スクラップBOX (2)

1. 山下吹き法 _ 6. 江戸時代の金銀分離法(色揚げ) _
2. コワニエの覚書から 7. 江戸時代の金銀分離法(地分け)
3. 灰吹皿はなぜ骨灰か 8. 南蛮吹のルーツ考
4. 砂金と辰砂 9. 古代ローマの給水用鉛管
5. 江戸時代の金銀分離法(焼金) 10. 朝鮮の銀(覚書)

1.山下吹き法
 『日本鉱業史要』の「銅の古代製錬法」に見られる平安氏覚書は「山下吹き法」について述べているものと思われる。

 摂津川邊郡山下村の製銅の旧家たる平安邦太郎氏が鉱山局に差し出したる覚書によれば、「同地方ニ於テハ、明治初年ノ頃マデ、野吹キト稱シテ、銅鉱産地ニテ製錬スルコトヲ許サレタリ」とあり。
   中略
 前掲平安氏覚書にいわく、「祖父ヨリノ伝聞ニハ元禄年間真吹方法発明セラレザリシ以前ニ於テハ銅鉱又ハ再三焙焼シテ銅ヲ尻抜キニテナシタルモノナリ」とあり。蓋し往古銅鉱製錬なるものは前章銀の製錬の場合のごとく、古代人民の思想として単に徹頭徹尾酸化作用を行いしものなるべしとおもわれる。乃ちまず銅鉱を碎破して雑石を撤去し、優良なる黄銅鉱のみを集め、時を急がず、燃料を惜しまず、労力をいとわず、まず焼鉱の作業をなし、なるべく多くの硫黄分を酸化分離せしめ、次に素吹の作業に進みしものなり。
 この覚書に見られる山下吹以前の銅製錬法の「銅鉱又ハ再三焙焼シテ銅ヲ尻抜キニテナシタルモノナリ」とは、焙焼を繰り返し行い銅鉱石を完全に酸化し、これを還元熔錬して床尻銅として粗銅を得ていたものと思われる。
 『大隈日向 銅山図記』に銅鉱石を三回焙焼している絵が描かれている。このような史料は他には無いようであるが、平安氏覚書から察すれば広く行われていた銅製錬法かも知れない。

 同書の「豊臣徳川時代」に見られるように「山下吹き法」とはマットを酸化熔錬して粗銅を得る酸化製錬法と解釈されており、日本で戦後まで操業されていた「真吹き法」はこの「山下吹き法」の改良されたものであると云われている。
 古来銅の製錬は酸化製錬法にのみよりしものにして、鉱石の品位高き場合においては、鞴風を掛け木炭を添加しつつ一炉一回に適量の粗銅を仕上げることを得べしかりも、中国、四国、九州の諸銅山にありては、採掘年代古く含銅品位高き部分はすでに掘り尽くし、残れるものは品位著しく低下せしものとなり、したがって旧来の製錬法にてはハ湯の量少なく、そのままにて真吹を続行するにはしだいに不便を感ずるに至れり。ここにおいて、文亀永正(西暦一五〇一〜二〇年)の頃、銅屋新右衛門摂津国多田庄山下村において製錬所を設けて、この法を改良せり。この方法たる酸化製錬法にて゚を除きつつ素吹に達し、ここにて一旦銅ハを剥離し、作業を中止し、この方法を反復して銅ハを集め、適量に達したる時、これをさらに炉に装入し、木炭の火力にてこれを熔融して硫黄分を駆逐し、鉄分は銅゚(ドブ)となりて除去せられ、ついに粗銅を作るに至る。この時代において、吹大工一人指子一人にて一炉につきハ六七十貫を処理したり。この方法を称して「山下吹き法」と言えり。これより貧鉱再び有利に稼行せらるることとなれり。
 先の平安氏の覚書では元禄年間となっているが、「山下吹き法」の発明は16世紀初頭というのが一般的なようである。その根拠となる資料を見たことがないので一度見てみたいもの。
 ところで、この銅の酸化製錬法は世界に先駆けた発明だったかも知れない。『古代の技術史』にみられる銅製錬法は還元製錬法であり、ヨーロッパでひろく採用されていた方法と云われる。ヨーロッパで酸化製錬法が行なわれるきっかけとなったのがベッセマーの転炉製鋼法(1856)で、マンネス(仏)による転炉製銅法の確立が1883年。
 明治に冶金技術の講義(1880)をしたクルト・ネットーの講義録『涅氏冶金学』に転炉法が「ホルヴェイ氏新式冶銅法」と題し「硫化銅鉱の冶金術に必ず一大革命を促がすべきものなり」として紹介されている。ネットー氏は日本の真吹法をどのように見ていたのであろうか?

追記
 「真吹法は転炉法と原理を同じくする」と書かれているが、コワニエが1873年に別子銅山を視察した記録ではマットの三分の一もの重量の木炭を使用しており、硫黄と鉄の燃焼熱による無燃料を特徴とする転炉法とは程遠いのが実態であったようだ。ちなみにコワニエ氏は真吹の工程が酸化反応であると認識されていた。
追記2
 『本邦鉱業と金融』 上野景明、三上徳三郎 丸善 1919 p.54 に、奈良大仏鋳造料銅として摂津国多田荘国崎村榧木鉱山のいわゆる奇妙山神鏡間歩などから出したとして、「平安邦太郎氏蔵山下吹に関する写本」が参照されている。この写本が山下吹の一次ソースかもしれない。


参考図書
『日本鉱業史要』 西尾_次郎 十一組出版部 1943
『古代の技術史』上 −金属− R.J.フォーブス 平田 寛他監訳 朝倉書店 2003(1964-1974)
『涅氏冶金学』上 クルト・ネットー述 河野鯱雄、渡辺 渡筆記 野呂景義編 文部省編集局 1884
『日本鉱物資源に関する覚書』 F. コワニェ 石川凖吉編訳 羽田書店 1944

追記
 関係しないかもしれないが、一寸気になる話。
 *対島藩領銀山の『銀山略図』(宗家文庫)に方鉛鉱を鉄で還元する製錬方法があり、これについて「荒鉛生産の製錬法は「山下ぶき」とも称すと述べ、・・・ 」という記述が見られる。
 (「対馬藩領銀山の研究(1)−製錬技術を中心に−」 荻慎一郎 資源・素材学会春季大会予稿集 1995)
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2.コワニエの覚書から
フランシスク・コワニエ(1835-1902)の『日本鉱物資源に関する覚書』に「日本古来の採鉱冶金法の概説」があり、この中で別子銅山での銅製錬法について書かれている。以下はその概略。
「銅」
 鉱石はほとんど純粋な含銅硫化鉄鉱で、銅含有率は6〜7%。
 採掘された鉱石はクルミぐらいの大きさの粒に砕かれ、選鉱せられる。
[焙焼]
 焙焼は矩形の箱の中で行なわれ、その高さ1.30m、幅1.06m、長さは土地の傾斜により5mないし10.8m。大きい側の一方は山の方に支えられており、他は端から30cmの所に数個の開口を有している。それらの口は炉の大小に拘らず、互いに距離を等しくしている。長さ10.8mの箱の中には、焙焼された鉱石が放出される台の上方70cmの所に七つの口がある。長さ10.8mの箱一個に18.75tの原鉱を充填し得る。季節により異なるが、薪3.375tを要する。
 箱の底には最も大きい枝炭の層を置き次に鉱石の層と、交互に鉱石と燃料を充たす。冬季はこの大量の鉱石の焙焼および冷却に25日しか要しないが、夏には35〜40日位かかる。
 寒い期間には焙焼不完全なものは2%に過ぎないが、暑い期間には10%に達する。これは再び焙焼する。焙焼によって多量の硫黄が蒸留せられるが、これはもし鉱石の量がもっと莫大なものであったならば十分回収し得られるであろう。また一回の焙焼作業ごとに上部の縁に白色の亜ヒ酸の滓を見出す。
 別子銅山には5〜10箇の開口をもつ焙焼用箱が96個ある。1872年には原鉱8460tを焙焼しており、7848tの焙焼鉱石を得た。すなわち7.33%の焙焼減りがあった。
[熔錬]
 熔錬が行われるルツボは、一辺が0.55mの正方形の形をしており、その角は円い。中心を過る垂直な裁断面で切れば、その形は半円形である。深さは25cmで、上辺は土間より約0.25mの高さにある。周囲は全て素灰で固められてあり、四側が緩やかに傾斜した平面になっている。
 作業を始めるに当たっては、先ずルツボに炭を一杯詰めてそれに点火し、炉の中心に向かっている直径2cmの二つの羽口によって風を送る。羽口は革の管によって一つの手押しフイゴに通じている。火が着くと更に炭を加え、相当量の堆積にまでするが、しかしその前に、前方に岩石を三つ置いて、その二つが垂直になり他の一つをこれに被せて口を作り、スラグが流れ出るようにして置く。
 かくして燃料の上に一シャベルの焙焼鉱を投入し、炭が消費されてくるとその消費に応じて焙焼鉱を入れる度に炭をも投入する。鉱石が次第に熔融し、ルツボがスラグでいっぱいになると、吹大工は炉の前面の口を開いて絶えずそれを撤去する。
 各作業ごとに焙焼鉱600kgを処理する。作業が終わると風を止め、木炭を全部引き出して水で消し、次に木製の火把で浮遊しているスラグを除去する。
 マットは冷水をかけて溶ハを冷却させて、厚さ5mmの板として取り出す。ルツボは必要があれば修理せられ、再び新しい熔錬が始められる。
 12時間に3回で1800kgの焙焼鉱を処理し得る。これには木炭約844kg(鉱石の46.8%)を要し、人夫は吹大工一名、吹子一名と、二名づつ交替する四名のフイゴ係り人夫を必要とする。
 別子銅山には小さいマット製造用熔融炉が17ある。1872年、7848tの焙焼鉱に最初の熔錬を行ったところ、銅約45%を含有する灰褐色のはなはだ脆弱なマット1367.62tを得た。
[製銅]
 この製銅という作業は、熔錬の炉のごとき素灰で出来た凹地に掘られた小さな炉の中で行われる。その上部は一辺70cmの角を円くした正方形をなしており、その深さは30cmで底面の直径は60cmである。またこの炉は厚さ10cmの粘土で作った球帽形のもので蓋をされている。その蓋の中央の高さは、ルツボ(炉)の辺から36cmである。またその前面には、縦24cm、横15cmの一つの口が、鉱石を入れたり作業を加減したりするために設けられている。前方に反対側の孔に通ずる二つの穴がある。また第三の羽口に通ずるために、同じようなもう一つの口がある。これら三つの羽口は総べて、ルツボの高さ三分の二の所の中心に向かって、風が送られるように傾斜をしている。
 作業を始めるに当たっては、まずルツボに炭をいっぱい詰める。次にこの上に炉の両側に立てかけるようにして長い木の枝を置く。つぎにその上に蓋の内部の形を変えるくらい木炭の塊をつめる。
 この上に粉炭をかけて、その上に細かく刻んだ藁を混ぜて出来るだけ固くした粘土を10cmばかり置く。
 点火すると、その粘土の蓋は乾燥して崩れない程度に固くなる。そうして、乾燥中に出来る裂口は土で塞ぐ。
 つぎに底の羽口によって、二つのフイゴから風を送る。炭に相当火がついてくると、ルツボの前方の口から燃料および搗き割られたマットを詰め、炭が燃え尽したり、マットが熔融してくるにつれて新しいのを投入する。ルツボに375kgのマットを充たし終わると、底の二つの羽口を取り去って、側の一つの羽口のみによって風を送る。その際、円蓋の下が常に明赤色に見える程度の温度にして置くように、木炭を補充することに注意しなければならぬ。
 マットは酸化され、大部分のヒ素は煙突から蒸気となって脱去し、酸化鉄は円蓋や素灰の粘土によってV焼せられる。
 吹大工が、反応が終わったと判断したときには送風を止め、蓋およびルツボの側壁をきれいにし、蓋炭・スラグ(再び熔錬に戻される)を取り除く。最後に冷水をかけて湯を冷却し、せいぜい1cm位の厚さの板状の黒銅(粗銅)を引き出す。次に人夫は翌日の作業のためにルツボを修繕する。
 一回の完全な仕上げには10時間を要し、100kgのマットから32ないし43kgの黒銅を産出し得る。木炭はマットの33%を要し、また人夫は吹大工一名、二名のフイゴ係り及び一名の人夫を要する。
 別子銅山には、製銅用の炉が13ある。1872年には1367.625tのマットから621.232tの黒銅を製することができた。
[精錬]
 黒銅(粗銅)の板は10cm平方位の塊に破砕される。
 精錬炉は、直径66cm、深さ30cmの浅い炉である。それは、製銅炉と同様に四つの口を有する粘土製の円蓋によって覆われているが、異なっている点は、この蓋は二部分からなり、作業が終わると前方の部分が取り除けられるようになっていることである。この蓋は前述の如く作られるが、しかし作業中に二つの部分が熔接しないように、二回に分けて造るのである。
 281kgの黒銅が熔融されると、後方の二つの羽口から送られていた風を止めて、側の羽口一個のみから風を送るようにする。湯を白赤色に近い温度に保ち、ガスを酸化するようにしておくために、木炭を開口から頻繁に投入する。銅の酸化のためにできた硫黄の痕跡を示す泡立ちが終ると、吹大工は円蓋の前面の部分を取り除き、木炭と浮遊するスラグを除去し、前の製銅の場合の如き薄板の赤銅を引き出す。直ちに次の新しい作業が始められるよう、蓋が再び作製せられる。
 以上は12時間に2回精錬作業をすることができ、炭225kgおよび吹子一名とフイゴ係り二名とを要し、100kgの黒銅から86kgの赤銅を製することができる。

参考web、図書:
コワニエの足跡 http://staff.aist.go.jp/n.takeno/villese/node8.html
『日本鉱物資源に関する覚書』フランシスク・コワニェ 石川凖吉編訳 羽田書店 1874
目次
 解説
  (一) フランシスク・コワニェ小伝
  (二) 生野鉱山に於けるコワニェ
 日本鉱物資源に関する覚書
  第一章 日本の地質構造の概要
  第二章 日本鉱業の現状
  第三章 日本古来の採鉱冶金法の概説
       鉄、銅、含銀銅鉱石、鉛、錫
☆上記図書に「生野銀山建設記」を加えて下記の図書が刊行されている。
『日本鉱物資源に関する覚書』−生野銀山建設記− 石川凖吉 産業経済新聞社 1957

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3.灰吹皿はなぜ骨灰か
 灰吹皿の材料としては骨灰(リン酸カルシウム)が用いられている。灰吹皿は熔けた酸化鉛を吸収し、鉛中の金銀等の金属を皿上に分離・残留させるのに使われる。したがって、灰吹皿に要求される主要な特性は熔融酸化鉛の好適な吸収であろう。吸収であれば、例えば素焼きの土器でも良さそうにも思える。なぜ骨灰が使われるのか、この理由について推測してみた。
 結論から言えば、酸化鉛は塩基性酸化物であるために、酸性酸化物の珪酸を主にする土器では溶け合ってガラスを形成し、土器に釉をかけるようなことになり酸化鉛の吸収を妨げる。このために灰吹皿の材料としては、酸化鉛と反応しない塩基性酸化物である骨灰を使用しているものと考えられる。
 塩基性酸化物ということであれば、石灰石を焼いて作った生石灰とか貝を焼いた貝灰でもよいと思うが、何故かこれを使ったという記述を目にしたことがない。生石灰で形を形成するのに水で練ると、生石灰は水と反応して消石灰となるが、これは超微粉末のため乾燥すると多孔性が失われ、酸化鉛を吸収しないことになるのかも知れない。ただ昔のように皿の形態を取らずに、例えば鉄鍋や炉に敷詰めるなどの方法では問題ないのではなかろうか。(追記:フォーブス『古代の技術史 (上)』(p.28)に「現代の灰吹用火床は骨灰や石灰質粘土(マール)またはマグネシアで裏張りしてある」とあり、石灰質粘土も使われているようだ。)

 『デ・レ・メタリカ』には灰吹きに使われる「灰」について、鹿の角の灰を粉末にしたものだけで作った皿が最上であるが、にもかかわらず大抵は山ケヤキの灰から製作されていると書かれている。その製法の一例は概略次のようなものである。
 山ケヤキの灰を水で洗浄(アルカリ等の水溶性成分を除去)し、水面に浮いた不純物を除去して純化した灰を乾燥させる。これをビールまたは水とすり鉢に入れて搗き砕く。次にこれに動物の頭蓋骨や魚の背骨の灰を混ぜ、再度搗き砕く。これから皿を作り乾燥させる。

 木灰には一般に酸化カルシウムが三割強、珪酸が二割くらい(と強熱減量が三割くらい)含まれているようだ。珪酸は上記のように悪影響を及ぼすと考えられるが、問題はなかったのであろうか。もしかして灰吹きの900℃くらいの温度ではガラス化は進行しないのであろうか。
 ムム、推測が外れている可能性もありそうだ。。。

追記:『鋳貨図録』、『吹塵録』に記載されていた灰は、松葉灰3、紺屋灰(椿灰)7の割合で混合したもの。『吹塵録』には松葉灰一升五合、紺屋灰二升、焦灰四合程という配合もみられる。
*)製塩において、鹹水を煎熬する燃料として松葉と松薪が最も多かった。(『塩の日本史』第二版 廣山堯道 雄山閣 1997)
*)紺屋灰は樫、楢、椿などの堅い木の灰で、灰汁を藍染め屋が使用した。
*)焦灰
参考web:乾式試金分析方法雑記 http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsac/bunseki/pdf/kougi200202.pdf
追記:
* 「JIS M8115」 には、灰皿は「骨灰、又は酸化マグネシウム製のもの」とある。
* 吾妻潔 『日本鉱業会誌』 vol.91 No.1051 には、「工業的にはセメントを固めたものを使用している」とある。
* 『最近乾式試金術』 C.H. フルトン著 永野英輔訳 内田老鶴圃 1918 の「第七章 灰吹法」より抜粋要旨。
 本法はキューペル(cupels)(灰皿)は浅き多孔質の皿にして一般に骨灰にて製せられる。水にてアルカリを浸出せる木灰(特に山毛欅(ヤマブナ)の灰)および石灰、苦土((酸化)マグネシウム)もキューペル製造に供せられたる事あり。骨灰および木灰は夫々一と二、および二と一の割合にて使用せられたるが、これらは骨灰製キューペルよりも貴金属を吸収すること少ないと称せらる。V焼して骨灰を生ずる骨は次の組成を有し、下記の組成を有する骨灰を生ずる。
羊骨_ 牛骨 __V焼後_ 羊骨灰_ 牛骨灰
燐酸石灰(Ca3(PO4)2)__ 62.70_ 58.30 84.39_ 83.07
炭酸石灰(CaCO3) 7.00_ 7.00 9.42_ 10.00
燐酸苦土(Mg3(PO4)2) 1.59_ 2.09 4.05_ 3.88
弗化石灰(CaF2) 2.17_ 1.96 2.15_ 2.98
有機物 26.54_ 30.58
 キューペル製造に供する骨灰は塩化アンモニアの水溶液にて洗浄する(この塩類の使用量は取扱骨灰量の2%を度とす)。塩化アンモニアは骨灰中に現存する炭酸石灰および塩化石灰に作用し、可溶性の塩化石灰に変ぜしむるものにして、塩化石灰は水洗によりてこれを除去する。キューペル製造用の骨灰中に炭酸石灰の存在するははなはだ忌むべきことなり。これ灰吹法にほぼ適当なる温度すなわち700度(900℃)に至れば分解して炭酸ガスを発散し始め、痛心すべき鉛釦の吐射(spitting)を惹起する結果、貴金属の損失を生ずるが故なり。
(訳注 骨灰製造用に供する骨は焼く前水と共に煎沸して有機物を除去するときはV焼の際炭酸アルカリ硫酸アルカリの生成を防ぎ得可し。又骨を充分に清潔にして珪酸の混入を避け炭素を残さぬように焼くを要す然るに高温に失するときは骨灰を堅くし且つ吸収力を減ずるに至る)

 キューペルの物理学的性質、特に多孔性に関する性質は喫緊のことに属するが故に、骨灰中に存在する種々の大きさの粒子の量は注意して調整する。実際において40メッシュ(粒径約0.4mm)の篩いに残留する骨灰の量は1%以下のこと。もし骨灰中に微粒子が不足するときはキューペルは粗鬆に失し、比較的多量の金銀を吸収するに至る。しかるに骨灰があまりに微細なるときはキューペルは稠密に過ぎ、灰吹に時間がかかり揮発量の増加により金銀の損失を惹起す。
 次に掲記するは普通に購入せらるるものなるも、粗鬆なる骨灰の篩目分析を示すものなり。
    20メッシュの篩いに残留するもの 0.00%
    30メッシュの篩いに残留するもの 2.00%
    40メッシュの篩いに残留するもの 6.40%
    60メッシュの篩いに残留するもの 10.04%
    80メッシュの篩いに残留するもの 2.00%
    100メッシュの篩いに残留するもの     11.20%
    100メッシュの篩いを通過するもの 68.36%
 キューペル製造に供する骨灰は8〜12%の水と混和するものにして水中には少量の炭酸カリを溶解す。またこれに少量の糖蜜、変敗したるビールを混じたることあり。キューペルは製造後注意して徐に乾燥すべきものにして出来得可くんば数ヶ月を経過したる後使用すべきなり。
(訳注 骨灰に水を混ぜるものは、掌中にて強く圧搾するときは密着するほどの湿りを有すべき。)

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4.砂金と辰砂
 明治20年の報告書「朝鮮坑山関係雑件 咸鏡道ノ部 1.永興附近金坑」の抜粋要旨がきままに歴史資料集日清戦争前夜の日本と朝鮮(18)に「朝鮮に灰吹法はなかった」とする元資料として掲載されている。
 内容的には当時の朝鮮永興地方の砂金採取の実情報告で、同行した鉱山学士なる人が灰吹法かシアン化法を導入すれば産額が上がると言ったのが根拠のようである。
 砂金採取で灰吹法の適用はないのでこのことは置くとして、この報告書によると砂金採取時に採取されていた辰砂が捨てられていたそうである。で、砂金と辰砂とくれば『管子』の「上有丹沙者 其下有註金」が思い浮ばれる。

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5.江戸時代の金銀分離法(焼金)
 金が通貨として使われた江戸時代には、金の品位(純度)を一定に保つために一旦金の純度を上げ、次いで銀と合金化していたようだ。金は一般に銀と合金の形で産出するため、金銀の分離が行われていた。この金銀分離法には幾つかの方法がとられていたが、その一つに塩を使った「焼金」と呼ばれる方法がある。
 この焼金については『佐州金銀採製全図』や『ひとりあるき』、『小判所焼金并塩銀吹方仕法書』などの史料に記述が残されており、金に含まれる銀を塩化銀として分離・除去するものと解釈されている。

 焼金の工程は概略次のようなものであった。
1.金(純でない)を熔かし固める
2.熔かし固めた金を砕いて粉にする(砕金)
3.砕いた金と塩を混ぜ皿に盛る(塩金)
4.窯に入れ炭火で焼く(焼金)
5.塩を溶かし去り金を得る(揉金)
6.金を熔かしインゴットにする

 この工程の中で最も疑問を感じるのは「塩(塩化ナトリウム)と銀が反応して塩化銀が生成するか」という点で、塩化ナトリウムの標準生成自由エネルギーが融点の800℃で約-112(kcal/mol Cl)に対し、塩化銀は同温度で約-35(kcal/mol Cl)と塩化ナトリウムのほうが格段に安定であり、この線はまず無いと考えられる。
(参照:資料庫>エリンガム図>塩化物)

 金属製錬で食塩を使って塩化焙焼を行う場合は、明礬(カリみょうばん)を加えて焙焼している。酸素と明礬の分解で発生する硫黄分により次の反応が生じて塩素ガスが発生し、これが金属と反応して塩化物を形成する。
  2NaCl + SO2 + O2 = Na2SO4 + Cl2
(追記:一酸化炭素と塩素ガスを活性炭などの触媒の存在下に加熱すると、塩化カルボニル(ホスゲン:無色無臭)が生成する。)

 史料の中には塩以外に加えているものは見当たらず、佐渡では「にがりを持つ生塩」を用いるとあり、塩の中に含まれる硫酸塩が関与しているものと推察される。
 海水の成分は、たばこと塩の博物館によると
塩化ナトリウム77.9%、塩化マグネシウム9.6%、硫酸マグネシウム6.1%、硫酸カルシウム4.0%、塩化カリウム2.1%、その他とある。(専売制度が始まる前(1902年)の塩の組成:NaCl 86%、MgCl2 4%、MgSO4 3%、CaSO4 3%、その他 3%)
参考に関連物質の性質を下表に示す(『化学大辞典』より)。
物 質 融点
密度 溶解度(水)
/100g
そ の 他
0℃ 100℃
塩化銀 AgCl 455 5.56 0.08mg
(10℃)
2.17mg 濃塩酸には[AgCl2]-なる錯イオンをつくって
よく溶ける。
塩化ナトリウム NaCl 800 2.164 35.7g 39.8g
塩化マグネシウム MgCl2 712 2.325 52.8g 73g
硫酸マグネシウム MgSO4 1185 2.66 26.9g 68.3g 融点付近では分解しO2,SO2,SO3を遊離。
炭素と加熱すると750℃付近からSO2,COを放つ。
硫酸カルシウム CaSO4 1450 2.96 0.3g
(20℃)
0.16g 1000℃以上に加熱するとわずかにSO3とCaOに分解し、
CaOとCaSO4の固溶体を生ずる。

 海水の成分からすると硫酸マグネシウムが硫黄源として考えられるが、分解温度が塩の融点より高いので疑問を残す。

追記2
 塚本豊次郎『増訂 日本貨幣史』(1925)に「焼入れには斎田塩(鳴門撫養地区で作られる塩の呼称)に苦塩一柄杓、水二柄杓入れ、木鉢にて塩を練りて・・・」とある。製塩において、濃塩水を煮詰めていくと塩化ナトリウムが結晶として析出し、これを取り除いた残りを“にがり”と呼んでいる。この操作はにがりを単に元の海水成分に戻しているのか、それとも余分に加えて硫黄源の増量を図っているのか?


 佐渡では、「風廻しのため窯の底廻りへ羽口をならべ、四方よりごぼう炭を立掛け」と、自然通風でも温度が上がるようにはしていたようである。としても600℃前後ではなかろうか(「炭の継ぎ方悪ければ塩流れ出る」とあるので800℃近くに達していた模様)。また金の品位が目標に達するまで(たいていは毎晩三四日(1晩/回、炭継3回/1晩)まで)焼いたようでもある。
 こうしてみると、わずかに発生する亜硫酸ガスを利用し、時間と回数を重ねて塩化焙焼していたものかと推察されるが如何なものであろうか。

追記
 『韓国科学技術史』に金の製錬法が『五洲書種博物考辨』(19世紀中頃)から引用されており、その中に「黄土に塩を混ぜて金片を包み、再び火の上で焼くと極上の葉上金になる」という行がある。ここに挙げられている「黄土」とは「黄礬」のことではないだろうか。
 砂金をるつぼに入れて、鎔融するのに銅を鎔かすようにする。るつぼのふたを固くしめて灰や炭片が入らないように密閉する。金が完全に鎔融して液体になってから、棍棒でるつぼを軽くたたくと、金は薄い断片に固まる。黄土に塩をまぜて金片を包み、再び火の上で焼くと極上の葉上金になる。葉上金をつくる法は、金片一枚ごとに砂を敷いて積みかさね、それらを針金でよくくくりつけて火で加熱すると、金が非常に軽くなり、色はますます赤味をおびてくる。(p.265)

(煉金法) 取金砂入甘堝煉鎔如煉銅而堝上作蓋密覆不入灰炭片待其〓化成水以物輕輕微叩堝身則芽O凝作薄片以鹽和黄土累金片炭于火上而出則成極品鎌子金  制葉子金法以沙鋪之毎一葉一層沙用銕線縛定以火煉之金微微輕而色愈赤金夲沙所生故能遏金 (〓は融の異体字?) / (李圭景『五洲書種博物考辨』)
 「黄礬」は『天工開物』の「焙焼」の項にみられる解説によると、「礬」は各種金属の硫酸塩を指し、「黄礬」は「硫酸礬土に水酸化鉄および硫酸鉄を混ずるもの」とある。[硫酸]礬土(硫酸アルミニウム(Al2(SO4)3))も加熱すればSO3、SO2を発生し、酸化アルミニウムとなる。
 このように見ると、黄土に塩を混ぜていることは塩化焙焼を行うにかなった配合であると推定される。日本では本当に何も加えなかったのであろうか?

追記(参考)
『天工開物』下巻十四 「製錬」に見られる金銀分離法
 足色金に他の金属をまぜてごまかして売るばあい、まぜられるのは銀だけであって、それ以外のものはだめである。この合金から銀を除いて金だけを残そうとすれば、合金を薄片に打ちのばして小さくたち切り、一塊ごとに泥土で包んで坩堝の中に入れ、硼砂とともにとかすと、銀はすぐに土の中に吸収され、金は流れ出て足色金となる。その後で土に鉛を少しばかりまぜ、別に坩堝の中に入れ、土の中の銀を引き出すと、微量の銀まですっかり残る。

立見分明凡足色金參和僞售者唯銀可入餘物無望焉欲去銀存金則將其金打成薄片剪碎毎塊以土泥果塗入坩鍋中[用鳥]砂鎔化其銀即吹入土内讓金流出以成足色金然後入鉛少許入坩鍋内勾出土内銀亦毫釐具在也
/ (『中国古代科技図録厳編初集』)
参考図書:
 『韓国科学技術史』 全 相運 高麗書林 1978
 『天工開物』東洋文庫130 宋 応星撰 薮内 清訳注 平凡社 1969

 金より分離した銀はどのように回収したのであろうか。
 金を混ぜた塩は焼いた後、窯から取り出し、
1.水を入れた桶の中に入れ冷まし、鎚で突き砕く
2.塩合船に入れ、水を替えながら踏んで塩気が抜けるまで洗う
3.湯の濁りがなくなるまで洗う
絵巻参照 http://database.museum.kyushu-u.ac.jp/kouzan/zenzu/49.htm
(洗浄に使った水は全て塩船に残す)
4.揉金鉢の中で、湯を七、八度も入れ替えながら摺木で摺りまわし、
 (金に付着している)塩気(塩化銀)と土器屑を揉み離す
5.金は紙に包み吹床へまわす
6.塩船の(塩化銀の微粒子で)濁った水は、糊をはった紙で濾し取る
絵巻参照 http://database.museum.kyushu-u.ac.jp/kouzan/zenzu/50.htm

 焼金で生じた塩化銀は水には不溶に近いが、高濃度の食塩水には若干溶けるので食塩水で抽出する方法がある。江戸時代に取られた焼金の手順を見ると、塩化銀を食塩水に溶かして金と分離するという方法を意識して採っていたのかどうかは微妙な感じがする。

 また、含銀金を砕いて粉状にし、篩にかけて「荒からず細かからず」のものを選別したとはいえ、砕金の内部にも塩化銀が生じていたと考えられる。ミクロ的に見ると金は銀が抜けて多孔質な状態になっていると考えられ、揉金鉢の中で摺木で摺りまわすことは、穴を潰し内部の塩化銀を閉じ込めることにもなる。内部に生じた塩化銀は溶かしだす以外に方法が無いはずで、結局のところこの塩化銀は、揉金を熔解するときに蒸発・飛散したのではないかと想像される。

 窯から取り出された塩金は水を入れた桶の中に入れられ冷まされるが、この時に水は熱湯になり塩類を多く溶解した塩水となり、塩化銀を完全にではないかもしれないが溶解したと考えられる。(飽和食塩水の塩化銀の溶解度は0.12/100g)
 次いで洗われる工程においては、洗浄毎に塩分は急速に薄くなっていくので、この最終過程での塩化銀の溶解はほとんど無くなり、金粒子からの脱落のみが分離の実態であろう。
 冷却時の高濃度食塩水で溶けていたと考えられる塩化銀を含む溶液は塩船に入れられ、その後洗浄に使われた真水に近い水が加わることにより塩濃度が薄められて析出する。塩船の中で塩化銀は沈殿ないし微粒子として水中に懸濁しており、これを濾過して回収していたようである。

 このようにして回収された塩化銀がその後どのように処理されたのであろうか。『佐渡鉱山金銀採製全図』では次に砂金の処理工程があり、次いで「ナミ塩鉢廻し」、「元(无?)塩汰」、「ナミ塩の洗浄」、「塩銀床」、「吹分床」、「灰吹床」の順序で出てくる。これらが回収された塩化銀の処理工程かも知れないが、塩化銀のみの処理にしては不可解である。
絵巻参照 http://database.museum.kyushu-u.ac.jp/kouzan/zenzu/52.htm
絵巻参照 http://database.museum.kyushu-u.ac.jp/kouzan/zenzu/53.htm

 『吹塵録』によれば、回収した水塩(塩化銀)に留糟(酸化鉛(II)が灰に染み込んだ物?)と瀬戸物粉を混ぜ、吹立てたようである。この部分の化学反応も?? 酸化鉛(II)は鉛に還元させるのか? 瀬戸物粉は何のために加えるのか?

 焼金致し候塩水を、笊の内数遍紙にて張、桶の上へ置、右の塩水を汲込、水をしぼり候得は塩かたまり候を懸け改候を図の如く吹入候事。
 但鉛を吹灰の如く成候を留糟と唱。粉にして、又瀬戸物を粉に致し候を香はんと唱。右二品を水塩へ等分に交ぜ合、両吹子にて吹立、汲上候を御吹と唱候事。
 右吹立候節ねばり候て湯に成不申ものを別に取置き、是をからみと唱。又卸吹致し候事。
 但からみは鉛気の抜け不申故に候事。
 又御吹致し候を掛け改候上、灰吹銀にして上納致し候。是を水塩銀と唱。上銀に成候事。
備考
 塩化銀は鉛と合せ
  2AgCl + Pb = 2Ag + PbCl2
の反応によって銀が回収できる(ハズ)。
(参考:塩化鉛(II)は密度5.85、融点501℃、沸点950℃、水への溶解度0℃0.67g/100g,100℃3.34g/100g)
追記
 水塩の製錬時に加えている瀬戸物は、焼金に用いられた皿などではないかと思われる。焼金によって生じた塩化銀(融点455℃)は融けてその一部は皿にも浸み込んでおり、これを回収したものと思われる。また、留糟は鉛に還元し、塩化銀の還元と共に、生じた銀を鉛に融かし込んで貴鉛とし、灰吹きして銀を得たものと思われる。


参考図書・Web
『佐渡金山圖會』の世界(高精細デジタル画像) < 新潟大学付属図書館
佐渡鉱山金銀採製全図』 < 九州大学デジタルアーカイブ
銀山勝場稼方諸図(23)(24)金と銀の島、佐渡
ガシマ【や】相川郷土史事典 >焼金
『吹塵録』(上巻) 勝海舟 講談社 1968(1887) 貨幣の部(三)
『佐渡金銀山史の研究』 長谷川利平次 近藤出版 1991
『非鉄金属製錬』(講座・現代の金属学 製錬編第2巻) 製錬編編集委員会 日本金属学会 1980
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6.江戸時代の金銀分離法(色揚げ)
 洋の東西を問わず、少ない金で品物を黄金色に見せる工夫が古くから行われている。それには二つの方法が採られた。ひとつは現在も金に限らず広く行われている品物の表面に金属の薄膜を付加するメッキ(鍍金)と呼ばれる方法で、もうひとつの方法は純度の低い金合金の表面を薬品によって金以外の金属を溶失させて金の純度を上げるもので、日本の工芸分野ではこれを「色揚げ」と呼んでいる。

 江戸時代の小判は金-銀合金で、初期の慶長小判で金の含有量が約86wt%、改鋳され金品位が下がった天保小判では約57wt%と云われている。金の比重(19.3)は銀の比重(10.5)の倍近いことから、容積でみると天保小判に至っては金よりも銀の方が多い。合金の色合いは銀の量が増すに従い真の黄金色から離れ、天保小判では銀色に近い。
『貴金属のはなし』より

 このことから小判は色揚げが行われてきた。小判の色揚げは「色付け」と呼ばれ、磨いた小判に「色付薬」を付け、火であぶった後、水で洗うという作業が行われていた。
参考web『佐渡鉱山金銀採製全図』>「色付け」 :九州大学デジタルアーカイブ
     銀山勝場稼方諸図(29)後藤役所[色付小判]金と銀の島、佐渡

 「色付薬」の成分は『金工の伝統技法』および『鋳貨図録』に掲載されている大蔵省編『大日本貨幣史』附図(1877)には緑礬、胆礬、硝石、食塩、薫陸が、『吹塵録』にはこれに硼砂が追加され挙げられている。
 これらの材料は乳鉢で粉砕しながら擂り混ぜ、金合金の表面に塗るようであるが、水に溶くのか否かがよく分からない。粉末のままの様でもある。
物 質 備  考 『吹塵録』の配合比
緑礬(リョクバン)、ロウハ FeSO47H2O 約156℃以上で塩基性硫酸鉄(III)になる
水溶解度0℃32.8g;50℃149g/100g
 一貫目
胆礬(タンバン) CuSO45H2O 250℃で全部の水を失う
水溶解度0℃24.3g;100℃205g/100g
 七百目
硝石(ショウセキ) KNO3 融点333℃、水溶解度0℃13.3g;100℃246g/100g
融点以上に熱すると酸素を放ってKNO2を生じる
 三百二十目
塩(焼塩/食塩) NaCl 融点800℃、水溶解度0℃35.7g;100℃39.8g/100g  一貫目
薫陸(クンロク) (1)芳香樹脂

(2)琥珀
(1)偽乳香、偽没薬などを総称した芳香樹脂/
  ウルシ科の樹脂系香料
(2)揮発成分を失ない硬化した樹脂が、
  炭化水素の重合が進んで不活性化したもの
 百六十目
硼砂(ホウシャ) Na2[B4O5(OH)4]8H2O 350〜400℃で水を失う
水溶解度0℃1.3g;100℃201g/100g
硼砂球試験、フラックスとして用いられる
 五十二匁
参考web「本邦鉱物誌 5)簡単な定性試験」> F)熔球反応 :鉱物たちの庭

 この「色付薬」が銀とどのような化学反応をするのかについては分からない。『金工の伝統技法』では7種類の配合比率が挙げられているが、胆礬ないし塩を用いていないものもある。この二つの材料は本質的な反応に関係しないもののようである。
 可能性のありそうな生成物としては硫化銀が考えられるが、これは水には不溶であるので、色揚げの層が数ミクロンとはいえ、これを表面から除去するのは難しいように思える。また、「色揚げ技術の理論と実際」によれば、色揚げ層は多孔質になっているようであるから、この点からも硫化銀の可能性はなさそう。
 水に可溶性の銀化合物である硝酸銀(122g/100g:0℃)ないし硫酸銀(0.8g/100g:20℃)が生成すれば問題はなさそうだが。。。

余談:
1)銀を含んでいたと考えられる廃液は、その後どのように処理されたのだろう。廃液から銀を回収していなかったのであろうか。
2)江戸時代の銀貨も梅酢(塩分17%、クエン酸3.3%、リンゴ酸1.1%、水分78%)によって色揚げしていたようである。
 「江戸期銀貨の品位と色揚げに関する科学的調査」、図表日本銀行金融研究所
W. Gowland 『日本の諸金属と金属工芸』 より
 悪質の銀、すなわち銅を多量に含んでいる銀塊を鋳造するときには、特別な工程が使われた。銀は常に挿図56にあるように熱湯を入れた桶の中に置いた鋳型に流し込まれた。その理由は、合金は多量の銅を含んでいるので普通の方法でやったら、銀塊は酸化銅の黒層で覆われてしまい、これを取り除くのはむずかしいからである。鋳型の湯の下部に置くことによって酸化は防げ、きれいな表面をした銀の鋳造を手にすることができた。
 しかし、できたのは銅色をしていたので、これを取り除かねばならなかった。だから、まず真っ赤に熱してから普通の塩を溶かし込んだ梅酢の中に突っ込んだ。数時間この状態にしておいてから、塩分を含まない梅酢の中で沸騰させ、それから水で洗って乾かした。この操作で合金の銅は表面の層から取り除かれ純銀のメッキとなるのである。合金はわずか15から20%の銀しか含んでいないこともあったが、上記の作業を綿密に遂行すれば、こういった合金は全く純銀らしく見えた。
 (『日本古墳文化論 ― ゴーランド考古論集』 上田宏範監修 創元社 1981)
3)『吹塵録』に見られる硼砂は、中国の『天工開物』に色揚げに使われる薬品として掲載されている。
4)銅銭や銀銭は鋳造によって作られているが、小判は「鍛造」によって形作られているにもかかわらず「鋳造」という言葉が使われている。何故??

追記:色上げ古法 (http://www.aa.alpha-net.ne.jp/takumijw/#kohou) < ジュエリー制作の匠工房
    (×硫化鉄→○緑礬:硫酸鉄)

 「慶長・乾字・享保金銀を除いた元禄その他の小判では、色付けが行われた。」(『日本通貨図鑑』 利光三津夫他 日本専門図書出版 2004)

 「色揚げと呼ばれるこの処理は、早くも紀元前2000年代にはメソポタミアのウルで知られていたし、中南米の古い文化でつくられたグアニンやトゥンバガ(銅を多く含む金)製の工芸品ではよく知られる。古代に銅や銀を除去するために単独または組み合わせて使ったと思われる反応剤には、塩化ナトリウム(食塩)、ミョウバン、硫酸鉄、硝酸カリウム(硝石)、がある。」(大英博物館『図説 金と銀の文化史』 2012 p.136)

参考図書
『金工の伝統技法』 香取正彦・井尾敏雄・井伏圭介共著 理工学社 1986
『鋳貨図録』(1913) < 『江戸科学古典叢書(36)』 恒和出版 1982
『吹塵録』(上巻) 勝海舟 講談社 1968(1887) 貨幣の部(三)
『貴金属のはなし』 山本博信編 技報堂 1992
「色揚げ技術の理論と実際」 伊藤博之 金山博物館講演資料 2001

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7.江戸時代の金銀分離法(地分け)
 絵巻『佐州金銀山採製全図』に「金銀吹方床屋の図」が描かれており、この中に鞴係りが硫黄を炉に入れる場面がある。このことから銀を硫化銀にして金と分離するもののようで、この方法は硫化銀を製錬して得た「山吹銀」に適用されている。
『佐州金銀山採製全図』より

 この方法はすっきりとしたものにはなりそうにない。まず硫化銀の融点は845℃であるが、810℃位から分解が始まるようである。銀の融点が961℃であるところから、銀が融ける温度では硫化銀は分解して銀に戻ってしまうことになろう(硫化銀の810℃で分解とするデータは疑わしい(↓の追伸参照)。従って、ここに展開した説は愚考の模様。A(^ ^;)) 
 このため、銀と鉛の合金にして融点を下げる方法が採られている。「旧幕時代の鉱山技術」に見られる事例では、「山吹銀一貫二百目に鉛五百八十目を加え」とPb約33wt%の合金にしており、この合金の融点は760℃位である(実際には銀は金との合金であるため、おそらくこの融点より高くなる)。
銀−金 合金状態図 銀−鉛 合金状態図

 鉛は銀よりも硫化しやすいので、加えた硫黄は鉛と反応して硫化鉛となり、さらに硫化鉛は空気中の酸素と反応して酸化鉛(II)になる。銀は余剰の硫黄もしくは亜硫酸ガスと反応して硫化銀ができるという化学反応が進むものと思われる。
(参照:資料庫>エリンガム図>硫化物、硫化物の酸化)

 ここで、生成した硫化銀(mp.845℃)と酸化鉛(II)(mp.888℃)は共に固体で、銀−鉛合金の上に浮いていると考えられる。
 「佐渡相川金銀山記」等によると、この状態で合金の上に水を掛けて銀の薄い固体層を作り、これを剥離するようである。この剥離層は薄く作るとされるが、これは銀−鉛合金そのものであり、その上に硫化銀と酸化鉛(II)が載っている状態と考えられる。
 したがって、剥離された「銀皮」は金を含んだままの銀−鉛合金であるところから、再度分離の作業が必要となる。

 「銀皮」の剥離が進み金の濃度が上がってきたとき、または酸化鉛の生成量が多く鉛の濃度が下がって合金の融点が上がってきたときには、絵図に見られる「さし鉛」が加えられ、融点の調整が行われたものと思う。
 分離の最終段階に近づくと「銀皮」に含まれる金の濃度も高くなると考えられる。このことから、銀が完全に抜けるまでの精製は考えがたく、相当に多くの銀を含んだ金-鉛合金の状態で作業を終了したのではなかろうか。

 以上佐渡で「地分け」と呼ばれた硫黄を使った金銀分離法について考察してみた。日本の金属製錬では熔融物に水をかけて薄皮を剥がす方法が多く採られているが、ここでも習い性的に行われたものであろうか。硫化銀と酸化鉛(II)のみを分離しなかった点に大いに疑問が残る。

 これで江戸時代に行われた金銀分離法3種類を考察してみた。未解明のままのものもあり、多くの誤りもあると思われるが、叩き台にでもなれば良しとしたい。

参考図書
「旧幕時代の鉱山技術」 平井栄一 /『佐渡金銀山史話』 麗 三郎 1956
「佐渡相川金銀山記」/『日本鉱業史料集』第一期 近世編(4) 1981
『佐州金銀山採製全図』 < 『江戸科学古典叢書(1)』 恒和出版 1979

追記
 中国、明代の『菽園雑記』『龍泉県志』に「最近の新しい方法は、黄銀、すなわち淡金を土釜でよく加熱しとかしてから硫黄を少量加える。3、4度したのち火から取り出し、外にある青黒いざらざらの皮を鎚でたたいて取り去ると、その中心に赤色の黄金ができている。」と硫黄を使った金銀分離法が述べられている。陸容が撰したこの文献は明代、またはそれ以前の文献とみられる。(「宋代の生産技術」 吉田光邦 / 『宋元時代の科学技術史』薮内清編 1967 p.239)

 11世紀頃のテオフィルスが著した工芸の書に硫黄を使った金銀の分離についての記述がある。

70.如何にして金は銀から分離されるか
 汝が銀から金を削り取った時に、その削り屑を、その中で金あるいは銀が溶融されるのを常とする坩堝に入れ、そしてリネンの小布を、たまたま何かが鞴の風でそこから飛出すことがないように、上にかぶせ、そして炉の前に置いて溶融せよ。そして直ちに硫黄の小片をかの削り屑の量に応じて入れ、そして細い炭で、その煙がおさまるまで、注意深くかきまわし、すぐに鉄の鋳型に注ぎこめ。
 その上で、それから何か、硫黄がやきつけた黒い部分を削り取ることがないように、金床にのせて軽く打て、何となれば、この[黒い部分]こそが、銀だからである。すなわち硫黄が金を些かなりとも損なうことなく、ただ銀のみを[損なうから]、銀をこのようにして金から分離し、そしてそれを注意深く保存せねばならない。同じ坩堝で再び最初と同じように、この金を融解し、硫黄を加えよ。これをかきまわし、且[鋳型に]注いだら、この黒い[部分]を砕き取って、保存せよ。このように、純金が現れるまで、続けよ。
 その上で、汝が注意深く保存した、この黒い屑をすべて、[獣の焼いた]骨と灰から作った皿(坩堝)にのせ、そして鉛を加え、こうして、汝が汝の銀を再採取するように、燃やせ。汝が黒金として使うために保存せんと欲する場合には、それに銅と鉛とを、上に述べた割合に応じて加え、そして硫黄と混ぜよ。
 (『さまざまの技法について』 テオフィルス 森洋訳編 中央公論美術出版 1996 pp.205-206)
 これらから想像するに、硫化銀の分解速度は遅いのかも知れない。それにしても金の融点(1083℃)まで分解せずに残っているのだろうか?
 または硫化銀が810℃で分解するという情報(http://www.nihs.go.jp/hse/cicad/full/no44/full44.pdf)が間違っているのだろうか? ちなみに『化学大辞典』には融点845℃の記載のみで分解という記載はない。
 追伸:データを公開している国立医薬品食品衛生研究所に問い合わせたところ、該データは「IPCS(国際化学物質安全性計画)が発行しているCICAD(国際簡潔化学物質評価文書) No.44 Silverの訳で、当該文書には、分解に関する出典は記載されておらず、真偽を確認することはできない」とのこと。
 管見の範囲のMSDSでは、融点は示されているが、「分解」としたデータは見当たらないこと、海外の硫黄を使った金銀分離法では鉛を加えていないこと等からみて、810℃で分解はしないものと思われる。
 追々記

銀−硫黄のダイヤグラムでは500℃以上が点線になっており、確定的ではないようだ。(『金属データブック』改訂3版)

追記
 『院内銀山惣而吹方之次第書上』 の「金銀吹分之事」 に
  「是より精金仕上候次第塩詰製法之座ニ而申候」
とあり、金の純度は高くなかったことが窺える。
 (「近世における院内銀山の金生産」 荻慎一郎 『地方史研究』 38(1) 1988)
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8.南蛮吹のルーツ考
 銅に含まれる銀を、鉛を使って抽出する方法を日本では「南蛮吹」と呼んでいる。この南蛮吹法は蘇我理右衛門という人が南蛮人から方法を聞き、慶長年間(1596-1615)頃に完成させたと云われている。南蛮人から伝えられたという話は住友家の古記に見られ、広く信じられ定説化している。しかし、住友家の家伝で「南蛮吹」の単語が現れるのは正徳五年(1714)の友芳の親類書と百年も後のことのようであり、この話の信憑性は高いとは言えそうにない。
 鉛を使って銅から銀を抽出するという方法は南蛮人からではなく、次に述べるように住友初代の住友政友が蘇我理右衛門に教えたとするのが蓋然性が高いと考えられる。

 住友政友という人は涅槃宗という宗派のもとで修行して文殊院の称号を得ており、後に書林、薬舗を商うという知識人であった。このことから本草書にも通じていたことは明らかで、本草書の蜜陀僧(一酸化鉛)の項に見られる鉛を使って銅から銀を抽出するという原理を知識として知っていたと考えられる。
 この本草という銅製錬とはかけ離れた分野の知識が、銅屋を営んでいた蘇我理右衛門にもたらされることによって南蛮吹という精錬法に結実したというのが実態であろう。
 住友政友が蘇我理右衛門に本草の知識を伝えた時期としては、住友政友の姉が蘇我理右衛門のもとに嫁いで身内となる前後ではないかと想像される。

『政和本草』(1116)
「蜜陀僧」
注云、出波斯国。今嶺南[門]中銀銅冶処亦有之、是銀チ脚。其初採礦時、銀銅相雑。先以チ同煎錬。銀随チ出、又採山木葉焼灰、開地作鑪、填灰其中、謂之灰池。置銀チ於灰上、更加火大鍛、チ滲灰下、銀住灰上。罷火候冷出銀。其灰池感チ銀気、置之積久成此物。今之用者往往是、此未必胡中来也。形似黄龍歯而堅重者佳。

注に云う、波斯(ペルシャ)国より出ず、と。今、嶺南(広東と広西)[ビン]中(福建)の銀銅冶処にも亦之れ有り、是れ銀鉛脚なり。其の初め採鉱する時、銀銅相雑る。先に鉛を以(もちい)て同(とも)に煎錬すれば、銀は鉛に随って出ず。又、山木葉を採りて焼灰し、地を開きて炉を作り、灰を其の中に填(みた)す。之を灰池と謂う。銀鉛を灰上に置き、更に火を加えて大いに鍛(や)けば、鉛灰下に沈滲(とお)り、銀灰に住(とどま)る。火候を罷め冷して銀を出だす、其の灰池は鉛銀の気に感じ、之を置くこと積久なれば此の物を成す。今の用いる者は往往にして是なり、此れ未だ必ずしも胡中より来らず。形黄龍の歯に似て、堅く重き者は佳し。
・) 脚というのは最後のものという意味。
・) 火候をやめるというのは、火を焚くのをやめること。
(山田慶児「中国の灰吹法」より(カタカナはひらかなにした))
『大観本草』(1108)にも『政和本草』と同じことが書かれている。『本草概説』(岡西為人 創元社 1977)によれば、1159年に卒した藤原信西の蔵書目録には『大観本草』が著録されており、あまり間を置かずに日本に入っていることが分る。
(『大観本草』で引用している『図経本草』は1062年刊。)

『経史証類大観本草』 唐 慎微ほか編著 国立中国医薬研究所 1971

 なお、西尾_次郎『日本鉱業史要』には「永正大永(1504〜1526)の頃、博多の人神屋寿貞大いにこれを嘆き、自ら支那に渡航し、居ること多年、ついにその法を伝習せり。この法たるけだし泰西との交通により支那に伝来したるものなるべし。嘉貞は実に我が邦における南蛮絞の開祖なり。」と異説が述べられている。これは『石城志』(津田元観、津田元貫 1765)の「金銀の吹やう」を「金銀の吹分けやう」と誤解したために生じた誤謬で、初めは推測であったが何時の間にか確信的表現になったもののようである。

 中国で宋代には行われていたはずの銅からの銀の抽出法について、情報はほとんど見当たらない。唯一、宋応星『天工開物』(1637)には、銅から銀を吹き分けるところと思しき所は次のように書かれている。
銅には数種がある。全体がすべて銅で鉛や銀を含まないものがある。竪炉で製錬するだけで銅ができる。しかし鉛といっしょになっているものでは、これを製錬する炉の形式では、炉の横に高低二ヵ所の穴をあける。鉛が先にとけて上の穴から流出し、銅はあとにとけて下の穴から流出する。日本に産する銅には、銀の母岩に包まれているものがある。これは炉に入れて製錬する時、表面に銀が集まり、銅は下に沈む。商船によって中国に運ばれてくるものを日本銅という。その形は縦長の細い板状である。[ショウ]州(福建省)にはこれを手に入れると、炉で再錬して僅かの銀をとり出してから、銅を薄い餅状にとかし固め、四川の銅と同じようにして売り出す者がある。
(『天工開物』 宋 応星撰 藪内 清訳 平凡社 1969)
 ここから分かるのは含銀銅から銀を取り出すことも行われていたということ位であろう。銅よりも比重の大きい鉛が炉の上穴から流出するとか、表面に銀が集まり、銅は下に沈む等々の記述は理解しがたい。
 なお、この日本銅から銀をとり出していたという記事から、銀を含んだままの銅を輸出していたとしている記述を見かけるが、『天工開物』の記述年にはすでに南蛮吹によって抜銀された銅(棹銅)を輸出していたと考えられるのでおかしい。これは日本では採算割れする程度の僅かな量の銀を、中国では抜いていた人もいたということではなかろうか。(追記 江戸時代初期頃に輸出されていた銅は、棹銅だけでなく粗銅をも含むさまざまな銅が輸出されていたようだ。棹銅に全面移行したのが慶安2年(1649)。 (参) 鈴木康子「平戸貿易と銅」)

追記1
 銀が含まれる銅鉱石は斑銅鉱や黄銅鉱などの硫化銅鉱で、孔雀石や赤銅鉱のような二次鉱物には銀が含まれることはほとんど無いのではなかろうか。とすれば、「今、嶺南(広東と広西)[ビン]中(福建)の銀銅冶処にも亦之れ有り」は、この時期には硫化銅鉱を製錬していたと解釈できそうだ。
 ちなみに蜜陀僧が初めて記載された本草書は『新修本草』(659)で、これには未だ銀銅のことは書かれていない。早くから行われていたであろう鉛鉱石の製錬で、この時に得られていたはずの蜜陀僧がなぜ知られなかったのかは不思議である。
参考
 中国における硫化銅鉱の製錬が何時ごろから始まったかについて、『中国古代金属技術−銅和鉄造就的文明』 華 覚明(大象出版社 1999)に西周晩期からとある(「古代銭貨に関する理化学的研究」p.32)らしい。


追記2
 三辻利一 他(1977) 古代銅コインのケイ光]線分析(1) に、「漢、唐のコインは、他の歴代コインに比べて、Fe,As,Sbの含有量が多いものが多く −中略− これ以後の古銭では、不純物としてのAgの含有量が減少して来るのも、目立った特徴である。銀を抽出する技術が向上したためだろうか。」とある。

参考図書・web
「中国の灰吹法」 山田慶児 『石見銀山遺跡総合調査報告書』第4冊 島根県教育委員会 1999
『泉屋叢考』第6輯「南蛮吹の伝習とその流伝」 住友修史室編 住友修史室 1955
住友グループ広報委員会>住友の歴史と事業精神>歴史の概要
 屋号の泉屋と白水の関係については、>主な広報活動>すみともマガジン>特集 住友をふり返る が参考になる
「中国本草と日本の受容」 真柳 誠 http://www.hum.ibaraki.ac.jp/mayanagi/paper01/honzojuyo.html
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9.古代ローマの給水用鉛管
 古代のローマでは水道が発達し、その末端には鉛管が使用されている。今井宏『古代のローマ水道』にその鉛管の製法等が解説されている。以下その要旨。

 古代ローマの帝政時代以降、給水管は鉛管が主体となり、大量の鉛管が発掘されている。鉛管は長さ約3mで、管径は鉛板を曲げる前の板幅、板厚はその重量で決められており規格化されていた。
 鉛管の製造方法において、まず鉛板を鋳造する鋳型は、粘土や細かい砂を平らにして、この上に製造する管径に応じた板幅の位置に鉛板の厚さ相当の厚みの木片を置いて構成された。この鋳型に熔融鉛を注ぎ込み、表面張力で木片より厚くなっている鉛を板片の直線部でさらって余分の鉛を取り除き、所定の厚さの鉛板を作った。
 鋳造された鉛板は下図に示すように、鉛板を木の芯棒の周りに叩いて丸めて成形した。板のエッジ部分は曲げることが難しいため、真円はあきらめて洋梨型に甘んじている。
 鉛板の合わせ目の融接は、管の中に乾燥した砂または粘土を詰め、管の外面両側に粘土または木片に粘土を塗ったものを全長に渡って置き、これを乾燥させて鋳型とし、ここに熔融鉛を注ぎ込んだ。この時の熔融鉛は温度を高くしておき、鉛板のエッジを熔融させて一体化した接合部としている。


 鉛管の成分を調査した文献は少なく、ローマ市内で発掘された鉛管の母材部の一例では下表のように純度の高い鉛が使われていた。
Ag Sb Bi Cu Fe As Sn Cd
0.00785 痕跡 0.0328 0.0060 0.0004 無し 無し 無し
 
参考図書:『古代のローマ水道』 今井 宏著訳 原書房 1987
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10.朝鮮の銀(覚書)
3世紀 「男女の衣は、皆曲領を著け、男子は銀花の広さ数寸なるものを繋ぎて、以って飾りと為す。」
(「『三国志』魏書東夷伝条」/『倭国伝』中国の古典17 藤堂明保他訳 学習研究社 1985)

451年
新羅 「瑞鳳塚」出土の「延寿元年」銘入り銀盒(形熊的に高句麗製)。盒三斤(668g)、盒蓋三斤六両(752g)
(『韓国の古代遺跡1新羅編(慶州)』 森浩一監修 東潮、田中俊明編 中央公論社 1988 p.73)
(度量衡:『角川漢和中辞典』より中国魏代 1斤=222.73g、1両=13.92g)

662年
「蘇定方に銀5700分(2.14kg)、細布三十匹、頭髪三十両、牛黄十九両を贈与した。」
(『三国史記』1 金富軾  井上秀雄訳注 平凡社 1980 p.178)
奎章閣韓国学研究院三国史記巻第6 新羅本紀 文武王2年 p.10/34@PDF
(度量衡:度量衡換算(質量)より1分=0.375g)

672年
「貢物の銀33500分(12.56kg)、銅33000分(12.38kg)、針400枚、牛黄120分、金120分(45g)、四十升の布6匹と三十升の布60匹とを(唐に)さしだした。」
(『三国史記』1 金富軾  井上秀雄訳注 平凡社 1980 p.230)
奎章閣韓国学研究院三国史記巻第7 新羅本紀 文武王12年 p.29/40@PDF
(度量衡:度量衡換算(質量)より1分=0.375g)

869年
「・・・馬二匹、砂金百両、銀二百両(7.5kg)、牛黄十五両・・・を進奉した。また、・・・書物を買う[費用として、]銀三百両(11.2kg)を賜った。」
(『三国史記』1 金富軾  井上秀雄訳注 平凡社 1980 p.230)
奎章閣韓国学研究院三国史記巻第11 新羅本紀 景文王9年 p.19-21/33@PDF
(度量衡:『角川漢和中辞典』より中国唐代 1両=37.3g)

1021年
溟州旌善縣(江原道江陵郡)より銀鉱を出した。
「乙亥溟州上言銀鑛出旌善縣」
(『高麗史』第一 市島謙吉編 国書刊行会 1908 :『高麗史』巻四 顯宗13年5月)

1078年
興王寺(1067建立)金塔に銀427斤(255kg)と金144斤(86kg)を使用。
「是月興王寺金塔成以銀爲裏金爲表銀四百二十七斤金一百四十四斤」
(『高麗史』第一 市島謙吉編 国書刊行会 1908 :『高麗史』巻九 文宗32年7月)
(度量衡:『角川漢和中辞典』より中国宋代 1斤=596.82g)

1101年
「銀瓶(1斤)」貨発行
「是年亦用銀n爲貨其制以銀一斤爲之像本國地形俗名闊口」
(『高麗史』第二 市島謙吉編 国書刊行会 1909 :『高麗史』巻七九 粛宗6年4月)

1289年
中国・元から採銀に来る
「元遣阿魯渾李成等來採銀」
(『高麗史』第一 市島謙吉編 国書刊行会 1908 :『高麗史』巻三十 忠烈王15年7月)

1390年
「銀銅、既に本国の所産に非ず」と銀産出が衰えていた。
「銀銅既非本國所産錢n之貨卒難復行宜令有司」
(『高麗史』第二 市島謙吉編 国書刊行会 1909 :『高麗史』巻七九 恭譲王2年6月)

1401年 召前典書尹●還●為安東採訪使採銀于春陽縣 上以天寒朱克事召之●納銀十錠錠十六両 (●→王篇に典)
奎章閣韓国学研究院太宗実録元年10月 巻2 p.32/55@PDF

1407年
1)採銀を止める。(歳貢700余両。労多くして極僅かな採銀。頑愚にも採銀の術を知らず とも)

☆「元年秋、慶尚道に行遍し民を聚めて採掘したが一銭を得ず、六年冬、金海清道に帰って軍を役し地を掘り得る所無く、安東にて得る所も三四銭に過ぎず、労民傷財甚しく、今又豊海道に掘って弊を作るは、農時を奪い、民生を害するものを述べたので、命じて採銀を罷めしめられた」(小葉田1976)
2)「西北面都巡問使・・・州軍三十名自八月二十一日至九月晦日吹錬得十分銀四両五銭・・・」
☆「西北面巡問使李龜鐵は、知泰州事李?が州軍三十名をして八月二十一日より九月晦日に至るまで吹錬せしめて、銀四両五銭を得、寧朔軍三十一名を七日間採掘せしめて金二分を得、次いで此月一日から十二日迄吹錬して銀六両を得たことを報じたので、李?は功により一級を如へられ、且吹錬軍一百名を賜り、雑役を?免せられて錬鐵を為さしめられた」(小葉田1976)
(度量衡:『角川漢和中辞典』より中国明代 1両=37.3g、1銭=3.73g)
1)奎章閣韓国学研究院太宗実録7年3月 巻13 p.25/85@PDF
2)奎章閣韓国学研究院太宗実録7年10月 巻14 p.70/101@PDF

1411年
1)「前司正鄭安國獻銀一銭四分安國甞受錬銀之命以衿川地銀石二斗錬得チ十両以チ一両六分錬得銀一銭四分以進左政丞成石璘曰勞民而所得少 上曰此為勞民・・・」
☆「鄭安国が錬銀の命を受け、衿川(京畿道)の地に銀石二斗を得て鉛一両六分を得、これを精錬して銀一銭四分を進上し得たときのごとき、太政亟石璘は民労の重くして得るところ少なきことを啓上したが、太宗は・・・」(小葉田1976)
2)「命採銀於?州 上曰事大之国金銀不可無也・・・」

1412年
1)「已亥慶尚道採訪使司空済進銀一両四銭・・・」
2)「乙亥豊海採訪別監潘泳於瑞興錬銀五十両以進」
3)「慶尚道採訪使司空済錬銀二十両以進命復採銀民戸」
4)「豊海道採訪別監潘泳進白銀十五両及チ石」
5)「罷採銀之役慶尚豊海道監司報今當農月乞罷役 従之」
6)「壬寅豊海道遂安郡錬銀進銀七両チ六十斤十一両」
7)「忠清道瑞州人採銀石一塊以進賜楮貨」
8)「遣大護軍朴免忠于東北面訓錬観判官潘泳于豊海道採銀」
9)「豊海道採訪別監潘泳進銀十一両」
10)「已酉司憲府・・・」

1413年
1)「遣大護軍朴免忠于東北面青州??採銀」
2)「命復東西両界採金銀之戸」
3)「慶尚道採訪別監潘泳進白銀五十両」
4)「豊海道進採銀五十三両」、「・・・知採銀法・・・」
5)議政府は金銀採取法を報告。

1414年
「採訪使張有信復命・・・?者重賞告者有五六人當吹錬時無薬而錬者チ三斤得銀如麻子大者一丸用薬則得如栗大者一丸諸州取出?如此。・・・」
奎章閣韓国学研究院太宗実録14年2月 巻27 p.19/101@PDF

1417年
1)各道の観察使に銀鉱産地の調査を命じる。

2)「・・・錬告瑞山郡任内地谷縣之地有銀石官家遣人掘取以錬チ一斤八両所錬白銀一銭三分・・・」

1418年
「・・・平安黄海道民不飢饉採銀於殷山泰川嘉山谷山等郡採鉛瑞興郡本府近牒・・・」

1419年
「・・・黄海道啓?試採谷山信川所産銀鑛工力甚重所得不償所費」

1424年
「工曹啓銀石産處黄海道谷山平安道泰川成川等各官遣前注簿栄成立及銀匠一名吹錬試験従之」

1430年
金銀の歳貢が免除で代用物に。
「・・・禮曹議毎年正朝節日千秋進献方物金銀代用物件以啓正朝・・・」

1442年
「・・・黄海道平山府?丁夫二百五十人役二十八日採十品銀二百二両正チ鐵五百三十斤力役便易所出最多請於本邑宛貢銀毎一年二百両・・・」

1503年
1)灰吹きの記録。

2)「戸曹判書・・・鉛鐵吹錬銀数以敬曰端川チ二斤出十分銀四銭永興鉛二斤出十分銀二銭・・・」

1528年
1)倭の鉛鉱から銀を製錬。
「刑曹啓曰.・・・.作同務.或與倭通事潛貿禁物.或於赴京通事處.黄金三十九兩・銀七十四兩九錢付送.而朴繼孫王豆應知安世良張世昌等.以倭チ鐵作銀于黄允光家.・・・」
2)「戊子下咸鏡道監司採銀書状于政院曰今此咸鏡道採送銀六十三兩・・・其書状曰年例採銀正銀六百三十兩六錢三分作六十二錠分入二及北青地新産出石鐵六升試驗造銀一錢八分永興府地産出石鐵六升造銀七分文川郡地産出石鐵二升造銀一錢八分等入封不動上送云」
☆「・・・その書状に曰く、「年例の採銀、正銀六百三十両六銭三分もて作り、二分入す。及び北青の地にて新たに産出せる石鉄六升もて試験して銀一銭八分を造り、永興府の地にて産出せる石鉄六升もて銀七分を造り、文川郡の地にて産出せる石鉄二升もて銀一銭八分を造る、等、に入れ、封じて不動・上送す」と云う。」(『石見銀山』2002)
1)(『中国朝鮮の史籍における 日本史料集成 李朝実録之部(六)』 日本史料集成編纂会編 国書刊行会 1983 p.1778)
奎章閣韓国学研究院中宗実録23年2月 巻60 p.86/153@PDF
2)(『石見銀山』年表・編年史料綱目篇 島根県教育委員会 石見銀山歴史文献調査団編 思文閣出版 2002 p.11)
奎章閣韓国学研究院中宗実録23年閏10月 巻64 p.25/133@PDF

1539年
柳緒宗が倭人に銀製錬の術を伝習したとして罪に問われた。
「憲府啓曰.柳緒宗作亭蒜山.京商人洪業同等.・・・.緒宗所犯.不止於此.與倭私通.多貿チ鐵.私於其家吹錬作銀.使倭奴傳習其術.其罪尤重.・・・」
「傳于政院曰.柳緒宗多有所失.故不計殞命.期於得情刑訊可也.但倭人交通.多貿チ鐵.吹錬作銀.使倭人傳習其術事.以臺諫所啓推鞫.緒宗雖武班之人.官至判官.不爲無識.且吹錬作銀.不可人人爲之.必有匠人.然後乃可爲也.其家中有匠人與否.未可知也.・・・」
「三公啓曰.・・・傳曰.啓意知道.柳緒宗吹鐵作銀事乃一罪也.但事證不明.故欲勿推也.然所關重大.加刑得情可也.」
(『中国朝鮮の史籍における 日本史料集成 李朝実録之部(六)』 日本史料集成編纂会編 国書刊行会 1983 p.1869-1870)
奎章閣韓国学研究院中宗実録34年8月 巻91 p.105-106, 114-115, 116/163@PDF

1540年
「・・・進上銀數毎以千餘兩爲率今年則各所チ鐵採取之數未准五分之一・・・端川採銀処チ脈已絶・・・」

1542年
日本から8万両(約3t)の銀を売りに来た事への対応協議の中で、「我国の奸人から造銀の術を学ぶ」、「倭国が銀を生産して10年・・・」云々。
「以日本國王書啓(契).・・・我北陸有山.其名曰金山.近年産于眞銀.寔季世之偉珍也.・・・」
「憲府啓曰.倭奴?銀貿易始於近年.縁我國奸細之徒潛教造銀之法.・・・」
「御朝議.大司憲申瑛曰.見書契中以爲.金山産眞銀季世之偉珍也.彼縁我國奸人學得造銀之術.則此國之禁.・・・」
「・・・.倭國造銀未及十年.流布我國.已爲賤物.・・・」
(『中国朝鮮の史籍における 日本史料集成 李朝実録之部(七)』 日本史料集成編纂会編 国書刊行会 1984 p.1911, 1915, 1929)
奎章閣韓国学研究院中宗実録37年4、5、閏5月 巻98 p.28, 34, 40, 99/163@PDF
(度量衡:『角川漢和中辞典』より中国明代 1両=37.3g)

参考図書・web
『韓国科学技術史』 全 相運 高麗書林 1978
『金銀貿易史の研究』 小葉田 淳 法政大学出版局 1976
奎章閣韓国学研究院 http://kyujanggak.snu.ac.kr/info/info01.jsp (韓国史料データベース)
韓国特用漢字表 http://dict.variants.moe.edu.tw/fulu/fu5/kor/
銀の生産と広がり(2)解明進む灰吹法の導入」 山陰中央新報 2007.03.07

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