あやまるということ
戦争や訴訟の世界では、あやまるということは、「負け」を意味します。
だから、めったなことではあやまるわけにはいかないようです。
私が学んでいるカウンセリングスクールでは、
おそらく他にはない、独特の技法があります。
それは、クライアントが、何らかの不快な思いをかかえていることに対し、
カウンセラーが、すべてになりかわって「あやまる」、
という方法です。
私自身はカウンセラー役で、
この技法は、使ったことがありません。
どう考えても、不自然なんです。
クライアントに何があって、その感情をもったかは、
カウンセラーにはなんの関係もないことです。
当事者でもないのに、あやまるなんて、嘘っぽいという思いがぬぐえません。
でも、私がクライアント役になったときには、
2回ほど、カウンセラーにあやまられたことがあるのです。
カウンセラーは、涙をうかべ、深々と頭を下げ、
わたしに「ごめんなさい」と言いました。
「なんで、この人がわたしにあやまるわけ?
おかしいよ!
この人になんの関係があるっていうの?」
という思いとは裏腹に、
その2回とも、
あたたかいものが胸にどっと流れ込んでくるのを感じ、
涙を抑えることができませんでした。
これほどまでに、私は人にあやまるよりも、
あやまられたかったのか?!
と、私は自分自身に驚愕しました。
なぜごめんなさいと言われて、涙が出るの?
不思議で、いろいろと、そのことを考えていました。
「自分があやまればいいじゃないの。へるもんじゃなし。
あやまるって言うのは、負ける強さっていうかな・・・」
というカウンセリングスクールの先生の言葉を思い出します。
負ける強さか・・・でも、それ以上のものを感じます。
本当に、あやまる方が負けで、あやまられた方が勝ちなのかな・・・
本気であやまるということは、相手を無条件に認めることです。
心からあやまるのには、
大きい許容なしにはできない。
私は、あやまられて、勝った、とは思いませんでした。
私の魂が感応していたのはなんだったのでしょうか。
それは、ゆるしてもらえた、という感覚です。
認めてもらえた。私の存在をゆるされた。
大げさに言えば、「ごめんなさい」と言われて、
私、生きてていいんだ、と感じられたのかもしれません。
つづく
あやまるということ 補足
あやまるといっても、悪いことをしたのを認めるとか、
降参するとか、ときには、卑下する意味合いとか、
いろいろあると思いますが、
ここのカウンセリングで使われた「あやまる」の特殊なところは、
自分に非がないのに、あやまるということです。
なにも悪いことをしていない人があやまるのです。
(カウンセリングスクールを主宰しているのがキリスト教会なので、
その精神が基になっているのではないかと思います。)
先日、電車の中で、こんな光景を目にしました。
幼い子供がぐっすり眠りこけている。
下車する駅に着き、母親が子供を起こす。
おかあさんは、
「ねむいよねえ〜、つかれてるんだよねえ、ゴメンネ、ゴメンネ〜、
でもおうちに帰るから起きようねー」
と、言っています。
ああ!これがカウンセリングで使うのと同じ、ごめんなさいだ!と
思いました。
子供はぐずりながらも、手を引かれて降りていきました。
(わたしが親なら、サッサと起きろと、たたき起こしてしまうかもな)、
と思いつつ、
このようにやさしく起こされたからといって、
子供が図に乗ってわがままになるとは思いません。
急に起こされ、機嫌が悪く、言いようのない思いを、
ねむいんだよね、つかれてるんだよね、と、代弁してもらい、
その上、あやまってもらって、
(カウンセリングでいうところの、受容、支持、明確化を全部やっちゃってる、
すごいなあ!←と、分析することもないと思うけど)
子供は、心のどこかで、ママには、わかってもらえている、
ねむくて機嫌がわるい、そのことも認めてもらえてる、
という安堵感を得られたんじゃないかなあと思います。
(ぐずってはいるかもしれないけどね)
カウンセリングでも、本当はクライアントに問題があるのかもしれない、
それでも、何も悪くないカウンセラーがあやまる、という技法。
それは、クライアントが今どういう心の状態にいるか、
(電車の例でいうと、疲れて眠い)
を、本当に理解し、承認し、
そのつらさを肩代わりする意味での、大きい、ごめんなさいなんですね。
そうなの!疲れてるの、眠たいの!
そのことを、わかってもらえた〜、
という、安堵感が、私が、カウンセリングを受けたときにもありました。
こういう、小さい安堵感の積み重ねが、
ひいては、「生きていていい」、という安堵感に
つながっていくのではないかなあ。
私はカウンセリングの中で、思い切りだだをこね、
それを徹底的に認めてもらい、肩を持ってもらうという作業を、
2年近くやってきました。
それほど、自分が生きていていい、という安堵感が欲しく、
もらってももらっても満足できなかったのです。
承認や理解を感じられ、安堵を得られる「ごめんなさい」という言葉が、
これほど大きいことならば、
やらなければならないことがあるのに、
私は気づきました。(つづくかどうかわからない。)
(2006年12月)