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(BGMは、Celene DionのWhen fall in love.)



(7)いのちの電話

Written By Dengakudan



1.過去から逃げた男

東京の銀座で働いていた沢田啓介が、どうしてこんな処にいるのかと、沢田自身も誠に不可解に思っている。夢を見ているが如きの、命運に翻弄された、ここ3年間の沢田の生き様である。彼は、横浜の戸塚区に戸建住宅を1軒、自宅として持っている。しかし、今は、彼の妻と2人の小学生の男の子をそこに残したまま、京都のここにいる。1983年の4月から、沢田は決意して、単身赴任生活を始めた。彼が、39歳のときのことだ。


京都に来る前の沢田は、ロイド出版社に在籍していた。ロイド社では、トントン拍子に出世していたが、2番目の部署に異動したときから彼の人生は暗転を始める。そう、今から丁度3年前のことである。着任早々、沢田は、ロイド社の社長から、その部署の上司に当たる部長へのスパイ活動を、思いがけず命じられる。沢田は、地道な調査によって、遂にシッポを掴んだかに見えたが、逆に上司が仕掛けた、謀略の「落とし穴」に嵌ってミスを犯し、その為に降格となり失脚する。


この降格問題で、沢田は自らの前途に希望を見失い、自信を喪失し自分を責めて、精神を痛める。同社での前途を悲観して、ならば職場を替えて一から出直そうと、転職を決意する。生活のこととか、家族のこと、子供の学校のこと等を全く何も考えずに、また家族の者の意見や説得にも、耳を貸さずに、冬季のボーナスが貰える直前の1982年の11月30日に、無謀にも突如退職願いを提出して、所謂自己都合でロイド社を依願退職してしまったのだ。


当然のことだが、妻からの罵詈雑言は日を追って激しくなる。夜も眠れない日々が続く。そして、沢田は、この頃から、精神の均衡を失い始める。自分自身も、自分が自分でないように感じていたが、加えて彼の父親は神経症で病院に入院したままとなっている。自分も同じ道を歩むのかもしれないと、自己の精神に対しても自信が持てない。逆に恐怖心さえ抱くようになる。そして、とうとう精神に異常を来した。所謂、鬱病を罹病したのである。病院には行かなかったが、彼には分かっていた。いや、それ以前の3年前から罹病していたのかもしれない。ストレスの多い職場だったからだ。


スグに見つかると思っていた仕事も、あろうことか全く見つからない。出した履歴書は72通にも達している。蓄えも底が見え始めている。連日のように、ヒステリックな妻の言葉が胸に刺さる。底の見えない寂しさと絶望感、食欲不振と不眠の症状、何もかも無力感の精神状態、そして強い自己批判の観念に支配されて、とうとう、沢田は、真っ直ぐに歩くことさえも出来ない程に、憔悴し切っていたのである。時折、自殺という言葉が頭をよぎってくる。従って、外的な活動への興味を喪失しているから、職安に行って失業保険を貰うことなど、全くといっていい程に、念頭にはなかった。寧ろ、自分の家から外に出ることをすら、極力避けていた。鬱病下の異常心理と行動である。


辛うじて保っていた自意識の中で、ここから少しでも抜け出したいと、必死にすがりついて、戸塚の自宅で沢田が、ずっと、していたことがある。それは、「般若心経」の写経と、本で教えられた、次の言葉を口で唱えることである。

「着眼高ければ、即ち理を見て毅せず」

「真理の大道は無門なり」

この2つの言葉だ。これを、繰り返し口で唱えることである。一種の、この呪文を唱え、自分自身に言い聞かせることによって、沢田は、辛うじて打ち震える精神の均衡を、やっとのことで保っていたのである。


このような状態で、よくぞ就職が決まったと思うが、ロイド社の他部署の知人から紹介されて、この京都の会社の入社試験を受け、見事に合格した。命運である。そうなるべくしてそうなったのかも知れない。しかし、沢田の心の中は、依然として晴れず、朦朧としたままである。自分が一番に自分のことを良く分かっている。薬局で買ったSSRI薬(セロトニン分泌強化剤)と、この呪文がないと不安で仕方がない。電車に乗ったときが、一番ひどくなる。耳鳴りがして膝に震えが出てくる。大声を出しそうになる。呪文を唱え辛うじて、出てきそうになる子供を、握り拳で自分の腹をトントンと叩いて、必死になって押さえ込んでいた。


そして、いよいよ暫くの単身赴任となる。この物語は、沢田以外に誰も知らない、沢田自身の空白の半年間である、1983年4月から9月までの6カ月間という、過去から逃げた男の、重い、重い単身赴任時代だけにフォーカスして、語られている。


そして今、沢田は、京都の右京区にある東邦電機という会社に勤め、この4月1日から新しい土地で、新しい仕事を始めている。ロイド社を退職してから、丁度、4カ月が経過していた。無給与下での、ローンの支払いと生活費で、沢田の妻の蓄えはゼロになっていた。中田を京都に送り出して、沢田と家族が当面生活しなければならない当座の金の20万円は、彼女が自分の実家から借りて、工面したという。


2.オートロック式のドア

沢田啓介が、普段から見かけていた、右隣の住人は、見栄えがしない、21、2歳の小柄な女性である。名前は、竹内良子という。ネームカードが、彼女の部屋のドアに掛かっているからスグに分かる。そして、何故かドアの表の真ん中に、「いのちの電話・京都支部」と書いたはがき程の大きさの、古ぼけて茶色く変色した張り紙が、電話番号と共に、貼り付けられていた。電話番号は(075)864-4343となっている。


このアパートは、京都市の右京区にあり、元々は、染色業を営む、星野染工㈲という会社の鉄筋コンクリート造・4階建の女子寮だった処だ。繊維関連の不況で、会社の規模縮小に伴って閉鎖された女子寮は、1階と2階は事務所に、3階は倉庫に、4階は5畳1間に半畳という小さなキッチンと半畳の土間を付けて、独身者用10室の小さなアパートに改造されて、一般用にも賃貸されていた。京都のアパートだから、勿論風呂は付いていない。近所に風呂屋が2、3軒あるから、そこを利用するらしい。当時でも、もっと小綺麗で贅沢な物件に人気があった。その見窄らしいアパートで埋まっていたのは、たったの3室である。沢田啓介と竹内良子の部屋。もう一部屋は、独身者用なのに何故か、夫婦者で子供のいないシルバー世代の西田という者の部屋の3室だけだ。家賃は有り難いことに、月8000円と安い。元々は女子寮だったので、沢田はこの自分の部屋を、今でも寮と呼んでいる。アパートでも、ましてやマンションでもないからだ。


建物の本体は鉄筋コンクートでシッカリ作られており、昔の事務所の名残か、東向きの窓は分厚いアルミ製の重々しいサッシュが付いており、ドアは鉄製のしっかりした扉でオートロック式になっている。しかし、室内の沢田と竹内の部屋との仕切りは、束を立てて両側からベニヤ板を張っただけという、誠に粗末な構造になっている。他の部屋も恐らく同じだと思われた。だから、隣の部屋の物音が、アケスケに聞こえてくるのだ。


京都の街は、いつも風がなく汗ばんでいる。4月下旬の、ある蒸し暑い夜の8時頃のことだ。近所の銭湯に入って、部屋に戻った沢田啓介は、風呂上がりに、もう一度外の冷気に当たろうと、ランニング・シャツにステテコ姿という軽装で、無意識にも、鍵を室内に残したまま、外に出てしまった。オートロック式のドアだから、あっと思う間もなく、ドアがカシャと閉まってしまう。財布も室内に置いたままだから、大家に電話もできない。勤めている会社の総務も、夜だから閉まっている。沢田は、血の気が引くほど動揺する。おまけに、ランニングにステテコ姿だから、ホトホト困り果てる。どうするか思案する。残された頼みの綱は、隣の女性しかいない。彼女から、10円玉を2、3枚借りて、このアパートの大家である、星野染工社長の星野孝治さんに電話して、合い鍵を借りるしか手がないと沢田は考えた。若い女性の部屋だし、ランニング・シャツ姿だと誤解もされる。他に、もっと良い方法がないだろうかとも、暫く考えて躊躇していた。しかし、湯冷めもするし、それ処ではないと決心して、矢張り、隣人の部屋のドアを思い切ってノックする。


「竹内さん、竹内良子さん。済みません。お願いがあります。竹内さん」

幸いにも、彼女が出てきてくれた。小さい鼻のしゃくれた、シーズーという犬の様な顔をしている、若い小柄な女だ。

「済みません夜分に、誠にごめんなさいね。こんな姿で、まことに済みません。私は隣の住人の、沢田啓介という者ですが、実は、鍵を部屋に置いたまま出てしまったのです。オートロックですから、開けられないのです。財布も部屋に置いたままなのです。誠に厚かましいのですが、10円玉を3枚貸して貰えませんか。大家さんに電話したいのです」

「あら、大変ですわね。おかわいそうに。ここは、ドアだけは立派ですからね。私もよくやるのです。いいですわよ。三枚ですね。それから、お金は差し上げますので、返して戴かなくても良いですよ。どうしても、と仰るなら、ここの、ドアーの下の新聞受けに入れて置いてくださいな」

そう言って、親切にも、快くお金を貸してくれた。嫌みな感じは全くなく、全くの同情心から貸して呉れたのだ。そのお金を沢田は、有り難く受け取る。そして、彼女のドアがバタンと閉まる。

「どうもありがとう御座います。どうも」

閉まるドアに向かっても、何回も頭を下げて、沢田は礼を言う。

ドアが閉まってしまうと、また『いのちの電話』の茶色に変色した紙が目に入る。


『いのちの電話』というのは、今でも活動しており、自分自身が緊急の時に、そこに電話をすると、話をじっくりと聞いてくれたり、アドバイスをしてくれるという、ボランティア活動である。ここに電話をして、自殺や自傷行為を思い止どまり、また精神の平衡感覚を取り戻す人も多いと聞く。彼女が、自分のために『いのちの電話』の紙をドアに張り付けていたのか、或いは、ここの寮の住人向けに張り出しているのかは不明だが、それは、目立つ張り紙だった。長年張られていたためか、薄汚れて、紙の端も切れて黄ばんでおり、古さを感じさせる。


もしかして、ここが会社の女工達の寮だった時代から、前の住人が張ったままなのかも知れない。等と考えながら、沢田は、貸して貰った貴重な10円玉3枚を握りしめて、4階と3階の階段の踊り場に設置してあった筈の公衆電話を思い出す。階段の側には、男用と女用の共同トイレと洗濯場兼洗面所がある。薄暗く青白い蛍光灯が、誰もいないトイレを不気味にボーッと照らしている。臭いのキツイ、トイレの消臭剤や洗濯機の洗剤の臭いが一緒になり、独特の臭気がその辺りには漂っている。階段を下って、薄暗い40Wの裸電球が壁に付けてある踊り場に着くと、矢張り、赤い公衆電話がある。幸い、公衆電話には大家への電話番号が紙に書かれて貼り付けて表示してあった。これも、前々から貼られていたように、黄ばんで汚れた紙になっているが、辛うじて数字は読める。分からなければ、104で聞こうと思っていた沢田は、大助かりで一安心する。


「もしもし、星野染工の大家さんのお宅ですね。私は、寮の住人の沢田です。夜分に電話して済みませんが。誠に、お恥ずかしいことで、部屋に鍵を置いたままで、オートロックされてしまいましたので、合い鍵で開けて貰えませんでしようか。宜しくお願いします」

「ああ、星野ですが、それは大変ですね。今から、スグ行きますから、チョット待って下さいね」

親切な対応で、ほんの2、3分して大家の星野孝治が、合い鍵を持って駆け付けてくれた。星野染工は、木村が勤めている東洋電機の会社にも3階の倉庫を貸している。つまり、沢田が、お世話になっているお客様の会社の社員さんだから、対応が早い訳だ。そして、合い鍵で、手際よく沢田の部屋を開けてくれる。


「沢田さん、合い鍵を、鍵屋でもう一つ作って頂いてもいいですよ。それから、沢田さん。お知り合いの方で、ここに入って頂ける方がおられませんかねえ。ご存じのように、まだ3室しか埋まっていないのですわ。もしおられましたら、是非に、ご紹介して欲しいのですがねえ」

「承知しました。心掛けておきます。大家さんには、夜分にご足労お掛けしまして、誠に済みませんでした。ありがとう御座います。これで安心ですわ。どうも済みませんでした」

といって、木村は大家に礼を言って、大家が階段を下りるまでをドアの前で見送る。そして、やっと部屋に入ることが出来た。

部屋に入った沢田は、どうも、いつもと違う気配を、何か感じる。神経が割に過敏な沢田は、嗅覚とか、直感とか、気配に敏感だった。こういう神経の細さが、沢田の命運を決めていたということも言える。何か、聞かれているような、見られているような、気配がする。隣の竹内良子が、どこからか覗いているのかと、ベニヤで作られた間仕切り壁を注視する。その壁はかなり汚れており、押しピンを刺したような跡、セロテープが張ってあった小さな四角の茶色く変色した跡、コーヒかお茶をぶっかけたかのようなシミが至る所に付いている。見つけられないが、確かに何処かに向こうと此方を繋ぐ小さな穴があるように思える。沢田は、足音を立てぬように部屋の中をウロウロとして、懸命に探すが、見つからない。忍び足で探している姿は、何か異様にさえ見える。何処かに、キリで開けたような、小さな穴がある筈だ。直感だが、沢田は確信していた。これを絶対に探してやると思いながらも、疲れ果てて、探すのをとうとう諦める。そして、いつものように精神安定剤を3粒飲んで寝床に入る。

『仕方がない、今日の処は諦めてもう寝よう』

ようやく薬が効いて、沢田は深い眠りに入る。

3.焼鳥屋の「鳥清」

会社の仕事が終わると、帰り道で、寮のあるブロック区域の南西入口角にある「鳥清」という小さな焼鳥屋に寄るのが、沢田の日課である。会社から寮までは8分程で歩いて帰れる距離にある。スグに帰っても、誰かが待っている訳でもなく、また自分一人で部屋に居ると、どうにかなりそうで怖かったからだ。この店から、沢田の寮までは、徒歩で、ほんの2分もあれば戻れる。帰り道にあって便利だから、沢田は、殆ど毎日のように、「鳥清」で時間を潰して、張りつめていた神経を酒でほぐし、40、50分経ってから寮に帰ることにしていた。職場の山本憲一、野口悟、見崎和夫、岡田義昭という4人の部下も、殆ど毎日のように沢田と一緒に、付き合って呉れている。上司に誘われたら断れないからである。


この焼鳥屋は、京都らしく間口が二間と狭く、奥行きも四間程の小さな店だ。入って左側にカウンターがあり、真ん中の通路を挟んで右側に狭い座敷がある。座敷には5人が辛うじて座れる小さな円形の座卓が3セット置いてある。5月下旬、梅雨前の、うっとうしい今夜も、その座敷の一番手前の、いつもの席で、5人は杯を交える。この席は、入り口に近く、何時も空いていたからである。マスターは62歳の背の高い大柄の男で、焼鳥屋には場違いな、インテリ風の縁なし眼鏡を掛けている。余り多くを喋らずに、客の語りに任せている。もっぱら、注文を請けたメニューの鶏肉を焼くのと、お酒の準備に専念している。


この店のマドンナと言われている、35、6歳の給仕係の女性は、小柄だが、名取祐子に似たなかなかの美人。だから、決して綺麗な店とは言えない焼鳥屋ながら、彼女目当ての客で「鳥清」は何時も賑わっていた。入り口に近いカウンターには、彼女の心遣いか、常に季節の花が飾ってある。今は梅雨時だからか、薄青紫色の紫陽花が小さな素焼きの器に生けられている。ほっとする配慮だ。


このマドンナは、実は、部下の山本係長の元部下であった女性だという。彼女は山本係長のことを「憲さん」と呼んでいる。山本は、東邦電機の北川宗一郎社長が操業したときから中卒で入社して現在まで、そのまま続いて在籍しているという、会社の一番の古手である。北川社長からも、山本は憲さんと呼ばれていた。憲さんは、その後、東邦電機で仕事をしながら夜学の高校にも通い、高卒の資格を取ったという苦労人である。マドンナは、山本係長が当時担当していた、製造ラインの女工さんだったのだ。当時は機械化が進んでいなくて、製品を作る8つのラインには女工さんが大勢並び、手作業で製品を組み立てていたという。興味を持っていたので、沢田は、一度マドンナに聞いてみたことがある。


「あのう、マドンナさんは、今の会社で以前、係長と一緒に働いておられたのですってね」

「あら、そうよ。東邦電機のね。工場のある前の通りはね、仕事が終わると、女工さんが群れて退社してきてさあ、帰り道がうら若き彼女達で、道路一杯になるから、東邦銀座って呼ばれていたのよ。彼女達目当ての若い男も、一杯集まってきたわ。私は、憲さんの下で働いていた、その女工さん連中の中の、一人だったのよ」

「そうだったのですか。それは、知りませんでした」


何故か無口のマスターが口を挟む。意外に艶のある大きい声だ。

「沢田はん。このマドンナはな、吉田英子と言う名前なんやが、女工を辞めて、それからは発憤してな、何と同志社大学の英文科を卒業してはるんやで。僕は、中田肇という名前やが、マドンナは、実は、同じ同志社の僕の後輩でもあるんですわ。なにね、僕の友人の田淵君の娘さんで、少女の頃からよく知っているという間柄なんじゃ。結婚したから、田淵から吉田英子に名字が変わったという訳さ。大変に頭の良い娘でね、今は或事情があって、ここでバイトして貰っているのだが。3年前までは、クラブ・エカテリーナを経営していた、ママだったのですわ。ウァッハッハ」

「ええっ、クラブって飲み屋のですか」

「そうさ、祇園の花見小路にある立派なお店でなあ、大賑わいだったんやで。そこのなあ、オーナー・ママだったのさ」

マドンナが、我々が追加で注文した焼き鳥の、「つくね」を運んできてくれて言う。

「マスターったら、この人に、余計なことを言わないでよ。もう、男はコリゴリなんだから。私に興味を持たれたら困るでしょ」

それでも、なぜか頬にえくぼを作って、顔も赤らめている。


また、マスターの中田が口を挟む。今日のマスターは、何故か上機嫌。時折、眼鏡がキラッと光る。お洒落な、マスターだ。

「沢田はん。沢田はんも、訳有りでっしゃろ。東京のどこにおられたのでっか。ドンビシャですやろ。ことばが関東弁ですからスグ分かりまっせ」

「会社は、銀座でしたが、住まいは戸塚でした。東京で勤め始めて、16年になりましたかねえ。まだ、こちらのテンポに慣れなくて、困っています。でも、元々は関西出身ですよ」

沢田は、自分の方に矛先がきたので、癒えぬ傷に深追いされたら困るから、適当にあしらおうと考えた。


「ところで、先ほど聞いていると、マスター、いえ中田さんは、同志社の英文科出られたそうですが。どうしてこんな、と言っては失礼ですが、焼鳥屋のお店をやっておられるのですか」

矛先を、相手の方にと向けた。意外とマスターは、ニコニコして、自分のことを饒舌に話し始めた。縁なし眼鏡がよく似合っている。鼻も高く、大学教授のような雰囲気だ。

「私はね、こう見えても、教養人ですから、教養の無い人は嫌いなのです。話もする気にならないのですわ。直感で、沢田はんが好きになりましたので、話をしましょう。実は、こんな話は、滅多にはしないのですがねえ」


沢田が、焼き鳥屋の店「鳥清」に通い始めてから、かれこれ2ヶ月が経過していた。

『つまり、その間に自分が観察されていたと言うことか。この人は要注意だな』と、前の会社でのゴタゴタがあってからというもの、人間不信に陥っていた沢田は心の中で、傷ついた精神を庇うように、もう一方の自分自身に言う。


4.マスターの秘話

粋なマスターは、客の入りが途絶えたので、焼き鳥を焼く手を少し休める。眼鏡を外して、付いた油煙をテッシュペーパーで拭き取りながら、カウンターから出てくる。そして、マスターは、沢田達が陣取っている座敷に腰掛け、ここぞとばかりに、自分のことについて饒舌に話し始める。夜も9時を過ぎていたから、客足が途絶え、我々5人と、店の2人だけになっていた。折角マスターが話し始めたので、沢田だけ先に帰る訳には行かないから、皆と一緒に聞いている。だからマドンナは、マスターの代わりにカウンターに入って、下こしらえをしている。


「沢田はんが、学がありそうなので言いますが、私はね、新聞は、今でも英字新聞ですわ。英語の方が、的確によく分かるんです。長年の習性でね、そうなってしまったのです。なに、神戸・元町の、ある貿易会社に33年勤めたのですが、社長が不正を働いてですなあ、会社の資産であるべきものを、自己資産として横領していたのですわ。金に換算して、何と20億円です。それを知ってからは、もう、阿呆くそうて、阿呆くそうて。そやから、55歳で、もうサラリーマンは辞めました。辞めてから少し、もたもたして、退職金をつぎ込んで細々と家内と二人で始めたのが、この商売です。もうかれこれ、5年程になりますよ。いえ、自宅がここなんですわ。一階をカウンター付きの店舗に改造して、焼鳥屋の世界では有名な、ここの「鳥清」ブランドも権利金を払って使用権を入手して、焼鳥屋を始めました。そして、ここの2階に寝泊まりして住んでいる、いう訳ですわ」

「ああ、そんなことがあったのですか」

余り詳しく聞くと、沢田は、自分も話さなくてはならなくなって困るから、と適当に相槌を打っていたが、マスターは話を止めようともしない。一緒に席を囲んでいた部下の、山本憲一、野口悟、見崎和夫、岡田義昭の4人も、始めて聞くマスターの話に興味津々だ。酒を飲むのも中断して、聞き耳を立てている。店の中は、壁も白く、蛍光灯の球にも油煙が少しも付着していなくて、良く手入れがされている。マスターと、このマドンナの清潔好きを表わしている明るい店だ。香ばしい焼き鳥の臭いで、店内は満たされている。


「この商売はですなあ、開店して1週間目、そして1ヶ月後が、ホントの勝負ですわ」

「どういうことですか、それは」

「誰でも開店直後は、大勢で来て呉れはります。物珍しいでっしゃろ。せやけど、2日、3日、4日と経つと、段々と来て呉れなくなりますわ。1週間後には、誰も店に来なくなるのが普通なんですわ。その後も、パラパラとは来てくれますが、こんな状態で1ヶ月も保てばいい方です。せやから、開店して1ヶ月後には、殆どの店が潰れますのや。水商売は、恐ろしい商売でっせ」

「ええっ、そんなに厳しい世界なんですか」

沢田が注文した、氷の入った、焼酎の烏龍茶割グラスをマドンナが運んできて呉れて言う。氷が背の高い、薄いグラスに当たり、透き通ったシヤカ・シヤカという良い音色を立てている。

「そうなのよ、だから私がここで働きだしたのよ。丁度、開店後の4年目だったわ。マスターにしつこくせがまれてねえ。不振だった店を盛り返したいと、土下座までして頼まれたから、断り切れなくてね。それで、暫くここで働くことにしたのよ。私も働かないといけなかったからね。バイトでね。それが、かれこれ1年近くにも、なってしまったわ」

「沢田はんに、焼鳥屋経営の秘話を披露しましょうか。つまりですなあ、見せかけの色々な仕掛けを上手に作っておかないと、人は興味を持ってくれないのですわ。お客さんは、飽きっぽいですからね。ですから、ウチの北側100m先に、綺麗なハイカラな飲み屋が、最近、出来ましたやろ。今は、結構、客が入っているようですが、多分1ヶ月後には、店は無くなってまっせ。ですから、ワシは全然心配してえしまへん。これも、綺麗な、頭の良いマドンナが居るお陰ですわ。マドンナは人扱いが上手いですからね。頭も良いし、気働きも出来る人で、しかもクラブもやっていた人ですから、完璧ですわ。せやから、ウチは、年々歳々と、お客さんが増えているのですわ。もう1つは、焼き鳥の味ですなあ。1回でも手を抜いたらダメでんなあ。味が不味いと、人伝てにスグに広がります。この商売は怖いでっせ」


沢田は、マドンナの顔を改めて見つめて、今までとは違う、経営者の顔をした吉田英子を発見するのだった。

「まあ、マスターったら、そんなに誉められると、困ってしまうわ。沢田さんも見つめているじゃない。今日はもう、このぐらいにしてはどうですかねえ。憲さんも、沢田さんも、もう帰る時間でしょ」

初めて、マドンナが沢田の名前を呼ぶ。名前が覚えられていたのだ。沢田は、少し警戒するが、彼女の人となりに大変に興味を持ったので、もう少し深入りしたいと思うようになる。


5.マドンナの秘密

名取祐子似のマドンナは、いつも快活で、言葉も歯切れが良い。鼻が細くて高い。上唇が少し突き出している。目元は大きくて爽やかだ。ウィークエンドの今日は、仕事が早めに終わって、沢田は、いつものように「鳥清」通い。何故か、今日は、沢田だけが1人で来ている。会社の連れは、まだ残業をしており、来られないからだ。1人なので、座敷席でなく、珍しくカウンター席に陣取る。そして、マドンナと視線を合わせ、注文する。


「マドンナさん、えーっと。取り敢えず、冷えたビールとねえ、焼き鳥の盛り合わせを頂きましょうか」


「はあーい。分かったわ。マスター、マスター。沢田さんの注文お願いね。ビールと盛り合わせ一丁です。沢田さん、まあ、今日は、お1人とは、珍しいのねえ。憲さん達は、どうしたの」


言いながら、沢田の左横から、沢田の前のカウンターのテーブルを拭くが、彼女の右の脇腹を沢田の肩にわざと押しつけるようにしながら右手を伸ばして、仕事をする。ややもすると、彼女の右胸のオッパイが沢田の背中に触れているのが感触で分かる。彼女のパフュームも沢田の鼻をくすぐる。まるで、何かの信号のようだ。


「ええ、憲さん達は、今日は残業で、来られないようですよ。だから今日は、私1人です」


「たまには、1人もいいじゃないの。ねえ、マスター」


マスターも、沢田と視線を合わせて頷いている。3割方、席が埋まっているが、辺りを見回した沢田は、ちょっと場違いなものを見つける。


一番奥のカウンター席に、小学校2、3年生位の男の子連れの、男性が座っているのを、沢田は見つける。その二人は、親子ではない、友達でもない妙な二人連れである。子供の方は、焼き鳥のつくねをおかずにして、ご飯を食べており、男は、コップ1杯のビールを前に置いて、チビチビ飲みながら、焼き鳥の盛り合わせをおかずにして、矢張りご飯を食べている。食べながらも、マドンナの方ばかりに、頻繁に視線を送っている。服装も、何故か、厚手の防寒服を2人共、着込んでいる。


丁度、沢田が注文した、ビールと盛り合わせを運んで来てくれたので、不思議な2人連れのことを、マドンナに、沢田は聞いてみる。


「あの人達は、どちらさんですか」


「ああ、あの子は、私の子供なの。小学2年生なのよ、卓也という名前よ。可愛いでしょ」


「男の人は?」


「私のBFなの。今夜から、車で夜の間に走って、土曜日の朝早くから、若狭湾で海釣りをするのだって。月曜日も休みだから、明日から3連休でしょ。卓也も連れて行ってくれるのよ。それで、一緒に食事をしている、という訳なの。男の子は、魚釣りが好きだからねえ。鈴木さんが、ウチの子供にも教えてくれるのだって」


それだけを言って、マドンナは、忙しく次の客の注文を運ぶ。殆ど、その男の方には、意識して、見ないようにしている。しかし、鈴木とかいう男の方は、まだ彼女に視線を送っている。その内、2人連れは、食事を終えて、マスターに勘定を払い、席を立つ。


「じゃあ、僕らは、今から出発するからね。英子さん、卓也君は、しかと預かりましたからね。じゃあ、卓也君、出発するぞ。いいかい」

そうとだけ、マドンナに言って、外に出る。子供だけはニコニコして、マドンナに手を振っている。マドンナも、首を左に傾げて、にっこり笑って、子供に手を小さく振る。他の客も、その場の、3人の遣り取りに視線を送っている。

マドンナと沢田の話を聞いていた、隣の客が、自分の連れと話している。

「今頃は、小アジが良く釣れるからなあ。小浜だったら、堤防の先の、長い、長い岸壁の処が一番良く釣れる場所なんだよ。あそこは、いい穴場だよ」

小浜に行ったことのある客だろうか、隣連れに、饒舌に喋っている。話題も、それっきりで、そして店の客は、元の世界に戻る。


沢田は、つくねと焼酎の烏龍茶割りを追加で注文する。焼酎だけを、先に運んできたマドンナが、沢田に小声でいう。

「ねえ、沢田さん、聞いてくれる・・・・。私ねえ・・・、困っているのよ。あの鈴木と言う男はね、子供を出汁にして、私のことを狙っているのよ。ここ3カ月ばかり、あの調子なの。琵琶湖に連れて行ったり、大阪の南港の方に連れて行ったりと。子供は魚釣りが大好きでしょ。そう言っては、私の住んでいるアパートまで来て、子供を連れに来るのよ。どうかすると、部屋にまで上がり込んでくるから、本当に困っているのよ。沢田さん、どうしたら良いと思う」

顔をしかめて、真顔で言うから、冗談でなくホントのことらしい。沢田はどうしていいか分からないから、取り敢えず答える。

「そうですねえ、あの人がどういう人か知りませんが、ハッキリ仰れば良いのでは、ないでしょうか。もっとも、あの方とあなたとの間で、貸借関係か何かがあれば、それも難しいでしょうがねえ」

そして、マスターの「つくね1丁上がり」、という声でマドンナは席を離れる。

沢田の前に、でき立てホカホカのつくねを運んできて、先程の話の続きを、マドンナが話しはじめる。

「そうなのよ、図星だわ。クラブ時代のお客様だった人なの。ちょっとね、お金を用立ててもらったのよ。よく分かったわねえ。だけど、ホント、しつこいのよ」

そう言って、沢田の前に、つくね3串を載せた皿を置くときに、前と同じようにして、わざと沢田の背中に、英子は自分の胸を押しつける。

「ねえ、沢田さん、どうしたらいいの。マスターはねえ、ワシは知らん。としか言わないのよ。余り、言うと、じゃあ、貸した金を今すぐ返せというでしょ。困っているのよ」


沢田は、答えてる場合ではなく、胸を押しつけてくる彼女の真意を測りかねていた。しかも、今回の場合は、もろに彼女のおっぱいが、柔らかさと形まで、背中に感じられる。自分を誘う、あからさまの、意志表示だろうかと、彼女の真意を憶測する。そういえば、今日は、いつもの会社の連れは居なくて、沢田が一人で来ている。だから、大胆なことをするのかもしれない。今の状況を判断して、沢田は緊張する。そして、取り敢えず答える。

「ちょっと、ですねえ。私にも、どう答えていいか。これは難しくて、分かりませんね」

「そりゃ、そうだわねえ。私のことも、まだ充分に知らないから、当然だわねえ」

客足が途絶え、客はとうとう沢田1人になった。今日は金曜日なので、遅くてもいいと沢田は思っていた。マスターも手を休めて、カウンターの中から、沢田の方に寄ってくる。マドンナは沢田の隣のカウンター席に座る。頃合いを見てマスターの中田肇が、あろうことかマドンナの秘密を、真顔で喋り始めたのだ。


6.自殺騒動

「沢田はん。2年前の当時の京都新聞は、読まれておられまへんやろなあ。東京でしたもんなあ。大きく載ったんどすわ、新聞に。実はねえ、マドンナの旦那が自殺したんですわ。この人等が住んでいた、堀川通りのマンションで、夫婦喧嘩の末、旦那が自分で、自分の腹に包丁を刺したんです。大変な騒ぎになりました」


「ええっ、そんなことがあったのですか。ホントですか。ビックリですねえ。へえー怖い」

吉田英子が、肩を落として語り始める。

「私の祇園店のエカテリーナが順調にいっていたから、もう1軒、新しく店を出して事業を大きくしたかったのよ。ところが、主人の吉田は反対したの。何故反対するのか、全く不可解だったので、追求すると、私達の虎の子を使い込んでいたのよ。私の店の、智子というホステスに手を出して、彼女に、3000万円もの大金を入れ上げていたのよ。2、3通に通帳を分けて入れてあったのだけど、その内の一番沢山入れて置いた通帳に、あると思っていた貯金が全部引き出されているじゃない。全くふざけた話でしょ。あいつは、もの凄い男前だから、女に良くモテタのよ」

「女に騙されていたのだと思うわ。それで、私も頭にきて、メチャメチャに吉田を怒ったわ。罵倒してやったのよ。頭に来て、部屋の中もメタメタに壊してやったわ。大ゲンカしたのよ。私は、金を取られたこともあるし、それよりも主人に裏切られたことの方に腹が立って、腹が立って。それで、つい包丁を持ち出したの。包丁の取り合いでまた大暴れしたのよ。結局、吉田は追いつめられたと観念したのか、最後に私の手から包丁をもぎ取って、自分で自分の腹に刺したのよ。こう言っていたわ。『そんなに俺を追いつめて、そこまで言うのなら、俺は死んでやる。俺が死んだら、お前は気が済むのやろ』、とね」

吸っていたタバコの煙を、フウーッと一息噴き上げてから、また話はじめる。普段から、マドンナは、店でタバコは吸わないが、ここでは遠慮なく吸っている。見事な吸いっぷりだ。オーナー・ママをしていただけあって、様になっている。だけど今も、よほど昂奮しているから、吸っているのだろうと、沢田は憶測する。


「ホントよ。ハッと我に返った時には、もう自分で刺していたわ。気が転倒していたけれども、何とか救急車も呼んで、警察にも電話したわ。しかし、出血がひどくてねえ。絨毯にもべっとり血が大きく着いていたわ。だから救急車が着いた時は、もう手遅れで、とうとう出血多量で死んだの。私は、刺してやりたいとは思ったけれど、辛うじて理性が働き、刺してはいないわ。自分で刺したのよ。警察が来て、何回も何回も事情聴取を受けて、調べられたわ。でも、やっと私の主張も認められたのよ。ホントに辛かったわ」

「どうして、認められたのですか」

腑に落ちず、沢田も聞いてみる。

「それはねえ。二人で、包丁の取り合いで揉み合っている時に、アイツが手に取った包丁が、たまたま私の背中をかすったのよ。だから、私の背中にも5cm程の傷がついたわ。自分では、付けられない場所なのよ。それで、吉田が包丁を持っていた、という私の主張が認められた、という訳なの。それまでは、警察は、私が手に持っていた包丁で、刺したとばかり思っていたわ。もう、こんな話はしたくないわ。思い出すのもイヤだわ。ねえ、マスター」

マスターが顔をしかめて言う。

「そうなんですわ。大変な騒ぎになりましてなあ。それからというもの、マドンナも頭が混乱して、とうとう気が変になって精神も異常になりましてなあ。暫く、そう半年ばかり、済生会病院の精神科に入院してはったんですわ。それから、退院して半年してから、ウチに手伝いに来て呉れている、という訳ですのや。来て呉れるようになってから、かれこれ1年になりますかなあ」

「そうなの、済生会だから、私は生き返ってきたの。もう一度生まれ変わってきたのよ。それで、過去を清算したかったから、店も、車も、マンションも皆んな処分したわ。違約金の精算とローンの残債処分があったから、結局幾らも残らなかったのよ。返って大損したわ。でも、マスターさあ。生き返ってきたとは言うものの、実は、私、今でも調子が悪いのよ。あの時のことを思い出すと、震えが出てくるのよ。また、元に戻るのじゃないかと思い始めると、怖くて、怖くてね、体も震えてくるのよ。私の頭の中は、どうなっているのだろう。本当にもう大丈夫かしら」

「アンタは、絶対大丈夫だよ。ワシが太鼓判を押したる。アンタは、もう直っている。絶対に元には戻らん。心配はない。ホントに女の人が狂ったら、着物の前をはだけて、平気で外に出て、道を歩くようなことをするのが、普通だぜ。マドンナは正常だから、心配はいらないの」


大変な話を、沢田は聞いてしまった。

『人が背負っている、過去の背景は、見かけでは分からないものだ。自分の挫折経験なんぞは、取るに足らないことだよ。全く大したことではないじゃないか』と、客観的に自分を見ることが出来るようになっているのを、沢田は、自分自身で発見するのであった。


時計は、既に深夜の12時前になっている。まだ、聞きたくもあるが、キリがないから沢田がケリを付ける。

「すみません。今日は、もう遅いので、お勘定をお願いします。マスター」

「ああ、こんな時間か、せやったなあ。沢田はんやさかいに、今日の分は、おおマケで、もう2000円でええわ」

金を払って、沢田は、寮のある方向に向かって歩き始める。外に出てから、かなり酩酊していることに、気付く。フラフラしながら、この時間帯は殆ど車が来ないと分かっているので、わざと車道を歩いて戻っていく。街灯に照らされた、彼の後ろ姿は、うなだれて、肩を落として力が無い。沢田の前に浮かんでいる、自分自身の影は真っ黒で、異様に長く、そして寮の方向にまで伸びている。


7.隣からの物音

かなり酩酊した沢田が寮に戻り、ドアの前に立つ。隣の部屋の、ドアの下からも弱い光が漏れていたから、竹内良子は部屋に居るようだと、沢田は気付く。


『また覗かれぞ。見られるかもしれないから、今日は要注意だな』沢田は、少し緊張する。そっと、鍵を開けて、狭い狭い自分の部屋に入る。部屋のスイッチを、そっと入れて、入ってすぐ左手にある、半畳の台所の水道栓を軽くひねり、音を立てぬように出した水道水をコツプに注ぐ。コヅプの水を口に運び、音を立てぬようにグチュグチュと、何回もうがいをする。口の中の、今日の酒と食い物クズを洗い流し、さっぱりとする。


靴を脱いで、畳敷きの5畳の床に入り、見られないようにと、蛍光灯の電気を豆球に切り替えて、薄暗いままで着替える。矢張り、隣からは覗かれているような気配を、沢田は感じる。しかも、今夜は1人でなく、2人いるようにさえ感じられる。沢田の布団は、いつも敷きっ放しなので、彼は、下着のまま急いで布団の中に、潜り込む。そして、豆球も消して真っ暗にする。しかし、部屋の突き当たりにあるサッシュ窓が大きくて、外の街の明かりが部屋にまで入ってくる。面倒なので、まだカーテンを付けていないからだ。結構明るく感じられる光だ。近所にネオンがあるのか、時々その光は、淡い青になったり、緑になったりと変化している。沢田が、部屋に入ってくる光に神経を集中していると、先程の気配は、もうしなくなっていた。


『さあ、これで安心して寝られるぞ。それにしても、名取祐子に似た、あのマドンナは魅力のある女性だなあ。女工から、同志社の英文科を卒業して、百貨店勤めでお客と知り合いになり、クラブを経営してたとはなあ。なかなか頭の良い、才覚のある女性だ。名前は、なんだっけ。確か、吉田英子とか言っていたなあ・・・・・。それにしても、激しい性格というか、大変な女性だ。包丁を持ち出しての喧嘩とはなあ、怖い、怖い・・・。係わり合いになると大変だぜ』


思いつつ、沢田はウトウトして、小1時間も寝ただろうか。すると、ベニヤの壁から聞こえてくる、聞き慣れない女の声で目が覚める。

その時、それは隣の部屋で始まっていたのだ。今までには無かったことだが、まさしく男女の夜の行為が始まっているではないか。呻くような、押し殺した様な、そのときの、女の声が、沢田を目覚めさせた。窓から入る光に当って、うっすらと見える目覚まし時計は、午前1時前を指している。ベニア板2枚の壁からは、聞きたくないと思っても、アケスケに聞こえてくる。あの、竹内良子が男を引き入れているのだろう。隣の部屋からの声は、まだ延々と続いている。若いから幾らでも、できるのか。そして、とうとうクライマックスを迎えた女の声が、何回も届いてくる。すっかり、沢田は目覚めてしまった。妻の顔とマドンナの顔が交差して、沢田の脳裏に映し出される。先程の、マドンナの乳房の感触も、背中に蘇ってくる。沢田が、一度5月に横浜に戻ってから、かれこれ2カ月が経過していた。


沢田は、布団から乱暴に起きて、電気を点けて台所に行き、水道水をジャーッと大きく音をさせて出し、コップに水を注ぎ、一気に2杯も飲む。そして、部屋の鍵を持って外に出て、共同トイレに行って放尿する。戻るドアは、気の毒だが、バタンと締めてやる。いいかげんにしろ、とさえ、沢田は感情的になっていた。


布団に入り直し、電気を消して、隣に神経を集中すると、カサコソとかすかな音がしているが、声はもう、しなくなっていた。ヤレヤレと思い、ウトウトしていると、何とその声は、再び始まったのである。もう寝ているどころではない。今度は、当て付けか、遠慮もなく、感情任せの男女のその時の声が、丸聞こえに、此方に響いて届いてくる。振動まで伝わってくる。だから、とうとう、朝方の四時まで、沢田は寝ることができず。フラフラの状態になりながら、起床せざるを得ない。

『この部屋は、単身赴任者には、まるで悪魔の部屋だぜ』と舌打ちして、沢田は腹立たしく思う外はなかった。


その後、沢田が観察してみると、それは、殆ど定期的に月、水、金と、1日おきに始まっている。そういえば、昨夜は金曜日だ。時間も、夜の12時過ぎからと決まっている。男が、水商売か何か、夜の仕事をしているらしい。恐らく、2人の女を掛け持ちしているからか、1日おきになっているらしいと、沢田は想像する。男の顔を見たことはないが、沢田が出勤している間の昼前頃に、彼女の部屋から出るらしい。大体において、このようなことを推測して、沢田には分かった。


8.稟議書

今は、大企業に、いや大変に経営内容の良い会社へと、大変身しているが、沢田啓介がいた当時の東邦電機は、いわばまだ京都のベンチャー企業同然である。そして、ロイド社に比べると、価値観の大きな相違が、至るところにある。これに慣れるのに、沢田は随分と時間を掛けなければならなかった。思考方法や行動規範が、細かく決められていたからだ。


社内を歩くのにも、その規範を守らなければならない。構内では、人間は左側通行と決められている。人間の心臓が左側にあるからだ、という理屈らしい。上司に出会えば、立ち止まり姿勢を70度傾けて、礼をしなければならない。電話を掛けた後も、自分が、どこに、何の用件で、何秒間、電話を掛けたかを電話記録ノートに記録しなければならない。コピーも、自分が、何枚コピーしたかを記録しなければならない。枚挙にいとまがない程、社内での従業員の行動規範が、事細かく決められている。そして、週末にはこれらを巡って反省会を持つのだ。誰々のコピーには、無駄が多すぎる。憲さんの電話はもう少し手短にしよう等と言って、他人から指摘を受けて、お互いに自分の行動を反省するのだ。想像を絶する世界が、ここにはある。


大半が、社長の北川宗一郎の価値観から派生して、決められた規範のようだ。その根本には、強い人間不信と猜疑心が、いわば人間の性悪説が隠されており、北川は、人間よりも機械を愛するという、誠に理解しにくい人物である。ある時、日経新聞の新聞記者からの社長取材を、祇園の一流料亭にセッティングして、ここで記者からの取材を受ける段取りを組んだ沢田は、役目上同席して、共に会食する機会があった。その席で、直接に、北川の思考に接することができた。新聞記者を前にして、北川は、何故か沢田に対して得意げに質問する。


「沢田君、人間と動物との間には、大きな違いがあると思うが、君は何だと思うかね」

沢田は唐突に言われたので、東北産の初物の、まつたけのお吸い物を思わずグッと飲み込んだ。そして、箸を置いて、椀を元の場所に戻してから、慌てて答える。

「それは、手が自由に使えるということや、脳が発達していること、言葉が使えるということ等、だと思いますが・・・・・。違いますか」

「私も、そうだと思いますねえ」

新聞記者も、椀をもったまま喋って、沢田の答えに相槌を打つ。


「君たちは間違っているよ。人間だけがだね、教育される動物だ、ということさ」

「教育される、と言われましても、人間以外の動物も、動物なりに親から教育されているのではないでしようか」

理屈っぽい沢田は、ここでも応酬する。

「それは、教育でなく本能だよ。君が今言った、人間が言葉を喋れることも、親から教育されているからさ。手が使えるのも、使い方を教育されているからだ。教育されることで、脳も発達する、という訳だよ。どう分かったかね、沢田君。だから、当社では、教育に大変重きを置いている。だから、上司の評価は、部下の教育の程度で、私は判定することにしているのだよ」

北川は、記者のことも沢田のことも、その存在を忘れたかのように、ゆっくりとした重々しい艶のある声で、喋りながら食べている。余談だが、北川は、刺身は絶対に食べない人だ。だから、彼の膳だけは、刺身の替わりにと、ビーフステーキが特別にあつらえてある。彼は、生肉を喰うのはエスキモーと日本人だけだ、と言って、日本人を軽蔑して刺身を毛嫌いしていたからだ。


「なる程、よく分かります。そういう意味だったのですね」

新聞記者も感心して、メモを取っている。

「そうなんだよ。普通の会社は、売上高とか利益貢献度で人を評価するが、私は、部下への教育程度で判断する。業績が上がるのも、新製品が開発されるのも、全て部下への教育内容如何に関わっているからだ」

「なぜかならば、人間は嘘をつく動物だからさ。機械は嘘をつかないが、人間は都合が悪くなると、誰でも必ず嘘をつく。君もそうだろうが。私は、だから、私の命令に忠実に従う機械が一番に好きなのだ。機械は、電圧を上げれば、モーターの回転数が上がって、スピードアップして製品を作ってくれる。昔と違って今では、製造ラインは、だから全部機械化しているのだよ」

それから、雑談に入ったが、新聞記者という客の居る前でも、北川は構うことなく社員の悪口を言うのにはビックリした。記者が、お世辞だろうか、その時、こんなことを言ってきた。

「ところで、北川社長、お宅の総務部長の田村部長さんは、仲々に奥の深い人ですね。それと、山本憲一さんは、挨拶が丁寧でシッカリされていますねえ。沢田さんの前の担当者だったので、私も何度かお目に掛かっていますから、良く知っています。さすが、北川社長の言われる、先程の教育の成果ですかね」

すると、北川は構わず、ズケズケとこうだ。

「何を、言うのだ君は。総務の田村孝一部長はだね、奥が深いかどうか知らないが、底が抜けているんだよ。何時もポカをするので、私は、彼を叱っているのだ。憲さんはだね、沢田君も知っていて貰いたいのだが、2つの仕事が同時に出来ない人なんだよ。沢田君、人を見抜いた上で、上手に使って呉れよ」


このことがあってから、沢田は、北川社長を恐ろしい人だと、心底思うようになる。加えて、沢田を悩ませた、価値観の違いが、もう1つある。それは、稟議書にまつわることだ。普通の会社なら、稟議書に使う言葉に、一字位の間違いがあっても、提案事項と投下金額との整合性、そして効果が期待できれば、稟議書は通る。一般には、稟議にはタイミングが大事で、スピードが要求されるからだ。しかし、ここでは、違った。文字の一字のミス、句読点の打ち方のミス、誤字、脱字が1つでもあれば、即座に却下される。


ある時、沢田が提出した、新聞記者からの専務への取材の申し込みを受ける、という稟議書を見てこう注意される。

「日経新聞という新聞はありません。日経産業新聞、日経流通新聞と日本経済新聞ならあるがね。これは、どちらの新聞のことを言っているのですかね。はい、もう一度書き直して提出してください。この稟議書は却下です」


こう言って、稟議受付である、総務部長の田村孝一から、突き返されたのだ。


「えっ、日本経済新聞のことを略して日経新聞といいますでしょ。それは屁理屈で変ですよ。スグに、承認いただかないと、新聞記者からの取材に間に合わないのですが」


「君、略語は正式名称じゃないよ。間違えたのは、それは、君の問題だよ。間に合うようにしなかつたのは、君に問題があるからだ。文字を間違えたのも、時間の余裕を持って提出しなかったのも、全部が君自身の問題だろうが。どうかね、異論はないだろ。北川社長は完全主義者なんだよ、君。知らないだろうから、教えてあげるが、北川社長は、若い頃ピアニストをだったんだぜ。音が1つでも間違えると音楽にならないだろ。だから、全てに置いて、何事も完璧でないとダメなんだ。こんな稟議書を通すと、今度は、私が責められるのだよ。分かるかね」


「そこを、何とか、私を信用してお願いしたいのですが」


「馬鹿者。出直したまえ。稟議書の書き直しだ。一字訂正も絶対ダメだよ。最初からもう一度日本経済新聞とキチット書き直しして、出直して呉れ給え。何と言おうが、この稟議書は受け付けられないよ。君」


沢田は、開いた口が塞がらない思いがする。ここは、普通の会社ではない、全ての事柄と環境の違いが、彼の脳髄に、大変に大きな刺激となっていったのである。いわば、脳髄の入れ替え作業をしているようなものだ。


加えてもう1つある。これは、京都独自の組織風土だ。稟議書を書き直して、やっと受付の総務部長の承認をもらうと、次は、これを沢田が、自分で持つて廻らなければならないのだ。担当取締役、常務二人、専務、社長と、順番に稟議する人に対して、いちいち最初から沢田が、例えば、取材の申し込みの経緯から、新聞記者の属性、そして社長取材の効果までを順に、説明をして、そして前の稟議者の意見も付け加えて、上席稟議者に承認をお願いするというシステムになっている。しかるに、専務が海外出張していると、その間は稟議書を持って回れないから、承認が貰えない。どうしても間に合わないときは、自分も海外出張して、承認を取り付けるということも、過去にはしたそうだ。


何人かの者は、そこまでして承認を貰ったようだが、そういう者は、当然のことながら、社内の嘲笑の的となる。先程の、田村孝一総務部長は、実は、ロスに海外出張していた北川社長に、カタログに使う写真を決めて貰うだけの為に、自分もロスにまで飛んだという。北川社長が言っていた、底抜けとは、このことを言うらしいと、後になって知る。京都にしかない、独特の稟議システムである。これの為に、後日、沢田も結局会社を辞めざるを得なくなるという、大事件に巻き込まれる羽目にもなるのであるが。それほど、この会社での風土は変わっており、これに慣れるのに、沢田はかなりの努力と思考の転換を図らざるを得ない状況にあったのである。


9. 課内の人間模様

梅雨が終わり、初夏の暑さが加わった木曜日の今日は、ビールを飲むのに丁度よい頃合だ。沢田達は、仕事を早々に切り上げ、夕方の7時頃に、いつものメンバーで「鳥清」に繰り出した。今夜も、その狭い座敷の一番手前の、いつもの席で、職場の山本憲一以下、野口、見崎、岡田という4人の部下と、沢田の5人は、窮屈そうに狭い座敷にあぐらをかいて座している。


「沢田課長、今日は何にされますか」

沢田は、入社して4カ月が過ぎて、課長に昇進していた。宣伝広告と企業広報の体制を作り、社長賞も二回も貰い、株主総会の事務方メンバーの一人として、無事に総会も切り抜け、その論功行賞であった。お調子者の見崎和夫が、役職名を言って機嫌をとる。

「ああ、僕は生ビールの大ジョッキと、つまみは、手羽先がいいなあ。見崎君、これを頼みます」 br>
見崎は、皆の注文も聞いて、マドンナに声を掛ける。沢田が生ビールにしたからと、皆も同じように、大ジョッキを頼んでいる。この会社は、上司を立てなければならないのだ。最初の頃は、ある意味で窮屈さを感じていたが、今では慣らされて、沢田も心地よさを感じている。


彼等の今日の話は、会社で先程まで検討していた、3ヶ月先に迫っている展示会のことだ。先程までの話題が、再び沸騰してきている。


北川社長から聞いていた、憲さんの人となりを配慮しながら、沢田は慎重に、山本憲一に対して話をしている。

「山本係長、今回の展示会についてはですね、こう思うのです。まず各事業部の担当者に出会って頂いて、彼等から出品リストを提出させることから始めましょうや。今、担当されているカタログでお忙しいことは、分かりますが、早速に、まずこれをやらないと始まりませんですわね。見崎君では、チョット荷が重すぎますから、事業部の担当者と懇意の間柄の憲さんに、まず動いて欲しいのです。私の方は、新聞記者との取材のアレンジで、来週は一杯に詰まっておりますから。ねえ憲さん、お願いしますよ。必ず、来週中ですよ」

「沢田課長、はいよく分かりました。仰るように、来週に出品リストを作ります」

返事は素晴らしいが、翌週末には「済みません。失念していました」が返ってくるから、要注意なのだ。だから、途中で必ず、チェックを入れなければならない。

マドンナが、頼んでおいた生ビールの大ジョッキ5本を、2回に分けて運んで、沢田達の前に並べてくれる。今日は、先日とは打って替わって、沢田に対しては、よそよそしい他人行儀の対応だ。店の中は9割方、埋まっており、客で大混乱しているからだろうか。ピンクのノースリーブのサマーセーターを着て、白のミニスカート姿の、今日のマドンナは、生き生きとして、なぜか眩しくさえ見える。先日の姿とは、異なることもあって、何か近寄りがたい雰囲気さえ揮散している。


マドンナは、次々と、客の注文をさばく。沢田達の処は、知った間柄なので、どうしても後回しになる。後回しにされても、この身内扱いされていることが、むしろ特別扱いをして貰っているのだと、善意に受け取っているから、誰も文句を言わず、突き出しだけで生ビールをチビチビ飲んでいる。


とうとう順番の最後になって、頼んでおいた彼等の焼き鳥が運ばれてきた。

「憲さん、おまたせでした。マスターからの、一皿サービスだって。良かったねえ。見崎ちゃん」

沢田の方へは、全く視線を送らずに、相変わらず他人行儀な態度のままである。むしろ、意識して、そうしているようにも思える。先日の、沢田への接触を、他の者に知られたくないと思っているからだろうと、沢田は、自分に有利な解釈をして、勝手に憶測する。

「マドンナさん、ありがとう御座いまーす。課長どうぞ、サービスですって」

そう言って、太鼓持ちの見崎が受け取って、サービスの盛り合わせをテーブルの上に並べる。見崎は、我先にと、早速にも大好きなレバの串を一本、手にしている。


その後、仕事の話は、一段落したのか出なくなる。入社3年目の若い見崎や岡田は、専ら女子社員のことを話題にしている。中途で入った沢田が、ここでは、だから一番に社歴が短い。彼の課内には、この男性社員4人の他に、5人の女子社員もいる。女性達は、皆それぞれに美人を選んで、揃えてあった。広報と宣伝がメインの仕事で、会社を代表して、対外的に接する仕事であったからだ。同志社卒の見崎は、課の中の、木内というスタイルが良く学卒で頭も切れる理知的な女性に、岡田は佐藤という化粧の濃い肉感的な女性に、ぞっこんであった。ところが、大人しい広報担当の野口も、木内女史にご執心だったから、見崎と野口の間柄は良くいくわけがない。課の中で、野口とその木内女史だけは広報を担当していた。宣伝担当の見崎が、広報担当の女性に越境恋慕していることになるから、野口も機嫌が悪くなるのは当然である。課内の人間関係を知っておくことも、もう一つの大事な仕事だから、沢田は彼等の気持ちまでを、もう既に掴んで知っていた。


彼等の話を、させたいようにさせ、相槌だけを打って、聞いているような振りをして、沢田は専ら、昨日のマドンナからの信号の意味を考えている。或意味で、虜になっていたのかもしれない。かといって、部下達に悟られてはならないと、沢田もマドンナに視線を送ることだけはしない。客は、パラパラと散り始め、2時間後の9時過ぎには、彼等のグループとカウンター席の1人だけになる。沢田は、ここが頃合いと見て、場を締めて、全員で割り勘にして勘定を済ませる。一人当たり、2600円ずつを支払う。すると野口が、明日の金曜日は、朝一番で取材があるからと、急いで先に退散する。暫くすると、見崎と岡田も連れだって店を出る。何故かマドンナと、奥の方でこそこそ話していた憲さんも、暫くして戻ってくる。

「じやあ、沢田課長。私もお先に、失礼します。お休みなさい」

そう言って、先に帰る。とうとう、客は、カウンター席の奥にいる見知らぬ男と、座敷の沢田だけになっていたのである。


10.タクシー協会の理事長

沢田も、今夜はもう頃合いだと感じて、そろそろ帰ろうと、カバンを抱えて立ち上がる。すると、カウンターの奥で座っている男の前で、立っていたマスターの中田肇が、手招きして、大声で沢田を呼び止める。マスターの縁なし眼鏡だけが、光を反射して白く光っている。

「沢田はん、折角ですから、こっちに来なはれや。紹介したい人がおます」

そう言われて、振り向いた沢田は、座敷を降りて靴を履き、カバンを左手に提げて立ち上がる。言われたように、奥のカウンターの止まり木に座っている男の側の席へと進む。帰っても、誰かが待っている訳ではないので、導かれるままに、一つ間を空けて止まり木に座る。カバンは空けたその席に置く。見知らぬ男が誰だか分からないから、男からの距離を取ったのだ。すると、マスターが言う。

「沢田はん、ここからは僕からの奢りですから、どうぞ、自由にやっと呉れやっしゃ」

と言って、マスターは、沢田が好きな、氷入りの烏龍茶割焼酎のグラスと、焼き鳥の肝が5串載った皿を、沢田の前のカウンター席に並べる。そして、こんなことを切り出したのである。

「このお人はなあ、京都の個人タクシー協会の理事長をされている、いや自分でも運ちゃんをしている、森田義男というお人や。それから、森田はん、このお人が、先程話していた、沢田はんや」

と、二人を紹介する。沢田も森田も立ち上がって、名刺を交換する。名刺を見ながら二人は元の席に座るが、森田という男はマスターと同年輩に見えるが、シャンとした中田に比べ、小男で、仕事柄か、随分と猫背になっている。そして黒縁の眼鏡を掛けており、何か陰気くさい男だ。


「沢田はん、遠慮のう焼き鳥も喰っとくれやっしゃ。実はなあ、この森田はんが、東邦電機の社用車タクシーとして、森田はんの協会を使こうて貰らえへんやろか。となあ、言うてはりますねん。どないな、もんでっしゃろか、沢田はん」

マドンナは、客も居なくなったので、沢田の左側の席に座って話を聞いている。沢田は、この話は一度持ち帰ってから、後日改めて返事をするのが礼に叶うだろうな、と一旦は考えたが、この陰気くさい森田の顔を見ていて、先に結論を言っておいた方が、後腐れがなくて、寧ろ良いだろうと判断して、ありのままの結論を、正直に言ってあげようと思った。

「さあ森田さん、今日はご苦労さまでした。まずは、一杯どうぞ召し上がって下さい。お注ぎしますから、どうぞ」

彼の前においてあった、瓶ビールを手にとって、森田のコップにビールを注ぎ足す。しかし、殆どビールには、手を付けようとはしない。これからも、仕事があるようだ。沢田は、事実関係の確認の為に、森田に、こう聞いてみる。

「森田さんは、協会の理事長をされているのですって、スゴイですね。ところで、その協会には何人ぐらいの運転手さんが加入されているのですか」

「ワシの処の協会はなあ、辺鄙な右京の上の方が中心じゃさかいに、大体15人位かのう」

疲れたように、小さいかすれた声で言う。隣のマドンナも合いの手を入れてきた。

「前の、エカテリーナの時には、森田さんの処にも専属で頼んでいたのよ。こういう協会が、京都には7、8つはあるわよ。その中でも、森田さんところは割と良心的なのよ。約束は守るし、お客様とも仲良くやって呉れていたわ」

「そうなんです、当時、エカテリーナは流行っていたお店でしたから、随分と儲けさして貰いましたわ。有り難いことに、遠出が多くてねえ。マドンナさんのお陰です。その節は、大変にありがとうございました。そういう訳で、沢田さん、何とか出入りできるようにお願いしたいのですが。いかかですかねえ」


『そういうことか、するとマドンナも、この話には、一枚噛んでいるということだな。先程、奥で憲さんと話していたのは、このことだったのか。では、尚更に結論は早い方がいいかも知れない』先程の山本憲一の挙動の意味に、沢田も気付く。

「森田さん、折角の申し入れについてですねえ、水を差すようで、誠に恐縮ですが。当社の社用車タクシーは、この京都では、礼儀正しい会社で一番有名な、MYタクシーと決められています。北川社長が、決められたことです。そこ以外は全くダメのようですよ。ハッキリ申し上げまして、無理ですね」


何を思ったのか、マドンナの吉田英子が、声を強めていう。

「ほら、言った通りでしょ。東邦電機の北川社長には贔屓スジがあるのよ。沢田さんは、まだ知らないと思うけれど、東邦の役員さんは、殆どがハングル系の人よ。だけど、北川社長は漢字系だけど、日本に帰化された人なのよ」

『えっー、どういうことだ。役員さんも、社長もかよう。頭が混乱するよな。そうだったかのか。雰囲気や風土が、道理でどこか変な具合だとは、思っていたが、それでか。北川社長が日本人をえらく毛嫌いしているのは、そのこともあったからか。だから、金と機械だけを信用しているという訳なのか。だからなんだ』

沢田は、マドンナの口から、このとき初めて会社の秘密を知ることになったのである。


また、この話を聞いて、沢田は、もう1つ、或ることを思い出した。ここに来て、間もない或日の夕刻のことだ。寮の二筋先の道を散歩している時、大変に気分が悪くなり、何かにすがりたい気持ちになった。ふと見上げると、トンガリ屋根に十字架が掛かった、ごく小さな白い壁の教会が、偶然にも目に入る。沢田は、衝動的にそこに駆け込む。自分が若い頃に、キリスト教会に何回か行っていたことを、思い出したからだ。玄関のドアに手を掛けたとき、ガラス戸に見慣れない文字が貼ってあるのに、沢田は気付く。ハングル文字だ。その人達が行く教会だったのだ。慌てて、飛び出したが、このとき初めて、この付近に、その人達が多く住んでいることを知った。


マドンナの話から、頭の中で、三月程前の自分の姿を追っていた沢田は、森田の言葉で我に返る。火を付けた森田が、今度は自分で火消しに回って、この話を締め括っているではないか。

「沢田はん、よう分かりました。いえ私もね、マドンナさんから薄々聞いていましたので、多分駄目やとは思ってましたさかい、気にしないで下さいなあ。憲さんに聞いても、ハッキリ言って呉れないので、困っていたんですわ。これで、仲間にも、早う結論が伝えられて、返っていいですわ。沢田はんは、信頼できるお人や」

先程と違い、晴れ晴れとした顔で、ケロッとして、こう返事をする。沢田もホッとして肩の力を抜き、飲みかけだった烏龍茶割・焼酎の残りをジャラジャラという氷の音と共に、一気に飲み干す。マスターは、気遣って、もぅ一杯用意して呉れる。やけに、今日は親切だ。沢田は、話の次に、また何か来るかも知れないと、思案しながらも、これも一気に飲み干す。今夜は、隣室に男の客が来ない日だから、酔いに任せてグッスリと眠りたいからだ。


11. マスターの告白

マスターが気を使って、更にもう一杯の烏龍茶割を、沢田に勧める。テーブルには、つくねと塩焼きを盛った皿が新しく載っている。マドンナが焼いて呉れていたのだ。


「沢田はん。ありがとう御座いました。私も、前々から森田はんに頼まれてましてなあ。よう解りました。ありがとうおす。もう一杯、飲んどくれやす。沢田はん」


「沢田はん、今度はなあ、僕の方の話なんや。なあ、マドンナ。ええやろ、話しても」


今度は、マスターが自分の話を、持ちかけてきたではないか。時計は夜も10時過ぎを指していたが、その後に、客はもう一人も来なくなっている。それでも今日は、都合3、40人の客が来ただろうか。すると、大体15万円前後の売り上げになるか。ならば、長居をしても良いか、と沢田も計算してみる。

「結論を先に言うわ。僕なあ、このマドンナに結婚を申しこんだんや。3日前に。案の定断られましたがな。歳の差も25、6もあるしなあ。無理やとは、思うとったんやが、矢っ張り振られましたわ。ワッハッハッハー」

突然の話で、沢田も気が転倒する。すると、何を思ったのか、先程のタクシー運転手の森田が席を立って言う。

「マスター、おおきに。ごちそうになりましたわ、おおきに。それからマドンナはん、今夜も、例の西院のうどん屋の前で、車停めて待ってるさかいにな。今日は、絶対に家に帰らんとあかんで。卓也も待ってるしなあ」

「おおきに、森田はん、今日は七条御前の家に帰るわ。昨夜はここに泊まったさかいに。卓也も寂しがってる、やろしなあ。待ってて呉れる。11時頃にしょうか。じゃあ、また後でね」

そう言って、森田はしっかりした足取りで外に出る。「鳥清」には、マドンナの顔を見ながらの、食事に来ていたのだ。


何だか、話が錯綜している。沢田は、頭の中で人間関係を整理してみる。

『吉田英子という、ここのマドンナは、足代わりに森田のタクシーを使っているようだ。昔に、随分と森田の面倒を見てやったからだろう。すると、このマドンナには、先日の卓也を釣りに誘い出していた鈴木という男と、ここのマスターの中田、そして運ちゃんの森田という三人の男が群がっているではないか。まるで女王様じゃないかえ。へえっー、大したものだ。いや待てよ、マスターには奥さんがいた筈だが、不思議だなあ。聞いてみるか』


「マスター、大変ご馳走になりました。ありがとう御座います。今、振られたと言われましたけど、冗談を言っておられるのでしょ。だって、最初この店に、来始めた頃は、確かご年輩のご婦人が居られましたが。あの方が奥さんでしょ。私は見ましたけど」

「そうやったかなあ。そうかも知れんなあ。ワシが離婚したのは、今年の5月の頭やったし、そやそや、そういえば見られていたかも知れんなあ」

「そうでしょ、カウンターの中で支度をされていた方でしょ、奥さんは。そうですか、別れられたんですか」

「あいつはなあ、癇癪持ちやったんや。カウンターの中で子椅子に座って、鳥に付けるネギとか獅子唐の支度や、また赤出汁作りをやらしておったんやけどな。あいつが下を向いて獅子唐をより分けているときに、たまたまワシが手を洗った時に、ワシの手先から、あいつの首筋に一滴、しずくがポタッと落ちたんや。そしたら、『何すんのや』、いうて激怒しましてなあ。『お前、わざとしたやろ、もうこんな店に誰が居るもんかい』と、即座にどこかに出て行ってしまいましたんや。僕が、例の会社を辞めてから、仲違いが多くなってなあ。つまらんこっちゃ」

「お子さんは、おられないのですか」

「いや、子供もおりまっせ。高二の女の子と、中一の男の子がおります。出ていって、それっきりですわ。後日、自分の判を押した離婚届けが送られてきましてなあ、僕も判を押して役所に届けましたわ。子供には可愛そうですが、もうホトホト疲れましてなあ。あいつは、今どこにいるか、私も知りませんが、伏見の方で、母親がまだ生きていて、一人で住んでいるとか言うてましたさかいに、多分そこに居るのとちゃいますか」

「それからというもの、マドンナには、時々ワシの子供の面倒も見て貰っているのです。子供も、よう懐きましてなあ。もう、我が家のお母ちゃんですわ。私は、マドンナには、一切手は付けてはいませんで。子供のことを考えて、それで来て欲しいと言うとるだけですわ」

テーブルを拭いて、今日の後始末を始めていた、マドンナが横から口を出す。大声だ。

「マスター、嘘ついたらあかんで。昨日の夜、遅くなったから泊まれ、泊まれ言うといてからに、夜中に迫ってきたやないか。私が寝ているときに。私を安っぽう見んといてんか。クラブのオーナーやった女やで、そんじょそこら辺の給仕女とは違うんよ。私を、誰やと思てんのや。今後一切、変な事、せんとってや。したら、もう、こんな店、スグ辞めたる」

吉田某との夫婦喧嘩と見違う迫力だ。仲々に気が強い、堂々たる女である。


高い背をすぼめて、眼鏡越しに目をしょぼつかせて、うつむき加減に、マスターが言う。

「すまん、すまん。つい魔が差したんや。あっちの方は、とっくに退化してるさかいに。どうもないのやけどな、なんか、切のうなってきてなあ。チョット、君と手を繋ぎたかったんや。それだけや」

「よけいに、困るわ。誰がオジンと、手をなんか、繋ぐもんか」

かれこれ、11時が迫ってきている。沢田は、気を利かせて、この場を締め括る。

「まあまあ、それぐらいにして。今日の処はここまでにして、もう打ち止めにしまひょ。ねえ、マスター」

「おお、そやったなあ。ほんなら、店仕舞いするか。ああ、それから沢田はん、この子をなあ、さっきの運ちゃんの話の、西院のうどん屋まで、送ってやって呉んか。あの森田ちゅう男も、なかなか隅に置けん奴やさかいに。その方が、ワシも安心やし。なあ、沢田はん、頼むで」

「ああ、良いですよ。近くですから、お易いご用ですわ」


それを聞いて、マドンナは、カウンターの奥に作ってある二階への階段を、急いで登る。そして、地味な目立たないモスグリーン色をした、長めのコートを上から羽織り、ミニスカート姿を隠している。左手には昨日の着替えが入っているのか、膨らんだ手提げの大きめの紙袋を下げて、降りてきた。先程までの、ピカピカのマドンナから、ヨレヨレのおばちゃん姿に大変身だ。これなら、襲われる気遣いはない。

「じゃあ、沢田さん一緒に帰りましょうね。じゃあ、マスターは、今夜はね、大反省して独りで寝てくださいな」

先程のキツイ吉田から、いつものマドンナに戻っている。しかも、沢田と一緒だからか、足首もピンと張って、揃っている。


店を出ると、辺りは真っ暗で、街灯の光とネオンだけが点滅している。深夜に近いので、心地よい冷気が、もう漂い始めていた。「鳥清」から西院までは、南西方向に歩いて、ホンの4、5分だ。店の角を西に折れて、200m程無言で歩いた二人は、横に並んでコツコツと靴音を立てている。マドンナは小柄なので、彼女の頭は、沢田の肩を辛うじて越えている。もう、「鳥清」の中田からは見られない距離になったのか、歩道の左側を歩いていたマドンナが、自然に沢田の左腕を自分の胸の中にいれて、両手で抱くようにして体を寄せてきた。沢田の顔を見上げて、先程の2階で付け直したローズ・ピンクの唇を開く。そして、低い声で言う。

「沢田さん、分かって呉れたでしょ。マスターまでもがよ。3人のオッサンがしつこくて、私ホントに困っているの。ねえ、助けて欲しいのよ。沢田さん。明日の金曜日の夜は、絶対に一人で店に来てね。必ずよ。約束したわよ」


目立たないコートを羽織っているとはいえ、なま暖かい女性の体温とシャネルらしい、いい香りが、沢田の脳を刺激する。彼女の好意も、肌で感じる。暫く女から遠ざかっていた沢田は、このままマドンナを抱き締めてやりたいと思ったが、妻の顔を脳の中に見て、沢田は辛うじて自制する。そして、西院の約束の場所に着く。先程の、マスターの忠告が耳に残っている。だから、タクシー運転手の森田には、2人の姿を見せて置いた方が、寧ろ良いと判断して、腕を組んだそのままの姿で、タクシーに近づき、車のドアをノックする。


「森田さん、お待ちいただいて、ご苦労様です。それでは、マドンナさんを、七条御前の家まで、お願いしますよ」

そう言って、吉田英子を後ろの客席に座らせる。森田は、不機嫌な顔をして、何も言わずに、車のドアをバタンと締めて、一気に加速し、南方向に走り去った。テールランプを見ている沢田には、その残像が、神経症から抜け出られる、一筋の希望の光の様に思えるのであった。


12. 恐怖の電話

昨夜は、隣室からの睦声もなく、久しぶりに熟睡した沢田は、爽やかな朝を迎える。東を向いている窓から差す朝日が、とりわけ眩しい。朝の支度を済ませて、早めに寮を出る。外に出て、南方向に3分も歩けば、通りの右手に「ラビー」という喫茶店がある。白い壁に、オレンジ色をした半球形のテント出屋根のある、その喫茶店に入る。東向きの店で窓が大きいから、朝日が入る明るい店だ。朝7時から開店している。沢田と同年輩の37、8歳の美人のママが切り盛りしている。


ここは、沢田の行きつけの店で、飲み物は、コーラ、オレンジジュースの他に、アメリカン、ブレンド、モカコーヒーから選べる。食べ物は、ハムサンド、トースト、クロワッサン、野菜サラダ、蒸し卵から選べるというセルフサービス方式になっている。ママも無口で、必要なことしか口を開かない。態度も押しつけがましくなく、座る場所も食べ物も自分で選択できるのが、沢田の好みに合っている。朝から、色々喋られると、一日中疲れるからだ。


今日は、アメリカン・コーヒーとハムサンドにする。ハムサンドは、柔らかいフランスパンにレタスが二枚と厚めにスライスしたロース・ハムが一枚入っている。コーヒー・カップは、飾り気のない生地が厚めの白い磁器製で、取っ手が大きくて持ちやすい。朝食は、毎日ここで摂ることに決めていた。コーヒー代が180円、ハムサンドが200円で、合わせても380円と安い。無駄使いは、極力しないように心掛けていたから、手頃なので助かる。外に出ると、太陽は既に高く登り始めている。


会社の入り口には、守衛が2人おり、他の2人のチームと交代で24時間見張っている。敷地内に、24時間フル操業の工場が3箇所あり3直2交代で従業員が勤務していたからだ。この入り口で、全てが管理されている。勝手には出入りが出来ない。会社の役員や幹部社員といえども、外出する時は、上司印のある外出票を見せて、守衛の許可印を貰わないと外出できない。戻ってきて会社に入るときには、先程の外出票を出して、もう一度、承認印を守衛から貰うのだ。だから、守衛室では役員や社長の行き先も分かる仕組みになっている。社外に電話するときは、守衛室のカウンターに置いてある赤い公衆電話を皆は、昼休みに使っていた。職場の電話で私用電話を掛けることは、堅く禁じられていたからである。それほど、従業員は厳しく管理がされている。


社外から、従業員個人に掛かる私用電話は、一旦は交換手が取り、その従業員を社内放送で呼びだして、外線電話を繋ぐと言う大変面倒なことをしていた。会社の機密が漏洩することや、外部から特定個人に電話で進入されることを、防いでいたのだ。だから、公衆電話以外の、外線電話は、電話交換室で自動的に録音されていたのである。

沢田は、昨日から取り掛かっていた、前期の決算記者発表に関する、想定問答集作成の仕事にも見通しが立ち、今日の仕事を無事に終える。今夜は、マドンナとの約束があるから、そろそろ退社しようと思っていた矢先、あろう事か、その社内放送が、沢田を呼び出したのだ。

「沢田課長、沢田課長。吉田という方からの、お電話です。お近くの電話から、交換の01番に至急にお電話下さい」

2回も繰り返して放送している。沢田はビックリして、課に3台しかない、電話の1つから交換に電話する。

「沢田課長ですね。吉田英子という女性からの電話です。今から繋ぎますから、暫くお待ち下さい」電話交換手がこう言う。交換手は、会社の受付嬢もローテーションを組んで兼ねていた。会社の受付は、社長の秘書的業務も兼ねている。だから、この話は、間違いなく社長にも伝わるに違いないと、沢田は観念する。

「もしもし、沢田さん。私よ私。もしもし。沢田さん。今日はね、夜7時キッカリに西院の、昨夜のうどん屋の隣にある、松屋という名前のね、喫茶店に来てくれる。必ず一人で来てよね。約束したわよ。お店の方でなく、喫茶店の松屋の方にね。間違えないでね」


「鳥清」のマドンナから、私用電話だ。一瞬、マズイ、録音もされているぞ、と沢田は思ったが、もう仕方がない。しかも、あろうことか、この時を境にして、マドンナからの私用電話が、会社にいる沢田に頻繁に入るようになる。正に、恐怖の電話の始まりであった。


13. 喫茶店の松屋

うどん屋の横にある喫茶店は、スグに見つけられた。藍染めの下地に、白抜き漢字の松屋という字と、カタカナでコーヒーと斜めに文字の入った暖簾が、店先に掛かっている。大衆食堂のようなたたずまいの、時代物の古ぼけた喫茶店だ。喫茶店に暖簾なので、変だとは思ったが、成る程、食事も出来るようになっている。だからだ暖簾なのだと、沢田は納得する。


ガラスの引き戸をガラガラと引いて、中に入る。テーブルも椅子も、大正時代から使われていたような、四角の古いタイプ。照明も薄暗い。コーヒー店なのに、寧ろ、隣のうどん屋の出汁の臭いで、店内は満ちている。沢田の他には、客はいない。奥の方を見ると、カウンターの横に、更に縄のれんがあり、年輩の女性二人が奥の座敷に腰掛けて、大声で話し込んでいるのが見える。声で、マドンナが居ると分かる。タバコを吸っている。店のオーナーと友達の様な関係らしい。沢田は、彼女達に、自分が来たことを気付かせる為に、敢えて大声で言う。


「今晩は。ご免なさい、ホットコーヒー頼みますよ」

「はあーい、済みませんね」

そう言って二人連れで、慌てて店に出てきた。矢張り、マドンナだ。

「あら、早かったのね。もう仕事は終わったの、沢田さん」

「アキちゃん、この人よ。沢田さんよ。それから、沢田さん、ここの女将のアキちゃんよ。私の幼なじみなの。食事もできるから、また、来てあげてね。それから、アキちゃん、私も同じものを頂くわ。お願いね」

「まあ、いらっしゃい。よくおいでなさった。ホットコーヒーを2つですね。はあーい。チョットお待ち下さいね」

女将は、そう言って縄のれんをくぐり、カウンターに入り、サイフォン式でコーヒーを作り始める。


「アキちゃん、ありがうとう。チョットね、ここ借りるわね」

沢田は、マドンナに連れられて、入り口の右端にある、外からは目立たないテーブルに座らされる。そして、沢田の目を見つめて、タバコを吸い始める。睫毛が長く、切れ長の目で、目の色は黒い。あごの先が尖り、右の頬にエクボが入る。顔の肌もピンと張り潤っている。タバコの煙を、沢田の顔に掛からないように、横に吹き出して、タバコを人差し指と中指の間に挟んでいる。美形だ。吸っていたタバコを、灰皿に置いて、丹色の明るいルージュの口を開き、ため息を付く。頼んでおいたホットコーヒーも、運ばれてくる。

和風の陶器製カップに入った、少し温めのコーヒーだ。砂糖もクリープも入れずに、沢田は一気に飲み干す。吉田英子は、タバコを左手の指の間に挟み、手首を傾げて、彼のそんな仕草を見ている。沢田が飲み終えて、カップを受け皿に戻すと、話し始めた。


「ねえ沢田さん、昨日の続きを聞きたいでしょ。じゃあさあ、洗いざらい話すから、聞いて呉れる。タクシー運転手の森田にさあ。ホント困っているのよ、私。」

吉田英子は、飲む気もないのに、コヒーカップにスプーンを入れて、ゆっくりとかき混ぜている。

「無事に送って呉れたのでしょ」

「それは、そうだけれどもね・・・・。彼にね、昨夜また求婚されたのよ。マスターとダブルパンチなのよ、ん・・・もう。年寄り臭く見えるけれどもね、森田はまだマスターより10歳若くて、52歳なのよ。子供もいないわ。協会の理事長もしているし、仲間内では結構、力を持っているのよ。彼にもね、お金を用立てして貰っているの。30万円ばかりだけれど。それで、昨夜も、私の肩を抱いて家に上がり込もうとするから、コラッーと言って、腕を振り払って遣ったわ。でも、何もしないという約束で、結局のところ、家に入れたのよ。そうでもしないと、貸した金を返せと、大声で騒ぎ出すから仕方がなかったのよ。沢田さんホントに信じてね。何もなかったのだから。ビールは運転手にはダメだから、他に出すものがないので、卓也も呼んで夕食を食べさせながら、私達はお茶を飲んで、話していたのよ」

やっと、曇った顔を上げて、沢田の目を見つめる。その瞳はたじろがない。

「ヘエー、昨夜そんなことがあったのですか。大もてで、いいですね」

「いじわる。よしてよもう。私は、イヤなのだから。彼にはね、オーナー・ママ当時の仲間のクラブを3軒、紹介してやったわ。深夜からが、彼等の稼ぎ時なのよ。差し引きすると、30万円なんて、端金よ。それをさあ、恩着せがましく言ってきてさ。最低よ、あの男は。昨夜マスターから、先を越されたと勘違いして、焦っているのだと思うわ。沢田さんもいるしさ」

「えっ、僕も入っているのですか」

「だって、昨夜、私達は腕を組んで森田のタクシーの処まで行ったのよ。森田もそれを見ていたでしょ。沢田さんが私にぞっこんだと、森田は、そう思っているわ。沢田さんのいじわる」

「それで、そのお話の続きは、どうなったのですか」

「さあ、そこよ。だから私は、森田からの求婚を、キッパリと断ってやったわ。貴方とは、絶対に結婚しませんとね。それと、彼がこれ以上に言い出さないようにと、ダメ押しする為に、実は沢田さんからも申し込まれているのよ、と言ってやったのよ。そうでも言わないと、森田は納得しないし、帰らないからよ。だからね、私と口裏を合わせて置いて欲しいのよ。いい。今日の話はね、そのことなの」

「ええっ、ホントにそんなことを仰ったのですか。私の了解なしに」

「いやなの、沢田さん。じゃあ、私が、森田と一緒になってもいいのね。いじわるねえ。芝居するだけなのよ」

「困ったなあ。でも、そこまで言われると。マドンナさんの為だから、芝居するだけなら、良いですが・・・・」

「そう、森田を諦めさせるのが目的だから、私と口裏を合わせて呉れるだけでいいのよ。必ずよ。多分、今夜も、森田は食事に来るから。沢田さん、絶対にお願いね」

「お金の方は、どうなるのですか」

沢田は、先程から一番気になっていることを、思い切って聞いてみる。

「お金はね、クラブの紹介料でチャラよ。私が紹介してやったから、森田は何百万円って稼いで居るんだから、心配はないのよ。グズグス言い出したら、イザとなったら、そんなにグズルのだったら紹介先の契約を解除してもいいのよ、と言ってやればウヤムヤにできるもの。心配しなくていいのよ、沢田さん。絶対大丈夫なのよ」


沢田は、自分を出汁にして、二人の男からの求婚を反古にしょうとする、マドンナの策略に巻き込まれたことを、ここで初めて知るのである。沢田が、マドンナのペースで、迷路へと強引にも誘い込まれており、実にその最初の入り口に立っているのを知る。


14.一緒の出勤

今日は金曜日の夜だ。丁度夜の8時を回っていたが、示し合わせた通りに、沢田啓介と吉田英子は連れだって、店に入る。一昨日の夜のこともあるから、マスターに反省をさせる意味合いもあり、またマドンナである自分が店にいないと、どんな忙しい目に遭うかをマスターにも解らせる為に、今日は遅めに出勤したという、マドンナの策略だ。店の中は、半袖ワイシャツのサラリーマンや、Tシャツや、カラーのランニング・シャツを着た若者の客で、大変混雑している。席の八割方が埋まっている。7月中旬の盛夏だから、クーラーが利かせてあるが、それでも店内は、ムッとする蒸し暑さだ。

「マドンナ、遅いやないか。忙しゅうて、忙しゅうて、大変やったんやで。たのむわ、一昨日の夜のことは、大変に申し訳なかった、もう反省したからな。早う着替えて、ここに来て、手伝うてえなあ」

マドンナと一緒に入ってきた沢田には目もくれずに、マスターは彼女を急がせる。吉田英子は何も言わずに、二階に上がり、マドンナの服装に着替えて降りてくる。今日は、白のミニスカートにオレンジ色のサマーセーターだ。着替えの服が2階に何着も用意してあるらしい。昨夜はピンクだったが、今日のオレンジ色も華やいで、店も明るくなった感じだ。


「さてと、じゃあマスター、頑張ろうね。これを、奥の三番テーブルに運べばいいのね。はい、解りました」

いつもの、快活なマドンナの姿が、「鳥清」の店内に蘇っている。店も華やいでいる。

沢田は、一人なので、カウンター席の真ん中付近の、空いている席に陣取る。隣は、サラリーマンらしい年輩の2人連れだ。沢田は、おもむろに店内を見回す。カウンター席の二つ先の隣に、東邦電機の製造部の技術課長をしている、顔だけは知っている男と目が合い、ドキッとする。名前は、知らない男だ。視線が、スルドイ。


『しまった、あの男は技術の男で、社長室で時々見かける顔だ。マドンナと一緒に店に入ったのを、見られてしまったぞ。大変に、マズイ。社長の耳に入るかも知れないぞ。しかし、今更もうどうしようもないか。ま、堂々として、暫く様子を見てみよう』と、沢田は不安に駆られるが、寧ろ開き直る。


「マドンナさん、僕の方も、ビールと塩焼きをたのみますよ」

今夜は多忙なので、彼女も昨夜のように、沢田の前のカウンター・テーブルを拭く余裕がない。遠くの方で、焼き鳥を運びながら返事する。

「はあーい。カウンターの6番さんに、瓶ビール一本と、塩焼き一丁。マスターお願いね」

「あいよ、6番カウンターOK」

沢田に配慮してか、名前を呼ばずに、席番号で注文を取る。沢田は、却って有り難く思う。普段の店に、すっかり戻っている。まるで映画を見ているように、焼鳥屋の情景のコマが廻っている。1人2人が帰ると、今度は2、3人が入ってくる。それらの、様子をボーッと見ながら、コップのビールを飲んでいた沢田は、マドンナがした先程の話のことを考えていた。


『マスターの方は、マドンナをもう諦めたようだが、タクシー運転手の森田の方は、仲々に、しつこそうな男だから、マドンナを簡単には諦めないだろうなあ。それよりも、マドンナは口裏合わせだけで良いとは言っているが、ホントにそれだけで良いのだろうか。僕に関心を持っていることは、間違いがない。昨夜のことを考えると、積極的なアプローチとしか取れない。妻子の有る身だ。ここは、慎重に対処しないといけないぞ』


『今日は、部下の憲さん達は、ここに来ないの筈だが、間違いはないだろうなあ。彼等を誘わずに、先に退社して、マドンナの指定する場所に行ったから、まず来ない筈だと思うが。だけど、何という名前の奴か、あの技術の男は気になるぞ。マドンナと2人連れの処を見られたからなあ。一度、憲さんに、奴の名前を聞いて、どういう男か調べておく必要があるなあ』


そうこう、考えていると、その問題の男が、立ち上がって、しかも2人連れでレジの方に向かっている。おアイソらしい。時計を見ると、もう9時半を過ぎている。すれ違いざまに沢田の方を目を据えて、ジロリと見て、その2人連れは、勘定をして店を出て行った。


入れ違いに、タクシー運転手の森田が入ってくる。それが合図であるかのように、店の客がバタバタと帰り始める。先程の混雑は嘘のように、まるで水が引くように客が居なくなる。そして、遂に沢田と、カウンター席の一番奥にいる眼鏡を掛けた、見知らぬ男と、タクシー運転手の森田の3人だけになってしまう。森田は、奥のその男の横に座り、どうもと言って挨拶をしている。ここで、待ち合わせをしていたらしい。


「森田はん。お久しぶりです。協会で、いつもお世話になっておりまして、すんまへん」

「いえ、こちらこそ。お呼びだてして、どうもご苦労様です。副理事長には、わざわざお越し頂いて、誠に恐縮です」


会話から、沢田は、その男が、どうやら、森田のやっているタクシー協会の副理事長らしい男だと理解する。会話が続いている。沢田の、4つ隣の席だから、話が丸聞こえだ。


「木村はんなあ。私は、もうこの商売を辞めて、福岡に帰ろうと決めました。いえ、1人で田舎に居る、お袋の具合が悪くてなあ、面倒を見てやらなあかん様になりましたんや。男は私が1人で、妹は結婚して神奈川県の大船におります。私が、独りもんやさかい。これが一番良いと思うんや」

「へえー、それは大変どすなあ。お母はんは何歳どすか」

「82歳ですわ。なに、高血圧で倒れましてなあ。今は、何とか自分の身の回りのことをしているようですが。早う帰ってきて呉れと、五月蠅いのですわ。それでなあ、木村はん。あんたに、理事長を引き受けて貰いたいんやが。どないやろ」

「そりゃ、そういう事情やったら、仕方がおへんなあ。森田はんには、今までに随分世話になったし、断る訳にはいきまへんがな。分かりました。お引き受け致しますわ」

その時、またマスターが森田に声を掛ける。

「森田はん、ここに沢田はんもいてはりますので、木村はんに沢田はんを紹介しといたら、どないだす」

「ああ、せやなあ。その通りや。木村はん、そこのお人が、先頃話していた沢田はんや。沢田はん、このお人が協会の副理事長をしてもらっている、今度は理事長として、僕の後を受け継いで貰う、木村達夫はん、言うお方ですわ。よろしゅう頼んます」

「沢田はんどすか。はじめまして。森田はんから、お名前は聞いとります。これからも、宜しゅう頼んます」

沢田は、立ち上がって丁寧に礼をして、名刺を差し出し、木村の名刺も受け取る。


「こちらこそ、初めまして。何かのご縁と思いますので、私の方こそ宜しくお願いいたします」

「さすがやなあ。礼儀正しいお人や。東邦電機の広報課長さんいうたら、社長の秘書も兼ねておられるのやろ。以前に、そういう話を聞きましたよ」

「秘書というのは、おこがましいのですが、北川社長と接する機会が、他の者よりも多いというだけのことですよ」

森田が、吸っていたタバコを灰皿に置いて、言い出す。

「沢田はん、折角やさかいに、もうチョットこっちに近づいて座っておくれやす」

こうして、昨日と同じように店の奥のカウンターの中に、マスターとマドンナが、そしてカウンター・テーブルに3人が陣取ることとなったのである。木村達夫という男は、森田より背が高くて、都会的な洗練された雰囲気を持っている。森田よりも、寧ろ理事長らしい風貌をした男だ。焼き鳥には殆ど手を付けずに、コップのビールだけを飲んでいる。タバコも吸わないらしい。


すると、おもむろに木村が立ち上がり森田に言う。

「森田はん、私は、ちょっとこれからヤボ用がありますので、今日はこれで失礼します。沢田はんも、ゆっくり、しと呉れやっしゃ。森田はん、先程の件はなあ、では正式に理事会を開いてから決めるということにしましようや。いずれにしても、後は引き受けましたので、ご安心下さい。それでは、皆さんお先に、すんまへん。歩いて、次に行きますわ。さいなら」


引き際のタイミングも、仕草も洗練されている。そして、残ったのは、また昨夜と同じメンバーとなる。沢田は、ほっとして、コップにビールを自分で継ぎ足して、一気に喉に流し込む。冷たいビールが血管を収縮させるのが分かる。旨い。それを見ていた森田が、沢田に言う。


「沢田はん、突然のことですが、ちょっと相談したいことがありますので、今から2、30分私に時間を貸して貰えまへんやろか。なに、スグに終わると思いますよ。マドンナさんも一緒ですさかいに。なあ、マドンナ。そういうことで良いのやなあ」


マドンナも森田の問いかけに、頷いている。マドンナとも示し合わせた上での話らしいと、沢田も納得する。時間も、既に夜の11時になりかけていた。沢田は、今日が金曜日であることを思い出し、寧ろよく飲んで、極力遅めに帰りたいと思っていたから、異論のある筈がなかった。今夜は、寮の隣の部屋からの、睦み声が聞こえる日だからだ。


「よっしゃ、決まりや。マスターおおきに。今日のなあ、沢田はんの分は、僕のオゴリにしといて。一緒に払うさかいに。沢田はん、宜しいやろ」

「はい、ありがとうございます。では、ごちそうになります。済みませんですね」

「それでは、話は決まった。マドンナ、今から一緒に行くから、2階に行って着替えをしてきな。なあ、マスターいいやろ」

「ああ、11時で閉店やさかいになあ。宜しいおす。せやけど、マドンナに手荒なことをしたら、あきまへんで。沢田はん、森田はんを、よう見張って呉れなはれや。たのんまっせ」


こうして、支払いを済ませた森田は、「鳥清」から少し入った左側に、路上駐車していた自分のタクシーを運転して、店の外で待っている、沢田とマドンナの処まで近づく。後部座席に2人を座ら、おもむろに北方向に向かって走りだしたのである。車中の3人は、これから、まるで自分達が主役の劇を観るかのように、何も喋らずに、押し黙ったままである。


15. スナックSide by side

森田のタクシーは、千本中立売の交差点にさしかかった。すると、マドンナが身を乗り出して、森田に行く先を指図し始める。そして、交差点の左に入って一つ目の筋へと導き、Side by sideというスナックに到着した。時間は、深夜も11時半を過ぎている。マドンナが指図するから、彼女のよく知っている、行きつけの店らしい。沢田は、時間も遅く、車が自分の全く知らない地域を走っているので、どこに連れて行かれるのか、最初は不安だったが、とにもかくにも無事に着いたので、何をおいても、ほっとする。


その店は、ドアとフアサードは白一色だが、店内に入ると、壁も、絨毯も、テーブルも紫色で統一された、趣味の悪いインテリアになっている。その筋の者がたむろしている様な雰囲気が、どことなく感じられる。一番奥のソファーにも、柄の悪い黒服中年の3人連れがヒソヒソと話をしている。沢田は、落ち着かなくなる。すると、3人連れの横に座っていた、派手なチャイナドレスを着た年輩の女性が、こちらに向かって出てくる。


「あら、英子、早かったのねえ。夕方に電話貰っていたから、又いつものように遅いのかなあと、思っていたのよ。いらっしやい、お久しぶりねえ。森田さんもお久しぶり。此方さんは、英子が話していた、沢田さんね。ハンサムな沢田さん、初めまして、宜しくね」

快活に話す女で、沢田のことも、折り込み済みのようだ。

「チョットね、おじゃまするわよ。綾子ママ、いつものボトル出してくれる。後は自分たちでするからいいわよ」

「そう。じゃあ持って来るわね」

そう言って、綾子という女性は、オールド・パーのボトルと氷入れ、そしてミネラル・ウォーターの瓶と烏龍茶の缶をセットにして、乾き物の突き出しを添えてテーブルに並べる。チラッとマドンナの顔を見て目配せして、再び、一番奥の黒服達の処へと戻っていく。


「沢田さん、水割りでいいのね。森田さんは、烏龍茶だけだよね。綾子とはね、エカテリーナをやっていた当時の、仲間なのよ。この商売もね、色々と横の繋がりがあるのよ。仕入れとか、タクシーとか。それから、ホステスやお客さんもね。情報交換して、お互いに、上手に融通し合っているのよ。ああ、それから沢田さん、ここのは私の奢りだから、気にしなくて良いのよ。昔に、綾子ママを随分助けてやったのよ」


水割りを作りながら、綾子との関係を、吉田英子は丁寧に話して聞かせる。沢田も、この商売の裏の事情を聞いて感心すると共に、不安が解消されてくる。

沢田は、用意された水割りを一気に飲む。バーボンの香りが、鼻孔一杯に広がる。飲み終えるのを、待っていたかのように、森田が口を開く。今夜は、何か堂々とした態度で座っている。

「沢田はん。単刀直入に言いますわ。マドンナに結婚を申し込んだというのは、ホンマでっしゃろなあ。戸塚でしたかね、奥さんがおられるのは。離婚でもするつもりですか」

『痛い処を突いてくるぞ。奴に、どう答えるかだなあ。嘘だとは言えないしなあ』

暫く間をおいて、沢田は、妻には申し訳ないが、彼女をダシにする模範解答を思い付いた。


「単身赴任で、暫く合っていない内に、彼女にも男が出来たようなのです。確証はないですが、どうも、そう言う気がします。ですから、離婚ともなれば、将来はマドンナさんと。と、いう風に言った、までです。しかし、まだ確定はしていませんので、よりが戻ることもあり得ます。その時には、仕方がないから、マドンナさんをお譲りしてもいいですよ」

「ああ、そういうことか。まだ、俺にもチャンスがあるというこっちゃ。なあ、マドンナさん。いいのだろ」

「沢田さんが、そう言っているのなら、そうだわねえ。だけど、私を物扱いにした、今の沢田さんの言い方は、私、気に入らないわ。お譲りしますだって。沢田さん、私に失礼よ。私は沢田さんと一緒になりたいと思っているのよ。好きなのよ。森田さんも分かるでしょ」

沢田の顔色をみて、切り返す。


この沢田の一言で、余計に火に油を注ぐ結果となり、この場の雰囲気が混乱をはじめる。沢田は、精神を集中して、例の呪文を頭の中で唱えながら、自分の腹をトントンと叩く。こうでもしていないと、この場を切り抜けられないと思ったからだ。森田は、我が意を得たりと得意げに話す。

「だから、ワシは絶対に英子と一緒になりたいんや。なあ、福岡で一緒に暮らそうや。理事長も辞める。卓也の面倒も全部、ワシが看てやる。金もそれなりに貯めてある。何も心配はいらないよ。なあマドンナ、エエやろ」

森田は真剣だ。沢田が横にいるのも忘れて、マドンナを口説いている。福岡に帰ることを、もう決意してしまっているからだ。


沢田は、この場は、一旦お互いに頭を冷やす他はないと考え、そして発言する。

「森田さんのお気持ちも、吉田さんのお気持ちもよく分かりました。だけど、ここで話していても結論が出ませんから、今日の処は、ここで一旦、お開きとしません。そうしましようよ。もう、12時も過ぎているし」

「せやなあ、そうしようか。ワシも今から稼がないと、あかんしな。ひとまず、そうするか」

森田も、現実に戻り、沢田に同意している。次は、マドンナだ。

「私も、疲れたわ。そうするわね。それから、森田さん。私ね、鳥清に大事な物を、忘れ物したのよ、だから沢田さんと一緒に鳥清まで、もう一度、戻ってくれない。ねえ、いいでしょ」

「せやなあ、丁度五条の方に行くので、それなら、ついでに送って行ったるわ」

こうして、3人は、再び森田のタクシーに乗って、鳥清まで戻るのである。


3人で森田のタクシーに乗り、鳥清に向かう。タクシーの中では、後部座席に、沢田とマドンナが座っている。大宮通りを南行きに走り始めた時、マドンナが妙なことを言い始めた。


「森田さん、夜、タクシーで走っているときにさあ、怖い思いをしたことない。例えば、山の中の道とか、寂しい海沿いの道とかで、あるでしょ」

「ああ、その話か。一杯あるわさ。何だったら、話して聞かそうかい」

「きゃー、止めてよ、もうー。怖いじゃない。でも外じゃなくて、車の中の話よ」

そう言って、森田からは、見られないようにして沢田の手をとり、ギュッと握る。沢田は、突然のことでビックリしたが、森田には悟られないようにして、そのまま平然として、彼女の手を握り返す。なま暖かいしっとりとした手だ。

「だから、私は夜の山道は、車で独りでは絶対に走らないようにしているの。一度、怖いことがあったのよ。バックミラーを何気なく見ると、リアーシートに女の人影が見えたの、ゾッとしたわ。たしか、貴船からの帰りの山道だったわ」


そう言って、マドンナは、再び沢田の手を強く握り、その手を彼女の太股の方にもってくる。それが、怖い話のせいばかりでなく、沢田には、彼女からの、何かの合図のように思えた。続いて言う。

「例えばさあ、この中の、三人の中でさあ。ホントは居ない人が乗っていたら、としたら運転手さん、さあどうする」

『何を言うのだ、この女は。三人と言えば、俺と、森田と、マドンナだけじゃない。森田は運転しているし、俺はここにいるし。マドンナが、まぼろしだと言うのか。ゲエー、ホンとかよ。それは無いよなあ』

森田も一笑に付す。

「そんな、馬鹿なことはないわさ。男が二人も、ここに居るのに」

「沢田さん。マスターは私に気兼ねして言わなかったけれどね。私ね、あの後、自分の手首を切って自殺を図ったのよ。自責の念で一杯になり、どうしていいか分からなくなり、錯乱していたわ。それで、済生会の精神科に入れられたと言う訳なの。ねえ、森田さんホントだよね」

「ああ。もうその話はヤメなよ」

「だから、私は一度死んだ人間なの。今こうしていても、どこかフワフワしているのよ。だから、いないかも知れないと言ったのよ。沢田さん」

そう言って沢田の手を一層きつく握る。

『そんなことがあったのか。怖い人だ、マドンナさんは。どこか、陰がある人だとは思っていたが、それでだったのか。でも、気の毒というか、本人は、居たたまれなかったのだろうなあ』


マドンナは、沢田の手をそっと解き、元に戻す。


16. 幻との抱擁

そんな会話をしていると、まもなく車は鳥清の手前の角に着く。マスターの店には、まだ煌々と電気の明かりが点いている。店の手前で、森田のタクシーを降りた沢田とマドンナは、そこで森田と別れる。分かれ際に、車の窓から首を出して、森田がドスの利いた声で言う。


「ワシは、五条の吉川にいるからな。家に帰る時には、それから、もし何かあったらいかんから、吉川の華子ママに電話しなよ。ええか、マドンナ。それから、沢田はん。マドンナが、またマスターに絡まれんように、見張ってやって呉れや。たのむで」


マドンナも珍しく、しおらしく頷いて、森田を見送る。暫く、2人でそのテールランプを見い遣りながら、マドンナが小声で、喋りはじめる。


「森田と早く別れて、ここに来たかったのよ。そうしないと、また彼のタクシーに乗せられて、送られるから。家に入られると困るから、忘れ物をしたと、わざと言ったのよ。沢田さん、分かって呉れているの」


続けて、辺りを見回してそっと言う。


「でも、森田は嫉妬深いから、キットどこかで、私達のことを見張っているわ。私は、鳥清の店の中に入るわよ、いい。ついでだから、今、思い出した荷物も取ってくるわね」


沢田の、袖口を引っ張って言う。

「でもさあ、沢田さんチョット、一緒に店に入って呉れる。私1人だと、マスターが怖いもの。森田が言うように、また絡まれたら困るでしょ」

「分かりました」

小声でそう言って戸を開け、2人で再び店の中に入る。マスターは、まな板の上で、鶏肉を刻んで、明日の焼き鳥の下こしらえをしている。もも肉、背肉、手羽、肝臓、キモときれいに仕分けされ、乾パン位の大きさに切り揃えられている。もう一方のまな板の上には、獅子唐と切り揃えられた白ネギが整列して、並べられている。キチットした、マスターの性格だ。この商売の準備の大変さを、目の当たりにして、沢田は、表でなく裏側をこそ見るべきだと納得して、感心する。一番奥の、カウンター席には、男女の子供が2人座って食事をしている。聞いていた、マスターの子供に違いない。気の毒にも、店が終わった後の、遅い夕食のようだ。


マドンナが、2人に近寄って、声を掛ける。

「喜美江ちゃん、義男ちゃん。今晩わ、ですね。遅い食事で、ホント悪いわねえ」

「いいのよ、慣れているから。お父さんの仕事だから、仕方がないジャン」

元気のいい、素直な子供達だ。沢田も、その声を聞いて、どこか安心する。すると、マスターが、切りそろえた具を串に刺しながら、マドンナに質問する。

「おう、ところでどうやったんや。話し合いは、旨く行ったんかいなあ。アイツは、諦めよったか」

「その話は、また後からね。マスター、ちょっと2階に上がってもいい。忘れ物したのよ」

マドンナは、どことなくそわそわと落ち着きがない。言い出す先に、階段をもう登り始めている。


マスターの言葉が、後から追っかける。

「ああいいよ。ついでに、子供の寝床を作ってやって呉れないかなあ。忙しゅうて、手が回らないんじゃ。スマン、たのむわ」

「あら、いいわよ。お安いご用よ」

そう言って2階に上がったマドンナは、上でごそごそしている様だったが、暫くすると、例によって、紙袋を2袋も下げて降りてきた。いずれも、大きく膨らんでいる。

「なんじゃ、その荷物は、どないしたんじゃ」

「着替えと、洗濯物が一杯なのよ。持って帰るのを、スッカリ忘れていたのよ。ついでに、全部一纏めにして、持って帰るわ。ありがとう、マスター。じゃあね、もう帰るわ。沢田さんも出ましょ。タクシーを拾うまで送って呉れる。マスターお休みなさい。明日も、頑張ろうね。それじゃあね」


時間は、もう深夜の12時半を過ぎている。


外に出た2人は、押し黙ったまま寮とは反対方向に向かって歩いている。マドンナは、荷物を両手に下げている。タクシーを拾うつもりの、両手に荷物を持っているマドンナを、そのままにしては置けないので、沢田は、荷物の1つを分担して、マドンナの行く方向のままに後を付いている。鳥清が見えなくなった角に来たとき、マドンナは、違う筋から、今度は沢田の寮の方に踵を返す。


沢田は、どこに連れて行かれるのか不安に思う。その気持ちが伝わったのか、暗闇に来たときに、荷物を歩道に下ろして、ごく自然にマドンナが、沢田に抱きついてくる。そして、沢田の目を見上げて、言う。その目は、潤んで瞳孔も開いている。

「沢田さん、タクシーの話は嘘なの。沢田さん、今抱いて欲しいの。今夜はねえ、あなたと一緒に寝たいの。ねえ、いいでしょ。沢田さん」

陰の中に入り、2人は暫くそのまま抱き合う。香水の臭いと共に、薄着の彼女の肢体のふくらみが肌で感じられる。沢田の鼻先にある彼女の髪からは、麝香のにおいがする。迷っていた沢田も、麝香に彼女のフェロモンを感じて、下の方から熱い物がこみ上げ、遂に決心する。沢田は、戸塚にいる妻のことなどは、最早、念頭にはなかったからだ。

「ほんとにいいんだね。じゃあ、今から僕の寮に帰ろう。ここで見られると変だから、腕を放して、別々に離れて帰ろ」

彼女も、抱きついていた腕を放して、肩を寄せて並んで歩く。

「真っ直ぐに、そのままに帰ったら、マスターに見つかるから、わざと遠回りしたのよ。

私の、気持ち、分かって呉れているの。沢田さん」

北側から寮の方に南下して、寮の方に向かっている。荷物の陰と2人の影が、短く手前の方に縮み弾んでいる。


裸の2人は、沢田の布団の上にいる。壁の向こう側にいる筈の、隣の竹内良子と男のことなど忘れて、お互いに貪り合う。窓の外から差し込んでくるネオンの明かりも、けだるい。時が、止まったかのように、2人は放心している。女が、沢田の手に自分の指を絡ませて言う。

「ううーん、沢田さんったら、にくらしい人。どうだった。私も久し振りだったから、生き返ったような気がするわ。ところで、今あー、何時かしらね」

「そーだなあ、ええっーと。もう午前2時を過ぎてるよ」

「じゃあさあ、もう一度抱いてほしいの。沢田さん。もっと、もっと深く飛んでいたいのよー。ねえー、沢田さんったらー。戸塚の奥様も、浮気しているのでしょ。だったら、おあいこで、いいじゃないの」

その後の日々に、地獄が待っているとも知らずに、2人は我を忘れて抱き合う。沢田の左肩にうっすらと汗が滲む。

しかし、沢田は、車中での先程のマドンナの言葉を思い出す。これは非現実ではないのか、もしかして抱いているのは、幻なのではないだろうかと、ふと思う。


そして、来て欲しくもない朝がスグに来る。カーテンのない、東の窓から刺す朝日だから、とりわけ眩しい。網膜の底が、チクチクと痛い。

「あなた、起きたの。私、3年振りだったから、疲れちゃったわ。このまま、ここで寝ていてもいい」

女房気取りで、低い地声でそう言う。

「ああ、いいよ。僕は、今日は学生時代の友人と会う約束があるから、もう起きて支度するからさあ」

そう言って、いつもとは遅い朝の支度をする。それを、横に寝て見ていた、マドンナがくぐもった声で聞く。

「あなた、この荷物だけれど、洗濯物というのは嘘なのよ。鳥清で使う必需品なの。だから、ついでだから、ここに置いていてもいい。今日からは、ここから鳥清に通うつもりなのよ。ねえ、いいでしょ」

「でも、卓也くんは、どうするの」

「ううん、いいの。夕方に、毎日私が通って見てあげるし、卓也が好きな森田も、面倒見ていて呉れているのよ。だから、ここに居ても問題ないの。ノープロブレムよ」

荷物と一緒に引っ越しをしてきた、と言う訳だ。そして、沢田は、横浜に妻を残したままにして、いよいよ、マドンナとの同棲生活の真似事を始める。このことがあってからというもの、沢田は薬が無くても、夜はグッスリと寝られるようになり、また、落ち着きと自信をさえ、取り戻していくのである。


17. 危険な関係

かれこれ、2週間が過ぎた8月上旬の、ある夜の10時頃のこと。日曜日だから、鳥清が早めに終わったのでと、沢田と英子は別々に近所の銭湯に入り終え、部屋に戻っている。蛍光灯の部屋の明かりを豆球にして、2人はさあこれから寝ようとしていた矢先のことだ。ドアを叩いて、大声で呼ぶ男の声に吃驚する。それは、昂奮している森田の声ではないか。


「マドンナ。居るんだろ、そこに。随分あちこち探したんだ。もう、分かっているんだぜ。卓也が可哀想じゃないか。もういい加減に、沢田と別れて家に帰りなさい。こんな生活をしていると、あんただけでなく、卓也君もダメになるぜ。あんたの子供だろ。おい、マドンナ、分かっているのか。ここから出てきなさい。おい、そこに居るのは分かっているんだ。おい、沢田。聞いているのか。マドンナを放してやれ。いいか、沢田。おい、沢田」


豆球の電気は点いているが、沢田が、さも風呂にでも行っているように思わせるしかない。だから、下着姿の2人は、ドアからは死角になっている、台所の裏側の、部屋の壁の入り隅に肩を寄せ、息を殺し小さくなっている。少しの物音も立てられない。呼吸も小さくする。自分の心臓の鼓動だけが聞こえる。彼が、諦めて出ていくのを待つしか、他には方法がないのだ。暫くすると、偶然にも森田のポケベルが鳴って、森田は慌てて、階段の踊り場にある公衆電話に駆け寄る。協会からの連絡で、タクシー客の呼び出しが入ったらしいのだ。電話が終わった森田は、もう一度沢田の部屋まで戻ってきて通告する。余程、頭にきているらしい。


「おい、沢田とマドンナ。2人がそこにいるのは分かっているぞ。俺は、今から仕事に出る。たのむから、マドンナ、家に帰ってやって呉れ。卓也が可哀想じゃないか」


それだけを言って、とうとう森田も寮から外に出る。仕事が入ったから、仕方がないのだ。こうして幸いにも、森田は自分の車で寮から離れ、走り去ったのである。


また、戻って来るかも知れないから、豆球のままの暗い部屋のなかで、2人は、まだじっとしている。もう来ないと確信してから、沢田は、マドンナの肩を抱き寄せ、彼女の耳元で説得する。森田の激しい叱責の言葉から、彼自身が、自分達のしていることに気が付いたからだ。

「英子さん。もうこんな関係は、いけないよ。もうヤメよう。卓也君も、森田に言われるまでもなく、なるほど可哀想じゃないか。ねえ、マドンナ。分かっているのかい」

マドンナは、混乱している。目が虚ろだ。体も震わせている。ガラス細工のような、繊細で今にも壊れそうな危うさがある。

「私、どうしていいのか、分からないのよ。沢田さんと別れたら、私はどうなるの。別れたら、頭がどうにかなりそうで怖いのよ。沢田さん、私を連れて逃げて呉れない。ねえ、奥様と私のどちらがいいの。ねえ、私には決められないのだから・・・・・」


沢田自身も病気を引きずっていたが、この彼女の様子を客観的に観ていた沢田は、先日の車の中で聞いた、彼女の自殺未遂話は、嘘ではなく本当のことだったのだと確信する。一方、彼自身も、こうして人を客観的に見られるようになっていく自分にも気付き、自分の喜怒哀楽の感情が、徐々に元に戻っていくように感じていた。彼女との同棲を通して、自分の内面の方ばかりに向けていた視線が、彼女を通して、外界に向かうようになっていたからである。


「英子さん。この場は、兎に角一旦は、ご自宅にお帰り下さい。森田も、我々を見たわけではありませんから、例のうどん屋の隣で、友人のアキさんと喋っていたとでも、仰ればいいと思います。なんだか、私は胸騒ぎがしますよ。卓也君の身に、何かあったのかも知れませんしね。もし、そうだったら大変ですからね」

再度やんわりと、こう話をして、沢田はマドンナを説得する。

「そうねえ、先程の慌てようでは、何かあるのかもね。じゃあ、そうするわ。でも、沢田さん、またここに帰ってきてもいいでしょ。逃げたりはしないでね。お願いだから、ねえ、沢田さん、愛しているのよ。分かって欲しいわ」

状況を理解したマドンナは、しぶしぶ立ち上がり支度を済ませてから、ドアを開ける。沢田も一緒に付いて外に出て、タクシーを拾う。沢田は、運転手に行き先を告げて、お金を握らせる。何か、そうせざるを得ない気持になったからだ。彼女の乗ったタクシーのテールランプだけが、夜の街に怪しく光っていたが、やがて赤い光が細くなり、他の車のテールランプと一緒になり、とうとう見えなくなる。遠いところに、行ってしまうかのような、寂しさを沢田は感じる。


吉田英子は七条御前で、当時のお得意だった酒屋の離れを貸間して貰って、6畳2間の自分の家に到着する。家の前の通りには、森田のタクシーが既に止まっている。彼が、部屋の中に居るのだ。卓也に鍵を開けさせたらしい。引き戸を開けると、寝かされている卓也の側に、矢張り森田がいて濡らしたタオルを卓也の額に当てて呉れている。シャンデリアだけが立派過ぎる。彼女が、マンション住まい当時に大切にしていたもので、これだけはと持ってきたものだ。


「どこに行ってたんだよ。探したぜ。沢田のところに居たんだろ。分かっているんだから」

「違うわよ、その話は後にしてよ。卓也がどうかしたの。卓也、大丈夫」

「今日の夕方、友達と学校で喧嘩して、運悪く殴られたらしいんだよ。卓也は、あんたが放っておくから、最近は荒れてるんだよ。だって、そりゃそうだろ。母親が帰ってこないんだから、当然だよ。変じゃないか。寂しがっているのさ」

「それで、どこを怪我したの」

「顎を殴られて、卒倒したらしい。一応、学校側が球急車を手配してくれて、事なきを得たんだが、気が付いた卓也の話から、回り回って、俺の協会の方に連絡があったと言う訳さ。どこに行ってたんだよ、2週間も家を留守にして、全っく」

「でもさあ、毎日、夕方には顔を見に帰っていたんだよ。夜は鳥清だから、仕方が無いじゃん。鳥清の後は、前の友達とのが付き合いが、これでも色々あるのさ。今日は、西院のうどん屋の隣の、喫茶店のアキちゃんと喋っていたんだよ。ホントだよ」

「どうでも、いいけどさ。いいかげんに沢田とは切れなよ。これは、不倫だよ。とりわけ危険な不倫じゃないか。あいつは、女房も子供も居るんだろ。危険な関係だよ、全く。ホントだよ、もう止めなよ、いいかい」

「そんなに、私を責めないでよ。ああ、大声を出すから、あーあ、卓也が起きたじゃない。卓也、どうしたの、大変だったね。今夜は一緒にいるからね。一緒に寝ようね、卓也、母さんといっしょなら大丈夫だから。すぐ良くなるよ、卓也・・・」

「ああ、お母さん。痛いよう、僕殴られたんだよ。救急車で病院に行ったんだよ。でも、何だかさあ、脇腹の辺りがまだ痛いよう。お母さん、もうどこにも行かないでね。僕とずっと一緒にいてね」

マドンナは思わず、寝ている卓也を、布団の上から抱きしめ、頬ずりをしている。


これを機に、マドンナは再び、以前の生活へと戻っていくのであった。彼女が持ち込んだ荷物は、沢田の部屋に残したままで。そして、沢田とは、一旦は別れたかのように見えたのだったが・・・・。


18. 卓也の怪我

その2日後の夕方のこと。会社にいた沢田に対して、マドンナから例の恐怖の電話が入る。社内放送で、また沢田は呼び出された。今のように携帯電話がない頃のことだ。沢田が寮にも電話を持っておらず、また鳥清では、込みいったことが話せないから、マドンナも居たたまれずに、仕方なく会社に電話をしたという次第だ。


「沢田課長、沢田課長。吉田英子さんと言う方から、外線でお電話が入っています。お近くの電話を取って、交換までお電話下さい」


例によって、2回繰り返される。女性の名前まで言われたので、会社中に知れ渡ってしまう。自分の席で社内放送を聞いていた沢田は、赤面する。席の前の電話を取って、交換に繋いで貰った外線電話に出る。明るいマドンナの声だ。


「ああ、課長。私よ、私。英子よ。今日の6時半にさあ、西大路五条の角にある、巽という豚カツ屋さんに来てくれる。分かった、巽に18時30分よ。必ず独りで来てよ。ねえ分かった」

彼の電話を、課員の皆は注聴している。課員の皆は、マドンナからの電話だと分かっていたからだ。キンキンする大きい声だから、皆にも話が聞こえているようだ。今は、もう6時前だ。もうスグに出なければならない。誤解があってはいけないと、沢田は憲さんを呼んで、正直に次のように伝える。

「憲さん、今のマドンナからの電話で、来て呉れというから、これから出ます。何か急用の様なのですわ。済みませんが、後をお願いしますね」

「課長、分かりました。後は、引き受けましたので、どうぞ行ってらっしゃい。いいですよ、どうぞ。マドンナは、以前に大変なことがあったから、沢田課長に、それ関連の何かの件で相談に乗って欲しいのでしょ。僕は大体分かっていますから、いいですよ。お役目ご苦労様です」

彼は、気を利かせすぎて、仕事と勘違いしている。寮で一緒に居たことまでは知らないらしいので、沢田もほっと安心する。


そして、会社を出て、5分程歩いたところにある、問題の豚カツ屋に沢田は到着する。マドンナは、例によってカウンターの向こうにいるオーナー・ママと喋っている。カウンターも漆塗りの幅広い大きなテーブルで、店内がゆったりとして、雰囲気のいい店だ。カウンターの後ろの壁には、棚があり、そこにはレモンやリンゴ、洋なし等の果実のリカー漬けの5㍑ガラス瓶が20個程、整然と並べられている。ママの趣味らしい。割と感じのいい店だ。


「あら、いらっしゃい。沢田さんでしょ。いま英子と話していたのよ。東邦の社長秘書をされているのだって。スゴイわね」

「いいえ、そんなことでなく、広報ですから、気を遣う仕事で大変ですわ。本当ですよ」

「沢田さん、呼び出して悪かったわね。どう、ここの豚カツは美味しいのよ。一緒に頂かない。私も、一緒に頂くから、ねえ沢田さん」

「ああ、それは良いですね。そうします。それでは、僕は、豚カツ・ライスでいいです、マドンナさんは、何にされますか」

「私も同じ物でいいわ。だけど、ライスを半分にしてくれる。ママ」

「分かりました。豚カツ・ライス2つですね。スープも付いていますので、どうぞ」


沢田とマドンナは、窓側にしつらえてある、4脚席の洋風の丸いテーブルに移り、向かい合わせに座る。外は既に黄昏が迫り、町の灯りが点き始めている。マドンナは、しげしげと沢田の目を見ている。沢田は、ドギマギして、視線を外し、先程の壁面のリカー酒瓶の棚の方に向ける。


「あの、リカー酒の瓶漬けは立派ですねえ。こんなに種類があるのは、初めて知りました。梅だけかと思っていましたが、レモンもキウイも洋梨も、できるのですね」

「そうよ、綾子ママはリカー酒漬けの名人なのよ。毎年、一瓶をいただくのよ。美味しいのよ。そして、壁面に飾ると、インテリアになって綺麗でしょ。全部、綾子ママのアイディアなのよ。ところで、沢田さん。あれからどうなったと思う」

吉田英子は、その後のことについて、詳しく話し始める。何故か、顔を曇らせている。頼んでおいた豚カツ・ライスが、香味スープと一緒に運ばれてくる。それを、頂きながら、彼女は次のようなことを、沢田に話した。


卓也の体を心配して、あの日の翌日に精密検査を受けたこと。脳震頭の方は、異常がなかったが、下から2本目の左のあばら骨1本にヒビが入っていたこと。倒れたときに、机の角で打ったことが原因であるらしいこと。ギブスを嵌めて、暫く通院しなくてはならないこと。だから、暫く会えないことなどだ。森田も、自分の子供のことのように思って、熱心に看病して呉れていたようだ。


「それは、それは、大変だったですねえ。治るまで、どのぐらい掛かるのですか」

「済生会病院の整形外科の先生は、あばら骨だから、呼吸をするときに微妙に骨が動くので、ヒビでも完治するのに1ヶ月は掛かるというのよ。もう、大変だわ。でも、足だけは、森田が何時もタクシーで運んでくれるので、助かっているのよ」

「それは、良かったですね。でも、僕は何もしてあげられなくて、ホントに申し訳ないです。済みません」

「あらいいのよ。私の方こそ、申し訳なく思っているのだから。沢田さんに寂しい思いをさせて・・・・。独りで、1ヶ月やっていけるでしょ。お願いね、沢田さん、辛抱してね」

こう言って、女房気取りの彼女は、真剣に沢田のことを気遣うのである。


19. 家が売れる

沢田は、マドンナに縛られずに、元の独りの生活リズムを取り戻した。殆ど、もう鳥清には寄らずに、早めに寮に帰ることも出来るようになっている。隣室からの騒ぎにも慣れたのか、もうどうでもいいと気にもならない。金曜日の今夜は、踊り場にある赤電話から、久し振りに戸塚の自分の家に電話する。


「もしもし優子さん、啓介です。久し振りだねえ、元気ですか。こちらは相変わらずですわ。ところで、家の方はどうなったのかなあ」

「あら、今頃何の用事なの。電話だったらさあ、昼間にしてよね。下の子供が起きるじゃない」

3カ月も出会っていないし、電話だけでは、心も通じにくくなっている。つっけんどんな言い方は、前より激しさを増しているようにも聞こえる。

「家の方もね、足元を見られてはいけないからと、私も頑張っているのよ。家の中に、買ってきた観葉植物を置いて豪華感を演出したり、売り急いでいない雰囲気を出すために、わざと堂々とした態度で不動産屋に接したりして、工夫しているのよ。あなたには分からないだろうけれど。絶対に2000万円以下では売らないから」

勝ち気な言い方は相変わらずだ。以前に比べて気持ちに余裕が出てきた沢田は、少し突っ込んでみる。

「出来れば、今月中に処分してさあ、こっちで一緒に生活しようよ。そう思わないかい。生活費も二重に掛かるしさあ。単身赴任は、お互いに色々と精神面でもトラブルが多くて、僕も疲れたよ」

「そうねえ、1980万円まで上げさせているから、後少しなのよ」

「20万円位だったら、金利を計算すれば一緒じゃないか。もう、そこら辺で手を打とうよ。どう思う」

「そうねえ、そうしようかしら。ホントに1980万円でもいいの」

出身がこちら方面の彼女は、本当は早く家を売ってしまい、親元の近くで住みたいと思っているのだ。沢田は、彼女の心理状態までを把握できる程に、情緒が回復していた。


「いいさ、その金額なら上出来だよ。よく頑張ってくれてありがとう。さすが優子さんだねえ、立派なものだよ」

相手を立てて誉めることも忘れない。こう言えば、彼女は納得する筈だ。

「分かったわ。じゃあ明日、不動産屋に返事するわよね。だから、貴方は急いで家の方を探してよ。私の実家に近い方にしてよね。貴方の実家に近い方だったら、私は絶対にイヤよ。だから京都から草津、米原方面との間、ということになるわね。分かって呉れた。これは約束よ。必ず守ってね」

沢田に対して、事細かに命令する口調は相変わらずだ。これを受け入れれば、話が納まることも沢田は知っている。


「了解しました。じゃあその線で、明日から僕の方も動きますよ。京都から東方向だね」

翌日の土曜日から、早速に沢田は家を探し始める。マドンナに付きまとわれることもなくなり、自由時間ができたから出来ることなのだ。優子の指示通りに、草津駅で下車して近辺の不動産屋を回る。自分で全てを決めると、機嫌が悪いから、沢田は候補だけを上げて、後は優子に決めさせようと考えていた。こちら方面の土地に初めて来た沢田は、東近江のどの町も、歴史の町と知る。安土桃山、江戸時代の生活の痕跡が、今でも至る所に残っている。草津から安土までの間を、興味深くかつ注意深く、物件候補を探し、現地視察も済ませて、何とか土、日の2日間で、手頃な5物件の情報を入手したのであった。日曜日の夜に、不動産屋からコピーして貰った物件情報を、自分の意見も添えた手紙と共に、早速に優子に郵送する。


4、5日経過してから、沢田は再び横浜に電話する。会社の守衛の横に置いてある、赤電話からの電話だ。夜に電話するとうるさいから、今日は昼休み時間に掛ける。外に出るには、上司印のある外出票がないと出られないからだ。守衛室の隣の銀杏の樹が、青く茂って、木陰を作って呉れている。


「もしもし、私ですが。優子、もしもし。例の件は、どうなったっけ」

「あら、あなた久し振りねえ」

今日は機嫌がいい。続いて、嬉しそうな輝いた声が聞こえてくる。

「やっと売れたのよ。ちょっとゴネて、そんなんじゃもう売りませんと、大きい声を出して頑張ってみたら、20万円プラスしてくれたわ。予定の2000万円丁度で手を打ったのよ。どう、スゴイでしょ」

「そりゃあ、スゴイねえ。さすがだね。よかった、よかった、感謝するよ。それから、僕が送った物件情報を見て呉れた 」

ありったけの賛辞を送って、彼女を褒め称える。当然のことだ。

「はい、見ました。よく調べたわねえ。私は、一番大きな家で土地も広い、この2400万円のが良いと思うわ。通勤には、少し不便かも知れないけれど、私の実家には近い方だから、もうここに決めるわね」

「ああ、安土の物件だね。織田信長の居城の遺跡が山の上にある町だよ。その物件は、新築で家も広いし、絶対いいよ。でも、少し通勤時間が掛かるけれど、僕が辛抱すればいいことだからさあ。じゃあ、これにする。不動産屋に電話していいかなあ」

「ちょっと待ってよ。私の姉の旦那さんが、不動産に詳しいから一度見て貰ってくれない。電話して置くから、あなたの方に、お兄さんから電話して貰うわね」

「だけど、電話がないよ」

「それなら、今から言う電話番号に、あなたの方から電話してあげてよ。今週の土曜日に一緒に見に行って貰うように、話しておくからね」

彼女は5人兄弟姉妹の一番下だった。長姉の夫の山下達夫のことだ。


その週の土曜日に、安土駅で待ち合わせていた沢田は、駅前で義兄の山下と合流する。沢田がまだ銀座に居て、優子との結婚が決まった頃のことだ。この義兄はわざわざ東京まで出てきて、突然に沢田に面会を申し込んで、義妹の結婚相手となる沢田の品定めに来たという強者である。沢田の勤めていた会社と、沢田の人となりを見て、彼は安心したという報告から、優子との結婚は承諾されたのである。だから、小柄な山下達夫の顔を、沢田は忘れようにも忘れられない。


「おお、啓介か。達者でいるかい。それは良かった、良かった。早速に、見に行こうぜ。俺の車に乗れよ。車で一緒に行こう」

小柄だが、エネルギッシュな男だ。

「はい、ありがとう御座います。駅前通りを真っ直ぐ琵琶湖側に走って、大通りに出て左折すると、団地の入り口がありますから」

こうして2人は、優子の決めた物件の現地に到着する。不動産屋も鍵を持って、現場に来ている。山下達夫は、不動産屋と同行して、地面の境目、方位、土地の登記の履歴、家屋の間取り、通し柱の本数、建築津面の確認、断熱材の有無、床下のチェック、天井裏に登っての確認など、沢田では気の付かない細かい専門的な見地から、書類と現物との調査を実施してくれた。優子が推薦する通りに、なかなか大した知識を持っている男だ。沢田は、現実に立脚した生活感のある男の姿を、初めてつぶさに見て、今まで自分は何をしていたのだろうか、自分もかくあるべしと痛感するのである。


20. 無言電話

9月を過ぎたある夕刻のこと、マドンナは、沢田があまりも鳥清に来ないから、不審に思いつつ、心の一方では気持ちをときめかし、暫く一緒に暮らした思い出の場所である、沢田の寮を訪れる。そして、合い鍵でドアを開けた彼女は、愕然とする。入り口から正面の窓のそばに、自分が残していった荷物だけが、唯一、寂しげに残っているのを見つけるのである。あろうことか、そこは、既にヤドカリが出てしまった後の、もぬけの殻になっているではないか。こうして、マドンナは、沢田の単身赴任が終わったことを悟る。しかし、2週間とはいえ、一緒に肌を合わせ男から、自分には一言の挨拶もない。寂しさと共に、激しやすい彼女は逆上する。そして、この日から、沢田に対する反撃が開始されたのだ。これは、彼女の独占欲から出発したことで、沢田への憎しみからでは決してなかったのだが・・・・。


まず、当然のことのように、恐怖の電話が夕刻になると、会社に入ってくる。鳥清に来て欲しいから、また顔を見たからか、毎日のように電話が入る。だから、鳥清に行かないと、会社中に知れ渡る。安土までの通勤時間は、片道1時間半は掛かる。寄らずに早く帰りたいのがヤマヤマだが、そうもいかない。沢田は、前の様に殆ど毎日、鳥清に通わなければならない。すると、女房気取りの彼女は、沢田に対して、今や、公然とベタベタしてくる。マスターさえイヤな顔をしている。裏切った沢田を、もう一度取り返そうと思っているのか。或いは、彼女自身の精神のバランスを保つ為なのか。


次いで、鳥清で終了時まで付き合わされた沢田は、今夜はマドンナの行きつけのスナックにまで、同行を強要される。夜も1時を過ぎており、安土に帰れなくなった沢田は、マドンナから、彼女の行きつけである堀川五条のホテルに、タクシーを拾って先に宿泊しておくように指示される。安土の優子には、ホテルから宿泊理由を電話する。マドンナが、森田の車で後から押し掛けるつもりだと、気付いた沢田は、ホテルの部屋からフロントに電話する。そして、宿泊の部屋番号だけは絶対に言うなと厳命する。案の定、フロントで、教えろ教えないで口論になっているマドンナの逆上した声が部屋にまで、キンキンと届いてくる。沢田は、耳を塞いで、電気を消した部屋の隅で、小さくなっているしかないのだ。


沢田は、自分がまるでフライパンで炒られている猫の姿の様に思えてくる。下から火で焙られて、踊り回っている猫の姿だ。彼女に引きずり回されているが、どうしてもフライパンからは外に出られない。金の問題になったり、会社に通告されたりしたら困るからなのではなく、彼女の危うい神経がガラス細工の様に壊れることを、心から恐れていたからに他ならない。頭を抱えていても、ひたすら彼女の言うままに、彼女の気に入るままに動くことしか、当面の方法はないのだから。ただ、ただ嵐の過ぎ去るのを待つしかないのだ。彼女が自らの心を傷つけたり、逆上したりせずに、穏便に身を引いて呉れないだろうか。さようならと、明るく別れの挨拶ができないだろうか。この異常な生活から抜け出す方法はないだろうか。沢田は仕事中も、この事ばかりを考えている。一緒になるのは簡単だが、一途になった女性と別れることが、こんなにも大変なことだとは、初めて沢田も体験する。


正直に言って、この時のマドンナの様子は、普通ではなかった。それほど、沢田を独占する気持ちに支配されていたのである。少しの間とはいえ、一緒に床を過ごした男に心が奪われていたのか。また、自分がどうにかなりそうで、崩れるかも知れないと言う自分が怖かったからだろうか。だからといって、沢田には、優子と別れ、平穏な安土での生活を捨ててまでして、マドンナと一緒になる勇気はなかった。マドンナの中に内在する、破壊的な感情を見抜いており、彼女に大変危険なものも感じていたからに他ならない。何よりも、彼自身が、自分の疲弊する神経の安息を求めていたからだ。


それは、突然にやってきた。沢田が安土の新居に帰宅していた、ある日の夜のこと、無言電話から始まる。

「・・・・・・・・」

「もしもし、沢田ですが。どちら様でしょうか。もしもし」

「・・・・・・・・、・・・・・・。・・・・・」

「おかしいわねえ。ねえ、お宅様は、どちら様でしょうか。こちらは、沢田ですが」

電話は、沢田という声を聞いて切れる。

「変だわねえ、息づかいだけで、何も言わないわ。あれは、絶対に女だわ。あなた、何か心当たりがあるんじゃない」

「なんのことだよ。僕は知らないよ。無言電話のことなど、僕にどんな関係があるというのさ。単なるいたずら電話じゃないの」

優子が得意料理と言っている夕食料理ではあるが、まあまあの味のロール・キャベツを食べながら、沢田は考える。


沢田は、優子の言うとおり、電話の主に感づいていた。それは、マドンナからの電話だと確信していた。これは、本当の意味での恐怖の電話だ。優子も感づいている。沢田には、被害妄想からでなく、こうとしか受け止められない。髪の毛が逆立つ思いだ。


「おかしいわねえ、戸塚にいるときも、2回ほどあったのよ、無言電話が。その時の女と絶対に同じだわ。息づかいと直感で、私には分かるの。あなた、どこかの悪い女と付き合ったりはしていないでしようね。ところで、単身赴任の時に使っていた布団に、血のような変なシミも付いていたわよ。知っているのでしょ。それから、先日の堀川五条の、ホテルとかの外泊の時も、常務さんと一緒に飲んでいて、帰れなくなったとか言っていたけど、ホントなのかなあ。絶対に怪しいわ」

「それからさあ、ホントのことを言うけれども。そのホテルに泊まったとかいう夜の3時頃にもね、あいつから電話があったのよ。その時は、酔っぱらって沢田を出してよ、とか言っていたわ。確か名前は、吉田とか言っていたわ。その時の女と、今のは、絶対に一緒だわ。あなた知っているのでしょ。私は分かっているから、もうこれ以上は言わないけれど、家庭を巻き込むのだけは止めてね。お願いだから」


『俺は、痛いところを突かれている。慎重に考えて返答しなければならない。優子に、どんなことがあっても話せないものは、話せないのだ、死んであの世にまで、握ったままに持っていくべきものが男にはあるのだ。平然として答えなければならない』

彼は、自分に言い聞かせる。

『電話番号は、憲さんがマドンナに教えたに違いない。だから、戸塚と安土の両方を知っているのだろう。しかも、あの日も夜も、電話があったのだと優子は言っている。止めて呉れよ』

頭を整理して、とつとつと言う。


ああ、茶色のシミだろ、コーヒーを一度こぼしたのさ。その時のシミだと思うよ。それと、先日の外泊の件はさあ、前に、ホテルからの電話で言った通りに、常務と一緒だったのだよ。常務さんは、歌は下手なんだけど、カラオケが大好き人間で、歌い出したら止まらないのだよ。ホントだよ。そんなことで嘘を付く訳が無いじゃないか。第一、常務さんに対して失礼だろうが。それから、吉田とか言う人は、僕は全く心当たりがないよ。僕の知らない人だよ。単なる間違い電話じゃないの」


平然として、真っ赤な嘘を付く。シミは、あの時のものだ。鮮烈に脳裏に刻んでいるから忘れる訳がない。これだけは、一生涯を通じて、絶対に隠し通すしかない。また一方、沢田は、マドンナに引きずり回されていたから、かなりの額の金を散財していた。だから、金のことは妻には言えずに、実は、実家の母親に事情を言って、用立てして貰っていたのである。


この日を境にして、マドンナからの、会社の呼び出し電話と自宅への無言電話は、不思議なことになくなる。そして、あろうことか、マドンナの姿も、鳥清から幻のように消えてしまったていたのである。久し振りに、憲さん達と一緒に鳥清に入った沢田は、よそよそしいマスターの態度と共に、そのことを発見する。沢田は、あの日自宅に掛かってきた無言電話が、もしかして彼女からの沢田に対する、最後の別れの挨拶ではなかったのだろうかとも思ったが、もう時既に遅しである。到底出来ないことではあるが、あのとき自分が電話に出て、せめてもの別れの言葉を、そして優しい言葉を掛けてあげれば良かったのかも知れないと、感慨に浸る。


唯一の存在証明かのように、沢田の敷布団の上に残っていた茶色のシミは、優子がその後スグに、敷布そのものを焼却処分したから、もうこの世には存在しない。記憶だけが、沢田の脳裏に残っているだけである。思えば、マドンナからの、何回もの、あの恐怖の電話が、沢田自身の脳髄を覚醒させる電話であったのではないだろうか、また、体を張って与えてくれた彼女の魂が、沢田を救って呉れたのではないだろうかと、最近になって沢田は回想している。マドンナの、幻のようなその存在と共に、今や、彼女の存在そのものの記憶すら、沢田の脳裏からも薄れかけようとしている。


マドンナの行方は、その後は誰も知らない。人伝に聞いた話では、タクシー運転手の森田と一緒になって、卓也と3人で、福岡で幸せに暮らしているという人もいれば、済生会病院の精神科に再入院したと言う人もいる。はたまた、その行方すら知らないと言う人もいる。沢田には、2週間ばかりではあったが、お互いの体と心を温め合った、マドンナという幻の女性が、実は、あの世から降臨された観世音菩薩様であったのではないだろうか。そして、その観音様が、マドンナに姿を変えて現世に現れてこられ、疲弊していた沢田の生命に、命の息吹を注がれたのではないだろうかと。あれから21年が経った今にして、沢田は、目頭を潤ませて、こう思うのである。

その後の沢田は、知らず知らずの間に、神経症を乗り越えて、自力で正気に戻っている。そんな自分にも自信が持てるようになっている。そのことを自分自身でも気が付いているという。


辛い哀しい想い出と共に、修羅場を乗り越えて、一段と逞しくなった沢田啓介の姿が、そこにはあった。マドンナは幻であったかも知れないが、あの電話は、マドンナと沢田を繋ぐ、まさしく「いのちの電話」であったのではないかと、彼は回想しているという。


おん あろりきゃそわか


南無観世音大菩薩
 


合掌





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