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自衛隊の災害派遣について知ることのできるページ

目次

1.直接人命救助

 今次災害で生き埋めとなった人は164,000人と推定され、そのうち要救助者は35,000人、警察・消防・自衛隊の救出者数は7,900人で、これらの組織によって救出された人の内半数はすでに死亡していたとされる。(*1)

 上記のうち、自衛隊が生存の救助をしたのは165名(内8名海自残りは陸自)で遺体収容は1,238体(内17体海自残りは陸自)となっている。(*2)

 実際の救助活動は自治会長・警察・近隣住民等から行方不明者の情報を入手し、これに基づき10名程度で構成される救助部隊(班)が人力で倒壊家屋を破壊しながら救出路を確保することにより救助活動を行った。コンクリート製の建物等救助が困難な場合は、状況に応じて施設中隊等からの器材の支援を受けるものであった。

 人命救助特に生存者の救助成果がこのように低調なものとなった背景には複数原因があるが主たるものは次のとおりである。

 このような原因から、1秒を争う被災地域への前進が遅れ、その結果高度な器材を必要とする箇所やすでに死亡している要救助者の多くが自衛隊の担当となったため生存者の救助に関して言えば低調な結果となったのも当然である。

 被災地への部隊投入については後ほど議論するが、問題なしとはしないものの当時の状況においては概ね最大限の能力を発揮していたと考えられる。

 救助現場での器材不足については、県負担による緊急調達(*3)の手続きが進められたが兵庫県側に経費負担の認識が薄く決済されたのは20日となった。書類上は17日にさかのぼって作成されたが、この協定により調達された物資が到着したのは21日以降となった。

 他機関との連携においては地域によって異なるが、担当地域を明確に区分した地域と各機関の混成チームにより救助にあたった地域があり、自衛隊側の記述によれば、担当地域を明確に区分した場合、救助活動が非効率的なものになるため、各機関の能力・法的権限を発揮できる合同チームを編成することが必要としている。(*4)

 一方、器材の不足という観点では自衛隊にどのような役割を求められていたかということを確認しておかなければならない。中村好寿によれば阪神・淡路大震災大震災のころの主流の考え方は「戦闘機能中核論」(戦闘が最重要で、その他の任務は国民の信頼を得るための余技である)といわれるモデルであったとされる。

これは自衛隊災害派遣史上最多の要救助者が発生した災害であった。しかし、自衛隊が駐屯する地区は多くの生き埋め者が発生した神戸市中心部から20km以上はなれており、地域住民は勿論、警察、消防と比べても活動すべき地域は遠く離れた場所にあった。また、自衛隊が行う人命救助の実態は人力主体といっても良いものであったすなわちその程度のものであれば大半は近隣住民がすでに救助にあたっており、単純に救助能力不足で残っている。あるいは要救助者から反応が無く後回しにされたところに後から来た自衛隊があたると言ったものが多いと思われる。第10師団の持参した道具の主力はシャベルであり、風水害には効果があったとしても倒壊家屋の捜索に効果はなかった。また数も少なく、緊急調達は人命救助に間に合わなかった。(現在はこれを踏まえて人命救助用の装備を導入している。)

 また、部隊が前進の途中救助を求められてそこに勢力を残置していったため目的地に着いたときに勢力が著しく減少していったことや、隊員個人が休憩時間に個人的に救出作業を手伝うということもあったため、遺体収容作業の方が多い自衛隊の士気・体力が著しく減少しやすい環境にあった。

 一部には、自衛隊の生存者救助が165名であったことをさして、「著しく能力が不足する」あるいは「自衛隊は災害救助に不向き・不要である」旨主張するものもあるが、この主張は明確に否定されなければならない。なぜなら、この成果は自衛隊の災害救助活動において他機関との比較の際もっとも不利になる条件での活動だからである。

 このような災害派遣をを否定する主張は「警察や消防は救助後の炊き出し、給水といった面ではボランティアにも劣るので災害時には不要。」と主張するに等しい。

2.給水支援活動

 給水支援量は1月27日(1) 及び2月4日(2)という二つのピークをもち総量は30,202t、1月17日から3月15日・3月29日〜4月25日(3)であった。(4)

 給水支援活動は17日12時30分伊丹市に対して開始されたのを皮切りに翌日には第10師団および第13師団より2個給水支援隊の増援を受けて開始された。

 最初の給水支援は「3師行災命第1-4号電(7.1.17 1440)」に基づくものであったが「3師付行災命第1-2号(7.1.17 1500)」による部隊の出発時間は12時30分とされており、15時30分頃には伊丹市内の小学校で自衛隊の給水支援が行われていたことが記録されている。(5)

 18日から20日の間は各地域担当部隊(連隊等)と給水支援用に編成した部隊が行っていたが各師団は21日以降に給水支援用に編成した部隊を持って運用した。給水支援は神戸市の水道局の管轄なども考慮され、第13師団担当の兵庫区が第3師団によって行われたほかは各師団が担当地域に対して実施した。病院に対する給水は加圧給水が可能な車体を保有する航空自衛隊の給水車も利用された。(6)

 本活動における調整先は県企業庁と市町村水道局であった。神戸市においては5ヶ所にあり1または2の区を担当する「センター」と呼ばれる事業所であった。(7)組織対組織としては行き違いや問題も存在したが個人間では友好的な雰囲気で活動を終了するに至った。

 給水支援にあたっては当初自治体職員(応援を含む)と自衛官が給水ポイントまで進出給水にあたった。自衛隊の保有する装備は1t水トレ−ラー(師団に50台弱)がほとんどで、一部除染車や5t水タンク(師団に1〜数台)も存在したが(8)運搬できる水量が少なく(ただし1tあれば500人が1日に必要とする最低限の水(2l)を運搬できる)給水ポイントで支援にあたる時間は1回1t水トレ−ラーで30分ほどであった。水が無くなるためである。

 給水ポイントについては神戸市中部センターでは自衛隊も含めた全救援車両に水道局の担当者が指示をして行動に移るといったものであった。(9)この方式にはその日ごとに異なる給水ポイントが割り当てられると言った問題があった。活動時間は早朝から夕刻あるいは夜半までであった。

 給水ポイントでは当初概ねこのような状態となっていた。すなわち、1から2名の自衛官と水道局担当者、支援を受ける被災者と自衛隊の活動を助けるごく一部の被災者(ボランティア)と無謀な要求、問題を引き起こす一部の被災者。当然のことながらこれら被災者の行動は被災者と替わらない環境で支援にあたる自衛官に対し±の精神的影響を与えた。給水支援中に被災者同士がトラブルを発生させ包丁をもって乗り込んでくることもあった。これらの処理も警察が来るまでの間は一般市民と同じ権限しか持たない水道局の職員や自衛官が対処した。

 陸乙行災命第8号電(7.1.19 2355)により1月20日以降・給水部隊が増援された。行災命による増援規模(編成基準)は水タンク車1台・水トレーラ30台人員90名によって編成される給水支援隊を4個(東北方面隊2個、東部方面隊1個、西部方面隊1個)増援するもので1月下旬からはこれらの部隊が主力を担った。給水支援隊は2月末から3月初旬にかけて配属解除となった。(10)

 また自衛隊の部隊は毎日情報交換を行い新しい取水点(海上自衛隊艦艇など)や抜け道を開拓。水道局の同行支援を受けなくても活動が可能な状況が早期に生まれた。1月24日以降入浴支援が開始されると1個セットあたり1日40t×24ヶ所の需要が発生したため少なからぬ障害が発生した。

参照4.入浴支援

3.給食(炊きだし)支援

 給食支援(炊きだし)は過去に実施例の少ない活動である。1月18日宝塚市で八千食を供給したのを皮切りに増援部隊の到着によって1月23日から被災地全域での本格的な支援が開始された。このときの増援規模は「陸乙行災命第8号電(7.1.19 2355)」の編成基準で人員200人・炊事車20両基幹によって編成される給食支援隊(1)を4個増援するもので、県が調達した食料などを調理し、被災者向けの支援はこの部隊が主力となって行われた。また、航空自衛隊の支援部隊が垂水区で支援にあたった。(2)

 給食支援の最大の特徴は自衛隊が被災者の近傍に進出し温食を供給する能力があると言うことであった。

 また、炊き出しではないが被災者に対する食糧供給として、自衛隊が備蓄している物資を兵庫県知事に「貸与」するというかたちでも供給した。供給は1次として関西地区補給処保管分(主食130,800食、副食281,568食)と2次として管理換えを受けたもの(主食139,200食、副食313,200食)を供給した。(3)

 支援規模は最大時(1月27日)1日52,400食で、3月14日までの間に最大33炊き出し所で総計577,273食であったが、神戸市においては温食を食べることが出来る被災者とそうでない被災者の間に不公平が生まれるとの理由から2月11日をもって終了した。57万食の内95%がこの時期までに実施されている。神戸市の終了以降一宮地区を除けば2日あるいは3日に一度の支援となった。

 支援の方法は2種類あった。すなわち地域密着方式をとっていた第10師団担当地域においては「テント村」(4)の一組織として給食支援部隊が配置され、当該拠点での支援(主食と副食)にあたったのに対し、第3・13師団地域では主食は自衛隊が、副食は市・区が調達し、炊き出しは被災者のいる場所から離れた地域で行われた。初期の献立は日の丸弁当(5) であったり、ご飯・みそ汁・真空パックの魚(6)と地域格差があった。

 第3・13師団地域では献立に変動はなかったと思われる。もちろん、隊員の中では「味噌汁ぐらい作って配ってあげたい」(7)と言う意志があったようだが実現にいたらなかった。これに対して第10師団地域では被災者近傍で支援にあたった特性上被災者やボランティアと給食支援班との交流・共同作業の例があった。すなわち自衛官は器材の操作にあたり、被災者達は下ごしらえや献立を作るといったものである。炊き出しという支援の特性上主婦が多かったとされている。(8)神戸市以外での支援終了の目安は日々の支援量にばらつきが出始めた頃とされた。

 給食支援が終了した後これらの部隊が実施できることはお湯の供給と缶詰のボイルであった。食糧の供給さえしなければ良いという判断が働いたのか、この活動は実施され、被災者から感謝の声もあった。給食支援活動が表面化させた問題は被災者に対してどこまでの支援を行うかと言う具体的基準(9)がなかったことである。

4.入浴支援

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