しるしを残すルパン――『エギュイユ・クルーズ』L'Aiguille Creuse, 1909を読む――

 


「私」が他者なのではない。他者が「私」である。この「私」を穿つ[クルーゼ]こと、それが、われわれに課せられた責務である。

エドモン・ジャベス[1]

                                         

「ルパン研究会」という奇妙さ

モーリス・ルブランのアルセーヌ・ルパン譚を、大人になってから初めて手に取るという人は少ないだろう。今日ルパン譚を読んでいる人は大抵、子供の頃、おそらくは小学生時代に、児童向けの全集でルパンに親しんでいる。図書館の児童向けに書き直された大衆小説の棚には他に、ホームズ譚、ミス・マープル譚、ウェルズの『タイム・マシン』『透明人間』などのSF、そして乱歩の少年探偵団シリーズなどが並んでいるが、これらの中にルパン全集を見る時、ひと際懐しさを喚起されるように思われる。というのも、ドイルにせよクリスティにせよ、中学生以降更に読み進み、ホームズの謎解きの手つきやスタイルに精通してシャーロキアンとなることもありうるし、トリックにまんまと騙される快感を追求してミステリ研究会に入ることになるかもしれない。また乱歩を読み直し、児童向けのものとは異なるおどろおどろしさに驚くこともあるだろう。しかし、ルパン譚の読書は、子供時代で一旦終わる場合が多いのではないだろうか。現在も続々と刊行されているホームズ関連書はいうまでもないが、クリスティや乱歩に比しても、日本においてルパンの研究が少ないのは、おそらくそのためであろう[2]

ではなぜルパンシリーズは、少なくとも現在の日本では児童書扱いなのだろうか。それは一つには、『ルパン読本』[3]において日影丈吉や小林信彦が指摘したように、ルパンという人物のキャラクターが一貫していないということであろう。このことは、英雄ルパンを中心に据えて連載を続けるという発表形式の制約によるところが大きい。作者には、多様な題材を取り入れ性格の異なる小説を書こうという意欲があるのだが、「ルパンで書く」ことが決まっているために、「なんでもあり」のルパンになってしまう、ということである。「なんでもあり」となってしまう理由は、しかしそれだけではなく、ルパン譚に特異な設定、つまり犯人=探偵という設定のもつ困難のためでもある。この設定、しかも重点は探偵の推理ではなく犯行の鮮やかさにおかれているために、ルパン譚は、探偵が犯人を追うという古典的探偵小説の形式には収まりきらない[4]。そればかりか、往々にして、犯行の方法についての論理的説明がなされない場合がある。ひとまずミステリを謎解き小説と考えるならば、ロジックのないミステリはミステリではない以上[5]、ルパン譚はミステリとして読むには欠陥がある。そのため、ミステリとして紹介されることは少なく、たとえば新本格派の我孫子武丸は「明らかに冒険ロマン」だと述べている[6]

以上は、ルパン譚が研究の対象としてあまり取り上げられてこなかったことの理由であり、ルパン譚を読む価値がないとか、あるいは研究する価値がないなどと主張するものではない。いわば欠点とも見える特質を挙げたのは、今回ルパン譚を再読する機会を与えられてその特異性に気づき、第一回の研究会においてそれが明確になったのだが、それと同時に「ルパン研究会」なるものの特異性にも気づかざるをえなかったからである。われわれの「ルパン研究会」においては、主宰の二人の担当した第一回研究会がとりわけ大きな意味をもつ。第一回研究会において明らかになったことをまとめてみるならば、一方では、ルパンについては何もかも知られている=書かれているようでいて、実は何も知られていない=書かれていない、そして、ルパン譚における、「ルパンは殺人をしない」という大原則は、「知られている」と「知られていない」の両者が限りなく一致に近づきつつも完全には一致してしまわないための外的規制である[7]、ということが示された。また他方、ルパンという個人の意志によってすべてが操作されるという事態に着目することにより、もはや一人の人物ではなく一つの移動する都市であるかのような、環境[ミリユー]としてのルパンが示された。このようにそれぞれ独自の論点に支えられているのだが、ルパンという英雄には確固とした内実などなく、「ない」ということが逆説的にもルパンの危うい存立根拠となっているということを示した点において、二篇のルパン論はやはり共通している。ここにおいて、たとえば「ホームズ研究会」と「ルパン研究会」の性質の差異は明らかである。ホームズは確固とした内実をもつことになっているため、前者においては、回を追って作品を読み進めるごとに、ホームズについて、ドイルの小説作法についての論証が確認され蓄積される。しかし後者は、第二回以降、「ルパンの空虚を確認する会」とも呼べるものとなる。したがってある意味では結論は最初から出ているのであり、そしてこの結論はおそらく覆されることはないであろうが、しかし覆されたところで、一貫性のなさは「内実のなさ」に還元されるのであるから、どんな論が出てきても、「ルパンの空虚さ」が覆ることはないのである。そして、このように述べることで、本論もまたすでに結論を明かしてしまったことになる。とはいえ、そもそもそれ、つまり「空虚さ」は、隠れる必要など何もないとでもいうように、凡庸な結論を嘲笑うかのごとくに、本論の対象とする作品の題名、『エギュイユ・クルーズ[空虚な針]』[8]の中に堂々と現れているのである。もはや、「ルパンの空虚さ」を証明することは目標となりえない。ジャンル論に拘泥するようであるが、われわれはここで、先ほど示したばかりのこと、すなわち、「ルパン譚はミステリではない」を転倒させてみようと思う。

 

<ミステリ>としてのルパン譚

ミステリとは、すぐれて自己言及的な、閉じたジャンルである。

このように述べたとき、これは単に多くのミステリにあてはまるというだけでなく、むしろすぐれたミステリの基準であると考えられるのだが、この言明は二重の意味で読み取られうる。そしてそのどちらもこの言明自体を破綻させ、ミステリというジャンルの特異性を表すことになる。

まずは、自己言及をジャンル内自己言及と捉えた場合である。ミステリとは、形式を重んじるジャンルであり、そのゆえに、すぐれたミステリほど、過去のミステリ作品への目配りを忘れることがない。作中で多くの探偵が、過去のミステリで活躍した名探偵のことを話題にするだけでなく、謎の提示の仕方、犯人の仕掛けるトリックなどにもつねに過去の作品が反映されており、そのため読者の側もある程度このジャンルに通じていることが求められる。とはいえ、過去の作品の要素を組み合わせ、一定の形式の中に押し込んでもすぐれたミステリが完成するわけでないことはいうまでもなく、ミステリのコードを反復しつつも絶えずそこからずれることによって、すぐれたミステリが生み出されていく。この運動が、笠井潔の言う「模倣における逸脱」[9]であり、この無限運動において、ミステリというジャンルは「閉じることによって開く」のであり、そのようにして生成しつづける。

ミステリにとって不可欠な形式性との関わりにおいて、以上の解釈とけっして無縁ではないのだが、第二の解釈は、自己言及を文字通り自己への言及と捉える解釈である。すなわち、自己が読まれることあるいは書かれることに言及する書物、言い換えれば、書物のメタファーとしての書物として、ミステリはあるということである。自己言及的な作品の典型的なものとしては、作品内にさらに入れ子状に作品が収められており、それが当該作品と重なることが暗示されるといった、所謂メタフィクション小説がある。この構造はまさに、自己言及により、「閉じることによって開く」という構造である。しかし、メタフィクション小説という形式に限らずとも、古典的な探偵小説の形式を思い起こしてみるならば、それがすでに読むこと−書くことの図式に類比的であり、この形式性のために、ミステリというジャンルが、読むこと−書くことの特権的なメタファーたりうることが分かるのである。このような捉え方をまとめたものとしては、書評として書かれたものだが、笠井の次のような定式化がある。

 

探偵小説における「犯人−被害者−探偵」という三項は、「作者−作品−読者」という近代的な三項に類比的である。被害者の死体は、いうなれば犯人という作者により創造された作品であり、死体に刻まれたもろもろの暗号を解読することで犯人の正体を追求する探偵は、(中略)作品の意味や主題を読み解こうとする読者である。[10]

 

このように捉えたとき、ミステリはまたしても、一見拘束と思われるような形式性の内に「閉じる」ことによって、その実、もはやジャンルを越えて、<書物>の経験へと「開く」のである。しかし、法月綸太郎が注意を促しているように、このような図式が特権的に成り立つからといって、このことがミステリというジャンルの優位性を示すことにはならない[11]。そうではなくむしろ、書物の書物への自己言及性というこの次元において、狭義のミステリが広義の<ミステリ>へと開かれる可能性があるのではないか[12]。ここにおいて、「被害者が殺され探偵が謎を解決して犯人を捕らえる」という三項の図式はずれを蒙り、単なる「謎−解明」のカタルシスに終着しない「謎−解明−謎」の構造をもった[13]すぐれた<ミステリ>が生まれる。ポオの『モルグ街の殺人』も、アンチ・ミステリの系譜[14]もこのような<ミステリ>である。そして以上の第二の解釈によって考えるならば、ルパン譚も<ミステリ>であると言うことが可能ではないだろうか。何よりも、『エギュイユ・クルーズ』がそうした作品なのである。

 

見られないルパン

冒頭で述べたように、ルパン譚の特異性は犯人=探偵という設定であり、しかもあくまで犯行そのものに重点があることである。ガニマール警部もホームズ(ショルメス)でさえもルパンには太刀打ちできず、彼らの動きはルパンにはお見通しである。犯人側が圧倒的に強いこの状況では、上記の図式のように、読者が探偵と共に謎を追っていくという試みはつねに困難である。とはいえ読者は、ルパン譚を読んでいる以上、死者を出さない鮮やかな犯行がルパンの手によるものであることはすぐに見抜くだろう。したがって読者は、すでに名前の与えられている犯人を目指して進んでいこうとするのだが、非力であるために、論理的な道筋に沿ってまっすぐ犯人へとたどり着くことはできず、ヒントを待ちながら迷路をさまようことになる。『エコー・ド・フランス』紙の読者など、事件の進展を見守る観衆およびルパン譚の読者は、追う者の思考力によって謎のヒントを見出すのではなく、ヒントはつねにルパンその人によって与えられる。ルパンはいわば、自分の演じたマジックを自分で揚々と種明かししてみせる手品師のようである。『エギュイユ・クルーズ』という題名における「クルーズ」のように、ルパンはしばしば堂々と、自分の存在をアピールしてみせる。その度にわれわれ(読者に限らず、もはやルパン以外はすべて「われわれ」であるといってもいいだろう)は、ルパンを見つけたかのような錯覚にとらわれるのだが、それはしかし、ルパンのしるしでしかない。

第一回の発表において、『ルパン対ホームズ』(1908)所収『金髪夫人』(1906)におけるホームズ(ショルメス)の尾行が問題になった。この尾行の危うさが、ショルメスがショルメスであってホームズではありえないことの証明になっており、同時に、ルパンの遍在性、あるいは遍在性に対する読者の盲目的確信の証明にもなっていたのである。ここでさらに穿った見方をするならば、ショルメスがホームズでありえないのは、ルパン譚に寄留するホームズにはワトスンがついていないからではないかと考えられる。もちろんウィルソンなる人物が出てくるが、ホームズ譚でない限りにおいてこの人物は単なる飾りであり、ワトスンの機能を果たしえない。「ワトスンの機能」とは何か。それは、ホームズを純粋な探偵たらしめるために不可欠な目隠しの機能である。<ワトスン>とは、探偵小説黎明期において、ジャンル成立のための必須として召還された登場人物なのである。

そもそも「尾行」という主題から想起されるのが、探偵小説を生み出すことになる重要な一作、「純粋尾行小説」とでも呼びたくなるようなポオの『群集の人』1840)である。『群集の人』の語り手「私」は、通り過ぎる群集をただ悠然と眺めている中で言いようのない衝撃を自分に与えたその一人の人物を、夜中から明け方までただひたすら尾行する。語り手は一貫してその老人=<群集の人>を「見る」立場に立っており、この視線の優位性が、翌年探偵デュパンを生み出し、最初の探偵小説『モルグ街の殺人』を成立させることになる。探偵とは、すぐれて「見る」存在だからである。しかし、法月の指摘に拠れば[15]、『群集の人』と『モルグ街』の間には無視できない懸隔がある。それは、『群集の人』の追っ手であり語り手である「私」が、尾行され「見られる」存在にいつでも転化しうるという危うさに気づいたポオが、『モルグ街』においてデュパンの友人を語り手として登場させたことである。この語り手(<ワトスン>)は、探偵を見ることなく探偵の行動を記述する者であり、第三者=われわれ読者は、彼のフィルターを通してしか探偵を知りえない以上、探偵を見ることができないのである。かくして探偵は見られることなく見る者となった。

ここで一つの仮説として、『群集の人』と『モルグ街』を併せてルパン譚の源泉と考えてみたい。まず一方で、上記の過程から想起されるのは、ルパン譚における語り手「私」である。ルパン譚は、『ハートの7(いかにして私はアルセーヌ・ルパンを知ったか)』1907)で知り合って以来ルパンの友人である「私」によって書かれたことになっている。とすればわれわれは、彼(名前は与えられていない[16])によって、ルパンを見ることを妨げられているのである。彼がルパンに特権的な友人と認められていながら、それでもルパンを見る能力を持たないことは、『エギュイユ・クルーズ』にも明瞭に示されている。

 

私のそばに、私の知らない男が立っていたのだ。(中略)精力的な顔をした、長い金髪の若い男だった。あごひげはこげ茶に近い色で、先が短く二つに分かれていた。身なりはイギリスの牧師のように地味で、また人柄全体にもどことなく重々しいところがあり、敬意を起こさせた。「どなたですか?」と私は尋ねた。(中略)「私が分かりませんか?」「いや、分かりませんね!」「へえ! そいつはおかしい…。よく考えてごらんなさい…あなたの友人の一人…少しばかり特殊な友人ですよ…」[17] 

 

「私」は、ルパンをルパンと認識するのがこれほど困難なのである。ようやく分かってもらったところで、ルパンは言う。

 

「それで、私も安心というものです。私がまったくありのままの姿を見せたたった一人の人が、今私を見ても誰だか分からないとしたら、これから先、私が今みたいに素顔[réel aspect]でいるのを見たって、誰一人私だとは分からないでしょう…かりに私に素顔があるとしてのことだが」[18]

 

ルパンに「現実の面[réel aspect]」があるのかどうか、それは確かに甚だ疑問であるのだが[19]、他人のことは何でもお見通しのルパンにも、自分のことは分からないようだ。あたかも、テクストがテクスト自身を知らないかのように。ともかくも、記述者によって見られていないルパンは、古典的探偵小説における探偵のごとくである。

しかしルパンは、少なくとも第一義的には探偵ではない。ルパン譚には、探偵小説に至る以前の、犯人=探偵構造を持った『群集の人』の要素が見出せないだろうか。もちろんルパンは、追われる老人とは異なった特権的な位置を占めており、警察などの追っ手と相互転化させることはできない。つまりルパンが「見られない」ことにおいて二作は決定的に異なる。しかし、自己の社会の中に安住できずに都会を彷徨する遊歩者[フラヌール][20]として、老人をも語り手をも内包する<群集の人>、言い換えれば、何者でもない者としての犯人=探偵は、第一回研究会の論を借りれば、ルパンという名を持つ環境[ミリユー]と類比的ではないだろうか。

 

ボートルレ=読者の探索

『怪盗紳士』をめぐる第一回の研究会において、ルパンの下で犯行を手助けしているはずの「仲間」に現実感がないことが指摘された。『エギュイユ・クルーズ』においては、「仲間」の存在自体は、ドラトル博士誘拐、ボートルレの父親誘拐等々に際して明瞭に示される。そればかりか、ルパン自身が部下のことを口にし、そのうちの二人については、ボートルレに対して名前まで明かしている[21]。しかしこの作品においてはそれもある意味で当然のことなのである。なぜなら問題となっているのは終始エギュイユ・クルーズであり、それが最終的に示されるような特殊な性質を持った巨大な針岩である以上、複数の仲間が、いや、世界中に散らばる多数の仲間が必要であることが前提とされるからである。しかしそれゆえに、たとえ名前が与えられても、ルパン一味はすべて<ルパン>の名の下に一括りにすることが可能な存在であり、けっして現実味が増したとはいえないのである。では、エギュイユ・クルーズへと至る過程を振り返ってみよう。

前節まで、ルパン譚では、笠井の言うような探偵小説における犯人−被害者−探偵の三項の図式が通常通り機能しないことを強調してきたが、しかしこの作品においては確かに、ルパンにとって意味のある探偵が登場する。探偵と呼ぶに値するのは、ガニマールでもショルメスでもなく(ホームズでないショルメスにはあまりにも探偵的魅力が欠けている)イジドール・ボートルレしかいないのであり、この少年にならば、二人の勝負の行方を知ろうと『大日報』紙を貪り読む大衆およびわれわれ読者は同一化できるのである。聡明なボートルレ少年は、何よりもまずルパンに夢中である。その崇拝ぶりは、『アルセーヌ・ルパン その古典的且つ独創的方法―(付録)イギリス的ユーモアとフランス的イロニーの比較―』と題したルパン研究小冊子[22]を発表していたほどである。犯人の手口を知り尽くすことは名探偵の重要な条件であるから、探偵として期待させる人物であるが、ともかく、ルパンへの復讐に燃える富豪などではなくルパン崇拝者の高校生を探偵に立てることによって初めて、ルパンが大好きなわれわれ読者もまた、探偵になるのである。こうして、ボートルレ=読者はルパンを追い始める。

始めのうち、探偵ボートルレは順調に仕事を進めているように見える。まずジェーヴル伯爵邸強奪事件において、犯人がアルセーヌ・ルパンであることを喝破してフィユール予審判事を飛び上がらせ、すでに見抜いていたガニマールにも一目置かれることになる。二人は何によってルパンを認めたのか。それは、ルパンの署名によってである。まずはガニマールの言葉を聞こう。

 

「一瞬だって、[ルパンであることを]疑ったりしなかったよ! 署名があるもの。(中略)目を開けて見さえすりゃ分かる。」[23]

 

したがって彼は、署名、言い換えればルパンの残したしるしを見る能力はあるようだ。ガニマールの言う署名はこのように比喩的な意味であるが、ボートルレは文字通りの署名を示してみせる。ダヴァルの部屋で見つけた紙、および、ドラトル博士誘拐に際して偽運転手が一味に打った電報に書かれた、《A.L.N.パリ45局》がそれである。とはいえ読者は、大人たちがボートルレを絶賛するこの場面で些か白けずにはいられないだろう。なぜならルパン譚の読者であれば、先に全文が示されたその電報[24]の一行目を目にした時点で、アルセーヌ・ルパンの跡を見て取ったに違いないからである。したがって、真相の開示によって読者を驚かせるという探偵小説の原則は満たされないのだが、しかし、ボートルレと読者が足並みを揃えてルパンを追っていることは確認されるのである。

A.L.N.》はこのように一度ならず二度も見つけられたわけだが、これをボートルレの手柄と呼べるだろうか。入手の容易さを考えれば、むしろルパンが自分の跡を残したと考える方が自然である。ルパンはたとえば第四章の「私」の家での会談において、いつにない(つい固定したルパン像を思い描いてしまう読者にとって)乱暴な言葉遣いをし、あたかもボートルレ探偵を恐れているかのような振りをするのだが、実はルパンにとってボートルレなどほんの子供でしかないことは、第五章以下示される通りである。ルパンは、見つけてみろと唆すように、ボートルレ=われわれの前にしるしを残していく。その最たるものはもちろん、鍵となる暗号の書かれた紙である[25]。ボートルレがこの暗号をエギュイユ・クルーズと読み解けることは、ルパンの予測通りであっただろう。

この紙切れによって、ルパンを追うボートルレの行為はいつの間にか、エギュイユ・クルーズなるものを追う行為へとずらされていく。そして、未だ実体の分からないものを追うボートルレの姿は、書物を読む読者の姿と二重写しになっているのである。このボートルレの追跡は直線では進まない。エギュイユ・クルーズという謎の言葉に囚われたボートルレは、早速ルパンの策略に引っ掛かってしまう。エギュイユ城という名の城がクルーズ県にあると分かった瞬間に「目が眩み」、「紙切れの鍵だ!  確実な、決定的な、全面的な勝利だ」[26]などと早計に判断してしまうのである。しかしこれはルパンが用意した偽エギュイユ・クルーズであった。そのことを、また、エギュイユ・クルーズを目指していたつもりの行動がまったくの的外れであったことをボートルレが知るのは、皮肉なことに、勝利を祝う祝賀会においてである。そしてエギュイユ城でも、エギュイユ・クルーズの探索においても、ボートルレを身近で助けるのはルパン(マジパン、ヴァルメラ)なのである。さて、このボートルレの挫折は同時に書物を読む読者の挫折でもある。読者が書物の核心を捉えたと思っても、実はそれはわずかに類似した偽物でしかなく、読者は道を引き返してさらに探索を続けなければならないのである。

ボートルレ=読者は、今度こそ本物のエギュイユ・クルーズを目指して進んでいくが、解決の鍵を探すボートルレが見出すのは、またしてもルパンの署名である。しかもそれは、博物館に収められた歴史的な文書に、マリー・アントワネットの署名と並んで記されていたのである[27]。歴史上の人物に名前を連ねることへのルパンのこのような執着は、エギュイユ・クルーズにおいては異様なほどである[28]

 

エギュイユ・クルーズ

エトルタの針岩は空洞だ! (中略)肝心なのは、針岩[エギュイユ]は空洞[クルーズ]だ、という事実である。(中略)これこそ、陸地から十尋の海中に立つ目に見えぬ一王国だ![29]

 

道が困難であったとはいえ、エギュイユ・クルーズはカフカの城とは異なり、ボートルレは確かにたどり着くことができる。それは文字通り空虚な針岩であった。ボートルレはエギュイユ・クルーズについて次のように述べている。

 

「少なくとも、彼の隠れ家、彼の城塞、要するに、ルパンをルパンたらしめている所以はわかりました。彼は逃げることもできます。が、エトルタのエギュイユ・クルーズは逃げることはできません。」[30]

 

そして興味深いことに語り手は、この針岩が「ルパンをルパンたらしめている」というだけでなく、ルパンを「現実の人物」たらしめていると述べている。つまり、不可能に思われるような数々の犯行が、隠れ家としてのこの針岩の存在によって理解できるようになるというのである。

 

天才のほかに、もっと物質的な源泉が必要だった。安全な隠れ家が必要であり、つかまらない保証が、計画の実行を可能にする平和が、必要だった。エギュイユ・クルーズなしには、ルパンは理解できない。それは神話であり、現実とは関わりのない小説の一人物にすぎない。ところが、ひとたびその秘密を手中に収めたとなると――しかも、何という秘密だろう! ――それは一見ごくありふれたただ普通の人間だが、しかし運命が彼に与えたあのすばらしい武器――天才――を存分に使いこなせる人間と変わるのだ。[31]

 

語り手が小説の登場人物について、それが「現実とは関わりのない小説の一人物」ではないなどと主張し、しかもその「物質的」証拠を示すというのは奇妙な事態である。なんとなれば、「現実感」があるかどうかは読者の判断することであり、いうまでもなくこの主張もエギュイユ・クルーズもすべて小説の一部なのだから、この主張に説得される読者のいるはずもなく、むしろ事態は逆だといえる。このような主張がなければ、自発的に、針岩を犯行の物質的源泉として捉えることもできるだろうが、この主張によって読者は、自分が「現実とは関わりのない小説」を読んでいることを意識させられるのである。そしてこの後エギュイユ・クルーズの中に入るが、それはまさしく、「現実感」とは対極にある世界である。

では、ルパンの案内を聞こう。

 

「どうだね、このちょっとした設備は、ボートルレ君? どう、気が利いてるだろう? 居心地のよいことこの上なしとまでは言わないが。それでもこれに満足した人も幾人かいたんだぜ。しかもみんなちょっとした人たちなんだ。見たまえ、エギュイユの所有者として、ここにその足跡を残すことを名誉とした人物の一覧表を。」
壁には次のような名前が刻まれていた。
シーザー。シャルルマーニュ大帝。ロル。ウィリアム征服王。イギリス国王リチャード。ルイ十一世。フランソワ一世。ルイ十四世。アルセーヌ・ルパン。
「今後、誰がその名をここに刻むだろうか?  残念ながら、この表はこれでおしまいだ。シーザーからルパンまで、これで全部だ。(中略)ああ! ボートルレ君、この見捨てられていた土地に初めて足跡を印した日、わたしはどんなに鼻高々だったことか!」[32]

 

歴史を動かした人物たちに名前を連ねること、しかもその最後尾につくことへの異様な執着である。ルパンの気持ちをひとことで表すならば、「この系譜に連なる者、それは私だ!」であろう。歴史的人物の、すでに生きられた生の反復として、引用としてしかありえないルパンの生がここに見られる[33]

 

(ボートルレ)「見事な模写ですね!」(ルパン)「何! 模写だって! どうかしてるな、君は! マドリッドや、フローレンスや、ヴェネチアや、ミュンヘンや、アムステルダムにあるやつが、模写なんだぜ、君」「すると、これは?」「みんな本物さ。根気よく、ヨーロッパのあらゆる美術館から集めて来たものばかりだ。その代わり、本物そっくりの模写をちゃんと置いてきたがね」「しかし、いつかは…」「いつかは、そのまやかしがばれるとでもいうのかい? そうなれば、どの画布の裏にも、わたしのサインのあるのが見つかるだろうよ。そうして、祖国フランスに本物の傑作をもたらしたのは、このわたしだということが知れわたるだろう。つまり、ナポレオンがイタリアでやったのと同じことをやっただけの話さ…。」[34]

 

ルパンコレクションには『モナリザ』まである。

 

「このガラス・ケース以外、世界中のどこにも本物は一つだってありゃしないんだぜ。そうだと思うと、楽しくてしょうがないね! …これがあのアンバザックの聖遺物箱、本物だぜ、ボートルレ君! 君はルーヴル博物館にからむスキャンダル、古代ペルシアの王冠が偽物と分かった時のことを覚えてるね…。これがサイタファルネスの王冠、本物の王冠だよ、ボートルレ君! それから、見たまえ、よく見ておきたまえ、ボートルレ君! これこそ逸品中の逸品、最高至上の作品、神意の実現、ダ・ヴィンチの『モナリザ』の本物だ! 跪いて拝みたまえ、ボートルレ君!」[35]

 

「本物」のことを語るルパンは本当に嬉しそうである。ここで、エギュイユ・クルーズを拠点にしたルパンの行動を改めてまとめてみよう。ルパンは世界中から、一点しかない「本物」の美術品、宝飾品を盗んではエギュイユ・クルーズに収集していく。しかしその際ルパンがけっして忘れないことが二つある。一つは、犯行の隠蔽に不可欠なこと、つまり、本物と引き替えに、本物と見紛うばかりの偽物を置いてくることである。もう一つは、第一点の目的に反するような行為であるが、偽物の裏に必ず<アルセーヌ・ルパン>のサインを残すことである。これらの行為によって、エギュイユ・クルーズ、言い換えればルパンの広大な空虚は、世界中から集めてこられた「本物」で埋められ、逆に、ルパンのサインした、つまりルパンのものである「偽物」が、いわば無数の分身として世界中にばらまかれるのである。歴史上の著名人や「本物」で満たされるエギュイユ・クルーズは、しかし、それが模倣すべき権威としてある限り、ますますその空虚さを強めるばかりである。そしてルパンはここから世界を見下ろし、世界を支配している、と言う。

 

「おとぎの国の王様か? どうして、どうして。それよりは、イヴトーの王様ということにしよう! 冗談じゃない! 世界の王、そうだ、それが真実だ! このエギュイユの頂点から、わたしは全世界を支配していた! そこにあるサイタファルネスの王冠をもちあげてみたまえ、ボートルレ君…。電話機が二台あるだろう…。右のはパリと直通の特別回線だ。左のはロンドン直通のこれまた特別回線さ。ロンドンを中継ぎにして、アメリカとも、アジアとも、オーストラリアとも連絡が取れるようになっているんだ! これらすべての地方には、支店、代理店、客引きが置いてある。いわば国際貿易だ。美術骨董品の大市場、世界の市だ。ああ! ボートルレ君、わたしでさえ時には自分の勢力に頭がぼーっとなることがあるんだ。わたしは自分の力量と威信とに酔っている…。」[36]

 

世界中にばらまかれた無数の「名前」、つまりシニフィアンでしかないルパンはまた、国際電話回線によって、言い換えれば世界に張りめぐらされた網によって、いや、むしろその網となって世界に遍在しているのである。ルパンの陶酔にもかかわらず、途方もない勢力[puissance]そのものであるルパンは、その威信[autorité]の保持者、つまりauteurではありえない。世界という環境[ミリユー]でありながら、しかもつねに孤独[seul]であるルパン、すべて[tout]でありながらしかも無い[rien]、というルパンの存在様態。ボートルレ=読者は確かに目的地にたどり着いたのだが、そこで発見するのは、このような、常軌を逸した空虚なのである。

 

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本稿は、第二回アルセーヌ・ルパン研究会(1999115()フランス科研究室)の発表原稿に多少手を加えたものである。ご了承いただきたい。

[1] Edmond Jabès, Un étranger avec, sous le bras, un livre de petit format, Gallimard, 1989, p.26. ‘ «Je» n'est pas l'autre. Il est «Je». Creuser ce «Je», telle est la tâche qui nous incombe.’

[2] 後日分かったことだが、やはり本国フランスにおいては、現在も、「アルセーヌ・ルパン友の会(Association des amis d’Arsène Lupin)」を中心に盛んに研究(パタフィジックを含む)が行われているようである。

[3] 『ルパン読本』パシフィカ、1979

[4] 探偵としてのルパンが解く謎は心理的トリックに偏しており、ルパンは探偵としては生彩を欠く場合も少なくない。

[5] 最初の探偵小説であるポオの『モルグ街の殺人』1841)冒頭で蜿蜒と展開される、「分析[アナリシス]」についての探偵デュパンの講釈を思い起こそう。「ミステリ」の孕むより複雑な問題については次節で触れる。

[6] 島田荘司『本格ミステリー宣言』講談社、1989年、114

[7] のちのルパンのイメージに親しんだ読者が、『怪盗紳士』Gentleman-Cambrioleur(1907)に収められた初期の作品を読み返すと、その凶暴さに意外の感を抱くかもしれない。初期の段階では残酷な怪盗というイメージも成立しうるのである。したがって、「殺人をしない(=血を流すことを好まない)ルパン」というイメージは、ルパンの遍在性の強調によって小説が小説として成り立たなくなることを防ぐために、連載途上で作者に必要となった設定であると考えられる。つまり、ルパンという人物が複数存在することになってしまわないためには、ルパンを同定するための最小限の基準が必要であり、そのため唯一の「内実」としてこの原則が与えられたのである。いつしか読者は、残虐な殺害現場が描写され、そこに「アルセーヌ・ルパン」を暗示する物が残されていようと、それが真犯人によるぬれぎぬであることを疑わなくなる。そのとき原則は原則として定着しているのであり、作者はこのようにして、ルパンを見つけ出す手掛かりを読者に与えているのである。

[8] 『奇巌城』という邦題が定着しているが、原題のもつ意味の窺われない意訳であるため、本論では『エギュイユ・クルーズ』と表記することとする。

[9] 笠井潔「模倣における逸脱」『模倣における逸脱』彩流社、1996年、3070

[10] 笠井潔「書評 川村湊『紙の中の殺人』」『模倣における逸脱』同上、249

[11] 法月綸太郎『謎解きが終ったら』講談社、1998年、14頁 法月はさらに、「むしろ、そうした特権を誇らざるをえないという点においてこそ、このジャンルがはらむ絶対的な弱さがさらけ出されているのではなかろうか。わたしは、そうした疑いを拭い去ることができない」と述べている。おそらく「弱さ」は「形式性」から切り離せないものなのだろう。

[12] とはいえ、広義の<ミステリ>が小説の一ジャンルとして考えられるわけではない。

[13] 笠井潔「謎と解明と謎」『模倣における逸脱』同上、829頁参照

[14] 「アンチ・ミステリ」とは、中井英夫『虚無への供物』1964年)の前書きに現れて以来ある種のミステリを指して用いられる語である。「ミステリ」の境界が不確定である以上当然ながら定義は困難であるが、「ミステリ」の虚構性を意識した「ミステリ」といえるだろうか。犯罪が起こり、運よく現れた名探偵が卓抜な推理によって最後に真犯人を言い当てるという「ミステリ」の非現実性に対し、自らが虚構であること、書物であることを露呈しており、また、謎は解かれるがしかし完全に回収されるのではないというのが特色である。

[15] 法月綸太郎、同上、1925頁参照

[16] 一部の邦訳書では「『私』(著者)」と注記され、『ルパン読本』の年譜には、「ルブランはこの事件でルパンと知り合う」(108頁)など、ルブランと解した記述がある。

[17] Maurice Leblanc 1, Champs-Élysées, 1998, p.471. ‘C'était un homme jeune, au visage énergique, aux longs cheveux blonds, et dont le barbe, un peu fauve de nuance, se divisait en deux pointes courtes. Son costume rappelait le costume sobre d'un prêtre anglais, et toute sa personne, d'ailleurs, avait quelque chose d'austère et de grave qui inspirerait le respect. «Qui êtes-vous ? » lui demandai-je.(…)«Qui êtes-vous ?»(…) «Vous ne me reconnaissez pas ?» -- Non…non-- Ah! c'est vraiment curieux…Cherchez bien…un de vos amis…un ami d'un genre un peu spécial…mais enfin…»’ 本稿の引用訳文は、『ルパンの奇巌城』水谷準訳、角川文庫、1968年を参照している。

 

[18] Ibid., p.472. ‘--Alors, je suis tranquille. Si le seul homme à qui je me sois montré sous mon véritable aspect ne me reconnaît pas aujourd'hui, toute personne qui me verra désormais tel que je suis aujourd'hui ne me reconnaîtra pas non plus quand elle me verra sous mon réel aspect…si tant est que j'aie un réel aspect…»’

[19] ルパンの「現実性[レアリテ]」については、後ほど一考しなければならない。

[20] とはいえベンヤミンは、ボードレールが<群集の人>を遊歩者と捉えようとしたことに異議を唱えている。ベンヤミンに拠れば、ポオの描いたロンドンの無気味な<群集>に比べれば、「ボードレールのパリは古きよき時代の名残をとどめていた」のである。(「ボードレールのいくつかのモティーフについて」久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション1ちくま学芸文庫、1995年、446頁)

[21] ボートルレにけがをさせたブレドゥーと、最後にボートルレがたどり着いたエギュイユ・クルーズで給仕をする下男シャロレーである。前者の乱暴な振る舞いに対しルパンは、「新入りだから」という言い訳によって、そのような行為を自分ないしルパン共同体から切り離している。Cf. Ibid., p.474.

[22] Ibid., p.444. ‘comme titre : ARSÈNE LUPIN, sa méthode, en quoi il est classique et en quoi original -- suivi d'un parallèle entre l'humour anglais et l'ironie française
「私」の記述の中で十分説明の与えられていない謎はこの本の中で解明されているというのだろうか。

[23] 強調引用者。Ibid., p.439. ‘--Pas une secondeLa signature y est.( …) Il n'y a qu'à ouvrir les yeux.’

[24] Ibid., p.429. ‘A.L.N., BUREAU 45, PARIS / SITUATION DÉSÉSPÉRÉE. OPÉRATION URGENTE EXPÉDIEZ CÉLÉBRITÉ PAR NATIONALE QUATORZE.’

[25]少し考えれば気づくことだが、レイモンド嬢誘拐時にこの紙切れを持っている必要はなく、落としたのがルパンの単なる不注意というなら面目丸つぶれのはずであり、あまりに不自然である。

[26] Ibid., p.503. ‘Isidore eut un éblouissement. (…) La clef même du documentLa victoire assurée, définitive, totale.’

[27] Ibid., pp.522-523.

[28] 第八章で過去の事件を振り返りながら謎を解くボートルレは、すでにこのルパンの意志を見抜きつつある。この章の題は「シーザーからルパンまで」である。

[29] Ibid., pp.551-552. ‘L'Aiguille d'Étretat est creuse! (…)L'essentiel est ceci : L'Aiguille était creuse. Un royaume invisible, au sein des eaux et à dix brasses de la terre

[30] Ibid., p.558. ‘Nous connaissons sa retraite, son château fort, ce qui fait, somme toute, que Lupin est Lupin. Il peut s'échapper. L'Aiguille d'Étretat ne le peut pas.’

[31] 強調引用者。Ibid.,p.552. ‘Il en faut d'autres plans matériels. Il faut la retraite sûre, il faut la certitude de l'impunité, la paix qui permet l'exécution des plans. Sans l'Aiguille creuse, Lupin est incompréhensible, c'est un mythe, un personnage de roman, sans rapport avec la réalité. Maître du secret, et de quel secretc'est un homme comme les autres, tout simplement, mais qui sait manier de façon supérieure l'arme extraordinaire dont le destin l'a doté.’

[32] 強調引用者。Ibid., pp.567-568. ‘«Que dis-tu ma petit installation, Beautrelet? s'écria Lupin…De l'allure, n'est-ce pas? Je ne prétends point que ce soit du denier confortable…Cependant, quelques-uns s'en sont contentés, et non des moindres…Regarde la liste de quelques personnages qui furent les propriétaires de l'Aiguille, et qui tinrent à honneur d'y laisser la marque de leur passage. »Sur les murs, les uns au-dessous des autres, ces nom étaient gravés : César. Charlemagne. Roll. Guillaume le Conquérant. Richard, roi d'Angleterre. Louis le onzième. François. Henri IV. Luis XIV. Arsène Lupin. «Qui s'inscrira désormais ? reprit-il. Hélasla liste est close. De César à Lupin… et puis c'est tout.(...) le jour où j'ai mis le pied sur ce sol abandonné, quelle sensation d'orgueil»’

[33] 次の引用にみられるようにルパンがたびたび自己同一化するナポレオンは、彼自身、神話や古代の人物への同一化を夢想していた人物であり、ヨーロッパ征服の決断を下したときには、「余はカール大帝である」と宣言したという。(トーマス・マン「フロイトと未来」『トーマス・マン全集W』新潮社、1971年所収参照)

[34] 強調引用者。Ibid., p.569. ‘«De belles copies», approuva Beautrelet… Lupin le regarda d'un air stupéfait. «QuoiDes copiesEt -tu fouLes copies sont à Madrid, mon cher, à Florence, à Venise, à Munich, à Amsterdam.» --Alors ça? --Les toiles originales, collectionnées avec patience dans tous les musées d'Europe, où je les ai remplacées honnêtement par d'excellentes copies. -- Mais un jour ou l'autre… -- Un jour ou l'autre, la fraude sera découverte ? Eh bien, l'on trouvera ma signature sur chacune des toiles -- par-derrière--, et l'on saura que c'est moi qui ai doté mon pays des chefs-d'œuvre originaux. Après tout, je n'ai fait que ce qu'a fait Napoléon en Italie……»’

[35] Ibid., p.571. ‘«Hors de cette vitrine, il n'y en a pas un seul au monde qui soit authentique. Quelle jouissance de se dire celaBeautrelet, tu te rappelles les pilleurs d'églises dans le Midi, la bande Thomas et compagnie -- des agents à moi, soit dit en passant -- , eh bien, voici la châsse d'Ambazac, la véritable, BeattreletTu te rappelles le scandale du Louvre, la tiare reconnue fausse, imaginée, fabriquée par un artiste moderne…Voici la tiare de Saïtaphrnès, la véritable, Beautrelet…Regarde, regarde bien, BeautreletVoici la merveille des merveilles, l'œuvre suprême, la pensée d'un dieu, voici la Joconde de Vinci, la véritable. À genoux, Beautrelet, toute la femme est devant toi»’

[36] Ibid., p.573. ‘«Roi de féerie? et pourquoi cela? disons tout de suite roi d'YvetotQuelle blagueRoi du monde, oui, voilà la véritéDe cette pointe d'Aiguille, je dominais l'universJe le tenais dans mes griffes comme une proieSoulève la tiare de Saïtapharnès, Beautrelet…Tu vois ce double appareil téléphonique…À droite, c'est la communication avec Paris, -- ligne spéciale. -- À gauche, c'est la communication avec Londres, -- ligne spéciale. Par Londres j'ai l'Amérique, j'ai l'Asie, j'ai l'AustralieDans tous ces pays, des comptoirs, des agents de vente, des rabatteurs, des indicateurs. C'est le trafic international. C'est le grand marché de l'art et de l'antiquité, la foire du monde. Ah!  Bautrelet, il y a des moments où ma puissance me tourne la tête. Je suis ivre de force et d'autorité…»’