戦後日本労働運動の諸問題

itou akira


2011年11月14日 韓国・ソウル

1, 日本労働運動の現況

 今日、日本の労働運動はほぼ右派の支配の下にあります。新自由主義が横行していることは、韓国でも日本でも変わりはありませんし、また日本では原発の災害という大問題が今あります。しかし大部分の労働組合は、ほとんどこの事態に対応できていません。なぜそうなったのか。これが現代日本の労働運動史の最大の問題です。いま日本には資本主義を根本的に変革する、そういう方向をめざす労働運動がないと言うことです。
 かつて日本には、総評(日本労働組合総評議会)とよばれる労働組合の連合体がありまして、とにかく資本主義の変革を口にしておりました。いま日本を支配している連合という労働組合の連合体は、この総評が右派に屈服する中で生まれてきたものです。なぜ総評はそのような敗北を喫したのか。
 しかしよく総評の歴史を見てみますと、総評は本当に変革的な労働組合であったのかということが問題です。むしろその歴史を見るならば、資本主義の現実に対して受動的な面が強かった、と言う印象も争えないのです。特に新自由主義の前提をなす、1960年代から70年代に急速に進んだ合理化の過程で、これへの対応にまったく失敗したといえると思います。
 この歴史を批判的に研究してみないといけないと私たちは考えております。今日の報告は、その点を中心にいたしますから、第二次世界大戦後の労働運動を考えることになります。なお、日本の労働運動には政治的な問題に対する運動もたくさんありましたが、今日は時間がありませんから、その点は全部省略させていただきます。

 まず最初に、韓国の労働運動と比較して、日本の労働運動のひとつの特徴についてお話ししておきたいと思います。
 第二次世界大戦に日本が敗北したあと、つまり朝鮮半島が解放されたあと、両国ともアメリカの占領下におかれたという点では同じでした。しかし、その占領の仕方には大きな違いがあります。韓国においては、アメリカは韓国の民衆運動を根本から絶滅するという方向を持っていたと聞いております。しかし日本ではそうではありませんでした。アメリカは日本では、この国をアメリカ的な民主主義の国に作り直すという方針で占領を遂行したわけであります。労働運動についても、いわゆるアメリカ民主主義の中の労働運動をモデルにして日本の労働運動を作ろうと考えたのです。
 そういう中で、日本の敗戦後の労働運動の主流は、労資の対立という観念から出発したことは確かでありました。しかし、アメリカが推進したいわゆる民主化のなかで、労働運動は独自な批判的政治勢力として存在するという点でかなり弱かったのです。この点が韓国とのひとつの違いであろうと思います。
 今日お話をする、総評という連合体は、アメリカがいま申しましたような考えでバックアップしたものです。もっとも総評は創立からまもなく、大きな転換をしました。日米軍事同盟への批判的な立場に立つこと、労資対立の意識に立つこと、これが総評の立場として新しく作られたものでした。しかし、そこに大きな弱点があったのです。
 日本の支配集団は1950年代の半ばから、世界の一流の帝国主義としての地位を再建する意図をはっきりと持ちました。この点への総評の警戒心は非常に弱いものでした。その結果、1960年代から始まる日本の経済の急成長の中で、資本と対立しながらも、体制の成長とともに総評は歩んでいくことになったのです。こうして1960年代から70年代の前半までが総評の全盛時代でした。ちょうどこの時期が韓国の労働運動にとっては暗黒時代にあたる時代であります。しかし総評の全盛時代は同時に、表面的な活発さの陰で右派への敗北がだんだんと進行していった時代でもありました。右派というのはもちろん日本の経済成長にたいして、はっきりと肯定的な立場に立つ運動です。結局総評は、この右派との闘争に勝つことができませんでした。そのようにして成立した今日の労働運動が、新自由主義の攻撃の中でまったく無抵抗の存在になっているわけであります。
 これからこの過程の歴史についてお話しいたしますが、その場合二つの事に重点を置きたいと思います。総評の歴史も色々な面がありまして、それぞれ興味深い所がありますけれど、時間がありませんから二つの点だけ。ひとつは、日本の労働運動における分裂の問題です。これは左派の後退と関係があります。第二は、合理化に反対する闘争の敗北です。この二つが、総評の敗北を考える上で重要な問題だと私は考えています。

2、企業別組合とその分裂 第2組合の発生

 第一の問題についてまずお話しいたします。組合の分裂と言う問題ですけれど、韓国では最近、複数労組のことが問題になっていると聞いています。戦後の日本では大体いつの時期でも複数労組が存在しておりました。しかしそのどちらかが団体交渉権を独占するというような制度ではなく、複数の組合の争いは、どちらが労働者に実質上の影響力を持ち、運動を代表するかと言うことにありました。その争いで60年代から70年代に、左派は右派に敗北したわけですが、その結果今日、複数組合の現状は左派が少数派組合として存続するけれども、多くの労働者に影響力を持てないケースが多いと言う状況になっています。こういう状況が生まれる過程での顕著な現象は、左派に属する組合、これを私たちは第一組合と呼ぶのが普通でありますが、これに分裂が生じて第二組合が作られ、急速に多数派になったということです。あるいは第一組合の内部の右派が、多数派になり組合を乗っ取ってしまうということもありました。
 ところで日本の労働組合の多くは、企業単位で作られた企業別組合であることが世界的に知られています。公共企業体の労働組合も国家的企業内の企業別組合です。重要なことは、いま述べた第一組合も第二組合も企業別組合であると言うことです。分裂は企業別組合において生ずるのであり、第一と第二は企業別組合としての機能を奪い合うのです。そこで学者たちの間には、組合分裂は企業別組合の宿命であるという考え方があります。企業別組合は、その企業の正規の従業員が全員一括加盟しますが、その結果組合員には立場、利害、思想の分岐が内在している。それに企業が働きかけることで分裂が起こるというのです。たしかに企業別組合にそういう性格はあります。
日本の企業別組合がどうしてできたかということには長い歴史がありますが、これは全部今日は省略いたします。ひとつだけ、先ほどもちょっと述べましたように、第二次世界大戦後、産業復興の過程で、また帝国主義的強国への復帰の過程で、大企業が一流企業に向けて努力を行う。それに従業員たちも巻き込まれました。その結果、労働と資本は各企業で対抗的ではありますけれども、同時に自然に労資協調的な性格を潜在させることになりました。第二次世界大戦後、1950年代になりますと、大企業にはほとんど組合が作られておりました。労働者は企業に入社すると自動的にそれに加入するという仕組みになっています。自分の組合員としての立場を選ぶ、あるいは労働者が自主的に一歩一歩組合を作っていくという過程が、戦後のある時期からは欠けておりました。労働者において、企業への帰属意識と労働組合への帰属意識が争うことになりました。もちろん、日本の資本も搾取と抑圧においては世界の資本家階級に劣るものではありませんから、労資対立そのものは根強くあるのです。しかし労資対立の中で出てくるいろいろな問題、いろいろな要求に対して、労働運動と労働運動全体を拠りどころにして社会的基準を作り、解決するよりも、企業を場として解決する志向が高まります。結局企業の業績の向上に問題解決の条件を見る傾向も現れてきます。つまり、企業への受動性であります。
 企業の中心的な労働者層、上層の労働者層には自分たちは企業にとって価値がある労働者であるという自己意識も生まれてきます。そして非正規労働者をこの組合は除外することになります。1950年代から日本には、臨時工と言う名前で、あるいは女性のパートタイマーと言う形で、非正規労働者はたくさんいました。この労働者たちを一般に労働組合は除外してきたのです。社会の支配・従属関係が組合の中に持ち込まれたわけであります。またこういう労働運動の中では中小企業の労働者も組織化から取り残されました。中小企業の労働者を組織すべき地域の労働運動に対しては、世界的な一流企業になっていこうとするような大企業の労働者はあまり関心を持たなかったのです。いまお話をしたことは、企業別組合のいわばマイナスの面です。
 しかし、この企業別組合にプラスの面がなかったわけではありません。日本の労働者の団結は、ヨーロッパの職業別組合や、アメリカのビジネスユニオンと違って、企業内、職場で作られると言うことがあります。労働運動が、この組合の中で戦闘化するという場合、職場闘争という形態がとられることが普通でありました。これは戦後労働組合が戦闘化する場合には重要な運動形態であります。職場の具体的要求をその職場の組合員が自分たちで討議してその解決の方向を見出し、行動と交渉によって解決しようとするものです。そのことによって企業の支配力を弱め、職場秩序を変えていこうとする考え方が出てきます。この職場闘争が最も典型的に行われたとされているところが、石炭業における三池炭鉱であります。
 この三池炭鉱では、労働の能率を労働者が自ら規制すること、それから労働条件を公平にしていくことが職場で実施されました。ご存知のように炭鉱では、石炭を掘る場所によって働き易さが違いますから、その条件を組合が主導して公平化しようということです。この職場闘争の結果三池炭鉱ではそれまで年間10〜20名、それ以上出ていた死者が、年間2〜3人に減るという重要な成果を上げました。しかし一方、企業の方も職場を労働者を把握する末端として重視いたしますから、職場は企業と組合との労働者争奪の場となります。あとで話します1959年から60年の三池争議、戦後の日本の労働争議の中で最も大きかった争議といわれますけれど、その争議の争点は、大量解雇と同時に職場闘争を絶滅すること、これが資本の側の目的でした。そして1960年代に基幹産業の多くの企業で企業の側が職場支配を奪取しました。そしてそれを基礎にして、戦闘的労働組合を空洞化させることに成功したのです。
 さて、この企業別組合以外の労働組合の形を考えることは、現在の日本の労働運動の中心的問題です。しかし、この場合私は何か別の形態を頭の中で考えることが重要なのではないと考えております。むしろ企業別組合が生んだマイナスの要素と闘うことが重要なのだと考えています。企業別組合は一方的に企業的なのでもなく、一方的に戦闘的なのでもありません。つまり、企業別組合は矛盾を含んでいます。その矛盾が第一組合と第二組合の対立に現れます。労資協調的な面を第二組合が代表するのに対して、われわれは企業主義と闘う面を第一組合に見てその延長上に企業別組合の克服を考えてきたのです。ただし、どのような形がいいのかと言うことについては私たちはまだはっきり見出していません。要するに、企業別組合が日本の労働運動の宿命と言うことではなく、企業別組合のマイナス面を前提とした労働組合分裂宿命論を疑ってみなければなりません。つまり労資協調主義は企業別組合では必ず勝つのかと言う問題であります。この問題に答えるために、ひとつの例を検討してみたいと思います。

3.1957年7月 国鉄新潟闘争

 1957年7月に国鉄の新潟地方本部を中心に歴史的な争議が起こりました。この闘争の主体は国労、国有鉄道の労働組合の新潟地方の労働者です。日本の国鉄の労働者は、1948年に占領軍の方針によってストライキ権を奪われました。占領解除後もこの状況が続いていました。1950年代半ば、賃金問題の紛争で国鉄労働者はしばしば実力行使をしました。これに対して当局が処分を行い、この処分に抗議してさらに実力行使が行われるという繰り返しがありました。それが1957年の7月に新潟での大衝突に発展したのです。ストライキは違法でありましたから、これらの労働者はストライキを宣言はしません。しかしこの実力行使というのは、例えば決まり通りに列車を動かすと言うものですが、それはしばしば列車の遅れを生み出し、ついにはそれがストライキ状態、列車が止まってしまうという状態にまで発展することがよくありました。つまりストライキ状態になるわけですが、労働者はそれを分かっていて、実力行使を行っていたのです。つまりここでは、ストライキ権の問題が、闘争の中で、現場の労働者の支持の中から押し出されたということです。したがって、全国鉄労働者の最前線となったのが新潟でしたが、その闘いへの支持は非常に大きなものがありました。
 ここでの国鉄労働組合と総評の指導部の任務は、ストライキ権奪回を正面の課題として大きく打ち出すこと、ストライキ権奪回の時は今であると決意して、そのための実力行使を強めるように全組合員を励ますことでありました。ところが指導部はそこで後退したのです。その考えは、労働者はまだ弱い、弱い労働者にこれ以上実力行使を強めさせることは無理だ、当局との交渉によって収拾すべきだ、無理をすると組合組織が崩れる、というものでした。実際、国労の中では右派の反執行部派も相当力を持っていましたから、そういうふうに思ったのです。
 こうしてこの闘争は収束されました。これに対して現場の労働者の怒り、失望は甚だしいものがありました。いま闘っている自分たちに背を向けた指導部への不信感であります。組合組織はかえって結束が失われて大量の脱退者が出ました。いまお話をした例は、労働組合の分裂問題が企業別組合の内部構造だけではなく、運動過程での団結の作られ方にも深く関係していることを示しています。
 日本には第二次大戦の前から、ストライキにおける同じような失敗が労働組合の分裂、分解、消滅をもたらした例が無数にあります。裏切った指導部にはついていけない、われわれを信頼しない指導者はわれわれの指導者ではないと。新潟の場合は実力行使の中で自分たちの行動、ストライキに結びつくような行動の当然性を感ずるまで、つまりストライキ権奪回を問題にしうるまで労働者の意識は高まっていたのであります。ところが、その意識の高さについて指導部の確信がなかった。その意識水準での団結をつくり出す考えがなかった、これが分裂に結びついたのです。多少の賃金の上昇があったとしても、このような交渉による闘争の収拾は現場の労働者には敗北としか考えられなかったのです。
 ここでの総評指導部の考え方には、ひとつの労働者への見方が働いています。この頃総評の指導部というのは太田薫さんとか岩井章さんとかそういう方々です。この人々の考え方によれば、日本の労働者は階級としてまだ弱い、したがって身近な要求、ことに賃金問題では立ち上がるが、高度な問題を押しつけるべきではないというものでした。この考え方は、労働者、労働組合の弱さを重視するもので一面の真実をとらえているものではあります。ところが、労働者の意識が変化する可能性について著しく悲観的です。しかし日本の労働運動にはこの労働者の弱さがあったとしても、それを克服して新しい団結を作る道はなかったのでしょうか? 
 新潟の闘いの収拾において、太田氏たちには第一組合を分裂から守るという視点しかありませんでした。彼らは理論としては労働者階級は本来ひとつである、労働者は団結を求めると考えていました。しかし実際に彼らが見ているのは、労資対立の中で労働者がとにかく労働組合にまとまっていく初歩的な団結の姿であります。けれど労働者の団結には、階級意識に基づく強固な団結に到るまでいくつもの段階があるでしょう。強固な団結に向かって団結の形を高めていくことで分裂に対抗することはできないであろうか。太田氏たちにはこの考え方がなかったと思われます。だから存在する団結が崩されて、第二組合に多数をとられると、それで万事が終わりとなることが多かったのです。本当は、彼らの理論そのものに正しくない点があったのかもしれません。資本主義が生みだす労働者集団には、団結に向かう社会的根拠は必ず存在します。しかし、その社会的根拠が、どのような団結を現実に生みだすのかということが決まっているわけではありません。太田氏たちは目の前にある分裂攻撃にまだ弱い団結しか見えなかった。だからそれを守ることしか考えられず、分裂勢力をこちらから攻撃するということができなかったのです。
 この問題は、資本主義が生みだす労働者集団はそのままで労働者階級なのか、それはある運動過程を経て労働者階級になるのではないか、そういう問題とつながっています。労働者集団の内面にはさまざまな立場や利害や意識要素が混在していることは事実です。労働組合に結集した労働者たちの間でも、労資対立が生みだす諸問題、諸要求の解決においていくつもの選択肢が対立することになるでしょう。いろいろな要求を解決する場合に、個人的な勤勉によってそれを解決するということもあるでしょう。職場の上司に気に入られることによって解決するという道もあるでしょう。企業の業績の向上に希望を託すという道もあるでしょう。それらの選択肢とならんで、やはり労働組合による労働者の共同と団結と連帯による解決でなければならないのだという選択肢があるわけです。労働者個人の、また労働者集団の内面で、いま存在している労働組合の内面で、これらの選択肢はいつも対抗しあっています。労働組合があるからといって、企業に期待する選択肢が必ず排除されているのではありません。その対抗過程であくまで労働組合によって解決するのだ、企業の繁栄による解決はダメだという選択肢をいかにして勝利させるのか、これが問題であります。私は、日本の近年の労働組合をみるなかで、このような考え方を持つものであります。
 韓国の労働運動の中ではこういうことについてはどうでしょうか?その点についてご意見を伺えればありがたいと思います。

4.第2組合を克服する団結は可能か

 どうすればいいのか。やはりここでは私は、労働組合指導部が率直な問題提出をすることが重要であろうと考えます。当面しているこの問題については労働組合の闘い以外に問題の解決はない、これこれの闘争形態が必要である、そこには勝つ可能性が十分にある状況のなかで意味をもつ運動をつくれる、ということについて広く深い大衆的討論を呼びおこすことが必要です。この討論によって、運動の中で積み重ねられた体験や認識が深められる。労働者たちは資本の攻撃に対して共通の怒りを感じているわけですが、この怒りが、自分たちがどういう立場におり、何をしなければならないのか、こうすればよいのかと、これが分かる段階にまで達するならば、そこにある集団的意志の形成過程を見ることができるでしょう。共同の行動がさらにそれをある確信にまで高め、こういう過程が繰り返されることによって、この過程で労働者は企業の繁栄等の選択肢に対して、労働組合的解決の選択肢を自ら選び、打ち固めるのであります。私はこのような主体形成に団結の本質があると考えます。本来労働者の間に団結が存在するはずでそれを受動的に守るということではなく、積極的、能動的に作られる団結というものが、労働者集団の内面で第2組合の芽をつぶしていくのです。
 いつでも社会や、あるいは企業から、労働者の間で、企業の繁栄に期待せよという宣伝が行われています。それはいつでも労働者の耳に残っている声であります。あらゆるきっかけを使ってその声と闘うこと。それが第2組合の芽をつぶしていくことになるわけですが、私は日本の労働運動史を見てきて、この簡単なこと、ごく当たり前のこと、これが行われてこなかったということに、日本の組合運動がいつでも分裂に悩まされた大きな理由があると考えています。
 つまり、労働者への社会的影響力に対して、労働組合が積極的に闘うことであります。総評の指導部には企業に現に存在している遅れた労働者への認識はありました。また本来存在するはずの労働者階級を理論上は認めました。しかし前者から後者に、つまり現に存在している労働者から、意識の高い、団結した労働者階級に移行する過程への確信が彼らにはなかった。強い団結の形成が状況を切り開く力になるという認識がなかった。新潟の闘争においては、労働者が現にひとつの団結に高まっていくという過程を見なかった。労働者たちはそこに自分たちへの侮辱を感じたのではないだろうか。
 先ほど動労千葉の田中委員長があいさつの中で団結について話された。そのことを思い出していただきたい。いま私が話したことは、動労千葉が日常行っている運動を私なりにとらえた見方であります。韓国の労働運動を経験している皆さんにとってはいま私が話したことはごく当たり前の、分かりきったことではないかと思われるかも知れません。しかしそのごく普通の当たり前の労働組合としてのあり方がいま日本にはほとんどないのです。
 そういう労働組合のあり方をいま少しでも作る。それがいまの日本の労働運動の重要な課題であり、その点で私たちはいま苦しんでいるということを皆さんにお伝えしたかったのです。

5.反合理化闘争の敗北

 私の話の第二部は、反合理化闘争がどのようにして敗北したかという話であります。さきほどもちょっと申しましたように1950年代の半ばごろから世界資本主義の水準に追いつくための大型設備投資と技術導入が開始されました。この過程でいくつもの大きな争議が起こっていますが、ほとんどが敗北しました。1953年の日産自動車の争議。1956年の日本製鋼所室蘭工場の争議。この二つの争議は第二組合がストライキの結果生じた代表的な例でもあります。
 1960年代にさらに進んで、日本の資本主義はいわゆる先進国の仲間に入る力と欲求を持つことになりました。激しい国際競争に飛び込む、そのために本格的な技術革新と合理化の時代がはじまり、それにともなって急速な経済成長の時代となりました。この経済成長は60年代から70年代のはじめまで続き、大体73年のいわゆるオイルショックで一段落します。左派労働運動は、この過程での対抗力になろうとしますが、結局敗北して、むしろこの時期に民間・基幹産業での後退が著しくなりました。
 合理化・技術革新の過程については、日本も韓国もあまり変わりはないと思います。しかし、合理化過程の、いわば上部構造、意識の面では少し違いがあるのかも知れません。ちょっとその点について指摘しておきたいと思います。まず、労働過程の変化に対応して労働者の意識を適応させようとすること。生産性向上への同意の形成、新技術導入への労働者の内面での同意の促進ということがありました。
さきほどもちょっとふれました、企業による職場支配の進行ということが第二の大きな問題であります。インフォーマルな小集団を職場に作ることによって、労働者の意識を改造しようとすることが起こります。その意識をどのように改造しようとするかと言いますと、企業の成長にこそ労働者の幸福はある、そのために労資の協力をしなければならない、それが第一。それにともなって生産性向上のための協力が必要である、そしてそれに反対する階級闘争主義の組合は排撃されなければならない。企業による労働者の意識教育というのは大体こんなふうな内容で、どの企業でも共通していました。それと結びついて、これは世界的に日本の特徴とよばれましたが、ZD運動とかQC運動と呼ばれるものがあります。このQC運動の特徴は、これはアメリカから入ってきたものですけれど、日本では職場職場で自分たちの作る品物、あるいは生産工程に対して責任を持つという考えで進められました。これはもちろん企業の側が組織しており強制を含むものでしたけれど、世界中から大変成功したといわれています。
 第三に、労働組合の主な目的を転換させていくことです。「パイの配分」と呼ばれましたが、企業収益をどう配分するかということのための闘争から、企業収益を増大する、「パイの増大」のための労資協力に労働組合の目的を向けていこうとしたのです。生産性の上昇、企業収益の増大に応じた賃金上昇という考え方に労働組合の意識を転換させようとしました。労働力の効率的な活用が行われれば生産コストが抑えられる。そうすれば企業間競争、国際競争で勝利できて従業員がみんな幸せになる。こういう関心を労働組合につくり出そうとしたのです。こういう考え方を労働組合の側から掲げるのが右派の組合でありました。典型的には鉄鋼あるいは造船のような産別で見られますけれど、この右派の組合の勝利は大体70年代ごろに確立しました。
 先ほどは労働組合の分裂をストライキと結びつけて説明しましたが、この時代は「平時」に組合のなかで労働者を奪取するという形で右派の組合が勝利したのが特徴です。また資本が国際的な競争を推し進める中で、労働組合も国際的につながらなければならないという考え方、これは当然ではありますけれど、その考え方が日本では当時右派に代表されて実現されました。1964年にIMF−JC、国際金属労働組合連盟・日本委員会というものが結成されました。
 それから次に重要であったのは、経済成長がもたらす豊かさ、あるいは進歩という価値意識を推し進めることです。この価値意識からすれば、合理化ということは人間的対立を超えた普遍的な価値であるとされました。当時、日本は遅れている、日本は貧しいという認識が社会的にかなり存在していましたから、この遅れた貧しい日本を世界的水準に引き上げる合理化は必然性と進歩性を持っていると説かれたのです。しかし遅れた日本をどうやって世界的水準に追いつかせるかという考え方は、そこから想像されるような防衛的なものではなく、当時の日本の資本の行動は世界的に非常に攻撃的でした。国際競争に勝つという目標は国民の非常に大きな関心を引きつけました。これは社会一般の大量生産、大量消費、大量廃棄の生活形態への転換と結合しています。これらの考え方による社会全体の教育、そうしてその結果としての左派労働組合へのイデオロギー的包囲が実現することになります。つまりこれらは労働者、労働組合、国民に対する精神運動、教育運動として推進されました。その本部が1955年に作られた日本生産性本部です。

 生産性運動というのはご承知のようにアメリカから出発した運動です。1940年代の終わり頃、ヨーロッパにむけてアメリカ的な生産力とアメリカ的生活様式によって社会主義に対抗するという考えで押しだされた運動でありました。これが少し遅れて日本には1950年代に入り込んできたわけです。日米協力によって国家的に推進されました。この合理化、生産性運動は右派の組合を主な協力者としましたが、左派組合も絶対反対を建前としましたが、実際的には受動的でありました。左派組合は合理化の進歩性と必然性を批判することができなかったわけです。それは当時総評が推し進めた運動である春闘、春に一斉に行われる賃金闘争、これによく現れております。
 生産性本部が設立された1955年は、たまたま総評にとってもひとつの転換があった年です。それまで総評を指導していた高野実事務局長が岩井章に交替しました。先ほど名前が出ました岩井章、太田薫、この二人に象徴される時代がその後10年ぐらい続くわけです。労働者階級の階級的課題や、政治課題を比較的強調する高野実に対して、太田・岩井両氏は、労働者大衆の実際上の利益、実利に重点を置く傾向がありました。この指導部が考えたのが大幅賃上げのための、労働者の一斉行動、産業別統一闘争でありました。春闘と呼ばれるのはその運動のことです。
 この春闘をいま振り返ってみますと、大型設備投資、技術革新の波が50年代後半、経済成長をもたらし、企業収益が増大するなかで、その企業収益の多くを資本蓄積に向けようとする資本側に対して労働者への配分の増大を求める運動でありました。当時労働者の賃金は事実そんなに高くありませんでしたから、60年代にかけて春闘に労働者たちが闘争力を発揮したことは確かでした。しかしそれが経済成長の中での、企業収益の増大運動に傾いたことは否定できません。結局経済成長、あるいは国民経済の要請と言われているものに対して、従属していく受動性が生まれてくるのです。つまり資本の側が狙っていた、「パイの増大」を前提としての「パイの分配」。言い換えれば「パイの分配」よりは「パイの増大」に目を向ける労働運動になる危険性がありました。春闘は主な目的が賃上げでありますが、合理化反対には取り組まないという特質を持っていたのです。
賃上げのスローガンとして生産性の向上にふさわしい賃金ということが掲げられた。日本は先進国並みの生産性をうち立てたのだから、先進国並みの賃金をよこせと言うことです。ヨーロッパ並みの賃金というスローガンが総評によって掲げられました。これは経済成長のなかでの企業収益の増大を資本蓄積にまわそうとする企業側に対して、労働者の側への公正な配分を要求するという面を持ってはおりましたが、しかしこれは生産性向上の範囲内での賃上げをという資本側のスローガンの裏返しでした。すなわち合理化と引き替えの賃金上昇ということでした。この考え方がいわば帝国主義国の労働運動の特徴をあらわしていることにお気づきだと思います。ヨーロッパ並みという場合、アジアの諸国の労働者の賃金がどうかということは総評はほとんど考えていなかった。
それはともかくとして春闘は一応成功した。それは、60年代の日本の経済成長が著しく、そのなかでは賃上げが可能であったからです。

 では合理化に反対する闘争はどうなったでしょうか。春闘の運動主体は産業別組合(実は企業別組合の連合体)でありましたが、これはいま申しましたように賃上げ中心でありまして、反合理化の方は各企業に存在する企業別組合が取り組んだのです。その取り組んだ労働組合のほとんどが左派組合です。しかしこの反合理化闘争の思想に非常に大きな問題があったと私は考えています。その闘争の建前は合理化絶対反対でした。反合理化は資本主義打倒につながる決定的闘いという言葉も聞かれたのです。しかしその裏で、合理化は歴史の必然であるという考え方が存在しました。反合理化は資本主義打倒につながるのだけれど、資本主義は今すぐ打倒できないのだから資本主義の法則性は貫かれてしまうのだという考え方が出てきます。したがって合理化の影響を緩和するための妥協的闘争しかないと考えられたのです。つまりこれはイデオロギー的にはじめから敗北しています。合理化が実行されてしまうことをはじめから想定して、予想される影響に対する条件闘争を行うということでした。これは結局、合理化に対する受動的な態度でありますけれど、その限りでは労働組合の要求が実現されたことももちろんたくさんありました。賃金を値上げしろ、時間短縮をやれ、合理化の実行の形態を緩めろ、それからあらゆることをやる場合に労働組合と事前協議をしろと。だが大事なことはこのようなことを実現する力、あるいは余裕が当時資本の側にあったということです。したがってこのような要求と引き換えに合理化は実際には実現されてしまいました。つまり左派においては理念と実践はかけ離れていたわけです。
 これに対して合理化の実現を正面から掲げるのが右派でした。右派のほうは率直です。左派はあいまいです。当然運動の中では率直な方があいまいなものを圧倒します。結局左派は負けるのです。しかし条件で折り合わないときは、資本の側が折り合わないままに合理化を強行するということもよくありました。非妥協的な争議が展開されることもままあったのです。そのひとつの例、一番大きな例が先ほどふれました1959年から60年の三池炭鉱争議です。

 この争議についてちょっと話をしたいと思います。1950年代の半ばあたりから、石炭産業の合理化と言うことが資本の側から提起されました。エネルギー源として石炭から石油への転換が世界的に必然になっているという主張でした。その中では、日本の石炭産業は、生産コストが高すぎて対抗できない。したがって能率の悪い炭鉱はスクラップし、能率のいい炭鉱は機械化と人員の大量削減をすることによって立て直すという合理化計画であります。これに対していくつかの炭鉱で争議が行われて、その頂点に立つのが三池炭鉱の争議でした。三池炭鉱というのはその数年前に大量の人員解雇をはね返した炭鉱でもありました。しかも職場闘争において当時全国の労働者に有名であった炭鉱です。この三池炭鉱の労働組合を叩きつぶして職場闘争を絶滅する、そういう目的をはっきりと立てて挑戦してきたのが当時の三井資本でした。これは戦後日本最大の労働争議といってもよい争議となり、真っ向からこの組合は資本と対抗しました。
 しかしここでも総評と石炭労働組合の全国組織、炭労と呼ばれましたが、この組合の指導部の思想にひとつの問題がありました。表では絶対にこの争議には勝たなければならない。これは総資本と総労働との対決であると言っていました。しかし、裏では勝てるはずがないと始めから思っていました。なぜなら石炭から石油へのエネルギー源の転換は歴史の必然であると。石炭産業に将来はない、三池でのコスト削減のための合理化はやむを得ないと、組合、炭労自身が考えていたのです。この三池の大量解雇反対と職場闘争の権利確保の闘争、人間らしい労働を求める運動の勝利をはじめからあきらめていたわけであります。全国の労働者たちは、三池の組合にかけられている攻撃に対して非常に怒りを感じていました。全国の労働者の関心、共鳴、応援が三池に集中したのです。しかし繰り返しますが、指導部は人員整理を呑んで妥協するしかないと考えていました。
 大きな問題となったのは他の炭鉱会社の組合が、それどころか同じ三井系の炭鉱の組合さえ、闘争から後退したことです。企業別組合のマイナス面がここではっきりと現れました。三池の問題は自分たちの会社の問題ではないということです。結局すべての組合が闘争から後退して三池は孤立することになります。しかし考えてみれば、どこの炭鉱も三池と同じ問題を抱えていたのです。そのすべての炭鉱に対して、運動の方向を与えることこそが必要でした。それができなかったということです。やがてその孤立の中で、三池炭鉱の中にも第二組合が登場しました。この点では炭労にも三池の組合の中にも油断があったと思われます。先ほども申しましたが、どんなに職場で強い組合であっても、労働者たちに対しては、社会的な、また企業からの宣伝が届いています。その宣伝が残している影響が、あるきっかけ、組合の孤立、ストライキの敗北などにおいて、活性化するのです。三池のような強い組合でもそれは避けられなかった。企業の側からの思想の浸透に対して、毎日毎日これと闘い続けることが大切でした。ストライキの前にです。ところが三池は強い組合だからそれは大丈夫だと思っていたのです。しかし三池の孤立という状況が生まれ、それにつけこんだ資本の側からの宣伝と組織、これによって第二組合が組織されていったのです。それでも三池の現地の労働組合はよく闘いましたが、結局炭労、総評の指導部は企業の主張をまったく認めた斡旋案で妥協しました。こうして一年間におよぶ闘争の結果三池闘争は敗北します。
 その後三池炭鉱には、争議前を上回る激しい合理化攻撃が吹き荒れます。ひとつは第一組合をつぶす徹底的な攻撃です。もうひとつ、それまで合理化が狙っていた職場の安全のための措置をよわめること。反合理化闘争というのは職場の安全、労働者の権利を守るということが非常に大きな要点です。ひとつ例を挙げます。炭鉱は、石炭を掘りますから、石炭の粉が舞い上がって、空気の中に充満します。これがガス爆発の危険な要因になりますから、炭鉱ではいつも掘っている現場に水を撒くのです。水を撒かないと、石炭の粉が舞い上がる。争議後その水を撒く回数を減らしたのです。当然ガス爆発の危険性が増大し、そのほかの問題も重なって1963年には400人を超える死者が出る爆発事故が起こっています。それに対して、炭労、総評の指導部はどうしていたか。仮に石炭産業に将来がないとしても、炭鉱の生産現場には依然として数万人の労働者が働いているのです。その労働者の権利と安全をどうするのか。そこから関心が離れた。その結果各炭鉱の闘争はバラバラになります。総評、炭労の指導部の関心は大量解雇はやむを得ないということで、その大量解雇に対して政府に雇用政策を要求するということに集中しました。政策転換闘争と当時いわれました。炭鉱事故の直接的責任は総評や炭労の指導部にはもちろんない。しかし間接的責任はあったと言うべきです。結局三池だけではなく1960年代、多くの炭鉱で大事故が起こっています。
この三池炭鉱の争議は資本の側の合理化政策と、現場の労働者の闘争意欲と、組合指導部の姿勢、この三者の関係が典型的に現れたものだと言うことができます。つまり総評労働運動というのは合理化過程への受動性と無為性を特徴としたのです。合理化の結果として現れるものをどうするかというだけで、合理化過程そのものの中で人々の生きる権利、働く権利を、生産性向上に先行させる論理をうち立てることができなかった。つまり合理化過程の矛盾をとらえて日常的な闘争を作り出せなかったわけです。結局は仕方がないと言ってあきらめる、それは団結の弱化しかもたらさなかった。この反合理化闘争における受動性と無為性、これがその後の日本の労働運動に固着するのです。それを私たちはまだ克服できないでいる。一番最初に新自由主義のさまざまな政策に対して日本の主流の労働運動が何もできないと話しました。私の考えでは、その新自由主義への無為性は数十年前の反合理化闘争から出発したものだと思います。

6.反合理化闘争の可能性

では、反合理化闘争を勝利させる可能性は全くなかったのか。日本にも生産性運動、合理化運動への反撃が成功した例があります。
 合理化や生産性の攻撃に対する現場の労働者の怒りは存在していました。その怒りを指導部が本気で組織しようとし、闘争を呼びかけた場合、対抗関係をつくり出すことができました。その一例は1970年前後国鉄や郵政の労働者に対する激しい生産性運動であります。細かいことは時間がないので述べられませんが、民間では左派の労働運動は大体片づいていた。残ったのが公共企業体の労働者でした。それをつぶそうとしたのがこの攻撃です。マル生運動と言いました。これは生産性の「生」に○をつけたんですね。国鉄当局が全力をあげて追求した政策で、一時国鉄労働組合は相当押されたのです。最後の段階になって、国労の指導部が黙って組合をつぶされるよりは、立って闘おうと呼びかけた。その呼びかけが下部労働者の怒りをとらえることができたのです。青年労働者たちの激しい闘争によって、ついにこのマル生運動はつぶされました。ところがそのあとの国労の指導部には問題があって、結局国鉄分割・民営化を許すまでに行ってしまうわけですけれど、このマル生反対運動というのは日本の労働運動を見た場合にひとつの大きな成功例であるということができます。
 もう一つの成功例として1970年代以降、動労千葉の運転保安闘争とよばれる運動があります。これについて話をしていると長くなりますから、ここでは動労千葉の反合理化闘争が生みだした思想を何点かにわたって指摘するだけにとどめます。
私はこの運動の思想的な意味を、従来の反合理化闘争に対して思想的に批判をする、そういう立場を確立したものとして考えております。そのひとつは合理化、技術革新は、労働運動に対して避けがたい必然性をもって存在しているのではない、ということであります。技術というものは労資対立を超越した中立的なものではない。中立的なものとして労働運動に対して外からかぶさってくるものではない。合理化は労資対立を通してこそ成立する。合理化を進めようとする資本の意志、これに対する労働組合の意志、このぶつかり合いの中で合理化というものは実現もするし、阻止もされる。こういうように、合理化というものを逆らえない必然性であるとか宿命であるとかいう考え方を動労千葉は打破しました。
 第二に、合理化反対闘争をつくり出す上で合理化はそれ自体の中に矛盾を含んでいるという考え方が重要であります。鉄道の場合、効率、無駄を省きスピード化を図ることと、安全性との矛盾です。これは世界のどこでも例があるだろうと思います。スピードを追求すれば安全性を損なう結果になる。この矛盾のはっきりした現れが事故です。それまで日本の鉄道労働運動の中では、事故が運動のきっかけになるとは思っても見なかった。ところが、動労千葉の運動は事故をとらえて合理化の矛盾を当局の責任として追及することができるのだということを証明した。事故こそ鉄道における反合理化闘争の焦点となるべきなのだということです。
 動労千葉の運転保安闘争の出発点となった1972年の船橋事故闘争というのがあります。これは過密なダイヤ、安全の原則の侵害、あるいは老朽施設の更新を怠ったこと、そういう要素によって起こった事故です。
 この事故をとらえて動労千葉は、まだ当時は独立した組合ではありませんでしたが、全面的な闘争を展開しました。それまでは事故がありますと、組合がとる立場として二つある。ひとつは事故を起こした運転士の責任を組合自体が認めてしまうことです。もう一つは労資共同で原因究明や改善を行うということでありました。これに対して動労千葉は、そういうことが問題なのではない、問題は国鉄、企業がこの事故の原因を作った、その責任追及こそが大切だということでした。事故に際して「労資共通の立場はない」と言い切った。そこで当局の責任を追及し、事故の運転士をついに守りきったのです。それまで事故を起こした運転士を解雇から守ったという例は恐らくなかった。この運転士を守り抜いたということが労働者に与えた刺激は非常に大きかった。その後、国鉄、あるいは後継のJRにおいていくつかの事故がありましたが、すべて動労千葉はこのような態度で対処してきました。
 それからもう一つ申し上げたいことは、合理化においては科学がこれを先導するというように理解されています。科学は確かなものであると考えられている。その確かな科学が指導している合理化がなにか問題を起こすのは、不確かな人間がいるからだということになる。それに対して科学とその応用である技術がもし安全に運用されているのなら、それは人間、すなわち労働者が現場でぎりぎりの無理を重ねてやっとその安全を支えてきたのではないか。そういう考え方が動労千葉の運動から導き出されました。科学の立場から理論上の計算がなされ、合理的で安全であるという結論が出され、そうして合理化がなされる。しかしそれは現場の現実とずれているという現場の実感がある。それから労働者の職業的能力からする判断力が、合理化は安全であるということに対して疑問を引き出すという場合があります。従来科学が持つ権威に対して、労働者の現場での実感などは問題にもされなかった。また職業的能力からする判断力などは技術の発展の中でどんどん古くなるものだと蔑視されていた。そういうものの重要性をもう一度再発見したという意味が動労千葉の運動にはあると思います。一人の労働者が偉い大学教授と対抗する、そういう世界です。
 第4に事故、あるいは事故につながる危険性、これは先ほど申しましたように人間の努力によって安全が保たれていますから、日常は目に見えません。しかしその中で、事故につながる可能性の要因が現場の労働者には分かる。その要因の一つひとつを取り上げて闘争する。このことによって事故の要因、社会の目から隠されている要因が、社会の人の目に見えるようになる。ひとつの例を挙げましょう。2005年にJR西日本で尼崎事故という悲惨な事故がありました。これはJRになってから合理化、スピードアップを過度に追求したとか、いろいろな要因があって、その中で起こった事故ですが、JRの中の、動労千葉以外の組合はこれに対して実力でもって抗議する、当局の責任を追及するということをやりませんでした。このとき動労千葉が行ったのは、レール破断の摘発闘争でした。世の中のひとは考えもしないけれども、レールにひびが入っている。JRになって線路の保安に対して手を抜いたので、そういう箇所がいっぱいできていたのです。まさに合理化にともなう手抜きですね。これが事故につながるものではないか。このレール破断を摘発する闘争は、社会に非常に大きな反響を呼びました。事故が目に見えるものになったのです。当局もひびの入ったレールを何百キロにわたって交換することをやらざるを得なかった。
 私が動労千葉の運動の中で重要だと思うのはこういうようなことですけれど、合理化過程で、能動的に対抗をつくり出してきた運転保安闘争、あるいはそこでの団結は、1986年国鉄分割・民営化に反対してストライキで闘うことができたひとつの理由であります。また近年の鉄道業務の外注化・非正規職化と闘ってしばしばその実現を妨げ続けているその闘争につながっています。
 私は戦後の日本の労働運動を研究してきて、その伝統が合理化に対する受動性・無為性を特徴としていること、その問題が日本の戦後労働運動の最大の問題であると考えてきた。それに対して動労千葉がほんの小さな運動であるけれど、組合としては300名しかいないですけれど、その運動が作り上げたものが戦後の労働運動史に対するひとつの大きな批判であると考えているのです。

7.国鉄全国運動は何をめざすのか

 こういう運動史の研究の中から、最近の新自由主義攻撃への無為性・受動性を克服する道も示唆されてくるのではないでしょうか。結論としまして、いま私たちが進めている運動についてちょっと申し上げます。
 それは国鉄全国運動と名付けられているものであります。1986年の国鉄分割・民営化にともなう大量解雇の中で、1047名の人たちが解雇を受け入れない、あくまで復職を要求する、そういう闘争を起こし、長年続けてきました。ところが昨年4月、ひとつの和解が行われまして、それまで1047名の闘争と結びついていた運動体がほぼすべて後退してしまいました。その和解は、1047名闘争が追求していた、不当労働行為に対して反対する、恣意的な不当な解雇に反対する、それについて資本・当局の責任を追及する、そういう目的を運動自体が取り下げ、忘れ去ろうとするものでした。これに対してこういう闘争課題は、新自由主義攻撃と闘ういまこそ逆に浮かび上がらせなければならないものである、と私たちは考えた。それを通じて労働運動の再生の起点をもとめよう、これが私たちの国鉄全国運動の目標であります。これは昨年の6月に作られました。私たちはこの運動を通じて、いま話してきた戦後労働運動の資本に対する受動性と無為性を打破しようと考えているのです。
 この運動は本年3月11日以降の情勢の中でますます重要性を増しております。資本の側はこの災害をむしろ逆に利用して、それまで彼らが狙っていた多くの攻撃を実現しようとしている。もうすでに長年侵害され続けてきた労働関係法を、最終的に解体に持ち込むような規制緩和が狙われています。災害を口実にした解雇、賃下げ、非正規職化、これが進行している。こういう攻撃に対する闘争は、福島の復興、人間のための復興を要求する運動と結びついています。いま私たちが気をつけなければならないことは、そういう運動が「国民一体」の運動というスローガンに埋もれさせられてしまうことです。この「国民一体」の、その先頭に立っているのは天皇です。これに対して、人々の生きる権利、働く権利のための闘争を巻き起こすことは、戦後労働運動の伝統的な受動性や無為性の変革にますますつながるだろうと私たちは考えています。

 私は最近年をとりまして、時間の感覚が鈍くなりました。もっと早く終わるはずでしたが、長時間になりました。辛抱して聞いてくださった方々に感謝いたします。ありがとうございました。