エッセイ&小説

明恵に学ぶ 心が生まれた星 人生の宿題 大切なものはnew




清滝川の清流の音を聴きながら、新緑の中を道明と薫は、触れ合う手の感触を楽しみながら
散策するのは、梅ノ尾(とがのお)高山寺。
山の傾斜地にお堂が点在し、どこが入り口とも出口とも見えない、杉林の中を気ままに歩く林
道は、二人きりの空間を楽しむお気に入りの地。

二人並んでお堂の濡れ縁に座り、道明が「このお寺の創始者、明恵上人は美しいお坊様で、
禅定の修行中、うつつに観る夢と現実がリンクし、僧としての悟りと内的成長を実現した稀有
なお坊さんなんだよ」と、説明するのを聞きながら、薫は、女性的な容姿の華奢で上品な僧を
想像していた。

「臨済宗を創始した栄西が宋から持ち帰った茶の木を譲り受け、日本で最初の茶園を開いた
のもこの地。
鳥獣戯画(国宝)という珍しい絵も、自然を愛し、同化しながら、華厳の修行を極めた明恵上人
の寺に相応しい所蔵品なんだよ」と、道明は続けた。

みることは みなつねならぬ うきよかな ゆめかとみゆる ほどのはかなさ(上覚)

ながきよの 夢をゆめぞと しる君や さめて迷える 人をたすけむ(明恵房高弁)

上の歌は、叔父、上覚の歌への返歌であるが、夢と共に生きたと言われる明恵が、無常を歌
った歌に対し、明恵は、夢から覚めて現実を生き、人を助けよと歌っている。
夢と共に成長し生きた明恵らしからぬ歌のようにも感じるが、夢からも悟り、かつ夢を冷静に分
析できた明恵ならではの歌とも思われる。

今日では、世界文化遺産の一つに数えられる高山寺。
秋には紅葉の名所となり、沢山の行楽の人出で賑わうこの地も、新緑の頃は訪れる人もまば
らで、静かに参詣と散策が出来る、森の中に同化し、佇む寺。

さて、明恵はどのような僧だったのであろう。
平安時代の末期、「平家以外は武士にあらず」と言われるくらい栄華を誇った平家の武士であ
る平重国を父に、紀州の豪族、地頭の湯浅権守宗重の第四女の娘を母とし、何不自由無く育
ったであろう明恵。
幼少より、僧になりたいと漠然と思っていた少年で、内向的といえる性格だったようだが、
父が明恵の美しさに、「大臣に仕えさせれば、将来は安泰だろう」と言うと、「自分は僧になり
たい」と、焼け火箸を自分の顔に当てようとするほどの気性の激しさも持つ少年だったようであ
る。
そんな中、母が急の病で他界し、その年に、父も上総の戦で亡くなってしまう。

明恵、八歳の時である。

恵まれていた幼少期が一変して、同じ年に両親を失うという境遇に陥った明恵の気持ちはい
かばかりであっただろう。
混乱の中で、幼き思考の中にも、僧になることだけが唯一の生きていく選択肢に残ったことだ
ろう。
母方の叔父の計らいで、今の高尾、神護寺に僧見習いとして入り、少年ながら禅定の日々を
送ることになる明恵。

鴨長明が「方丈記」に述べているところによると、この年は大飢饉となり、京都の道端や川原
は飢え死んだ人々が数知れず、仁和寺のある坊さんが死者を成仏させるため、額に「阿」の字
を書いて回ったところ、四、五の二ヶ月の間に、京都の左京の町だけで四万二千三百あまりに
なったという有様で、仏教のいう「無常」ということがすべての人に実感を持って迫ってきた世
相であった。
世相的には、この年(1180年)伊豆に居た源頼朝が平治に対して挙兵し、五年後、壇ノ浦の戦
いで平治は滅亡する。

そんな世相の中、仏道に励み、華厳と真言の修行と勉強をする明恵。
理解できぬところがあり、それを当時の碩学である顕如房律師尊院に尋ねるも、答えを得られ
ず、分からなかったが、夢に一人のインド僧が現れ、疑問の一つ一つを解明してくれ、明恵も
良く解り納得した。
そのことを尊院に話したところ、そのような深い意味は自分には解らなかったと言った。
このとき以来、夢の中にインド僧が度々現れ、明恵の疑問に教示を与えてくれることになる。

明恵は、物心がつく頃から自然を愛し、自然の中に身を置くことを心地よく感じていた。
華厳の教えそのものも、自然に同化し、自然が発するメッセージを体得し、真理を得、生きてい
くことにあるもの。

誰よりも自然に同化し、体感できる明恵には、神護寺での人間臭い他の僧達と修行の場を共
にするのは、ある意味耐えがたきものと感じられるようになってくる。
十二歳の時、一人深山に籠り修行したいと、神護寺を出ようと思い至るが、夢を見る。

「高尾山を出発して三日坂まで下りてきたが、道に大蛇が横たわり、鎌首を持ち上げて向かっ
てくる。そこへ、八幡大菩薩の御使いとして、四、五寸もある大きい蜂が飛んできて、『汝、この
山を去るべからず。もし押して去らば、前に難に遇うべし。未だその時節到来せざるが故に、
道行又成ずべからず』と言う」ものであった。
明恵はこの夢によって、彼の決意もまだ「時」至らぬものと悟り高尾にとどまる。

当時の僧の堕落振りは相当なものだったらしく、基本的な戒律を守るどころか、盗みまでする
始末。
後白河法皇の手記によると、「隠すは上人、せぬは仏」と言われるくらい、僧の間で女性と交
わるのは当たり前で、戒律を守る感覚は無かったようである。

純粋な中にも早熟と言える明恵は、十三歳の時、捨身による自殺を試みる。

「又十三歳のとき心に思わく、今は十三になりぬれば、年すでに老いたり、死なむずることも事
もちかづきぬ、何事をせむと思うともいく程いきて営むべきにあらず、同じく死ぬべくは、仏の衆
正の為に命をすて給ひけむが如く、人の命にもかはり、トラ狼にもくわれて死ぬべしと思いて」

ただ一人で墓地に行き、夜の間、そこに横たわっていた。
当時の墓地は風葬で、野ざらし。野犬などが死体を食い荒らす状態の場であった。

一晩、墓地に伏せ、捨身を試みるものの、野犬に食われることも無く、目的も果たせず寺に戻
る明恵。後日、もう一度、試みるが、やはり果たせず舞い戻る。
深層心理学者の河合隼雄氏は著書の中で、思春期に、人は一つの完成を迎えると言われて
います。
普通の人は、異性への性の目覚めなどが優先し、自殺を考えませんが、繊細な子供の場合、
人として一つの完成を見た後の複雑さ、空しさにそちらの方向へ誘われることがあるそうで
す。

そう言われてみると、筆者も高校時代に漠然と生きる意味を考えた時、それを明確に見出せ
ず、生きる意味の空しさを誇張した文学本などを読んだ時に、ふと「死んでもいいか〜」と、思
ったことが思い出されます。
もちろん、自分の周りの親や兄弟を思った時、死ぬくらいだったら、その人達の役に立とうと思
い直し、また目標を持った日々の生活に戻ったのですが。
筆者の場合、思春期の複雑で、アンバランスな精神の、一過性の感情だったのでしょう。

明恵は、八才で両親を亡くした時、外の世は源平の争乱期で確かなものは無く、修行の山内
においても、明恵が思っていたほどの純粋、無垢の修行の場で無いことから、生き抜く気持ち
より、捨身へと気持ちが傾いていったように想像されます。

捨身とは、飢えたトラの親子に自分の生き身を捧げて、他の命を救う究極の行い。

明恵は思春期の一人の人としての完成を迎えた時、何が成せるか分からない自分に、最低限
出来る捨身という手段に、今生の自身の結果を求めたのかもしれません。
捨身を成就できなかった明恵は、ますます禅定の修行の日々を過ごしながらも、一人深山幽
谷の中で修行の日々を送り、釈迦の精神に近づきたいと強く思い続ける。

明恵十六歳の時、正式の僧として出家する。

明恵十九歳の時、「遺教経」に接し、釈迦の遺子たることを自覚。
仏眼仏母法を修し、仏眼仏母を母とし、釈迦を父とし、自らの信仰信念と修行法を確立してい
く。
この年から夢記を書き残すようになる。







当時の僧達が、貴族相手に仏法を介して位や栄達を求めたり、学者としての栄達を求めるの
が、僧になる目的であったのに対し、明恵には、そんな気持ちは更々無く、ただ釈迦の精神に
近づきたいという思いだけで、僧としての栄達など眼中には無かった。

二十歳の時、東大寺華厳の学頭に任ぜられ、数年出仕するものの、二十三歳の時には、かね
てよりの望み通り、紀州栖原の白上の峰に隠遁の修行生活に入る。

この二十三歳から神護寺に戻る二十六歳までの三年間に僧として著しい成長を遂げる。

二十四歳の時、その信念を確固たるものとすべく片耳を自らそぎ落とす行為にでる。

何故、そんな行動に出たかということが伝記に記されている。
「耳を切ることは「五根の欠けたるに似たり。されども、片輪者にならずば、猶も人の崇敬に化
かされて、思はざる外に心弱き身なれば、出世もしつべし。左様にては、おぼろげの方便をか
らずば、一定損とりぬべし」

自分は気が弱いので、人の崇敬に乗って出世してしまうだろう、というところが明恵らしく、釈
迦だけを目標にした僧としての立ち位置と本懐が感じられる。

都の僧たちが身だしなみを美しく着飾ることや、出世に野心を費やしてる時に、明恵は釈迦の
一弟子、修行僧としての意識を矜持して、それを形に表した。
このように、この三年間は明恵にとって激しくも深く禅定の修行の日々が充実していたことが
伺われる。

明恵が僧として成長し、充実していく時代は、平家の権力から源氏の権力へ、そして北条氏へ
と、たかだか五十年ほどの間に、三氏の武士に権力が移り変わり、北条氏に権力が移ってか
らは、天皇から武士へと完全に支配者が移り変わる時となった。
天皇による律令政治から、貞永式目という法律による武士政治に完全に移行した。

仏教においても、それまでは貴族のための仏教であったのが、法然、栄西を掛かりとする庶民
のための鎌倉仏教の祖師達が次々に現れる時代となる。
明恵と同じ年に生まれた親鸞。続いて道元が現れ、道元が没する年に日蓮が鎌倉で布教を開
始する。そして鎌倉仏教の棹尾を飾る時宗の一遍が踊り念仏を始める。

明恵は新しい宗派を興したわけではないが、この時代の高僧として成長し、崇められるように
なるが、立ち位置はあくまで華厳と真言を通して釈迦の精神に近づきたいという一僧侶として
禅定の修行を最優先する求道者であった。
付き従う弟子達も年々増えていくが、講義などをする中にも、自身の禅定の修行を怠ることは
無かった。
二十六歳で神護寺に戻ってきた明恵であるが、叔父の見舞いなどで、紀州との間を行き来す
るうちに、再び紀州へと戻り、近隣で修行に励む中、後鳥羽上皇から梅ノ尾の土地を下賜さ
れ、それを受けることにする。
三十四歳で高山寺の地に居を移し、自身の禅定の修行と共に、弟子の育成や広く外に向かっ
て講義をするようになる。

1221年、承久の乱により、後鳥羽上皇以下、三法皇が配流され、負けた天皇側の貴族や武
士の婦女子などを高山寺に匿った明恵は、鎌倉武士に捕らえられ、六波羅探題に連行され
る。
泰然自若とした明恵に、かねてより噂を聞いていた、時の権力者の北条泰時は感服し、丁重
に接せられ、教えを請われ、後に定められる国家の法律、貞永式目の精神に、明恵の考え方
が生かされ、明治の世まで、その精神が生き続けることになる。

思想史的には、何も新しいものを提示しなかった明恵だったが、貞永式目という明治まで続く、
日本人の規範精神の土台に明恵の生き様、精神が脈々と生き続けることになる。

イデオロギーとコスモロジー

鎌倉仏教の祖師達が、仏教の新しい考え方、イデオロギーを提示し、新思想を起こしたのに対
し、明恵は、新しい思想よりも、僧としての自分の生き様と行いによって釈迦の精神を伝えよう
としたと言える。

北条泰時も、明恵から仏教を学んだのでなく、明恵の人格から学ぶところが多かったようであ
る。
イデオロギーというものは、「これが正しい、これ以外は誤りである」というもの。
永い歴史を重ねてきた人類は、国家観において、宗教観において、イデオロギーを絶対として
きたところに、互いが相容れず、イデオロギーの戦いの歴史を繰り返して、今日に至っている。

明恵の生き様、仏教は、コスモロジーと言えるもの。

現代において、空海や明恵が最注目されてきているのも、コスモロジー的考え方が、世界の困
難な問題を治められる考え方ではないかと注目されてきているからである。

考えてみるに、人間存在、あるいは世界という存在は、善悪や正邪を超えたものであり、いろ
んな矛盾をはらんでいて、仏教はそのような存在そのものを踏まえて出現してきた宗教であろ
う。
仏教は本来、イデオロギー的でなくコスモロジー的な性質を強くもっているもの。
イデオロギーが切り捨てる力を持っているのに対し、コスモロジーは、その中に出来る限りすべ
てのものを包含しようとする。

イデオロギー世界観は、イデオロギーによって判断された悪や邪を排除することによって、そこ
に完全な世界をつくろうとする。この際、イデオロギーの担い手としての自分自身は、あくまで
正しい存在となる。
しかし、自分という存在を深く知ろうとする限り、そこには生に対する死、善に対する悪、のよう
な受け入れがたい半面が存在していることを認めざるを得ない。そのような自分自身も入れ込
んで世界をどう見るのか、世界の中に自分自身を、多くの矛盾と共にどう位置づけるか、これ
がコスモロジーの形成である。
コスモロジーは論理的整合性をもってつくりあげることはできない。コスモロジーはイメージによ
ってのみ形成される。その人の生きている全生活が、コスモロジーとの関連において、あるイメ
ージを提供するものでなくてはならない。明恵にとっては、何を考えたか、どのような知識を持っ
ているか、などということよりも、生きることそのものが、深い意味における彼の「思想」なので
あった。
イデオロギーよりコスモロジーへの変換が現代において生じつつあると思われる今、明恵の思
想的評価と関心は高まると思われる。

仏教と戒

仏教は本来、戒律を守ることの厳しい宗教である。
仏教の戒律を守るということは、釈迦の生き方、考え方が人としてあるべき姿と確信し、その
実践を決意したとき、自らに課すところの自立的な行為の準則にほかならない。自らが、自発
的に自らに課す命令であるがゆえに、「破戒」は自らの決意の放棄にすぎず、その結果は、自
らのみを傷つけ、他を傷つけることがない。そこには「罪」は存在しないのである。
神をたてる絶対者による宗教の戒律は、「契約」であり、「破戒」は罪であり、罰を受けることに
なる。

出家した僧が守るべき戒律は実に多く、南方上座部の仏教では、男性は二百二十七戒、女性
は三百十一戒を守らねばならない。
最澄はその戒を、十重戒とそれに加えて四十八戒の軽い戒だけに簡略化した。
十重戒は、淫戒・殺人・盗み・虚言の四戒に見栄をはるな、物を惜しむな、他人に教えることを
惜しむな、三宝を謗るな、などという精神的なあり方に関する戒のほうが重視されることにな
る。
戒の一番目にくる淫戒は我が国の僧には守られることがなく、公然と淫戒は破られていた。

このような時に、この問題を正面から受け止めて悩んだのが、明恵と親鸞である。
仏教の戒はキリスト教の戒と異なり、絶対者との関連を持たないので、深く悩まずにやり過ご
そうとすれば、破戒は大きい悩みにはならないのである。
それを明確な悩みとして取り組んだ明恵と親鸞の二人。
親鸞は六角堂に百日の参篭を行い九十五日目に夢を見る。

行者宿報にてたとひ女犯すとも
我れ玉女の身となりて犯せられむ
一生の間、能く荘厳して
臨終に引導して極楽に生ぜしめむ
救世菩薩、この文を誦して言く、この文は吾が誓願なり。一切群生に説き聞かすべしと告命し
たまえり。この告命に因て数千万の有情にこれを聞かしむと覚えて夢悟め了ぬ。

この夢により、親鸞は妻帯し、子供を設ける。

明恵は、この当時の高僧の中で、淫戒を守り通した唯一の清僧と言われている。
「ワレハ天竺ナドニ生マレシカバ、何事モセザラマシ。只五笠処々ノ御遺跡巡礼シテ、心ハユカ
シテハ、如来ヲミタテマツル心地シテ、学問行モヨモセジトオボユ」(却廃忘記)

釈迦を敬愛し、釈迦に近づきたい思いだけの明恵は、数々の女性と心の行き交いはするもの
の、最後まで淫戒を守り通した。
明恵の淫戒を守り通した過程を見る時、女性を意識的に遠ざけたり、石化して女性を前にして
も何も感じないというのではなく、女性達と十分に交流し、接しながら、戒を守り通したところに
明恵の仏教者としての吟持が感じられる。

仏教と女性

「伝記」によると、明恵の母は自分が妊娠した時、自分は女性だから来世において人間に生ま
れ変わることは無いだろう。だから自分の後生を助けてくれる男の子が欲しいと祈ったが、ここ
に当時の女性たちが、「女であること」を仏教に従ってどのように受け止めていたかが示されて
いる。
もともと仏教には、女性は救いがたいという考えがあった。女の成仏がいかに難しいかは経典
の中にいろいろと説かれており、仏教の最初においては、出家者はすべて男であった。
しかし、仏教が日本に渡来してきたとき、我が国で最初に出家したのは、女性である。
「日本書紀」によると、司馬達等の娘、嶋が出家して善信尼と名乗り、後に娘二人を教化して
出家させている。
日本は古来より母系社会であり、今もそうであり、地母神的信仰が古来よりあり、神のよりまし
となった女性、ゆえに日本の仏教は母性的になり、母性の面が悟りの中にも影響を及ぼしてい
ったようである。

つづく




 


心が生まれた星


200億光年の昔、ビッグバンから始まったと言われる宇宙。

宇宙は一兆億個の銀河から形成されており、私達が属する銀河は一兆億個の星々から形成
されているそうです。
天の川は、太陽系が属する銀河の外れに在る地球から、銀河中心を横から観ている姿なの
で、星の川に観えるそうです。

星が誕生して生命体が生まれ、人間のような知的生命体に進化するまでには40億年が必要と
され、太陽は、今の大きさで70億年の寿命で、最後は爆発して終わるそうです。

太陽の大きさが今の倍の大きさだと30億年で寿命が来て爆発して終わるので、知的生命体に
進化するには、恒星(太陽)の大きさが最大の要件。

そして地球という星が誕生し、海と陸地と大気が生成され、生命体が生まれ、進化するには、
太陽(恒星)からの距離も大事な要件。

火星にも、かっては海も大気も有ったのに、地球より少し太陽から遠いだけで無くなってしま
い、不毛の星に成ってしまいました。

金星は逆に太陽に近過ぎて灼熱の星と成ってしまいました。

無数の星々が存在していても、地球のように生命が躍動する星は有りそうで無いという、今の
科学者達の調査結果が表しています。

生命体が躍動する「奇跡の星」と言うに相応しい、素晴らしい地球の未来の運命を握るのは私
達人間に課せられた使命と言えます。

地球は命が生まれた星。そして心が生まれた星。

奇跡の星に生きる貴方☆







人生の宿題


人は誰も、生きていく上で幸せになりたいと、無意識に思いながら生きています。

子供時代に親からの愛情を十分受けずに育ったと感じている人は、なおさら意識して幸せに
成りたいと願い、幸せを求めながら生きていくでしょう。

人は誰も、自ら進んで苦労したいと望む人は居ないでしょう。

誰もが、出来るなら穏やかで、順調な人生を送りたいと思うのが普通でしょう。

しかし、人間の体が生身であるように、平均寿命まで生きるとしても、数々の体の変調や怪
我、病気は避けられるものではありません。

心も生き物、日々に出会う人や、生活環境の変化、自身の身の回りに起こることによって刻々
と変化していくものです。
社会情勢も生き物、世界も日本国内も互いに作用し合って変化していきます。

人は悩み事が大きくなれば成るほど、自身の中では抱えきれなくなり、他に相談したり、救いを
求めるようになります。
そしてその時に、人生の主体である自己までも放棄して他者に依存したり、あるいは悩みと自
己を切り離してしまう人がいます。

悩みは、取り組み方によっては、その人の内面を成長させることがあるということを思う時、悩
みは、その人の人生を豊かにするために必要なものとさへ言えます。

接していて人間味豊かで、味わい深い言葉を発する人ほど、過去に様々な苦労をされており、
自己を確かに持ちながら、悩みと真摯に取り組み、乗り越えて来られた方が多いように思いま
す。

視点を変えると、人生に悩みや苦悩があったからこそ魅力的な大人の人間に成長されたよう
に思えるのです。

例えば、作家、大江健三郎さんは、長男、光さんが脳の障害を持って生まれた時、絶望され、
呻吟する中、「広島ノート」の取材で原爆病院を訪れた時、自らも被爆されながら、患者の治療
に尽くされる院長の助言、「絶望し過ぎず、希望を持ち過ぎずに生きることです」の言葉に、全
てを受け入れる気持ちに成られ、それからの作家生活は、光さんの存在が基と成り、後にノー
ベル文学賞を受賞されることになります。
光さんの存在が作家としての大江さんが大成する基に成るのです。
5才で初めて言葉を発された光さんですが、家族の良き環境の中、音楽に興味を持ち、作曲家
として才能を開花され、今日に至っています。
その曲は、神の曲とも評されています。

絵・詩作家の星野富弘さんも教師をされている時の事故による障害から全身不随と成られ、苦
悩される中、奥様の献身と共に、紆余曲折を経ながらも絵詩作家の道に生きる糧を見出され、
光る言葉をいっぱい発表されています。

そんな方は、有名、無名、いくらでも居られることでしょう。

身に心に、生きていく上で困難な課題に出会いながらも、そのことから逃げることなく真摯に向
き合い、何らかの意味や意義を、その中から見出し、人生の糧にされる生き方。

まさに我が身に起こる「人生の宿題」を懸命に解き、生かす歩みをされた結果、自身の人生を
より輝かせ、それを見る他人にも良き影響を与えることになる人生の歩み方。

人生の宿題は一人一人、様々に起き、展開し、その難易度も人様々。

70〜80年代、超売れっ子作詞家で一世を風靡し、今は「赤い月」「長崎ぶらぶら節」で文学者
の地位を確立された「なかにし礼」さん。 
石原裕次郎さんに作詞家として見出され、ヒット曲連発で人気作詞家として一財産を築かれる
も、実のお兄さんが次々事業を起こしては失敗し、その度に礼さんに無心し、礼さんも断れず
兄を呪いながらも、返らぬお金を工面し続け、折角築いた財産を全て失い、多額の借金まで背
負われます。
なかにし礼さんの場合は、お兄さんのことであり、関わる気が無ければ、冷たい心に成れば、
兄を突き放すことも出来た筈。
しかし、そうはせず理不尽な兄との関係、腐れ縁に苦しみながら、色々の心の葛藤を経ながら
も兄と関わられ、そのお兄さんが亡くなられ、後に若い時から成りたかった作家に成られた
今、結果的には、兄とのことが有ったからこそ、今の文学者としての自分に変身出来たと思え
るようになったと、トーク番組で語られているのを聞いた時、私が考え続けていた一つの事が
証明されたように思いました。

どういう事かと言うと、一人の人間が一生を生きて行く上で、必ず誰か一人は理不尽な人と関
わっていかなければならない事が有るということ。 
それが兄弟なのか、親なのか、子供なのか、孫なのか、伴侶、恋人なのかは人それぞれ。 

その宿命をどう受け止め、関わって行くかが「人生の宿題」のような気がします。 

宿命から逃げるのも一つの答えの出し方。 

苦しみの中、理不尽の中、その宿命と向き合い、理屈に合わない損を覚悟で関わっていくのも
一つの答えの出し方。 

答えの出し方は人それぞれ。

大切なのは、その宿命への向き合い方だと思います。 

損得だけの価値観でない、「何か」をその中から得ることが大切。 

そしてその中を誠の心を持って、腐らず通り抜ける人は、人として一回り大きい深い人間に成
長出来るように思います。

この事は私の今までの人生に於いて、自他共に経験し、考え続けるうちに辿り着いた一つの
結論。

理屈に合わない人生の事柄の中に真実の種が隠れているような・・・

理不尽な運命や宿命を、どう捉えるか?

上に上げた方達は、予想だにしなかった人生の悩み(宿題)にであった時、ただ嘆いたり、恨む
だけに終わらせず、真摯に、前向きに捉え、関わられ、努力された結果、より大きな深い人間
に成長され、見事に人生の宿題の答えを出されたように思います。

しかし、そこに至るまでの心の葛藤、苦しみは尋常ではなく、その中を勇気を出し、困難に糧を
見出し、素直に懸命に向き合った者だけが辿り着ける心の世界なのかも知れません。 

理不尽に思える悩み、運命、宿命は人生を生きていく上での「宿題」と捉える時、悩みは人生
における単なる都合の悪いことではなく、その人にとって必要なこと(悩み)と成ります。

さて、貴方にとっての人生の宿題は何でしょう?


あとがき

ず〜っと自分の中で考えてきた命題を他の人に伝えてみたいと思い立ち小文を書いて
みましたが、理屈っぽくなりがちな文章を最後まで読んで頂いた貴方に感謝します。





大切なものほど目に見えない


無神論者の方がよく言われるのに、「本当に神が居るのなら私に見せて下さい」

私、かく考えます。

地球上の生物が生きていく上で一番大切なもの「空気」は目に見えませんが在るのです。  
                                   
人間にとって一番大切なもの「心」は、やはり目には見えませんが在るのです。

もっと言えば感じることは出来るのです。

神様もそういうものではないでしょうか。見ることは出来なくても、心が澄むことにより感じとれ
るもの。 
大自然の中に身を置いた時に感じたり、美しい人の心に見たりと様々。

この点は唯物論の実証主義者の方には理解し難く、詭弁と言われるかも知れませんが、貴方
はどう思われるでしょう。

愛し合った恋人達、夫婦が別れを考えるのも、それまで感じられていた愛(心の向き)が、お互
いに感じ合え無くなるから、別れを考え始めるのではないでしょうか。

考えてみると、私達人間が生きていく上で、大切なものほど目に見えず、形に成らないものが
多いですね。 
それを感じる、解る心を養うことが真に「教養が有る人」という事ではないでしょうか。 

見ようとするのでなく、自然に見えてくる感性を養う日々の生き方、考え方。

人間にとって一番大切な心を養う日々の生き方を常に考え、謙虚に自分に向き合い、人として
成長していくのが「人生」ではないでしょうか。
















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