」は確か6〜7巻辺りで止まったまま、もう何年も放ったらかしてある。今のところは続きを読む気にもならない。多分アメリカが好きなんだと思う。誰かが言ってたけど、確かに「白鯨」って不思議な本です。分けわかんないんだけど、魅力があるんです。現代の日本で忙しくしてると、一気に最後まで読む気には中々ならないけど、だからこそ余計にインターバルを置いて、あの、100年前の海の感覚に引き寄せられるんだと思います。明日から気持ち的に、作品も制作に取りかかります。アルバム制作(音のみ)のもたらした昏睡状態から、片足のエイハブ船長とモービー・ディック、打ち寄せる大波に引っ張られて抜け出せる様な気がします。理屈には無い、白鯨の力、そういえばこの本を読むきっかけになった、ジョン・アーヴィングの「ウォーター・メソッド・マン」というグダグダ小説も「白鯨」をとてもシンボリックに引用してたのが、思い出されます。



2013.5.24




「どうした」



気付くと寅さん映画ばかり観ている。地獄犬が出て来ても、何も言わない(しかもブラック・ラブラドールに似ている!)。あまり、何も感じなくなって来ている。諦めと、無感覚と、怒りと、悲しみ、放浪が楽しみになりつつある。マグノリアのゲイのクイズチャンピオンを思い出す。生きているのに、出口が無い。ガラスケースの中で、肉片が飛び散っている。容器の中で爆発させて、遊んでいる。全ての感情には名前があり、持ち主はそれらを、正確な名前で呼ぶ様に、努力しなければならない。ガラスが至る所に出て来ている、地面から。何でも、遠くに見える、だけど、気付いたのだが、別に、近づきたくはないのかもしれない。まだ知らない物事を、正確な名前で呼ぶ様に、努力をしようと思う。







2013.5.23


「地獄犬」





陳腐な表現とは思いますが、心の中に、二匹の地獄犬がいます。地獄犬は地獄の炎に包まれて、燃えています。目からも、鼻からも、口からも、地獄の炎が出て来ます。それ以外は普通のブラック・ラブラドール・リトリーバーみたいです。彼等が何を意味するのか、なんなのか、全然わかりません。でも、心の中にいます。普通の犬みたいなわけには、いきません。牙を剥くと、心の画面全体が牙になります。そして炎に包まれています。今度、機会をみつけて話しかけてみたいと思います。言葉が出ないかもしれません。居なくなってしまうかもしれません。それはずいぶんと、寂しい事の様に感じます。地獄の犬、陳腐な名前でかわいそう。




2013.5.18



「放浪したい」



アルバムの音だけ完成して、じっとしてられなくて、奥さんは、福島に除染に行ってるので、一人で、放浪してきました。天気が素晴しくて、田んぼや畑の近くの家では、三軒も庭先でバーベキューしてました。ジョギングでもスポーツでも何でも無い「放浪」が、一番ぴったりきました。リュック背負って、最近また観た映画INTO THE WILDのクリス・マッカンドレスの事思い出しながら。このまま死ねれば良いや。みたいな気持ちでした。そう言う気持ちがありがたいのです。放浪したら、運動不足も少しは解消します。変な話ですが、別に自殺したい訳では無いのです。でも、身体の事を考えながら、筋肉に意識を向けつつ歩く、のは自分的に放浪の精神に反する気がして、逆に変な気を使いました。花の美しさに、本当にびっくりしたりしました。軟弱な非体育系なので足の裏が痛くなりました。そうだ、これをスポーツとして「放浪クラブ」を作れば良い、と思いましたが、クラブ、という団体行動では、放浪にはなりませんね。歩く時くらい、好き勝手にさせて欲しいものです。散歩、は真面目な規則正しい感じがします。放浪が好き、というのとも一寸違う。クリス・マッカンドレスは病的な放浪家なのでしょう。僕は悲しい程軟弱なので家にいますけど。軟弱で良かったのかもしれません。








2013.5.16


「アルバム」



明日は昼演奏だから、寝なきゃいけないのに、午前二時までアルバムの音修正していて、一段落したら、今度は通して聴かずにはいられなくなって、聴きながら日記書いてます。書きつつも修正したい部分が見つかるのが辛いところです。焦ってやった作業は全部後で気になりますね。結局納得いかなくて、もっと丁寧にやり直し。だったら最初から辛抱強くやれば良いのに、その時は、ほんのちょっと、簡単な修正で済む、と思っているから、焦ってるとは思っていないのかも。馬鹿みたいにはっきりと、てまひまかけた部分が良くって、自信過剰、且つ焦った部分、は、やり直しになるから面白いです。でもそうやってアルバムがストレスの少ない、聴き易くて、良いものになって行くのはとても嬉しいです。いい加減、明日の為に寝なくてはなりません。





2013.5.13

「思考の限界」




全て、作品を作る様に、向き合うべきだ、例えば、これからの事。作品に向き合う際、自分に向き合う様に、掘り下げ、僅かな明かりを頼りに、僅かな匂いを嗅ぎ分け、物音に耳を澄まし、まだ見ていない領域に、踏み込む。その先に、どうか人がいます様に。何かが、つながり、保たれる。ささやかに見える、その価値は計り知れない。その事が、自分に、ほんの少しでも多く、わかります様に。ほんの少しでもいいから、自分に、わかって行きます様に。







2013.5.10

「午前4時の愚考」



空腹感で目が覚めて、かといって食べると太るので、少しだけお酒を飲みつつ、日記を書いてます。何故かこの時間に考えるのがお金の事です。乱暴に言って、お金ってあらゆる物を限りなく無個性にする力がありますね、そして生きて行く上でなくてはならない物です。短絡的に考えると、あまりに個性的な物は生きて行けない、個性的に「見えるもの」が一番バランスよく社会で機能する、同時にそれは没個性でもある。なーんて言う短絡的な物言いが窮屈です。だから、何?。やっぱり乱暴過ぎて、話になりません。もっともらしい事言ってるようで、愛もなければ、公平でもない、想像力のかけらもないタダの愚痴。だから、何?。なんだか恥ずかしくなって来ました。普通に売られてる音楽聴いたり、読書したりして、感動の涙を流すくせに。グダグダ日記書けば、少しは眠くなるのかと思いきや、更にお腹空いて来るし。

あきらめて寝ます。






2013.5.4

「現実の厳しいところ」



前回の日記に「客体を、思うのと、書くのでは大違い」と書いて以来、夢をあまり見なくなった気がします。この手の内容って、日記とかに書くと、それだけで影響を受けるのかもしれません。良い事とか悪い事とかでは無いですが。別にネタでは無いので。

最近、肩こり対策として、近所の田んぼまで散歩に行くのですが、そこの電柱に赤のスプレーで「犬の散歩してる人は暇な人」みたいな落書きがあります。考えてみれば、わざわざそれをスプレーで他人に見られない様に落書きするのも、結構時間に余裕がある感じがします。

ライブラリのアルバムのミックスが思ったよりも早く出来そうです。

イメージについてよく考えます。音楽の演奏に於いて、一般的に、技術や理論はとてもまじめで勤勉に追求しますが、客体であり、主体でもある、イメージが大元で弱かったら、掘り下げる術を持たなかったら、そのようなものに自分はあまり興味を抱かないと思います。自分のイメージが強いと言ってるのではありません。ただ、そこに興味の95パーセントはあります。だからと言ってイメージが強い訳では無い、というのが現実の厳しいところです。それにしても「ゴッホとかの画を見て見なさい」って言ってたヘイデン先生は、やはり素晴しい師匠でした。だからと言って自分のイメージが強い訳では無い、というのが現実の厳しいところですが。









2013.4.29




「ライブラリのライブが6月7日に喫茶茶会記であります」


あたかも文学作品を音楽に「翻訳」したかの様な、とライブラリの音楽に感想を下さったのは、現在はメンバーでもある、詩人の三角みづ紀さんです。自分の中にある、表現のスタンスを、わかって下さっている感じがして、コミュニケーションが成立した時の、表現者としては大変嬉しい気持ちになりました。文学作品を基にしたオリジナル音楽を続けて8年になります。最近は文学のみならず、自分の夢日記が素材の曲も増えて来ています。振り返るとどれも「じぶんさがし」なのだな、と思います。自分探し、なんて簡単じゃないか、と思われるかもしれません。これが自分だ、と思う事をやればいいのだ、と。確かにその通りかもしれません。でも、作品で表現をしてみると、昨日と今日で言う事が微妙に違う、のならまだ良いのですが、自分の言った事に対して、それを判断する自分、の方も、大袈裟に言うならば平行移動してシフトして行く様な、心地悪さがありました。当たり前ですが印刷された文字はずっとそのままです。大好きな作家の小説を読んだ時に感じる、感情の動き、それは、前者に比べて、自分を映す鏡として、ずっと手応えのあるものでした。繰り返し描く軌跡が安定しているので、より彫りが深くなります。あたかも、その感情のコースをマッピングする様に書き、音にしています。思い付きですが、文字の断面、の様な感じです。客体を、思うのと、書くのでは大違い、なのです。書いてみて、初めて気付く感情、が原動力なのかもしれません。自分を知る手がかりの様なものです。これは難しい事ではなく、簡単に試せます。手っ取り早いのが夢です。誰でも自分が見た夢を覚えている事はあるでしょう。覚えているだけで「知っている」と大抵の場合は思っています。あの夢では、こうゆうことが起きて、この様な感情を持った、と。でもそれを試しに文章にしてみるのです。場所(どこで)、人(だれが)、行動(何をした)、を中心に経過や感情を順序良く書いてみます。すると「こうだ」と思っていた印象が違ってくるのです。より腑に落ちる部分に気付いたりします。夢を素材にする時は、文章にしてから、音にしています。

今回のライブは前回から4ヶ月経っています。今までのライブに比べて、少しスパンが長いです。意図した訳ではなく、スケジュール調整によるものですが、気付くと、このロングスパンを楽しんでいる自分がいます。ライブ、というよりも、ライブと言う名の作品展、この4ヶ月にエネルギーを注ぎ込んだ作品を展示する、という感覚は、とても自分に合っている様に思います。その展示されるほんの1時間強の瞬間を、皆さんと共有できたら、とても有意義且つ嬉しく思います。

ぜひおこしください!








2013.4.24



「週刊誌と世間知らず」


昨夜は週刊誌を読んでみました。実は今まで殆ど全く読んだことが無いのですが、バイト先にあり、休憩中に何気なく手に取ってみました。世間一般、という感じが詰まった雑誌、という感じがしました。具体的に世間一般、と言う物が何か良く分らないのですが、事象の噂話から成る集合体?いろんな事象について、濃いめの味付けがされた意見が、載っているので、読者は多分、新聞よりも分り易く、楽しく、時間が過ごせるんだろうな、と。同時に事象と自分ではなく、その間に週刊誌が挟まると、何だか自由に表現しづらい、窮屈な感じもします。新聞だって各社傾向があるでしょうが、いちおう、比較的意見を押し付けてこないメディアです。この敷居をまたいで、レーベルを貼りまくる感じが、一寸心の麻薬っぽい?意見を(同意するかどうかは何故か別問題?)代弁してくれる効率のよさがあり、ある感覚が麻痺する?、、、何だかよくわからないけど、すごいな、と。

それに比べて、文学作品や音楽、アート、自然、人間、に触れたときの心の反応の、不器用で、無防備で、恥ずかしくって、説明がつかない、間違いも正解も無い、感じって、社会的な効率は最悪に悪いけど、これもまた、別の意味で、何だかすごいです。

ある意味、週刊誌は共有前提で、後者はもっと個人的な部分を喚起するのかな?

そして、ここまで書いておいて白状すると、そんなに一生懸命読んだわけではないので、その分、大袈裟に反応している気もします。いつも週刊誌を読んでるお父さんたちは、こんな事は朝飯前の当たり前で、さほど振り回される事も無く、適宜に暇つぶしとして利用してたのですね。多分。だからどうって事は何も無いのですが。勉強になりました(笑)。









2013.4.22



「特に書く事はありません」



が、何となく、アップします。

ー窓を割る、という例えは、とても意味を持って来ています。自分を知り、近づく、のは大変な事ですが、何年もコツコツ手がかりを集め続けて来ました。大切な事でもあります。

ーちょっと飛び道具系のエフェクタ最近ライブで使ってますがシンプルで気に入っています。もっと上手く使える様になりたいです。

ーライブラリのアルバムミックスも徐々に進んでいます。マイペースで創作の延長としてやるのが良いです。

ー社会性について、大切だな、と以前よりも思う様になりました。

ー村上春樹の新作まだ買ってません。

ー友達はありがたいです。

ー整体に行かなくてはならないかもしれませんが、お金がもったいない気もします。でも健康のが高く付くと思うと、迷います。基本的にケチな性格です。

ー気付くともう午前一時です。おやすみなさい。自分も含めて、皆さん、ぐっすり眠れます様に!






2013.4.17




「窓は割られなければならない」




夜勤が明ける時、大体脳は活性化していて、身体は眠くても、やらなければならない事をすぐにでもやろう、位の、焦りにも似た、気持ちなのですが、昨日は、仮眠後に、「さあ!」と思っても何かが、脳内で
停滞し続け、結局、諦めて、読書と、二時間の散歩に出かけました。そんな散歩の帰り道、様々な事に思いをめぐらしつつ、「やはり、あの窓は、割らなければいけないんだ」と気付きました。2013.3.14の日記で出て来た、ライオンがいる草原を仕切っている、空まで延びている窓です。「割れそうも無い」と書きましたが、それこそ想像力の問題で、何もガシャンと、本当の窓みたいに割る事ではないのです。そんな事言えば、自分は本当の窓をガシャンと割った事なんか、この20年で一度もありません。イメージを具体化して考えがちな、自分の愚かさです。あの窓が想像の産物なら、割るのも想像の産物、であり、何かの例え、それでしか表せない、何か。窓を割る、というと一瞬のイメージがありますが、何年もかかる事もあるわけです。気がついたら消えているのかもしれないし、融けてしまうのかもしれない、きれいさっぱり忘れてしまうかもしれません。いずれもイメージをそのまま具体化してしまいがちです。でもそんな事考えてもどうにもならない。窓は割られなければならず、ナルホド、それは可能なんだ、そして、早くも停滞からは抜け出しそうです。

ちなみに同じ2013.3.14の日記に出て来た「怒り」が閉じ込められている方の窓、は自分の病気みたいなもの、のイメージだと思っています。







2013.4.15




「停滞感」




停滞感があります。様々な事を休めばいいのでしょう。心置きなく読書をしたり、運動をしたりするのがなかなか出来ません。暮らしの手帖社から出版されている「いつもいいことさがしー細谷亮太著」という本を読んでいます。サブタイトルに「小児科医が見た日本の子どもとおとなたち」とあります。雑誌「暮らしの手帖」の連載コラムを本にまとめた物なのですが、細谷亮太という小児科の先生の言葉の何かが、とても響くのです。内容を理屈で理解し、納得する、のではなく、内容もとても良いのですが、内容を形作る以前のまなざし、の様な物、に、とても感動します。自分も雑誌のコラムを読んで、奥さんが本を買ってたのを思い出し、あれどこだっけ?と借りて読み始めました。まだ最初の方なのですが、物語ではないので、最初の方とか、あまり気にしても意味はありません(笑)。







2013.4.8






「夢:4月7日」

TVゲームの中にいる。恐ろしい森の中で襲って来る紫色のモンスターを退治するゲーム。一昔前のゲームなので画素数の荒い、プレステ1の頃の様な景色。画素数の荒い世界にいる事が、余計に毒々しく、恐ろしい感じがする。スタート地点に立ち、森を眺めている。自分は特別の武器を持っていて、ピンポンの玉の様な、パーカッションのシェイカーを森の木に向かってシャカシャカ振ると、遠くから、木の中に隠れているモンスター達をまとめて殺す事が出来る。遠くの森の中に、紫色の煙が立ち上り、モンスター達がやられて煙になった事が分る。同時にその付近に、得点を示す数字が表示される「20+20+20+20+20+Bonus Point50!!!」みたいな感じ。だんだん楽しくなって森の中に入って行くが、一向にモンスターが襲ってこない。おかしいと思って、上を見上げると、様々なモンスターが、壊れたオモチャになって、木々の枝に引っかかっている。ゲームの難易度が「楽勝」レベルにセットしてあったのを思い出す。本当はこれよりも、ずっと恐ろしい筈。しかたなく戦うのを諦めて森を進んで行くと、小川が流れる広場に出る。地面から1mの高さで浮いている、扇風機のファンを下向きにした、乗り物に乗った若いお父さん、その乗り物に結んである紐を手に、あたかも犬の散歩の様に、それをゆっくりと引いている、3〜5歳くらいの子供達が数人いる。乗り物はお父さんが趣味で自作したらしく、親子は、ニコニコ笑って楽しそうにしている。

夢から覚めた後、「お父さん」が本当は神様だったんじゃないか、と思った。









2013.4.7

「肩こり」



肩こりがすごいです。筋トレは時間がかからないので、軽くやってますが、全然運動不足みたいです。有酸素運動は時間がかかりすぎる、と感じてしまう程に毎日頭の中が忙しすぎて、漠然と、人生の中でも、こういうのは、今だけのフェイズみたいな物に違いないと自分に言い聞かせています。なぜそんなに頭の中が忙しいかというと、相変わらず、昔のまま、鬱傾向で、苦しく、ネガティブな人間がベースにあるのですが、それも含めて、違った角度からも、物が見える様になって来た感があり、あまりいろんな事を決めつけなくなって来たからだと思います。同じネガティブでも、決めつけがユルくなって来ている。最近の日記で「想像力」という言葉が頻繁に登場するのも、同じ事と関係があるのかも知れません。その変化は、変化としては悪くないと思いますが、バランスがあまりとれず、肩のコリとなって、意識されてると思います。その様な見方をすれば、違った角度から物なんか見えなかった方が、余程安定していた、とも言えます。おまけに、これから自分がどうなるのか、皆目見当がつきません。でもそれはどの場合も同じでした。あと、以前はこんなことをダラダラ日記に書いたりして、自己嫌悪、恥ずかしさ、情けない感じがした物ですが、最近は、そう感じたとしても、どうでも良くなりました。想像力、と言うものが、こんなに微妙なものだとはね。情けなさが、恐らく格好付けではなく、貴重な物にすら感じています。少しは偽物ではない様です。この微妙な変化は。少しは偽物でありません様に。時間の無駄を恐れるのは貧乏性であります。頭の中が忙しすぎます。でも肩こりは痛いです。明日はかみさんとコストコに行ってバーボンを買います。お酒が久しぶりに飲めるのが楽しみです。





2013.4.5



「       」


イメージについて、書く事でイメージを破壊してしまうのではないかと、それが少し心配なのですが、前回の日記に引き続き、ORACLE NIGHTを元に制作を始めています。おもえばその小説の中でも小説家が書いている最中に身体ごと消えてなくなっている様な描写があって、ああ、とおもうのですが、今自分が関わっているイメージに含まれ、作り、そして、そうする事で同時に自分自身が作られている、その時程、正しい時間はないとおもうのです。今はまだ制作途中なのですが、するとやり残されている途中の部分が、橙色に変色して、ちぎれたトカゲの尻尾の様に、くねくね、のたうちまわっているのです。そこが僕の「取っ手」。僕がそこを手で攫んで、続きを作るべき場所、で、そうされるのを苦しみながら待っているのです。病気みたいです。心の病気じゃなくて、イメージ上の生き物の病気。あるいは怪我。そうして、作る事で、実は自分も作られて行く。それを他人が見たり聴いたりしてどう思うか、なんて(その時は)どうでもいい。死んでもいいという気になります。想像できる事を想像したからと言って、それは想像力ではないのかも知れません。「なんでも欲しい物をあげる」と神様がいったら「じゃあ、愛とお金と健康と安全、幸せ、世界平和、が欲しい」と、言う発想ではないのかもしれません。くねくね、のたうちまわっているものはなんだろう?





2013.4.1

「青いノートブック」


二日前にORACLE〜を読み終わって、紙に、図や画、イメージなどを書き連ねています。これ程、現実の日常も含めて、様々な要素が、文学や音楽という枠組みをまたいで、感覚的なフーガの様に(しかも自分自身が渦中にいるので、部分が全体を想像する、という無理が生じる)、現象として(音楽って、時間軸が無理矢理進むので、他の芸術のフォーマットに比べて、現象、に近い、と思ったのですが、小説や詩、だって順番に読む、という時間軸があるし、「バラバラに読んだり、聴いたり、見たり、していいですよ」という括りの作品はそのコンセプト自体が時間軸ですよね、時間には何もかなわないのでしょう、記憶を失ったり、身に覚えの無い記憶を持った場合は、どうなんでしょうか?)飲み込まれる、感がある事はなかなか無いです。ORACLE〜を読み進めるうちに、その様な、読み手の日常まで巻き込む(そこまで作者は考えていないでしょうが)作家の日常生活が物語に巻き込まれる、シンクロニシティーが、要素としては大きな物になっている事に、驚きました。10年前に読んだ時、そこまで驚かなかったのは、それを受け取る力が無かったんだと思います。

振り返ると、「窓」という例えが自分の中で意味を持って来ています。

今タイプしている、パソコンのスクリーンも「窓」
それがネット上で誰かに読まれる画面も「窓」
心の中の、意識のイメージも「窓」
記号を伝える文字自体も「窓」
音も含め、何かを伝える全ての物は「窓」





2013.3.28


前回の日記で再び現れた大きな窓。しかも今回は絶対に割れそもうもない。割る、のは前回で終わったのだ。その事に妙な納得を覚える。腑に落ちる。先に進んでいる。だけど、ゲームでは全然ない、ので、しかも、自分にはその意味がもう既に何となく分っている。なりたくなくても感情的にならざるを得ない。これは生活の、日常生活の、もたらしたイメージ。そして、やはり、窓、は自分が対決しなくてはならないテーマの様だ。ゲームでは全然なく、日常生活から、呼ばれる、イメージ、一体何年かかるのだろうか?途方に暮れる。パターン化した物は二度と現れない、のかもしれない、と、ふと思う。そう此処に書いておけば、パターン化のパターン化として、この窓が、これから先も現れるのだろうか?窓に愛着を感じてどうする(笑)。対決するのが生きる道なので、同時に、とってもゆっくり進もうと思う。ゆっくりと、対決するのがコツなのだ、というのは、有名な作家の言葉を、自分に合わせて置き換えたもの。



とりあえずP.オースターのORACLE NIGHTを読み返し、音を作らなければならない。それが次のステップ。それと同時進行して、ミックス、練習、バイト、家事、猫の世話、などなど、などなど。

I started to read the book; Oracle Night, right after I uploaded my diary above. And within 5 minutes into the book I came across this sentence which has a large window in it. May be I am reacting too much to it, but I could not help not to share it.

"Life is on the other side of the window, but in here everything looks dead, unreal."
- Oracle Night by Paul Auster


It made me feel that I am being followed by this image saying "No, you can't take all your time. I am right behind you so, you better act faster than you want to".




2013.3.24


「二つの窓、の再構築」



1. 草原にいる、2〜3頭のライオンが、風に吹かれて佇んでいる。ライオンのこちら側は、分厚いガラスの壁で区切られている。ガラスの壁の左右は地平線まで延び、上は空高く、どこまで続いているのか分らない。鳥も、それを越える事はできない。ふと、ライオンではなく、「自分が」動物園にいる事が分る。何故だろうか?恐らくライオンには動物園という物は存在しないからだろう。動物園は人間の心にしか存在しないから、だろうか?今回のガラスは岩を思いっきり投げつけたぐらいではびくともしなさそうだ。自分はものすごく広い草原のこちら側に、閉じ込められている。

2. 長方形のガラスの箱がある。高さ2m、幅2m、長さ3m位の大きさで、中には怒りが詰まっている。怒りはもの凄い勢いでガラスを叩く。人間の形をしているのか?激怒しており、怒りにまかせて、猛スピードで四方八方に体当たりをかまし、拳でガラスを壊そうとする。スピードがあまりに速く、残像の様な物しか見えない。「怒り」のスピードはどんどん早くなり、力もどんどん強くなり、「怒り」の皮膚が怒りに耐えきれずに、破れ、血糊や、白くべったりした脂肪、髪の毛、が箱の内側に付着し始める。それをきっかけにして「怒り」の怒りはさらに、殺人的に増し、叫び声が聞こえ、ガラスの内側はますます汚れて行く。最後には怒りの身体もバラバラに破れ、骨も粉々になり、おさまるどころか、加速度的に比例して怒りそのものはさらに増幅し、残ったエネルギーのみが箱の中を暴れ回り、ドンドン、と汚れた壁を打ち、叩く音が聞こえる。箱自体がガタガタと震えだす。この箱も、もの凄く強いガラスで出来ている。しかし、もしもそれが破れたら、人類は終わりなのか、と思う。怒りは人の形をしている。














2013.3.21


「飲み込まれてる」



現在制作中の音源は、P.オースターの「幽霊たち」を自分なりに、読み解いたエッセンスを音にしている。ライブラリの初期にも、同じ小説から作曲したことがある。それはBlue's Bluesという曲になったが、いわゆるジャズのフォーマットを用いた(と言うより頼った)、今にして思えば、少し安易な、アプローチだったかもしれない。現在制作している物は、10年前の当時よりも少しは進歩したものであって欲しいと願っている。

だが、決して分りやすい音とは言えず、しかも、これで良い、と自分では思っているのが、居心地悪く、結果、何度も聴き返し、、、気付くと、小説の世界に、自分自体が完全に飲み込まれている様な気がして来た。少なくとも、自分が感じた「幽霊たち」の世界が、制作を通じて、現実の我が身に起きている。と、言うと大袈裟だが、という台詞も含め、様々な事が、少しずつ、表層でずれ始め、さっきまで、ぴったり合っていた、線と線が、面と面が、合っている様で合わなくなる。ほんの5ミリメートルだけ、世界がずれている。物がずれ、人がずれ、会話がずれ、思いがずれ、諦めにも似た、だけど、ずれる事で残るもの、ずれるから残るもの、読みにくい物を、一語一語、最後まで、辛抱強くゆっくりと、歪んだ何かに、耐えうる何物か。最後にはそれ自体が物語になる。それが無ければ物語にはならない。だけど、それは小説の話で、そこに自分が飲み込まれている、様に感じる、というのは、自分の自我が、少しだけ以前より強くなって来たからだ、という事にしておこう。









2013.3.18


「秘密というか何というか」



今まであまり経験した事が無いですが、連続で同じ本を8回読んでいます。この事は自分の中ではちょっと秘密だったのですが、まあ、特に理由もなく、かといって、他人に内容や題名を教えたくもない、と言う感じが、さらに、読み続ける事によって、まあいいや、位に、変化、しても良いのではないか?と言う風に、変わって来てしまうところが、ものすごく、8回も読み返してしまう理由でしょう。でもやはり、今の自分には、非常にパーソナルに感じられる事柄でもあるので、やはり本の名前は秘密であります。一般的な、知的なお勉強、だったらこんな風には絶対ならないので、情報化して、一般化する事は、何としても避けたいのです。少なくとも今は「ああ、あれね、知ってるよ」と言う人には何の落ち度もありませんが、そう言われてしまう場を、自分から提供するのは、愚かな行為です。それというのも、やはり、敬虔なキリスト教徒にとっての聖書のように、少々大袈裟でも、ライフラインとして、自分にとって、そこに書かれている事が、非常に個人的に意味深い物だからです。思えば、偶然というにはあまりにも長い過程を経て、出会った書物でもあります。数人の方が既に秘密を知っています。ので、秘密です(笑)。自分はスパイには全然向いてません。こんな日記の文章、「秘密です」って書いてある旗立てて、目につく場所に飾ってる様なもんじゃないですか。








2013.3.15



「さすがにつかれました」



昨日はポール・オースターの「幽霊たち」を数年ぶりに読み返して、三角さんとのプロジェクト用に、キーワードをいくつか考えました。しかし、久々に読むオースター。200頁足らずの物語が、全然一筋縄では括れず、分っていたとはいえ、その、思考がグニャッと曲がる物語に、堪能すると同時に、キーワードがなかなか絞れずに、昨夜は睡眠中も「うーん」と唸ってました。自分の中の何かを吸い取られてしまった感じです。オースター面白い。で、今朝、漸く三つのキーワードを書いたのですが、頭の中が抜け殻の様になってしまい。だったら鈍った身体でも動かそう、と久々に遠くまで歩いたら、ただ単に身体が疲れてしまいました。頭も身体もすっかり動けなくなったので、観念して早く寝ます。抵抗してもむだだ!





2013.3.12



「正しい想像力の使い方」



正しい想像力の使い方は、

過去形ではなく、

現在形ではなく、

未来形でもない。









2013.3.7



夢3月5日:

神奈川県藤沢市大鋸にいる。昔の友達の家の前を歩いている。懐かしくなる。

遊行寺の坂上で、現在、横浜市に住んでいる友達から、メールが来る。が、スマートフォンの「輝きアプリ」でメールが眩しくて見れない。そもそも自分がそのアプリを使って、遊びで、彼に送信したのだ。その返事。

古い深緑色の日本車スポーツカーに乗った男が、左折して入って来るが、曲がり角で止まる。見ると彼も「輝きアプリ」を使っていて、画面が不必要に眩しい。文字を読もうとすると、眩しくて涙が出る程。

自転車で遊行寺の坂を下る。オートバイの人に道をゆずったり、ゆずられたり。

いびつな4−5階建ての実家にいる。自分の新しい部屋は、とってつけた様な、5階の小さな、一段高くなっている部屋。少し下がった部屋には母がいる。自分の部屋には楽器がある。

床上には、録音機材メーカーの、Drawmer製の厚さ5センチほどの大きな箱がある。何の機材かと、良く見るとグランドピアノの形をしたエレピで、小さい鍵盤が付いている。金属製の箱の上部に高音域と低音域別々にボルトが付いていて、どちらか一つが、完全にゼロになっていて、バランスが狂うのではないか?と心配するが、「この機材はこのセッティングで鳴らすのが昔から一般的に良い」と誰かが言う。







2013.3.2



「影と身体」

昨夜、寝る前にうっかり飲み過ぎてしまった。コストコのコスパの優れたウイスキーを、いつもと同じ量グラスに注ぐ筈が、本当にうっかり手が滑って、あと部屋が暗くて良く見えずに、いつもの3倍、注いでしまった。それは2杯めだったのでボトルに戻すのも気が引けて、疲れていたし、えいっ!とほぼ一気に飲んだのが午前1時過ぎ頃。なげやりな感じの音楽を聴きつつ、本を読んでたら、急に酔いが回って、それどころでは無くなってきて、気付くと、昼間ミックス作業でずっと聴いていた声が、左右ステレオで別々にBPM60で正確に聞こえて来る。聴いていた全然別のCDはとっくに終わっているのに、幻聴みたいに、脳内で勝手にミックスが続いている。もちろんヘッドフォンなんかしていない。以前、運転免許更新の際、係の人が、「睡眠時よりも覚醒時の方が、6倍の早さでアルコールを分解する」と言っていたのを思い出し、「寝るわけにはいかない」と思う。歩く事もできないので、一人椅子に座ったまま、左右ステレオで別々に聞こえる幻聴を無視しつつ、時計をみると、もうすぐ2時。身体がものすごく震えたり、歯がガチガチいったり、指先が真っ青になったり、気持ち悪くなったり、意識が朦朧としたり、寝室でスヤスヤ寝てる奥さんが非常に羨ましくても、とにかく立ち上がれない。トイレにも行けない。

ふと先日、自分自身の輪郭を失う、夢を見た事を、思い出した。その夢に欠けている物は何か?当然夢なので、肉体である。悪寒に歯をガチガチさせながら、その夢について、思い出し、現実で肉体を伴いつつ、輪郭を失うと言う事が、どうゆうことなのか?身体から何か言われてる様な気がした。「思い知れ」みたいな。そして不思議な事に、そこには一寸した快感の様な物もあり「アル中」ってこうゆうことなのか?と想像したりした。しかし、何だってまた、うっかり飲み過ぎたりしたんだろう?以前これ程酔ったのは数年前だったと思う。その時はただもうアホらしくて、「もう酒なんか飲むものか」と思っただけだったけど。

結局3時過ぎに少し楽になったので、トイレで少し吐いて、歯を磨いて寝ました。バカみたい。てか、バカみたい。







2013.2.26



「夢二つ」



夢:2月25日


前輪の車軸の無いオートバイを運転している。前輪の車軸が無いので不安定な事甚だしい。危ないので、バイク屋に乗って行くが、誰もおらず(居たかもしれないが、記憶に無い)結局車軸の無いまま、バイクに乗って出て来る。

自宅の居間に居る。窓が開いて飼っている猫達が外に出てしまう。猫達は順番に1mくらい外に出て、すぐに戻って来る。外から猫をみな家に入れ、窓を閉めようと、ガラス越しに家に中を見ると、知らない猫が2匹増えている。

ハムがあるので、なかなかありそうで無い、厚切りのハムカツを作る。さぞかし美味いのではないかと思う。


夢:2月26日

高校時代の男の友人が夜の道を歩いている。女性の声で「いい人なのに何故上手くいかないのかしら?」と聞こえる。

どこかの大きなバーに居る。カウンターが20mもある。店には知り合いが、常連客として来ていて、カウンターの中に入って、カルアミルクの様な物を自分で作って飲んでいるが、自分はウイスキーを座って飲む。

お腹が空く。家(実家?)で出た食事が気に入らないので、外を歩きながら食事をする。夜道を歩きながら、上り坂のコンクリートの上を、レンゲですくうと、地面がトマトリゾットになっていて「汚い」と思いつつも食べてしまう。次は、どこからともなくトンカツが出て来るが、これも歩きながら食べる。トンカツは火が入りすぎていて、少々固い。住宅地の高級そうな家からは、心地良さそうな光が漏れている。ふと、気付くと、少し離れた暗がりの中から、人影が出て来る。母親が実は実家からずっと後をつけて来たらしい。今までの食事の一部始終を見られた思いに、恥と、怒りが、こみ上げて、別に大した事では無さげな母親から逃れよう?とし、近所の住宅に聞こえる様に「助けて!」と叫ぶが、夢の中では声にならずに、実際には「ハァーッ!」と叫んで目を覚ました(ちなみに母親は現実の母ではなく、少し小柄で、見た目もどこか違っていた)。








2013.2.23



「通過儀礼」



もう何回も読み直している本があります。本当は他にも好きな本が沢山あり、読みたいのですが、その一冊が、あまりにもインパクトがあり、文字通り読む度に視点が成長するので、読み直すと前回気付かなかった箇所や、読み飛ばしてた箇所に込められている意味やニュアンスが違って来るのです。

道を歩いて行くのと似ていて、進んだ分だけ、先が見える。その繰り返しが、起きるのです。今、連続して7回目を読んでいます。本の名前は伏せておきますが。

先日も読み直していて、この日記にも最近よく書いている、夢に頻繁に出て来た「大きな窓」を割ったり、おそらく、その結果、自我の境界線(窓=敷居=境界線)が崩壊して自失し、気が狂いそうになる夢を見たり、その様な一連の夢を通じて経験している様な事は「通過儀礼」として、未開人の社会の中で、成人になる為に、行われている儀式と、似ている、と感じました。未開社会でなくともキリスト教の洗礼式に象徴される様な「死と再生」のプロセス、との類似性を感じます。

「死と再生」なんて言うとアカデミックですが、「気が狂う夢」の中で、自分が誰だかわからなくなるのは、ものすごく恐かったです。目が覚めずにあのまま自分が熔解してたら、と。そしてそれは「単なる夢」というよりも独特の重みを持つ物でした。

そういえば、小さい子供にとっての「なまはげ」だって、家族で一緒に居て、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、まさに「安心感」のまっただ中に、しかも自分の家か、親戚の家に居て、いきなり「鬼!」が飛び込んでくるんですよね。本当に小さな子供で、何も知らされてなければ、まず混乱し、そしてパニックを体験するでしょう。そして安全の代名詞である大人達は、大人目線で笑うばかり。「どうして守って戦ってくれないの?」と思うかも知れません。ひょっとして「みんなが鬼なんじゃないか?」と見えてるものに対する疑いも抱くかも知れません。一瞬で世界が変わってしまう。

おそらく伝統的な通過儀礼には、そのような「異界」からの帰り道もちゃんと用意されていたのでしょう。生還できるようになっていて、帰って来た時は社会のメンバーとして受け入れられる。

今のこの世界の事は、自分には「特に」わかりません、ので、当てずっぽうですが、通過儀礼という事を当てはめてみると、形骸化していたり、歪んでいたり、戻る地点がおかしかったり、戻って来れなかったり、儀礼でも何でも無く、ただの犯罪だったり、ただの暴力だったり、良くも悪くも、多様化、高速化、商業化、そして政治化、あるいは孤独化、しているのだと思います。

そんななかで、個人的体験として、夢、を通じて、通過儀礼と呼んだ時に、腑に落ちる体験をした、と言っても良いかどうか、わからないのですが、なるほど、以前より、ほんの少しだけ、前に進んで物を見ている様な、というよりも、前に進んだ自分自身を捉えている感じがします。






2013.2.16



「例えば普通」



小津安二郎の「麦秋」というdvdを380円で購入して以来、ほぼ二日に一回は食事の時などに観ています。

2013年の今となっては終戦まだ間もない頃の日常など知る由もなく、それがこの様な映画を観ると、何となく伝わって来て、そのあまりの違いに、タイムマシン的な楽しみ方もしています。例えば、自分の両親がどんな時代の価値観の中で、生活していたか、おぼろげに想像できます。

もう、何十回と観ているこの映画を先日も観ていて、はたと気付いた事があります。

この映画の登場人物が、あたかも全体で一人、と言っても大袈裟ではない様な、自我を「共有」していて、全てが「それ」を軸に回っているのです。

原節子がいて、笠智衆がいて、杉村春子、淡島千景、いつものおばさん、その他名前忘れちゃった俳優の方々、子役、がいて、だけどいわゆる「個人」よりも、みんなで共有する日本的集合的自我、の様な物、が本当の主役なんですよね。みんなで人格を共有するのって、こんなに暖かい、個人の輪郭がぼやけて滲んでるのってこんなに安心、そして美しい。

実際はかなり危険もあるんです。本当に良いかどうか誰もわからない縁談を「なんとなく良いんですよ」と最初から決めてかかっていたり。だけど、当時は(少なくともこの映画の中では)当事者(原節子)と同じ位、家族のみんなが納得する事に意味があったんですね。だからって本当は先の事なんか誰もわからないんですが、今と違って、みんなが「もっと当事者と一心同体」だったみたいです。

そしてそんな風に「みんな」があることが幸せであり、有り難い事だったみたいです。そんなじわーっと来る様な、何とも言えない暖かみが、やはり観てる自分にも、魅力的で、ついつい、ごはんのお供に、観てしまいます。

それがこの映画を観て自分が想像する「当時の普通」です。でもそれはやはり、映画の中の、昔の、失われた「普通」だと思います。今、自分が求め、感じる、そして得難い、「普通」とは大分違います。それは何よりも、孤独で、(くどいけど)得難く、そして、中々通じない。ひょっとしてそんなのは「普通」でもなんでもないんじゃないか?なので、孤独なんか全然好きじゃないのに孤独になってしまうのかもしれません。だけど「普通」っていう言葉のもたらす、正直で、リラックスした感じが好きだし、大事だと思うので、それを求めて行きたいと思う次第であります。

てか、そもそも、求める、なんてあんまり普通じゃないのかも知れませんね(笑)。





2013.2.14


「大きな窓2」


自分が見る悪夢の中で、一番不快で、やっかいなのが「気が狂う夢」だろう。今までも大体2〜3年に一回位の割合で見て来た様に思う。数年前は、パニックで目が覚めた後も、頭がグルングルン回って、どうしようもないので、朝5時に車に乗って駅周辺をグルグル運転して気持ちを落ち着かせたりした。

「気が狂う夢」の詳細はまちまちだし、昔の夢はもう思い出せないが、共通しているのは夢を見ている主体=自己の輪郭がぼやけ、わからなくなる、事だと思う。覚醒時には身体が、世界が、他人が、自分を自分に繋ぎ止めてくれる。だけど夢の中では、一旦主体の存在に対する疑い、が浮上し始め、加速の兆しを見せると、それを抑制する要素が見いだせず、その事自体がパニックを引き起こすきっかけになる。

どういうわけか、最近、その様な夢の頻度が増えて来た。つい先日も似た様な夢を見た。自分は小川の横にある露天風呂に入っているのだが、世界は既に崩壊していて、やはり同じ様に自分は気が狂いそうになる。形の上では露天風呂に入っていても、それは自己という輪郭=世界に含まれており、世界が既に崩壊しているという事実は、主体の輪郭がわからなくなっている、という事らしい。

このタイプの夢が増えて来ている事について、何となく思い当たる事がある。

1月5日の日記「大きな窓」の中で「今度夢の中で「大きな窓」が出てきたら自分も岩を投げつけて割ろうと思っている」と意思表示をした。だけどそれは、夢に関する話なので、実際にそれを夢の中で実行しなくとも、そのように意思表示した事で、既にそれを実行した事になっていたのかもしれない。その結果、窓の向こう側とこっち側の区別が無くなってきていて、自分の意識だけが、それに「ついて行けていない」のだとしたら。

それが「気が狂う夢」を形作っている。ちょうど、マッサージ時に抵抗すると余計痛む様に、意識がリラックスしていないので、別の言い方をすると、気が小さいので、パニックしてしまう。だから、起こっている事に抵抗しなければ良いのではないか?そんなに悪い事ではないのかもしれない。窓という敷居を壊したかったのは自分だし、それがどこに向かっているのかはわからないけど。今度、同じ様に夢の中で自分の輪郭がわからなくなりそうになったら、そのまま行けるとこまで行ってみようと思う、やはり、一寸恐いけど(笑)。「本能」という言葉を思い浮かべた。

あとですね、以上の様に書くと一寸大袈裟だけど、外側から見ると、ごく普通に、年齢とか、疲労とか、性格とか、ケミカルバランス、とかいう事なのかもしれません。夢なんか全くのナンセンスという事も出来るでしょう。でも「ストーリー無しに人は生きては行けない」というポール・オースターの言葉が僕は好きで、どんなに散文的であれ、ストーリーの無い夢は無いのです。








2013.2.12




「例えば怒り」


最近、肩と背中と、首のコリが酷く、先日、ある方にマッサージしてもらったら「精神的にも結構溜め込んでるとこう成っちゃうんですよね、重傷ですね」と言われて、「40肩です」と言われるより何か高級感があるので「はい!精神的な物だと思うんです!」と冗談で答えました。

でも最近は、いろいろとやりたい事を頑張らせてもらっているので、それは勿論、将来の不安とか、言い出したらきりがないのかも知れませんが、最近は充実感の方があり、「精神的に溜め込んでる」と言われても「?」な感じなのです。

それでも、身体は痛むし、首も痛くて曲がらないし、で、言われてみると確かに何か溜めている気がするんです。例えば「怒り」。

「怒り」って社会的には一番やり場の無い、そして、事件や犯罪に結びつきやすい、そういう意味では「疎外された感情」だと思いませんか?身体のどうしようもないコリを通じて、遠くに感じるのは、自分の「抑圧された怒り」なのかもしれない、と今日ふと、思いました。

今の僕みたいに、アルバムを作ったり、バンドで活動できたり、表現させてもらったり、とてもやりがいのある、事をさせてもらっていて、だけど、小規模とはいえ、それは他の人達の協力と理解の上に初めて成立する社会性の上に、成り立っている以上、例えば「怒り」のような、難しい感情は、変な言い方ですが「無視」されて来たのかもしれない、と、感じたのです。

間違いなく、自分の中には根源的な怒りがあると思います。自分の作品の中にも、それは正直に出てると思いますし、自分が好きな作品も、おこがましいですが、怒りといった物が、全体のバランスの中に説得力を持って含まれていると思います。それは、深みであり、偽善の反対にあるもの、どうしようもない人間らしさ、として、大切に感じている、隠し味、エッセンス、のようなもの、間違えると危険だけど、故に、現実的な物、の一つ。

と、思っていたのが、ちょっとアイロニカルな状況、と呼ぶにはスケール小さ過ぎる(笑)、にはまっていたのかも知れません。不自由さ、の様な物でしょうか。

でもですね、自分の「分」を超えているのは、承知なのですが、ラジオでニュース聞いてると、この「社会的に疎外された感情=怒り」を「貴様〜!」と言って他人に押し付けて、集団化して、一旦始まると後戻りが中々出来ない様な「流れ」を形作りそうな、状況、に事欠かない昨今になっていたり、子供に教育現場でぶつけていたり、ちょっと「怒り」というテーマを正当に見直しても良いのではないかと思います。

アメリカに住んでいた時は、未だに、れっきとした人種差別や、憎悪犯罪がありました。そのいくつかは、自分自身の「怒り」にあまりも無頓着で、無意識な態度の産物なのかも知れません。

「怒り」についての居場所があまりにもないがしろにされすぎてる様な気がするのです。あまりにも若者の歌が「ありがとう」を連発する事の反対にある事かも知れません。「怒り」がイロモノ扱い、と言うか。人間にはまだまだ不自由というか。


「分」を超えたついでですが、以前1月18日の日記に、

ジョン・アーヴィングの小説「ガープの世界」に、「最も難しい行為は「我慢のならない事を我慢する事」だ」と書いてあったと思う。

と書きましたが、もう少し説明すると、

「最も難しい行為は、始まってしまった負の連鎖が、第二段階に進む前に、我慢する事だ」

というニュアンスがあると、自分は読み取っています。

9.11の後に、報復しない、という難しさを語っていると思います。





2013.2.8



「寺尾聡×お爺さん=宇野重吉」


先日、詩人の三角さんに黒澤明監督の「夢」のdvdを貸して頂きました。「夢」の公開当時僕はアメリカに留学していて、地元の映画館で観た記憶があります。その後、数回、いろんな場所で観て来ました。311の後は、嫌でも思い出す原発のエピソード。しかし映画そのものはかなり忘れていて、昨夜、自宅でゆっくり観たら、冒頭から涙腺が緩んでしまい、奥さんが席を立った隙に、涙の処理をしたりしてごまかしました。

昔観たときよりも楽しくて、何故か、ずっと心の中に「巨匠」の二文字が浮かんでました。別に皮肉ではなく、やはり「巨匠」って言われる人って「巨匠なんだな〜」とそこでも感動しました。前日の日記の中身と重複しますが、「巨匠」って人間社会からも保護されるべく、保護されて来た、大切な存在、だから、あんな事も説得力を持って表現できるし、ゆるされるし、求められる、のかもしれません。

昔観た時からやはり、自分は最初の二つのエピソードが好きです、「狐の嫁入り」と「桃の節句」。それと一番最後の「水車小屋の村」のお爺さん、記憶の中ではずっと宇野重吉さんだったのに、観たら笠智衆さんではないですか、きっと長年の記憶の中で、寺尾聡×お爺さん=宇野重吉、という計算が行われていたと思われます。家は二日に一遍は小津安二郎の「麦秋」を観ているので、思わず「笠さん!」と嬉しくなってしまいました。

それにしても「原発」のエピソードは311以降の現実が近すぎて、あまりにも痛々しかったです。特に子供二人を連れて逃げまどうお母さん。有害物質をジャケットで必死に振り払おうとする寺尾聡。



2013.2.8


「天文学的な数の要素」


先日、尊敬する大先輩ギタリストと現場をご一緒させて頂く、嬉しい機会に恵まれた。自分もこの年齢になるまで音楽を続けさせてもらって、この方の様な素晴しい演奏に至るまでの、才能や努力、運命や犠牲、等に思いを馳せる事ぐらいは出来る様になってきた。

演奏の合間に楽屋で楽しく話していて、僕の師匠のチャーリー・ヘイデンの話題になった。その方の「もし彼が今の日本にいたら、プロに成れていたと思う?」という質問に、自分は「そうですね、ひょっとしたら難しかったかもしれませんね」と答えた。おそらく10年前ならその質問に自分は傷付き、腹を立てていたと思う。

でも今は物の見方が違う。僕の師匠の根源的な天才(と言って差し支えないと思う)は僕にとって疑い様のない事実だが、それは、本当に様々な要素(ある意味「偶然」も含まれる要素)によって「保護」されて来たのだと思う。要素の大まかな物は、場所、時代、運命、の様な物だろう。それら天文学的な数の要素によって、師匠はジャズという大木の複雑につながった根っ子の一部にしっかりと組み込まれている。そして同時に、それらの要素はチャーリー・ヘイデンという一人の人格として、奇跡として、生活し、日々呼吸している。地球の裏側で。

だから、比較自体が成立しないが、もし、師匠が今の日本にいたら?プロ云々どころか、それ以前に、生活全てについて行けないんじゃないだろうか?少なくとも今の師匠の様には成っていないと思う。故に、かけがいの無い、本当に大切な存在なのだ。


先日の話に戻ってしまうが、この世界で、如何に「普通」の自己という物を求め、生きて行くか?と言う事が、自分には大切な事に思える。






2013.2.6


「ライブラリ@茶会記を終えて」ー「普通」にやって、何かが伝わってくれるのって、一番楽しい。



「普通にやる」ということが何にも増して大切だと思うのです。エイドリアン・ブリューというギタリストの曲に"a simple life is complicated”(平凡な人生は複雑だ)という他愛も無い歌詞がありますが、「普通」は見方によっては、本人にとってすら、全然普通に見えない形だったり、あるいは、あまりにも予定調和に普通過ぎて、逆に驚いたり(笑)、します。でも、どの場合でも、「普通」というフィルターを経過する事によって、自分はそれに、発信、表現、しても良い、という許可を与えています。

「発信」の許可と言っても音を出すばかりでは無く、聴く、という事も含まれています。勿論アンサンブル内の話ですが。例えば昨夜、一番最後に演奏したstar eyesというオリジナル曲のインプロは、自分の目論見とはかなり違った展開をしました。

細部に渡る事は避けますが、例えば、(あくまでも例えです)自分がロックの影響を受けているとしても、「ロックとして」演奏されてしまうのはとても困る、と言った様な、崩壊、を内心、密かに予感しました。

でも、アンサンブルの一員として、そこで起きている流れに耳を傾ける、丁度他人の話を「おしまいまで」聴く、様に。すると、まず耳が、すうっと、「普通」の世界に連れ戻してくれます。その覚醒の中で、自分が同曲に、先日、別の現場でデュオ演奏した際の展開の仕方、さらにそれを発展させる、という事を、無意識に期待していた、事に、思い当たります。

理屈から言っても、他の3人のメンバーは居なかった訳だし、場所も、リスナーも違うし、そのこだわりの非現実性に気付く、という事は「普通」というフィルターを経過した事になるのです。

「あー、みんな、普通にやってくれてるんだなぁ」。

その他にも、昨日は曲間に、沢山しゃべりました。曲の解説が多かったと思いますが、思うに「普通」という形でのコミュニケーションを大切にしたかったんだと思います。面白い事言っても、つまらない事言っても「普通」に感じられる何か、が欲しかったんだと思います。

終わってから数人のリスナーの方に「本当に楽しかった」と言ってもらえました。そうゆう形で、言葉のやりとりが在っても無くても、音楽や詩を通じて、「普通」にやって、何かが伝わってくれる(一体何が伝わってるんだろう?)のって、一番楽しい事なんだ、と思いました!

自分の声を見つけつつあるのだと思います。

やはり、メンバーの橋爪さん、飯尾さん、井谷君、三角さん、リスナーの皆さん、会場のスタッフの方、に感謝しない訳にはいかないです。

本当にありがとうございました。

そして、僕は昨夜は、全然気付いてませんでしたが「レコーディングも終わって更にまとまった」という井谷君の意見、振り返ってみると確かにそうなんですね。

他人の話にはいろんなことが隠されています。

演奏後コーヒー飲みながらから橋爪さんに聞いた「盆栽の話」もとても面白かった!





2013.2.1




「問題無くして作品は無い?」


「決して自分の思い通りにはならない、内面から湧き上がる何か」が無いと、作品にはならない。とは、ある歴史上の有名な心理学者が語った言葉ですが、そこまで大袈裟ではないにしても、先日録音した自分のアルバムのミックス作業をしていると、「まさに」な感があります。

いつも、それはまず、「問題」の形で現れます。「う〜ん」これはヤバい。という部分で始まり、ほとんどの場合(何故か)問題発見と同時に「こうしたら」という解決策がひらめきます。そして大抵、解決策には「+α」がくっ付いて来ます。それが上手く行く時もあるし、問題が更にややこしくなって全然駄目な時もあります。

先日吉祥寺で映画監督ウッディ・アレンに関するとても楽しいドキュメンタリー映画を観ました。最初のアイデアを紙に「書く」のはとても簡単だ。と言っていたのが印象的でした。問題はそれを「映画」という作品に仕上げて行くプロセスなのだそうです。「思い通り」にならない、のだそうです。

「数打てば」当たる、方式を採用している。と、監督が語るのを「いいなぁ」と羨ましく思いました(笑)。もちろん映画は「マンハッタン」等の代表作中心に綴られてますが、自他共に認める「駄作」の存在と、恥ずかしさをそのまま語るドキュメンタリーに心地よさを覚えました。既に社会的であるという事は何かと羨ましい事です。

それにしても、「問題」「解決策」「+α」の結果として、それまで想像してなかったけど納得する「ポイント」に落ち着く、というプロセスを繰り返していると、「問題無くして作品は無い」という事なのでしょうか?と思えて来ます。






2013.1.30



夢1/30:


夢の中で、自我が「別の自我」にシフトしようとする。今ある、この自我では無く、それまで無意識下にあった複数ある中の「もう一つの存在」が、今の自分を乗っ取ろうとする。この自分が崩壊し、別の何かに組み入れられそうになり、恐怖で目が覚める。






2013.1.28



「牛、牛、牛、って深いです」


昨日は、三角さんとうちの奥さんと、静岡ボタニカ・アートスペースという場所に行ってきました。彫刻家石上和弘さんの個展「ボタニカウ」での演奏に三角さんにデュオで呼んでいただきました。ご自宅が牛舎を改造された建物で、ご実家が牧場、子供の頃から牛を見ているので、牛なら何も見ずに描く事が出来る、という石上さんの、僕個人の感想ですが、哺乳類独特のエネルギーが暖炉の様に空間を満たす、暖かく、心地よく、そして距離感も気持ちよい、会場でした。

作品は暖炉の様でしたが、実際の気温は若干低く、ジャケットを着たまま演奏させて頂きました。失礼しました。内容は、石上さんの作品から、三角さんが書いた詩を二編、インプロ、ライブラリで歌って頂いている、僕自身が作詞した曲1曲、三角さんが作詞、を3曲。本当に楽しく演奏させて頂きました!演奏し終わった際、展示されていた作品に、それまで以上に親しみを感じました。

その後、ボタニカのカフェスペースで石上さん手作りのヨーグルトを大勢のお客さん達と頂いたのですが、食べたとたん身体が喜ぶのが分る(笑)、非常に美味しい、素晴しい酸味とコク、のあるザラッとした食感のヨーグルトでした。牛、牛、牛、なんだか分らないけど素晴しい!そして僕んちの側は気付くと牛舎でした。牛乳石けん使ってます。

うちの奥さんと石上さんの会話を横で聞いていたのですが、近所の牛舎を通じて、様々な牛に関する知識をいつの間にか蓄えていたらしく、二人の会話について行けませんでした。ビニールハウスの不思議な機械で、パタパタ叩いている物は堆肥だったんですね!

牛、牛、牛、って深いです。









2013.1.23



寝る前に今日も詩を翻訳しました。気持ちが少し落ち着きます。目に見えて何かが生まれるからかもしれません。しかもそれは既に生まれていたもの。ずるいですね。だんだん分って来たのですが、ブコウスキはキャラが安定しているので、実は安全な感じが魅力なのかも知れませんね。少々キザですが。でもアメリカ人だし、L.A.の人なので許します(笑)。


誰がここで生きていたかでは無く ー C.ブコウスキ


誰がここで死んだか;
そして いつ では無く
どのようにして
       有名な偉大な人物
               では無く
人知れず死んで行った偉大な人物;
       世紀の
          大歴史
では無く
人々の人生。

寓話は夢であり、
       嘘ではない、
そして
   真実は変化する
人の
  変化とともに、
        そして真実が揺ぎ無いものに成るとき
  人は
    死
     になる
        そして

そして火そして
洪水
が真実に
  成る。





2013.1.18

「非寛容」


自分の最も危険な欠点は、運転中にある事に関して、我慢が効かなくなる事だろう。自分から見て、酷いと思われる他の車、オートバイ、自転車、歩行者、の行為に対して、自分でも危険だと思う程、非寛容になる。

今日の夕暮れ時、ショッピングセンターから左折して出庫した際、右側から自転車が接近して来ていた。純分な距離だったので、そのまま出庫、数十メートル先の交差点が赤信号で、自分も前の車の後ろに停止。すぐに信号が変わり、加速させようとした時、片道一車線の右側中央分離帯側から、さっきの自転車が斜めに前に割り込む形で、左の歩道側に移動した。自動点滅のライトはハンドルに点いていたと思うが、外は既に暗く、サイドミラーには僅かに黒い物体が動いた様に見えたのみ。危うくぶつかりそうになり、クラクションを鳴らした。黒の少し高級そうな自転車に乗り、黒ずくめの服装に、ニットキャップを深くかぶり、口ひげを生やした、30~40歳位の体格の良い男は振り返り、怒って何か叫んだ。自分も頭に来てクラクションをさらに長く鳴らした。歩道の脇を走行していた自転車が、加速中の車を右から割り込んで追い抜かそうとする。しかもそれを目視する事は不可能に近かった。本当に危なかったのだ。それが自分には許せなかった。

ジョン・アーヴィングの小説「ガープの世界」に、「最も難しい行為は「我慢のならない事を我慢する事」だ」と書いてあったと思う。ガープの場合、相手は自らの舌を切除し抗議する過激なフェミニスト団体の醜悪さだったが、彼の非寛容は、自らの暗殺未遂事件にまで発展する。勿論小説の話だ。自分の場合は、その男はどこまでも自転車で追いかけて来た。一直線の道で信号も多いので、追いかけて来るだろう、と予測して、左側のサイドミラーを確認してると、赤信号で誰かが右側の運転席の窓ガラスを叩くので、見るとその男だった。あくまでも中央分離帯を走る人らしい。窓を下ろして話を聞くと「あんたの出て来るタイミングが悪ぃーんだよ、このばぁーか」と言うので「そんなことない、とても危なかった」と言っても「このばぁーか」なのでだんだん自分も馬鹿らしくなってきた。殴りそうな人だし、あまり自分が悪いと思えないので、殴りたければ殴れば良い、と思って覚悟していたが、それも無く「すいませんでした」と謝ると、相手も気が済んだ様だった。だが、やれやれ、と思った矢先、また、加速しようとしている車の前を斜めに横断しようとした。「それがあぶねーんだよ!」と言うと「何があぶねーんだ!」と信号青なのに道の真ん中からどかないので後ろに車の列が出来てしまった。

この一連の行動と成り行きが、あまりにも「どっかで見た事ある」「ありがちな」感じだったので、うんざりして見てると、気が済んだのか、済まないのか、今度は歩道の横を逆走して戻って行った。元来た道を戻って行った、という事は、相当頭に来て目的地を変更して、自分の後を追いかけて来たのかもしれない。

強くておっかなそうな男だったけど、自分のクラクションの鳴らし方は非寛容だったと思う。正しいとか正しくないとか言う前に。「我慢ならない事を我慢する」のが一番難しい、それが自分の言いたい事だ、と去年youtubeで見たジョン・アーヴィングは言っていた。それは「何故私はヘミングウェイはつまらないと思うか?」というテーマでカメラを相手に一人で喋っている何だか不思議なトークだったと思う。読者を惹き付ける作家だと思った。










2013.1.16



「社会復帰」

実はレコーディング以来、かなりひどい腑抜け状態が続いていて、音楽聴いてもスカスカ、聴ける音楽がグレイトフル・デッドとフィッシュだけという分りやすい症状。楽器触ろうとする吐き気がします。身体もフラフラで死ぬ程眠い。そんな中、吉祥寺にレコーディングのファイルを受け取りに行ってきました。これでちゃんと一区切りです。どんな状態でも明日からきちんとします!その運転中、僕は自分の車に大変お世話になっている事に気付きました、とても素敵なホンダフィットです。こんなにお世話になってるのに何年も名無しなのは申し訳ないので、今日から「いたち号」という名前に決めました。素敵な名前だと思います。


今日もリハビリ修行翻訳して寝ます。

勇敢な雄牛 - C.ブコウスキ


メキシコ人が
      やったとは  
           知らなかった:
                  その雄牛
は勇敢だった
      そして今
          彼等は死んだ雄牛を引きずって
                       行く

リングの周囲を
       彼の
         尻尾をつかんで、
                 勇敢な死んだ
                       雄牛、
私には
   特別な
      レッスン、、、
             そしてブラームスは
交響曲一番をベートーベンの
             九番から盗んだのだが。
             そして
雄牛は
  死に
    彼の頭部も彼の角もそして
彼の内蔵も死んだが、
          彼はブラームスより
                   良かった、
                        ベートーベンくらい
                       良い、
そして
我々が立ち去る際
        彼の音と意味
              が
私の腕を這い上り続けた
そして人々は私にぶつかり
つま先を踏んづけたが
その雄牛は私の中で燃えた
           私のジーザスの
                  ロウソク、
尻尾をつかんで引きずられ
            彼は何にもしなかった
                      そんな目に遭う様な事を、
そして長いトンネルと威嚇的な視線を抜けて、
その肘と足と目、私はカリフォルニアの為に祈った、
そして死んだ雄牛は
        人間の中に
         そして私の中に、
     そして私は手を合わせた
              私のポケットの
中深く、つかんだ暗闇、 
           そして先に進む。








2013.1.15


今日も同じ詩集の次の作品を和訳してみました。修行というか、日課になりつつあるというか、精神的に良い気がします。訳の精度に関してはご勘弁を。あと訳しながら「なに言ってんだろうね、この人は?」と半ば呆れつつ、でも丁度良い感じもするので、気分のリハビリも兼ねてる感じです。




贈呈用のコピーをどうするか? ー C.ブコウスキ

(拝啓、あなたの書いた詩の
ギャラが少ない事は
我が社も承知しておりますが、
4冊の贈呈用コピーを差し上げます、
あなた御自身かあなたが贈呈したい方に
直接郵送させていただきます。ー編集者より)

そうかい、だったらM.S.に送った方が良いさもないと
おそらく彼女は便器をオーブンに突っ込むから、彼女は
自分じゃいい女だと思っている、多分その通りかも知れない、知ったこっちゃ
無いがね
そしてC.W.は若い少年達に作文を教えるのに忙しすぎて
手紙の返事を書かないしいろんな場所に行くのを俺は知ってる、そしてそんな奴だから、奴にも一冊送った方が良い、、、
        そしてパーム・スプリングスに住んでいる俺の年老いた叔母  金が全て そして俺は
金以外全て持ってる、、、才能、良い歌声、
内蔵に深く食い込む左のフック、、、彼女にも一冊送ってくれ、
彼女に電話を切られたんだよ、最後に酔っぱらって電話した時に、
明らかに助けが必要な証拠があったのに、切ったんだよ
俺の電話を、、、
       そしてサクラメントから
手紙をよこして来るこの女、、、とても落ち込んだ
クソ女、ワッフルみたいに引っ掻き回され打ちのめされ、
優しくて知的な誘いを持ちかけてくるが俺は無視する、
だけど彼女にも一冊
         火箸の代わりに。

これで4冊?
      もっと詩を送ろうと思うよ
      近々なぜなら
      俺の詩を出版する様な奴らは少し
      狂ってる、だけどまあ良いさ。俺だって
      同じだ、どっちにしろー
それまでの間
      俺の詩を
          諦めないで欲しいもんだ
俺自身が
    諦める
       前にな。

c.b.




2013.1.13




「レコーディングを終えて」


自分がリーダーのアルバムレコーディングをすると、終わった後、なぜだか必ず傷ついた様な感覚に襲われます。昨日もライブラリのセカンドアルバムのレコーディングでしたが、今までの例に漏れず、何かに刃物で深くえぐられた様な感覚が、一人になったとたん襲ってきました。ま、いつもの事と言えばそうなので、疲れた、と言えばそうなのでしょう。だけど、これは脱皮の様な感覚の疲れです。昔テレビで、ジャングルに住む大きな蜘蛛の事をやっていて、ある月夜になると脱皮をするのです。それは非常に危険なプロセスで、肢体のどこかが外皮に引っかかったらアウト、上手く行っても日が昇るまでに長時間かけて乾燥させなければならず、その間、外敵は勿論、一寸でも動いたり、風が吹いて何かが飛んで来たらアウト、なのだそうです。

今はデジカメの時代ですが、昨日写真を撮ってくださった河原さんはフィルムカメラでした。以前から思っていたので、つい「デジカメの時代になってから、心霊写真って減った様な気がしませんか?」と馬鹿な質問をしてしまいました。思えば昨日のレコーディングもデジタルではなく、アナログテープマルチトラックでした。デジカメとの対比でいえば、フィルム(テープ)に音を焼き付けて行く作業が、あたかも「本物」の心霊写真を意図的に制作、していたのだ、と思い当たります。

お化け、じゃなくて、人格をもった僕自身のこの数年の魂、のようなもの、を月夜にジャングルで蜘蛛が脱皮をするように、テープに吹き込みました。まさに、その様な内容でした。それは大きく、予定調和的な自分の目論見を越えました。なぜなら、自分には自分のごく一部しか分っておらず、ましてや、他人であるメンバーや、エンジニアの事など、さらに分ってなんかいないからです。みんなが「僕」という人格を軸=きっかけ、にして、結果として、意図的であり本物でもある心霊写真をアナログテープに吹き込んでくれたのです。

思うに「仲良し」である必要は全然ないのです。だけど「トンチンカンな愛」は必要なのだと思います。昔観た「マグノリア」という映画に、テレビのクイズ番組で天才少年だった、ゲイのキャラクターが出てきて、最後に泣きながら「愛はたくさん持ってるのに、与える対象がいない」と訴えるシーンがあった様な気がします。様々なキャラが錯綜した昨夜の事を振り返り、ふとその事を思い出しました。で、それでいいと思うのです。蜘蛛はそのように危なっかしい脱皮をするのでしょう。

映画、また観たくなってきたので後でDVD借りて来ようと思います。そして、まだまだ、乾燥するには時間がかかりそうです。ひりひりしてます。

帰宅時に出迎えてくれた奥さんと猫の吾郎、ありがとう。

本当に皆さんありがとうございました。












2013.1.11


今日もまた、同じ詩集の次の詩を翻訳しました。自分がまず使わない言葉が出て来たりして楽しいです。一人称をどうするか、でもブコウスキなので無責任に「俺」にしました。

それにしても勝手に翻訳してホムペに載せるのって著作権的にはどうなんでしょうね?別にレクリエーションでやってるだけなので大丈夫だとは思いますけど、、、




恋人と古い南北戦争の絵画を観る事について ー C.ブコウスキ




砲手は死んでいた、
そして全ての兵士たちも;

うぬぼれた太鼓打の少年
墓よりも間抜けな
が、赤いネットの中に横たわっている;

そして落ち葉の下では、虫達が触角をピクつかせて
どっちに動こうかと決めかねている
ひんやりとした腐敗の傘の下;

風が僅かな水の様に流れる
そして衣服の下をサーチする、
移動しつつ哀れみつつ;

、、、衣服は重い骨によって固定される
午睡の中で
丁度人が梯子を下る様に、休んでいる;

だが一時間前
木 ー の影 そして 人 ー の影
が陽光の中に輪郭を現した

だが今、彼等の誰一人として
特定できない
何が彼等を無へと向かわせているのかを;

そして俺はおもにどこか遠くにいる女の事を考える
棚の二段目に大切な容れ物を並べている
カラッとした、陽の光を浴びた鼻歌を口ずさみながら。





外では、突然の嵐が夜をゆっくりと押し
戻していた
そしてそれを古い岸辺まで送り届ける、
そして見渡す限り骨、、、肋骨と明かり、
そして草、左に傾いた草;
そして我々は濡れ 背中を丸める 生きているので、
そして俺と今一緒にいるこいつ
まるで小包みたいに俺の切望を手にする
それを彼女の白粉や飲み薬やなんかと一緒にバッグに滑らせる
薄手のストッキングを引き上げ、喋り、髪に手をやる:
雨よ、なんてこと、雨が降ってるわ!
そして戦場で岩は濡れてひんやりしている、
岩のはっきりとした石目が月火の様に光る、
そして彼女は愚痴をこぼす 小さな緑の帽子を被り
王冠みたいな
そして不格好なマネキンみたいに歩いて行く
雨の筋の中へ。









2013.1.10

明後日のライブラリセカンドアルバムレコーディングに控え、リラックスする為に遊びで英語の詩を翻訳してみました。チャールズ・ブコウスキの22,000 Dollars in 3 Months です。ふとした事で英詩を翻訳するとただ読むのとまた違った楽しさがある事に気付かせていただきました。小説だと長くて無理ですが詩だとちょうど良いです。語学力は自信無いので、誤訳しまくってるかもしれませんが、レクリエーションという事でご勘弁を、楽しい遊びです。よかったら以下楽しんでください。

それと、自分はブコウスキの熱烈なファンという訳でもなく、たまたま何年も枕元にthe rooming house madrigalsというこの人の詩集が放置されていたので、面白そうだから何でもよかった、という程度の動機です。だけど、やってみたら今までよりずっと読む事が面白かったです。時間もかかりますが。英語もですが、日本語力の無さもよくわかる、てか、日本語が少々恥ずかしいです、が、楽しいです。




3ヶ月で2,2000ドル ー C.ブコウスキ

何かが這う様に夜が訪れる
手摺の上で、出す
炎の舌を、そして俺は思い出す
膝まで糞尿にまみれた宣教師達が
青く美しい河を渡って逃れる
マシンガンが跳ね飛ばす
水面を そして 岸辺で酔っぱらったジョーンズが
言う 糞、糞、このインディアンめら
あいつらどこで火器を手に入れた?
そして俺はマリアに会いに行った
彼女は言った、奴ら攻撃して来るかしら、
奴ら河を越えて来るかしら?
死ぬのは恐い?彼女に訊くと、彼女は答えた
恐くない人がいて?
俺は薬のキャビネットから
大きなグラスになみなみと注いで、言った
俺たちはジョーンズの為に道を作って3ヶ月で2,2000ドル稼いだんだ
そして一寸だけ死ななきゃならん
これほどの短期間で済ませるにはね、、、彼女は訊いた、これって共産主義者が始めたんだと思う?そもそも共産主義者が始めたのかしら?
俺は答えた、神経症のクソ女はもう止めてくれ。
奴らの様な小国は両方からポケットに金が入って来る、だから蜂起するんだよ、、、彼女は女学生並みに世間知らずの美しいまなざしで俺を見つめ
部屋を出て行った、もう暗くなりかけていたが放っておいた、
もしある女をキープしたいのなら、彼女が出て行くべき時ってものをわきまえなきゃならない、
それにもしその女をキープしたくないのならどっちにしろ彼女は出て行くんだから、
どっちにしたって、いつもそれは放っておくプロセスなんだ、
だから俺はそこに座って一杯飲み干すともう一杯注いだ
そして考えた、一体誰が年増女に土木建築の教育を受けさせる事が
深いジャングルの夜にランプがゆっくりと揺れる様な場所に俺たちを連れて来る事になると想像し得たのか?
ジョーンズが彼女のブルーのウエストに手を回してやって来た
彼女も酔っぱらっている、俺は近づいて行って言った、
御主人と奥様で?その言葉に彼女はキレた、もし俺の睾丸を握り潰せたのなら、彼女はそうしていただろう。
俺はもう一杯なみなみと注いで
言った、お二人はお気づきじゃないかも知れないけど
俺たちはここから生きて帰れないよ。

俺たちは夜通し飲んだ。
本当にじっとしていると、聴こえた、
神の木々の間を水が降り注ぐのを、
そして俺たちが作った道を
動物達が横切るのを
そしてインディアンの奴ら、野蛮な十字架を背負った野蛮人の馬鹿ども。
いよいよ鏡で最後の姿を確認する
酔っぱらいの恋人達が抱擁しつつ
俺は外に出て麦藁を一本持ち上げた
小屋の屋根から
そしてライターで火を点けた、俺は
炎が這うのを眺めた、腹を空かせたネズミみたいに
細く茶色い柱を登る、それはゆっくりだったが
リアルだった、そしてリアルじゃなかった、丁度オペラみたいに、
そして俺はマシンガンの音のする方へ歩いて行った、
おんなじ河、月が俺を見ている
そして道上に小さな蛇を見つけた、ほんの小さな蛇、
ガラガラ蛇にも見えたが、そんな筈は無かった、
蛇は俺を見て怖がった、そいつがとぐろを巻く前に俺は首根っこを掴んで
押さえ付けた
小さな身体が腕に巻き付いた
まるで愛の指の様にそして全ての木々は目をひらいて見ていた
俺は口をそいつの口に付けた
すると愛は稲妻であり記憶であった、
死んだ共産主義者達、死んだ独裁者達、死んだ民主主義者達、死んだ神々そして
ジョーンズの小屋に残された物に戻る
彼の死んだ黒い腕は彼女の死んだブルーのウエストに巻き付いていた。









2013.1.5


「大きな窓」



もう何年もうんざりしている口癖に「死にたい」がある。ふと口をついて、無意識につぶやいているんだけど、正直な話、実際に死ぬ訳ではないし、それが何を意味するのかよくわからない。感情的な言葉だとは思うのだけど。

意味は分らなくても、それと対をなす様な一連の夢をよく見る。死、ではなくて天国の夢だ。

天国と言っても神様や仏様が出てくる訳ではない。それは天国ですらないのかもしれない。だけど振り返ってみると、確かに天国の様な感じがする。

その夢には必ず「大きな窓」が出てくる。そしてその窓の向こうには「素晴しい景色」が出てくる。

例えばある夢では、古い屈折した窓ガラスが天井まで延び、外には美しい秋の樹木が茂っている。そこは斜面に建てられた古い家の心地よい部屋で、自分はこの様な場所に昔から住みたかったと思い、全てが美しいと感じる。

またある夢では、窓は突然、公園の様な空間の「仕切」として地面から延びている。窓のこちら側は、ガラスによって外気から守られた「誰かの家」の中。床が途中から芝生になっていて鴨の様な鳥が歩いている。見ると芝生には外に出る道があり、美しい公園を通って海岸まで達する。

別の夢では窓ガラスは海の中から敷居の様に延びて、こちらとあちらに分けていたり。またある時は違う建物の窓だったりする。

そんな夢ばかり見続けている矢先、先日何気なく借りてきた映画に、気になるシーンを見つけた。それはもう何年も前、子供の頃見た楽しい冒険映画で、有名な監督の作品だったらしく、レンタルショップの特設コーナーに飾ってあった。すっかり忘れていたその映画を見ていると、やはり透明なガラスが地面から延びて世界を区切っている。だが映画の中で小人がそのガラスに岩を投げつけるとガラスは割れ、透明だと思っていた向こう側には、全く別の、夜の世界が広がっていた。

そのシーンを観て以来、今度夢の中で「大きな窓」が出てきたら自分も岩を投げつけて割ろうと思っている。しかし、何故だかそれ以来あまり「大きな窓」の夢を見ない。それとも、そんな事はしない方が良いのかもしれない。








2013.1.2

初夢:

夜勤のバイト先にいる。仮眠後の明け方で外は暗い。建物の前に車のバンパーが落ちている。きれいに外れたバンパーがいくつか転がっている。ふと目を上げると、黒いスーツ姿の男が10人位立っている。ネクタイはしていない、皆どことなくヤクザ風。その中に一人とても若い男がいる。自分は気付かないフリをして、通常業務を続けるが、彼等はドアの隙間から、中に入って行く。外のバンパーが心無しか増えている。







2013.1.1

あけましておめでとうございます。
先日、買ってから数年放ってあった「翻訳夜話」村上春樹 柴田元幸 著 amazon「翻訳夜話」 [ch0]
を読みました。翻訳家として主にアメリカ文学を訳されているお二人のフォーラムが中心のなかなか楽しい本でした。その中でポール・オースター著「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」をお二人がそれぞれ翻訳し、その違いをディスカッションするというコーナーがあります。これは映画「スモーク」の中でハーヴェイ・カイテル演ずるオーギー/ウイリアム・ハート演ずるポール の間で最後に交わされる印象深いシーンとしてご覧になった方も多いと思います。

前置きが長くなりましたが僕が読んでいて「そうだ!」と思ったのは次の一文です:

As long as there's one person to believe it, there is no story that can't be true.
「誰か一人でも信じる人間がいるかぎり、本当でない物語などありはしないのだ。」ー柴田訳
「信じる相手が一人でもいるかぎり、どんな話だって真実になる。」ー村上訳

僕自身普段つくづく「聴いてくれる人がいない限り物語は存在できない」と思っているので「オースターはやっぱりいい事言うなぁ」と我が意を得たり、と思いました。

少し飛躍するのかもしれませんがこれは美という事にも当てはまる様な気がします。美というと美醜とか、美しいものは美しくて醜い物は醜い、と思われがちです。美しい物を集めて、醜い物は排除したい、という考え方も世の中にはあると思います。だけど、一人でも相手の話を聴き、信じる(鵜呑みでは無く真剣に聴く)人がいるならば、そこには美しい物が新たに生まれる可能性がある、と思うのです。この話の肝も、事実であったかどうか、よりも真実としてオーギーの話が読者を惹き付ける力、にあります。今あるもの、今まであった美しい物、が美しさの全てではあまりにもつまらないと思いますし、先日選挙でたまたま見た「美しい日本」のような政治家の押しつける美意識の真逆だと思います。







2012.12.31

元旦と言えば初夢ですが、これはもう何年も前から度々見ている「非初夢」です:

自分は沼地にいて夢中で「何かすごいもの」を作っている。時刻は夜だったり、夕暮れだったり、見る時によって違う。沼地は子供の頃、足がはまって身動きが取れなくなった事のある、実家の近くに実在した場所。大抵の場合「すごいもの」はロープや滑車などを工夫して作った大掛かりな仕掛けで、自分は、これが完成したらものすごい事になる、と確信している。

例えばそれは月の満ち欠けで沼の水位が変化すると自動的に浮かべてある小舟がロープに引っ張られて右から左に1m動くだけだったりする。

そこで大抵自分は「はっ」と我に返り、自分が夢中で作ってきた「すごいもの」がガラクタ同然の狂気の沙汰の、全くの無意味なナンセンスである事に気付き、あまりの恥ずかしさにその「すごいもの」が月明かりの中、誰かに見られるのではないか?と不安になる。

(しかし最近ふと、その「ガラクタ」が、見ようによっては、美しくもある事に、気付き始めた。)








2012.12.29

最後のお別れをした時に「あ、この人にとって自分は最初からゼロだったんだな」と感じる時があります。ゼロだったらマイナスの方が存在感あるかもしれない。
寂しいし悲しい。
同時におそらく同じ様な事をしてきた自分がいて、同じ様な事してきたから本当は少し違うのに「あ、この人にとって自分は最初からゼロだったんだな」と事実を都合に合わせて膨らませている。のかもしれません。





2012.12.25
夢12/25

古くて大きなホテルにいる。外壁は石の様なブロックを積み重ねて出来ていてとても頑丈。5階建てでエレベーターは昔風の鉄格子の物。A館とB館の2棟から成り屋上はグレーのれんが造りの床で繋がっており、そこがテラス付きの素晴しいレストランになっている。ウエイターの制服もグレーで趣味が良い、とても居心地が良くしかも自分はそのホテルのオーナーらしい。オーナーだけど誰が泊まっているか、建物の仕組みや配置がどうなっているかは大きすぎて把握できていない。道に迷ってしまい屋上のレストランでウエイターに道を尋ねるとグレーのウエイターがとても親切に教えてくれる。「彼は自分がオーナーである事を知らないんだ」と思うと非常に愉快になって、何だか歌い出したくなってきた。




2012.12.22

他人の話を全然聞けない人がいて、
あいつは人の話を全然聞けないっていう人がいて、
実はその人も人の話なんか全然聞いてなくって、
自分の話しか出来ない人がいて、
嘘ばかりつく人がいて、
嘘しかつけない人がいて、
自分を絶対語らない人がいて、
この世界にうんざりしていて、
それは大体みんな同じで、
みんながお金持ちで、
みんなが貧乏人で、
自分も相当他人の話なんか聞いてません。
こんな一年だった様な気がします。
今日はこれからペンを買いに行きます。







2012.12.18

夢12/18

美しい川がある。よく見ると数匹の魚が泳いでいる。50cm程の鱒の様な魚が時として一列になって泳いでいる。腹に赤みがあり美しい。


クリエイティブな意味でレコーディングの準備でも、非クリエイティブな意味で先日の選挙でも、大分鬱状態が続いています(病気ではありません)。そんな中この夢にこんなに支えられるとは思っていません
でした。





2012.12.4


レコーディング、来月です。自分の音楽を録音すればいいのかー、と自分の事なのに人ごとみたく思ってましたが、スタジオの持つ可能性、に無意識はとうの昔に気付いていたみたいで、可能性、を試すべく様々な実験の計画に向かって意識がナイル河みたいに否応無く流れてます。河を止められるのは神だけです。










2012.11.30

先日11月28日に行ったライブラリ@ビオロンもたのしかったです。
たくさんのお客さんにも恵まれ嬉しかったです!
自分に関して言えば今回のライブと前回のライブでようやく普通に成れた気がします。自分自身を長い間縛り付けていた恐れのようなものがどんどん小さくなって普通に成れた様な気がします。それが何よりも楽しかったのかもしれません。
音の上ではほんの僅かの差なのですが。
音楽の話だけでは無いのかもしれません。
とりあえずこの13年を振り返っての話かもしれません。
バンドを続けるとこうなるのかー!いままでずっとつき合ってくれたメンバーがとてもありがたく感じられます。前回からメンバーになってくれた三角さんも本当にうれしいです。タイミング的にも流れの様なものを感じずにはいられません。

みなさま、お世話になります。

来年は年明けにアルバムをレコーディングします。リリースまで少し時間をかけますが良いものをお届けしたいです!!!!!




2012.11.23


この三日間カミサンが岩手に行っているので家にいる五匹の猫とばかり話をしていたら頭がおかしくなりそうです。それは、みんな可愛いし、愛しているけど、お前ら、人間の言葉喋れよな。「う」とか「にゃあ」とか「くー」ばっかり。いいんだけどね、いいんだけど、全然悪くないんだけどさ、「う」とか「にゃあ」とか「くー」ばっかり。走り回ってんじゃねぇよ、うそうそ、いいんですよ。全然悪くない。たのしいなぁ。

「遊んでくれ」と言われてます。




2012.11.21


昨日はライブラリ@第14回図書館総合展でパシフィコ横浜で演奏してきました。
イベント会場でのライブは以前PAで泣かされた事もあるので、自前でバックアップ機材用意したり、ちょっと神経質になってましたが音を出してる時は本当に楽しかった。
今回から正式にメンバーとして加入してくれた三角さんお疲れ様でした!終わってから楽屋で「今回は自分でも意味が分かり易すぎる事をたくさん言ってしまった」とおっしゃってましたが、演奏中三角さんが「頁をめくる音が派生して、、、」と言ったとき井谷君がニヤニヤしてまして、そういうのも面白かったです。ゆっくりゆっくり進んで来たバンドですのでこれからもゆっくりとカーブを描いて行きたいです。バンドメンバーは勿論ライブラリ以外のお世話になってるミュージシャンの人達、いろんな現場のお客さん、勉強になっていないと思っていた様な事でも勉強になってたんだな、と思いました。ほんとうにありがとうございます。

昨日から奥さんはまた東北にボランティアに行ってます。東北の何所かも自分は分かってないのですがさっきメールが来て鮭の養殖のいけすの掃除をし終わった所だそうです。明日は全身筋肉痛になりそう、というメールを読みながら自分は寝転んで、大人になったらもっと大人になってると思ってったのになぁ、とボーっとしてました。流された鮭たちは何所に行ったんだろう?というメールには返事がまだありません。





2012.11.11

母親の形をした何か。
母親の様に見えるが母親ではない。布団のわきに立っている。
顔が少し違う。無言。怖い。
目が怒っている?
骨張って筋肉があり少し男の様だ。
お前は誰だ?と問うも、無言。
しかし表情を見ていると何かが伝わってくる。
何が言いたいのだろう?何か言いたそうだ。
彼女は固い印象を与える。

例えば「それ」はよく見ると笑いたそうに見えなくもない。
しかし母親の様な物が笑うと、全てはくずれ、形は変わり、色も変わり、内側から、何かがぼうちょうする様にめくれ、もはや母親の姿をもたない全く別のイメージに変容する事を知っている。

母親の姿をした敵陣にいる兵士にも見えなくもない。
それは困っているのかも知れない。






2012.11.03

気が付けば11年のアメリカでの生活の後日本に帰ってきて10月31日で丁度13年目になりました。連れて帰って来た3匹の猫達も13年歳をとったんですね。みんなまだ元気ですがその後アジとゴロという2匹の猫も加わり5匹仲がいいんだか何だかよくわからない感じで2人と5匹で暮してます。

13年なんてあっという間でした。そして若い猫達はそんな事関係無いとでも言う様に午前1時過ぎの家の中を全速力で駆け回っています。馬みたいです。





2012.10.30

先日のライブについてもう一寸具体的なレポート書こうと思ったんですが、全然別の事を書きます。結局何でも抽象的になりがちです。

流れについてさらに思うのですが、自分はかなり何にも無い状態から生まれてきています。何が何にも無いかというと人間関係が何にも無いという事です。だからかどうかは分かりませんがイメージというものがとても大切です。他人がどう見るかでは勿論無く何が自分に見えているか、感じているか、そのイメージに依存して生活する割合が高いです。流れ、と言ってるのもイメージですね。他の人の事は分かるわけも無いですが、イメージを意識する事は肝心カナメな程大切で意識しないと気付かないうちに結構振り回されます!「何だか知らないけれど」という括りでいろんな気分に苛まれます。例えばAさんがいて、その方の醸し出す印象なり雰囲気なりオーラがあるとして、無防備でボーっとしてると全然関係ない時と場所で訳も無くイライラしたりソワソワしたり「あれっ?」って思えればまだ良い方で、全部自分の気持ちだと勘違いすると訳が分からなくなります。苦しい時もあります。でもそれはAさんに属しているイメージの記憶なり印象だとはっきり意識できていればいる程、自分との境界線がはっきりするので「何だか知らないけれどソワソワ」したりしなくなります。何もAさんは人に限らず、映画でも本でも、動物でも、自然でも、同じ様に曖昧な境界線を乗り越えて憑依します(芸術なんてその為にある様な物かもしれません)。ここからが本題なのですが「イメージとはとことん正面から付合わなければならない」と思うのです。イメージを軽く見たり等閑にしておくと無意識のうちに自分なのか外部なのか分からなくなって様々な勘違いやさっき言った様な状態に見舞われたりします。ここが難しい所で普通は「無視すれば消えてなくなり」そうですが、実際は真逆で「とことん存在を認め、時間をかけて付合って行く」事で落ち着いて行く、安定し、有益になると言う事です。それには実際は何年もかかるかもしれませんが。ある意味誠実に生きて行くことはそういう事かもしれないなと思います。ちょっと頭のたがが外れた人みたいな事を書きましたが、実際は無自覚な方がずっとヤバいのです。日記らしからぬ内容ですが、まさにそんな一日でした。







2012.10.28

昨日ライブラリ+三角みづ紀@四谷三丁目総合芸術茶房喫茶茶会記無事終了しました。
来て下さったお客様皆さん本当にありがとうございました。

実はもう数ヶ月前から地下水の様な流れを感じてきました。それが生きているという事なんだと思ってきました。流れは抽象的な何かの例えで具体的には把握できないイメージなんだと思います。そしてイメージはイメージとして立派に機能するリアリティかもしれません。ライブラリのライブで流れを表現しているわけではなく、ライブも含めた日常がその流れに含まれていると感じる事、が肝心で、自然な事でした。生きていると感じました。






2012.10.25

今日はやすみなのだ。何所にも行かず、近所のスタバで昼寝と読書をするという迷惑な客をやりにいくのだ。昨夜も変な夢を見た。都内と思われる古いホテルの部屋にいるのだけれど、目が覚めたら以前も同じホテルの部屋に夢の中で居た事があったのを思い出した。ものすごい広い部屋で100畳くらい、天井も10メートル位、さらに奥にも部屋が続いていてスイートルームになっているんだけど、とにかく全てが巨大。そして古くてうらぶれている。絨毯は日に焼けて所々めくれ上がり、壁の漆喰も剥げていて柱は傷だらけ、部分的に破損している。5階くらいの高さで外を見ると町中の建物も同じ様に古くて酷くうらぶれている。高層ビルなんか無くってどれも5階くらいの古いビルばかり。空は晴れているのにどんよりとした感じで光が弱い。「これからはここで暮すのか」と思うのだけど床の上に直に寝て一泊して朝になったらチェックアウトする事になっていた。今度同じ部屋に行ったら奥の部屋迄行ってみようと思う。







2012.10.23


最近は日記の更新が遅いのですが、主な理由はここに書くのに相応しくない様な事が生活の大半を占めているからなんだと思います。何も悪い事してるわけではなくて超個人的な出来事の数々なので、この「既に個人的すぎる」日記にすら相応しくないと思うのです。普段読んで下さってる方は「今迄以上に相応しくない超個人的な事があるのか?」と呆れられるでしょうね。僕にだって秘密にしておきたい事もあるんですよ。そんな事ばかりおきるのです、最近は。だからそのラインを超えない様に振り返ってみると、昨夜2時頃眠れなくて、風邪ひきそうで、葛根湯を飲みながら読んだMoby-Dickがとても面白かったです。そういえば最近はMoby-Dickの読み方を決めていて1.わからない単語は想像して読む(辞書はつかわない)2.頁の下に付いているフットノートは無視する。事にしてます。理由はその方がスピード感が在って楽しいから。途中でストップしている芥川全集も読みたいなぁ。あとR.チャンドラーもまだ読んでない本が沢山あって楽しみです。こないだトムネコゴに久しぶりに行ったら置いてあったアーヴィングのthe fourth hand も導入部分だけですっかり読みたくなりました。ここまで書いて思い出しましたが、あらゆる文章を自分は「場所」として感じています。昨夜ふとその事に気付きました。文章は場所です。音楽も場所です。








2012.10.09

夢:6月3日

ジャングルの中の原っぱの様な所にいる。一人はオーウェン・ウィルソン、もう一人は自分、もう一人は死ぬ為の男。ここは死ぬ為の男が死ぬ為の場所で、死ぬのを待っているがなかなか死ねない。三人で地べたに座って待っている。突然死ぬ為の男の方角から巨大な火柱が上がる。男はやっと死ねた様だ。あとには何かが燃えた跡が残り、その上に真っ赤な炭の様な一メートル位の十字架が乗っているがそれも(燃えて)なくなってしまった。////////////////////////////////////////////演奏の仕事でピアノの先輩ミュージシャンといる。エレクトリック・アップライトベースとアンプのセットの新型を彼のバンドが持っていて試してみると、楽器とアンプ合わせて指一本で持てる程軽くてコンパクト。弾いてみると良い音がするが「アンプ無しで充分」と言われる。






2012.9.29

相変わらずMoby-Dick読んでいます。正直今はこの本読んでる時が一番リラックスしていて楽しい時なのですが(二番目は「暮らしの手帖」読んでる時)心配事や、やらなければならない事(そもそもやりたくて勝手にやってる)が増えてMoby-Dickを少し読み進む間に4冊の他の本を読み終わってました。どうゆう事かと言いますと、Mobyのペースだとゆっくり過ぎて心配事などがすぐに精神的レッドゾーンに達してしまうので、もっと現在の自分に直接的な世界の本で自分を補強する必用があったのです。はい、少しせわしなく、神経症的です。神経も焦げ目が付いてきてます!今日は一日何もない休みの日でしたが、午前中に家事と10/27のライブの譜面やらデモ音源やらを準備して気付くと昼過ぎてました。食事の後はエレベの練習をして気付くと夜になってました。エレベは楽しいです。来年仕事で使おうかと思ってますが使わなくても自分の中に活力がわいて来るので何らかの意味があると思っています。人間って複雑で不思議な生き物ですね。宝くじに当たったらオレゴンに行ってMoby-Dickを珈琲飲みながらゆっくり読みたいです。









2012.9.17

今日で5日間に渡るシアターユニット・サラ第9回公演「きりしとほろ上人伝/貘を飼う」のサポートを無事終える事が出来ました。ベースとパーカッション(井谷享志さん)だけという普段自分はあまりやらない小編成で自作曲での上演でした。自分にとっては書ききれない程様々な出来事が準備に入った5月頃からあるのですが、何よりも新鮮だったのが長期にわたってリハを重ね、たった5日間で終わってしまう公演の為に積み重ねられて行く数多くのプロセスを渦中にいて味わう事が出来た、という事でしょう。全体の中で音楽が占める部分は(普段に比べて)ほんの一部なのですが、その分他の要素とも密接に融合しているわけで、その感覚を味わえた事、全体の中でベースとパーカッションだけでも機能し得る事を実感できた事、の二点のみをとっても貴重な体験でした。元々ライブラリという文学を元にした「図書館系ジャズユニット」をやっているだけあって物語好きなのですが、ライブの場合と違い演劇には当然ものすごくはっきりした物語が本流にあり、その本流に如何に貢献できるか、という明確な役割がチャレンジングでとても楽しかったです。勿論出来る限りの努力はしましたが、流れを意図に反して邪魔してしまったり、良かれと思ってやった事がやり過ぎだったり、全体の捉え方そのものが場数を踏む毎に変化して行ったり、最後は舞台と客席の関係が以前よりもはっきりと見えて来たり。本当に発見の多い体験だったと思います。そしてこれは書ききれない程様々な出来事のほんの一部です。このプロジェクトに誘って下さったサラ座長の実村文さん、素晴しい役者の皆さん、素晴しいスタッフの皆さん、井谷君、お客様、感謝します!







2012.8.25

最近起こった事でなんちゅうか、、、一番水面下で衝撃的だった事は自分の歳を1歳多く勘違いしていたという事に気付いたという事でしょうか。7月の自分の誕生日が過ぎた後、数週間を経て、自分と誕生日が近い弟と電話で話していて、お互いの年齢に関して軽い口論になり、よくよく調べてみたら自分が年齢を1歳多く数えていた事が判明しました。ところで僕の奥さんも僕と同い年なのですが5ヶ月前の彼女の誕生日の際<なんとなく節目っぽい>年齢だなぁとしみじみと感じ入り、自分なりに少々奮発して腕時計なぞをプレゼントしましたが、彼女も込みで1歳多く勘違いしていたので、、全然<なんとなく節目>っぽくはなかったという事になります。これだけでも自分の中ではSF映画並みの衝撃なのですが、考えているうちに一体いつ頃からこの年齢の思い込みが始まっているのか、徐々に自信がなくなって来ました。考えてみれば去年頃から既に年齢を1歳多く勘違いして生きていた様な気もして来るし、、、。ひょっとしたら自分はロボットでプログラムにバグが!?あと、考えようによっては人類の夢であった「タイムマシーン」はこのようにして生まれるのかもしれません。というのも実感として僕はまる一年得した感じがするからです。あ、タイムマシーンとはちがいますね。でも「タイムマシーン」のしようとしている事が「時間の流れを飛び越えた主体意識の保存」だとすると、あながち間違いでもない様な気もします。それと、まだ散髪には行けてません。








2012.8.21



夏ですね。何を今更言ってるんだと思いますが、夏にここまでフラフラになった事は今まで無かったと思います。ご飯も食べてるし、なんとか筋トレも続いてますが、歳のせいだとしたら仕方無いですね。あと何故か毎年夏になると散髪が面倒くさくなります。理由は分かりませんがだんだん収集つかなくなって来ました。放っておくとシャイニングの坊やが更にボサボサ頭になったみたいになります。既に前髪が目に入って充血してます。目も乾いています。髪がボウボウ伸びている上に歳のせいか抜け毛も多くなって来ました。汗で首とか顔に抜けた毛がくっついてとても不快です。気持ち的にも余裕が無く、心まで暑苦しい感じです。もうここまでくると仮にハワイ行こうが温泉行こうが何しようがダメなんじゃないか?と八つ当たりしたくなって来ます。何の解決策も浮かばず反比例して解決を求める気持ちが発作的に高まるので余計暑さが我慢できなくなります。何かとても深刻な事態が自分の知らない身の回りの人間関係の中で進行しているんじゃないか?と訳も無くそわそわします。とりあえず可能な限り近いうちに散髪に行かねばなりません。全てはそこから始まる気がします。







2012.8.09


合間にチビチビとMoby-Dick(白鯨)読んでいます。元々そんなに英語が得意ではないのですが、原書で読む楽しさと言うものが確かにあり、なかなか止められそうにありません。
本の表紙に150周年記念と書いてあり、恐らく日本はまだ鎖国してた時代に書かれた本だと思うと逆に読み易さにびっくりします。江戸時代に書かれた日本の書物は読んだ事無いですが、とても歯が立たないイメージがあります。今手持ちの本で漸く110頁位なのでやはり進まないなぁ、と思っていたら今日立ち読みした岩波文庫の翻訳だと分厚い全三巻の一巻の終り位と判り、なんだかホッとしました(笑)。それにしてもいくら有名な小説とは言え、文庫の最初の海図に船が沈没する場所まで書かなくてもいいじゃん、と思いました。自分は最後どうなるか知らなかったので、ネタばれが少々悔やまれます。以前「森の生活」を日本語と英語の両方で読んだ時も思ったのですが、昔のアメリカ文学ってすごく雰囲気が好きです。どんな雰囲気かうまく言えないのですが、ものすごく好きなんだと思います。ジョン・アーヴィングみたいな今の人と比べると自分にはとても読みにくいんですが、なんなんだろう、とにかくアメリカの古い本を(わかんない単語は想像しつつ)もっと読みたいという気になっています。








2012.7.16


喪シリーズ;その7(おしまい)

正直6/13の日記にある様に「小説の話とはいえ喪に服します」と自分で決めた事で、こんなにリアルな心境の変化が起きると始めは当然思っていなくて、、それでは、いわゆる四十九日(でしたか?)を過ぎるとまた状態が変わるのかどうか、、、わかりませんが、とにかく、この日記に文学的喪の事を書いて報告する、という事自体が、この状態が続くにつれ、相応しくなくなって来ました。ので結論として喪シリーズはこれで終わります。それにしても大抵の人が見たら単なる自意識過剰のバカ話だと思うし、自分でも時々そう感じます。でもそれって「聴く」という事の難しさなのかもしれません。とにかくリアルに続いております。

先日の日記に書いた「2作目」の小説読み終わりました。素晴しかったです。それがきっかけで身の程知らずというかメルヴィルの「白鯨/Moby-Dick」英語で買ってしまいました。アメリカ人でも「読み終わるのに3ヶ月かかったけど素晴しかった」とレヴューに書いてあって、読めるかどうか、、これも喪の流れです。ニュージーランドの部族のマスクの様なTupai Cupaの自画像をあしらった本のジャケットが素晴しくてドキドキします。

漸く今年の春からずっと書きたかった曲を書き始めようと思います!サイン波の作品にしようと思っています。サイン波作品は今丁度出来かけの演劇サポート音楽も含めて3曲あり、次で4曲目ですが、発表の仕方がわからないので、とにかく余り考えずに作ろうと思います。

ではでは。






2012.7.14

喪シリーズ;その6

最近の日記はある小説がきっかけで自分が勝手に始めた文学的な喪中についてばかり(6/13参照)、なのですが、これがキツいこともありつつ物の見え方が少し変わって来た部分もあり、ますます世の中から取残されて行く様でもあり、その感覚がまた喪中に相応しくも思われ、というわけで、今まで見えていなかった「斜め線」の様な物が見えて来て、そうするとますます浮き輪1つで夜の南極海に放り出された様な感覚が喪中に相応しく思われ、というスパイラルがまた喪中な感じがします。

ある作家の2作目の小説を漸く読み終わりそうです。

その人の5作目の登場人物で、物語後半で自殺してしまう作家は彼女自身の2作目がきっかけで死んでしまいます(喪中スパイラルのきっかけになった)。 

他の代表作でもこの作者は2作目を作る難しさを登場人物に度々語らせています。

実際に読んでみて、2作目は他の代表作に比べてそれほど面白くありません。正直、何度か読むのを諦めそうになりました。ダメ男の話です。だけど「喪中」なので腹をくくって、とことん付合おうと決めました。

面白くない本の弱点は読んでいて「こんな事していられない」という気持ちになってしまう事です。俺は忙しいんだ、と。だけどそれでは「喪中」にならないと思って「意図的に時間を無駄にする」覚悟で読み続けました。すると主人公のダメ男が愛すべき男に変わって行きました。それほど面白くない話、が、皮肉でも誇張でもなく「それ程面白くないが故にワン・アンド・オンリーな忘れ難い物語」に変わって行きました。あと数章で完読しますが、読んでいる時間がとても楽しいです。

これって何かに似ている、と思ったのですが、まさに「人の話を聴く」ということに似ています。みんなが人の話をきちんと聴ける様になったら、世界は今までよりもずっと良い場所になると思います。ただしい意見を言ったり、少し聞いて決めつけてしまう人は世界にたくさんいる様に思いますが、人の話を最後まで聴いて、黙っている、だけど双方でコミュニケーションが成立している、というのが理想かもしれません。

残念ながら自分はどうしても自分の正しさに固執するし、どうしても人の事を決めつけがちです。それに実際にゆっくり人の話なんか聴いてたら生きて行けない世界に住んでいる様な気がします。「空気を読む」とそんな気体でメーターが振り切れそうになります。この「2作目」だって結局のところ、相当面白いから読み進めているのでしょう。もし1億人の僕だけで出来た国があったらあっという間に核戦争でしょう。恐いです。だけどそんなパターンに「喪」という形で微妙な変化をもたらしているのがある小説の中の少女です。

つくづく「物語を聴いてくれる人がいなければ、物語は存在できない」と思うのです。







2012.7.09


喪シリーズ;その5

物語について書こうと思います。

と、いっても文学論みたいなものではなくて実際に僕の身に起こっている事です。

6月13日の日記で、ある自殺した小説の登場人物の為に、喪に服す、と書きましたが、それ以来、僕自身の生活に微妙な変化が起きています。意図的な変化というよりも、自分の内部のある小さなドアが開いて通路が繋がり、その結果自然に新たなバランスが再構成されつつあるような、感覚です。

 具体的には今までは出来なかったいくつかの物事を自然に始めました。それが今まで行ってきた物事に影響を及ぼし始め、大袈裟ですが、その結果を生き始めています。それは楽しかったり、悲しかったり、苦しかったり、嬉しかったり、様々な感情を伴っていますが、今までに無い感覚も含まれていて、無理矢理それを言葉にすると「ゆっくりと、生き延びようとする感覚」みたいなものでしょうか。「ゆっくり」と「生き延びる」の二部構成です。特に「生き延びようとする」はこれまでの自分があまり意識して来なかった感覚で、例えば悲しい事があった時に、同時にそれを生き延びようとしている自分、を感じるのは隙間の様な不思議な感覚です。

この様な一切の流れは「喪」として自分には当然の事に感じられます。少しもおかしい事は無く、「あぁ、そうだな、喪だな」と妙に納得してしまうのです。小説の中で自殺した少女の事を思い、妙に納得します。自分は「喪という状態」の中にいるんだなぁ、と。実はそれだけが言いたかった事です。
一般的な「喪」とは大分ちがいますが。

少しも科学的ではないし、なんだかバカみたいだし、笑われるかもしれませんが、科学がもっと進んだら解明される物語の力があるかもしれません。






2012.7.08


喪シリーズ;その4

物語という言葉がキーワードになって来ました。思えばライブラリというバンド名だって文学と言う物語と関係しています。実は自分の名前をバンド名に付ける事にものすごく違和感があったので(今もある)苦し紛れに付けた名前でした。後でもっと良いの思いついたら変えれば良いや、位の気持ちで。だけどバンドやりたいみなさん、気を付けてください、一度バンド名付けてしまうと後でもっとましな名前思いつこうがつくまいが、とても変えにくくなる物です。付けちゃったら諦めましょう。と、いうわけで物語について書こうと思いましたが、バンド名の話で、お茶を濁して今日は寝ます。すいません。





2012.7.03

喪シリーズ;その3

昨日はライブラリ@茶会記にたくさんの方に来ていただいて本当にありがとうございました。

物語を聴いてくれる人がいなければ、物語は存在できない。僕はそう思います。

僕のジャズベースの師匠は口癖の様に「自分の物語を語りなさい」と教えていました。「今この瞬間を生きなさい」とも。

「今この瞬間を生きる」というのは腑には落ちても、頭ではどういう事なのか、長い間解りませんでした。

でも自分の物語を語るには、今この瞬間を生きる事が必用なのです。

1. 音楽の流れ。 2. 流れを感じている自分。 3. 1に起こる事、2が行う事、それらの結果を全て「聴く」という行為を通じて享受して行く。

2を意識する事で1との間に隙間が生まれます。それが「瞬間を生きる」ということです。その隙間を意識しないと物語は語れません。またその隙間を全面的に受け入れる事によって「自分の物語」が生まれます。隙間を受け入れれば受け入れる程、間口は大きくなります。広くなった間口から、思いもよらない複雑なキャラクターが登場します。次に何が起こるかわからず、ある見方をすれば、失敗も含まれます。失敗も含め、そういう「一切」を「聴く」という形で受け止めて行きます。その方がずっと面白いと思うからです。とことん「聴く」ときにそういう一切は物語になります。僕がやりたいのはそういう事です。





2012.6.24

喪シリーズ;その2

どんなジャンルでも2作目というものはやっかいなものなのでしょうか?
昨年からハマっているある作家の作品にはよく小説家が登場します。そしてどの場合も決まり事の様に2作目を良い作品にする事の困難さについて、あたかも避け難い事の様に語られています。自分はこれまで、この作家のデビュー作と2冊の代表作の計3冊を読んだのですが、ここに来て試しに2作目を買ってみました。まず目につくのは、ペーパーバックの宣伝文句が他の作品に比べて容赦なく弱いです:『普通の小説の3〜4倍は笑える』ーThe New Yorker。
例えばデビュー作や代表作の宣伝文句はもっと『人を根底から揺さぶる』みたいな事がたくさん書いてあります。(そして読んでみたらその通り素晴しかったわけです)。2作目を実際に読んでみると確かに笑えます。だけど何故か頁が進まない。自分の生活の中で読書は大事な要素なので小説が面白くないのは一寸した危機です。「この作家に限ってそんな筈は無い」と気を取り直して本に向かいますがやはり今まで読んだ小説に比べて「それで?」と思わない様に努力したりします。やはり2作目の困難さはこの作家自身の経験だったのかもしれません。ある代表作の中で奥さんが主人の作家に向かって「確かに笑えるけど、この物語には何も無い、ただ自分を喜ばせてるだけ、あなたはこれよりもっと大きい作家じゃないの」みたいな事を辛辣に語る場面がオーバーラップしたりします。では読むのを諦めたか?というとそうでもありません。やはり、物語には物語のペースがある筈で、絶えず他の作品と比べながら読むのはある意味読んでる事にならない、と思わせるだけの何かがこの2作目にもちゃんとあるからです。要するにこれはこれで面白い小説です。今はまだ全体の1/4までしか読んでませんが、何をやっても上手く行かないダメダメな若者の話で小説のスローペースとあいまってダメダメ感が重層的にハモります。おかげで自分の情けなさを少し客観的に観察できる様になって来ました。ダメキャラとしての自分を受容出来る様になると、今まで「それはダメだから」とガマンしていた事を落ち着いて行動に移したりします。その事自体は確かにダメな事かもしれませんが、不思議と物事が前に進んだ感があります。2作目も決して捨てたものではありません。






2012.6.23


夢:

旅行をしている。山路を数台の車で移動している。湖もあったかも知れない。休憩所で自炊して食事をする。目的地に着く事が出来るかどうか、ルートを皆で話し合う。同行しているのは中年の男性達と自分の奥さん(見えない)。中年の男達の中には昨晩六本木のジャムセッションに来ていたお客さん達もいる。皆サラリーマン風。

大学の経済の講義を授けている。教授は目だけが笑っている名前の知らない実在の俳優。何かを質問され上手く答える事が出来ない。授業後、教室に隣接しているトイレで用を足すと、その教授も入って来て(同情から?)ケーキを奢ってくれると言う。喜ぶが急に風邪気味になり喉が痛み始める。洗面所でうがいをすると、ものすごく濃い痰がたくさん出て驚く。






2012.6.13

喪シリーズ;その1

数日前にある小説を読み終わりました。

ある大家族の物語、とても面白かったです。その一家の娘が後半で自殺してしまうのですが、小説の中の出来事とは言え、自分は喪に服すことに決めました。

その5人兄弟の下から二番目の少女はふとしたきっかけで小説家になってしまうのですが、執筆の苦しさに耐え切ることが出来なかったのです。

ネタばれになるので題名や細部は伏せておきますが、自分が切に思ったのはこういうことかもしれません;「事実として記憶されるよりも、物語として記憶されたい」だから自分は物語として自分や他人や世界を見つめ、聴く、ことが出来る様になりたいです。情報やデータのアーカイブとしてでは無く。

進まない物語は無く、情報は進みません。と、いう訳で、喪に服しています。











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