受験体験記 2001.1〜2001.3

気付いたら世間は入試シーズン。新聞が分厚いなーと思ったら、センター試験の問題と回答速報が載っていた。うへっ、自分の頃から何年経ったんだ…?随分と昔のことに思えてしまう。

…そこで。受験シーズン企画ということで「もりた受験体験記」。旅ではないけれど、無理やりこの旅日記スペースに…。

<下準備>

…と呼ばれるものは一切と言っていいほどしていなかった。高3の6月まで部活(陸上部)は続け、翌7月までは学校の行事に携わっていた。(文化祭のショートムービーに出てみたり)。この頃から一応予備校と名のついたところに通ってはいたけれど、メインは自習室(殴)。今思うとゾッとするような額の教材費は、結局のところ役に立ったのかどうか非常に微妙である。親不孝者。
センター試験は勿論受ける予定でいたが、“センター試験対策のための対策”から始めなければならない有様だった。

<センター>

初日。
英語は割と得意だったのだが、肝心の長文(配点高いんだよね)で何問かミスを犯す。正解率の割には得点に結びつかず…。
数学は試験中に数UBから数Uに方針転換するという、普通ならあり得ないことをしでかした。数Bは苦手分野が多かったのだが、こりゃ無理だ数Uに変えよう、と即決したのは何故だったのか、相当てんぱっていたと思われる。そして、焦って解く問題の正解率は高いはずがない。
次の地歴は勿論、得意な日本史で。勘で解いた問題もいくつかあったが、まぁまぁ解けたかな…。


翌日はもっとあり得ない事態に。
前夜に降り続いた雪が積もった中、早めに試験会場へ。持ち物をガサゴソと鞄から取り出していくうちに、血の気が引いた。

…時計がない…

初日に家に帰ってから真っ先に外してコタツの上において…そのままだったのだ。慌てて、持ったばかりの携帯で母に電話。
「あのぅ…時計忘れてしまったんで持ってきて頂きたいのですが…」
電話の向こうの母の慌てぶりは推して知るべし。その時母は帰途だったが、家に帰らずに近くのコンビニで一番安い目覚まし時計を調達、会場まで猛スピードで来た。慌てて受け取り、再び机に座る。ふと時計を見れば試験開始15分前になっていた。

動揺が収まらないまま受けた直後の国語では、本当に文系なのかと疑うような信じられないスコアを叩き出す。撃沈。傾向が微妙に変わったとはいえ、現代文で稼いだ点数はごくわずか。試験終了後は絶望感でいっぱいだった。
とりあえず気を取り直して理科(生物)を受けたが、あまり手応えはなかった。案の定、翌日の採点では散々な点数が目に飛び込んできた。

地歴が終わってから私は受験者控え室に戻った。次の時間は理科の2科目目だったため、私には縁がない。
持ってきた朝刊で前日解いた日本史の採点を始めた。周りが「ねー、あの人点数つけてるよ」なんてひそひそ喋っていたが、構っている暇はない。
速報自己採点の日本史は一応狙い通りの点数は取れていた。だが、念のためと言うわけでもないが公民(現社)も受けてみた。もしかして素晴らしく勘が冴えていたら日本史以上の点が取れるかな、と思ってみたりして。

くたくたになって帰った我が家では、やはり母のカミナリが待ち受けていた…。

<〜二次試験>

センター翌日に高校で行った自己採点では、耳と目を疑いたくなるような点数だった。大台を割り込んだ、とだけ言っておこう。やはり国語の低スコアが尾を引いた結果となった。ショックで目が回りそうになった。
一応受けた現社だったが、やはり日本史のほうが得点は上だった。やるだけやってみたし、これは無駄ではなかっただろう。

直後の担任との面談は終始、重苦しい空気が支配していた。スコアを見つめ、私の顔を見て、下を向き、「う〜ん…」と言う。担任はこの動作をひたすら繰り返していた。5分ほどそんな時間が続き、最初で最後の言葉は「まっ、志望校変えないんなら頑張るしかねぇべな」だった。はぁ、とだけ言って私も職員室を後にした。

それから二次試験までは、ようやく「受験勉強」と呼べるものをやっていたと思う。但し、学校や予備校の自習室限定。家ではご飯を食べて風呂に入り、スポーツニュースを見て寝る(それは欠かさなかった・殴)、そんなことくらいしかやっていなかった。部屋に入れば、布団を始めとする周囲の誘惑に呆気なく負けてしまうことが見え見えだったのだ。

そうして向かえた二次試験。電車に乗り北上し、仙台へ。一旦ホテルに荷物を置き、受験会場の下見に行った。

親切にも会場前に設けられたポストには「受験時の心構え」みたいなものが書かれた紙が入っていた。御自由にどうぞ、と。
…その中の「持ち物」の欄を見て、雪が降る中、私は凍りついた。

…センター受験票忘れた…

センター時の失敗に懲りて、腕時計だけはきちんと持ってきた。リストを作ったりして、今度こそは忘れ物はないぞ!と思っていたはずが。二次試験用の受験票は持ってきていたが、センターのものはすっかり忘れていたのだ。あまりにもお粗末。

翌日、受験会場にて「仮受験票」の発行を受けた。別室に通され、二次試験の受験番号、住所や氏名などをあれこれ聞かれ、本人に間違いないと証明されたところで、めでたく私は二次試験の受験資格を得たのであった。
この時忘れたセンター受験票は、水戸に帰った直後に速達で大学へ送った。カミナリ、再び…。

二次試験は無我夢中だった。おそらく、人生で最も集中した時間だっただろう。事前対策も割とできていた。ただ、センターでの失敗を挽回できるか…それがネックだった。数学は、ここ数年出ていなかったためにノーマークだった問題(ベクトル)を出されて「やばっ」と思ったが、すっぱりそこは諦めて他の問題を取りこぼさないようにする手段に出た。

駅へと向かう帰り道、同じ大学を受けた同じクラスの友人と合流。 「ねぇねぇ、数学の△問目の答えってどうだった?」と、皆で答えを照合した。しかし、4人いたうちの全員の答えは異なっていた(!)。途端に皆は顔にタテ線が入り、言葉がなくなってしまった。広瀬川に架かる橋を渡りながら、もうここを歩くこともないのかな…なんてことをぼんやりと考えていた。記念という訳でもないが、牛タンを昼食に食べて帰った。
この時の「全員回答が異なった問題」を翌年赤本で調べたのだが、正解者は私だった。ホッ。

帰りの特急では、車両の半分くらいを同級生で占めていた。私は疲れがどっと出たので眠りに就いていたのだが、途中激痛で目が覚めた。

奥歯が痛いっ!

しくしく、だった痛みはズキズキに変わり、しまいには我慢できないほどの辛さにまでなっていた。翌日歯医者に行ったところ、親不知が神経を圧迫した痛みだったとのこと。あと数時間、痛むのが早くなっていたら…と思うとゾッとする。

前期試験と後期試験との間は2週間ほどあったが、虚脱感とやる気のなさにすっかり取り付かれた私は全く勉強していなかった。部屋に籠っては、勉強に全く関係ない本ばかり読んでいた。

ちなみに、私大も幾つか受けてはいた。しかし、まともな対策もしないままの無謀な挑戦だったため、当然の結果は全て不合格。それが判明したのは仙台から戻ってきた翌日のことだった。文字通り、今の大学は最後の頼みの綱であったのだ。
後期試験も同じ大学で出した。しかし、試験内容が全く異なる。前期は英・数・国、後期は英・国それぞれの小論文。…前述のように「国語ができない文系」の私は前期に勝負を賭けていた。


合格発表の前夜は、やはり眠れなかった。向こう1年の過ごし方など想像できるはずもなかった。

合否通知の書留が来る前に、当時家族で唯一ネット環境が整っていた姉から電話が来た。webページで合格者の受験番号を見てくれていたとのこと。「あんた、受かってるよ!」と。

飛び上がって喜ぶ…なんてことにはならなかった。言葉に言い表せないくらい、ホッとしていた。逆に周囲の反応は殆ど「驚き」だった。真っ先に報告したのは父だったが、第一声は「え゛っ?」だった^^;)。後から聞いた話だが、もしかしたら受かるかな〜と思っていた本人をよそに、母は姉に全寮制予備校の資料請求を指示していたらしい(爆)。いい意味で、周囲の予想を裏切ったのだろう…。

よい子はマネをしないで下さい、という言葉がある。私の受験は文字通りそんな感じだった。
あの頃に戻れたら…という思いは誰しも抱くだろうが、私が「大学受験直後」と答えるのは、このような所以である。もう二度とあんな体験したくない、と…。

〜後日談〜
件の親不知はとても神経に近い位置まで食い込んでいたため、少々危険な切開手術をしなければ抜けないという厄介なものだった。引っ越し間近だったこともあり、仕方がないのでかかりつけの歯医者さんに大学の歯学部付属病院へと紹介状を書いてもらい、入学後無事に抜いてもらったのだった。


←センター2日目の朝に急遽買ってもらった目覚まし時計。未だに使用中。
左はサイズ比較のために缶コーヒー。


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