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(BGMは、Celene Dionの Only One.)



(5)流れ星

Written By Dengakudan



「流れ星」の前書き


岡田美子を主人公にして、この事件は多次元に展開していくことになるが、予想もつかない混迷の中に、話が迷い込む。岡田美子が初めて恋をした男、村瀬物産㈱の社長・村瀬純一は、岡田美子の部屋で、何者かの手によって青酸ソーダを飲まされ、毒殺されている。部屋には鍵が掛かっており、誰も、部屋から出入りした様子はない。所謂、密室の殺人事件である。そして繊細な岡田美子は、村瀬を思う気持ちと自責の念に支配されて、発狂する。事件は、岡田美子の会社の同僚である、田村昭子から警察に第一報が入る。辛くて、哀しい恋の物語である。


西の空にひときわ大きな流れ星を見つけた岡田美子は、胸の前で手を組みつつ、じっと暗い空を見上げ、流れ星の軌跡を目で追いながら真剣な眼差しで、願い事を星に託す。刑事の質問にも、耳を貸さず、虚ろな目で、独り言をつぶやくばかりだ。


<登場人物、以下の13名>


岡田美子/主人公。新潟県は柏崎出身の26歳のOL。ブレーン社の大阪支社で、営業2課に在籍し、営業を担当している。岡田の向かい側に中野、横に田村。田村の向かいに北村、横に森田。森田の向かいに吉田が座している。計6名の課員全員が女性。営業先の顧客である、村瀬純一に初めて恋をする。

村瀬純一/サブ。大阪の長堀橋にある村瀬物産㈱の社長で、何者かに、毒殺される。

岡田民子/美子の母親で、今は、中埠頭のポートタウン西の9階建てのマンションに住んでいる。

北村英子/佐藤知也の元妻で、最近離婚してブレーン社に就職。同じ課の同僚だが、岡田美子とは仲が悪い。

中野、森田、吉田/営業2課の職場の、その他の同僚で、全員が女性。

秋元 茂/岡田美子の上司。元々は、制作課長だったが、田淵の後任として、今は営業2課の課長をしている。バード・ウォッチングが趣味。

田淵和彦/秋元の前の課長、宮下春子と愛人関係になりブレーン社・高松営業所に異動となる。

宮下春子/田淵との同棲がバレ、退職。現在、茨木に住んでいる。

田村昭子/岡田美子の親友で同僚、職場の大先輩。年齢が30歳を越えている。

佐藤知也/村瀬の親友で、南港のハヤット・ホテルでフランス料理店のオーナーシェフをしている。最近、北村英子と離婚し、現在はバツイチの独り者。

関根刑事/住之江署の、この事件担当刑事。


★事件の現場は、ポートタウン西の37号棟・412号室の岡田美子の部屋。


★最寄りの駅は、大阪地下鉄四つ橋線・終点の住之江公園駅から、モノレールに乗り換えて中埠頭駅で下車して、徒歩2分。


<プロローグ>


『どうなっているのだ、妙だなあ。あの部屋は』

秋元茂は大事にしている、バード・ウォッチング用のミニ双眼鏡を眼球に押しつけたまま、独り言をつぶやいた。彼は、ポートタウン西・37号棟の412号室のドア側を、中埠頭駅のホームから見ている。今日の午後は、晩秋の日射しが、心地よい。

『あっ、今度は左隣の411号室のドアから岡田が出てきたぞ。不思議だなあ。確か、岡田は右隣の412号室のドアから入った筈なのに、ベランダ伝いに隣の部屋に移ったのだろうか。よし、下に降りて、もう少し近づいて、調べてやれ。それにしても、今まで一度も欠勤したことのない、岡田君がどうしたというのだ。三日間も続けて、無断欠勤をするとは』

秋元は、連絡なしに、一昨日から3日続けて会社を休んだ、部下の岡田美子の自宅を密かに訪ねて調べにきていたのだ。電話を掛けても通じないし、こうするより他に方法がなかったからである。無断欠勤のこともあるし、また妙な事件にでも巻き込まれていれば、自分の管理責任が問われると胸騒ぎがして、難波から急いで、大阪南港のポートタウン西・37号棟の彼女のマンションまで出てきたという訳だ。地図で調べて来たので、彼女の住んでいるこの分譲マンションはすぐに見つけられた。この辺りは、殆どが大阪市内に勤めているサラリーマンを対象とした、中級の分譲・集合住宅で、大規模団地となっている。


住宅の周りは車道と歩道が整備され、それに沿って高い樹木も植えられている。また、公園やマンションへのアプローチは、多くの植栽で囲まれている。幸いにも、人が立って双眼鏡を覗いて居ても、違和感はない。秋元は、エレベーターで四階に上がり、解放廊下を歩いて、岡田美子の部屋の前まで着いた。そして、ドアをノックしたり、インターホンを押すが、返事がなく誰も出てこない。しかし、岡田が部屋に居ることは、先程見たから間違いはないと秋元は確信している。誰かが、部屋にいる気配も感じる。今度は、ドアをドンドン叩きながら、声を出して呼ぶ。

「おうい、岡田君。部屋に居るのだろ、分かっているのだぞ。おうい、返事をして呉よ。岡田君、どうしたんだよ、返事をしなさい。明日からは、絶対に出社しなさいよ。絶対だぞ」

随分待ったが、それでも、返事がない。同じ事を、念のために隣の411号室の前でもしてみるが、全く返事がなく、誰も出てこない。秋元は、そのまま暫く待ってみるが、物音一つしない。仕方がないので、彼は、とうとう諦めて引き返す。


帰り道に、中埠頭駅のモノレールのホームに立って、もう一度、彼女の部屋を目で探した秋元は、ハット気付く。このホームから彼女のマンションを見るのが、最も見え易く、しかも、マンションの玄関ドア側はホームから、またベランダ側は住之江駅に向かうモノレールの車内から、丸見えだと偶然にも発見する。駅のホームからマンションのドア側が見えるのはこの37号棟しかなかった。


翌日、何事も無かったかのように、出社した岡田美子は、風邪で発熱して、肺炎になりかけたので病院に行っていたと、平然として理由を言って、秋元に謝罪して、年休届けを事後提出した。しこりが残るが、一件落着だ。秋元もそれ以上には追求しようとはしない。しかし、その後も、何故か、同じようなことが時々、続けて起きるようになる。


それからというもの、岡田への不信感に駆りたてられたのか、大阪南港のWTC高層ビルに、営業に行くと言っては、合間を見て住之江駅から中埠頭駅に出てきて、ホームから双眼鏡で観察する秋元の姿が度々見られた。辺りは、人工の並木林が数多く作られており、鳥たちも多く集まっている。


幸いにも、双眼鏡を握っている秋元のその姿は、物好きな男のバード・ウォッチング姿としか、周囲には写らなかった。今日の夕刻も、秋元は、双眼鏡を目に当て、ドアの方に注視して、じりじりと距離を詰めて、とうとう彼女のマンションのスグ近くまで来てしまったのである。初冬の辺りは、寒々しく、すっかり薄暗くなりはじめている。


『今度こそは、絶対に、調べてやるぞ。なんか、ありそうだ。あれっ、誰だ。誰かが、岡田の部屋に入ったぞ。変だなあ。よし、もうチョット近づいて調べよう』

好奇心に駆られて、再び、岡田美子の部屋のドアまで来た秋元は、新聞受けの口から、中を覗いて、あろうことか、驚くべき事実を発見するのである。


1. 事件の始まり

11月下旬の霜冷えのする寒い日に、事件が起こる。中埠頭にある、この岡田美子の部屋から、村瀬純一の変死体が発見されたのである。秋元茂が彼女の部屋を調べに行ってから、丁度2年後のことだ。新聞にも、デカデカと記事が掲載される。村瀬は、青酸ソーダを飲まされての変死である。


事件の第1通報者は、彼女の会社の同僚で、田村昭子という女性。岡田美子が休んでいるので心配した田村が、岡田に電話をした。すると岡田は放心したかのような声で、村瀬の死を伝えたという。


「誰かが、私の部屋で死んでいるー。怖いわー、見に来てよ。私どうしたらいいか分からないのよ。警察にも電話して呉れる。私、このひとの子供が欲しいのよー・・・・・・・」


この電話を受けて、彼女は、秋元課長の許可を貰い、一度行ったことのある、岡田のマンションまで、難波からタクシーを飛ばして駆け付ける。そして、村瀬純一の死体を発見し、ことの顛末を警察に、電話したという次第だ。


死体は、既に死後硬直が始まり、手足は突っ張ったままとなって、凄惨を極めている。特に、その右手の指は、余程苦しかつたとみえて、虚空を掴むような仕草のままで、固まっている。岡田美子は、目を据えてその死体を凝視しているが、彼女の表情は堅く、頬が青白い。釣り上がったその目は、瞬きすらしておらず、尋常ではない鬼気迫る雰囲気である。


当然のことながら、岡田美子は本事件の第一容疑者として、所管の住之江警察から、取り調べを受けることになったが、支離滅裂で、言っていることの辻褄が合わない。第一通報者の田村昭子も、同じように事情聴取を受けている。


子供の頃、流れ星が消えるまでの間に心を込めてお願いすると、その願いは叶うと母親から教えられ、何か大事な局面になると、岡田は、いつも流れ星を探した。今朝から始まった、刑事の取り調べも、夕方にまで及び、初冬の今日も、西の空にひときわ大きな流れ星を見つけた彼女は、胸の前で手を組みつつ、じっと暗い空を見上げ、流れ星の軌跡を目で追いながら真剣な眼差しで、願い事を星に託す。


刑事の質問にも、耳を貸さず、虚ろな目で、独り言をつぶやくばかりだ。

「今日も、あの方が来てくれますように」

「あの方の、赤ちゃんが出来ますように」

髪を振り乱して祈っている。村瀬が死んでからというもの、岡田美子のその様子は、尋常ではなかった。


話は、ここから3年前に遡る。


2. 営業2課

   岡田美子はブレーン社の社員で、営業レディーをしている26歳の女性だ。新潟県は柏崎の出身で、大阪の短大を卒業してからブレーン社の大阪支社に就職が決まり、いきなり営業に放り込まれた。ここで、新規開拓の営業を担当して、今年で5年目となる。


ブレーン社の大阪支社は、大阪の地下鉄御堂筋線・難波駅で下車して、地下のショッピングモールを西方向に少し入った処にあり、地下鉄からそのまま行けるという大変便利な場所にあった。


「今日は、エエ会社があるやろか」


独り言をつぶやいて新聞を見て、顧客となる情報を捜し始めている。

「アキちゃん、昨日はどうやった」

岡田は横に机を並べている、田村昭子に挨拶代わりに聞いた。田村は化粧が濃く、男好きのする肉感的な女性である。年も岡田より上で、30歳を過ぎていた。職場では、昭子が岡田の唯一心を許せる同僚で、この課の先輩だ。


「全然だめだよーん、話にもならへんわ。私の顔を見たさの冷やかしよ、あのタソジジイ。それにしても、2代目の社長いうのはどこもかしこも、頼りない奴ばっかりよ。昨日の常磐商事もだよ。ねえー、聞いてくれる。2代目の社長だから、随分と威張り散らしてんの。自分のところの取り扱い商品の名前すら満足に言えないくせして。細かいことは事業部長に全部任せているからだってさー。私がじっと奴の目を睨んでやったらさー。オドオドしてやんの。頼りないったらありゃしねえんだよ。早晩、常磐商事は左前だよ」


田村の話を聞き流しながらも、岡田は新聞紙を見てチェックする手を休めない。


彼女達の毎朝の日課となっているが、出社するとすぐに、まず2、3紙の新聞を自分の事務机の上に広げる。そして、各紙の求人広告欄や商品広告だけをざっと見て、会社概要や製品の記載内容だけを大雑把に調べ、これは面白そうだと思う会社が目に留まれば赤ペンでチェック・マークを付ける。次いで、チェック・マークを付けた10社前後の会社に片っ端から電話を入れて、訪問のアポイントメント、つまり社内呼称でいうアポ取りをするのだ。


教えられた大事なことは、ここで必ず社長宛に電話を入れて、直接に社長本人と話しながらアポを取る、というのがブレーン社でのやり方だった。アポ取りのデスクワークが終われば、今度は必要な営業資料や掲載見本誌、価格表や原稿作成の手引き書など、必要な営業書類一式をその日に訪問する会社毎に仕分けてファイルケースに入れ用意する。それから、メンバーが個々に外出して、訪問予約をしておいた社長宛に、自分1人で訪問していくのだ。


岡田美子は、こういう新規開拓の営業方法を、ブレーン社営業2課の上司である秋元茂から叩き込まれていた。毎日10社前後に電話して、それでも大体1~2社はアポが取れる。会社の社長と言っても、若い女性には殊に甘いのか、女性の場合の方が、よりアポ取りの確率が高い。従って、この新規開拓の営業担当は、ブレーン社では全員が女性社員となっている。だから、彼女のいる課も、上司の秋元茂課長以外は6名の課員の全員が女性だ。


この中にあって、岡田は課の中で、大きく目立つこともなく、かと言って不可もなく、それなりのごく普通の営業成績を残している。


秋元茂は、この6名の女性課員を上手に操縦して、社内では割と良い方の部類に入る営業成績の、35歳の中堅課長である。元々、秋元は、ブレーン社の制作課長をしていたが、5年前に、自分で進言してこの営業課に異動してきた人物だ。制作マン時代の彼は、特別の評価もなかったが、かと言って大きな失敗もなかった。しかし、制作という単調で忍耐を要する業務の毎日に飽き飽きしていた彼は、できれば職種替えをしたいと思うようになっていた。


その前の営業2課の課長であった田淵一彦という男は、課員である若い女性、宮下春子とのトラブルで、ハッキリ言えば男女関係となり、それが原因で、高松の四国営業所に飛ばされた。その後釜に来たのが、秋元だ。


秋元は、制作部では、どんなに頑張ってもたかが制作マンでしかなく、課長程度までにしか昇進出来ないとの、社内上層部の暗黙の評価基準を知ってから、それなら営業で一旗揚げてやる、部長から役員にでもなってやる、単調な毎日にも飽きていたから丁度いいやと、敢えて営業に飛びこんできたという人物だ。声が大きく、小太りで短足、目がギョロッとして、顎が張り、確かに営業向きの資質を持っているように、一見して見える。


秋元の第一の関心は、女性である。彼は、社内でも女好きを自認して、それを周囲に公言していた。街ですれ違った女性にも、必ずと言っていいほど、振り返ってその顔と胸を確認するという癖があり、またエレベーターに乗り合わせた場合でも、世間話をしながら、同乗している女性社員の背後にすっと近づき、その女性のお尻に上手に触ってしまうという、大胆なこともやってのける特技を持っていた。だから、あだ名が『タッチャー秋元』といわれていた。


だから、女性ばかりで構成された通称ハーレム課に行くと、彼の方から先に、手を挙げたのだろう、というのがもっぱら社内での噂だった。


またもう一方の関心事は、金である。彼の金への執着は、本能的だ。1円や10円といえども大事にして、決して粗末にはしない。地下鉄の切符売り場付近には、1円や、5円が見捨てられたように落ちていることがよくあるが、どんな場合でも、秋元は必ずそれを拾らって自分の財布に入れる。


第三番目の、彼の意外な趣味は小鳥である。私生活での秋元は、自分の部屋でも手乗り文鳥を飼っているし、休日にはバード・ウォッチングに出かける程、小鳥に入れ込んでいる。彼の3つ年下の妻も4歳になる女の子供も呆れるほどである。だから彼のカバンには、鉄道の忘れ物処分市で見つけて、2000円で購入した、掌に乗るぐらいの小型だが性能の良い、倍率200倍まで拡大できる双眼鏡が、常に入っている。


前の田淵課長が手を付けたという宮下春子は、田淵の異動後、気の毒にも退職したが、田淵とも完全に切れて、今は茨木にある別の会社で働いているという。今のところ、表面的には秋元の課の中では、田淵課長の様な、男女関係のトラブルが起こっているようには見えない。また、他部署の男性社員と部下の女性とのトラブルも皆無だ。


この秋元と、岡田美子とは、お互いに関心が無く、一線を画してそれ以上は近づかないようにしているから、トラブルが起きる筈もない。淡々として、割と理想的に上手く部下のマネージメントがされているように見える。その岡田の座席は、この秋元のすぐ前に位置している。秋元に対して、別段と何の感情も抱いていないので、岡田美子は、秋元のスグ側の席でも、平気で全く気にならない。


しかし、課員の女性の中には、『秋元のスグ側の、その席だけは死んでもイヤ。あの目付きが絶対にイヤ』と、秋元を嫌って避ける者もいた。それは、化粧の濃い年増の田村昭子だ。また、最近になって、離婚をして中途採用で入社してきた、岡田より年下の北村英子は、勝ち気なこともあって、担当エリアを岡田美子に犯されたと独り合点して、何かと岡田に突っかかっていく人で、田村昭子の向かい側に座していた。


座席の配置は、岡田の向かい側に中野、横に田村。田村の向かいに北村、横に森田。森田の向かいに吉田が座している。計6名の課員は、全員が女性。吉田、中野は中堅で、森田は新入社員だ。


毎日のように、朝9時から10時頃までは、6名の女性のアポ取り合戦のため、女性達の甲高い喋り声と電話のベルの音で職場は騒然とする。同じ会社にダブって電話をしないようにと、それぞれ流通、化粧品、食品、衣料雑貨、インテリア、装身具などの業種で、担当エリアを決めていた。それでも、時々越境して電話するから、これが原因で女性課員のキャーキャーと五月蠅い言い争いが起こることも、偶にある。


今日も、北村が岡田にしつこく言う。北村英子は、人より上に立たないと気が済まない、勝ち気な性格なのだ。


「美子、今度越境したら、絶対に課長に言うからなー。きっちりルールを守って、やってやー」

岡田は、関わり合いにならず、横の田村と顔を見合わせて、目配せしながら、何事もなかったかのように、アポ取り作業をしている。


そして、皆それぞれが、スムーズにアポが取れたようで、出掛ける支度をしている。現在の岡田の担当エリアは、衣料雑貨関連業種だ。


3. 村瀬物産

岡田美子は、秋元の目の前でアポ取をしたが、その結果、8社目でアポが取れた。主に女性向けの衣料品を、中国に縫製委託して、完成した製品を日本で販売するという商売をしている村瀬物産㈱の社長に、今日、午前11時の約束を取り付けた。


村瀬物産は、大阪地下鉄・長堀橋駅で下車して、4番出口から地上に出た、道路の向かい側にある。自社ビルの「村瀬ビル」の2階に、受付があるという。その次にアポの取れた会社は、雑貨の友田貿易と女性下着販売の木村商事だ。今日の仕事は、その村瀬物産、友田貿易、木村商事の順で3社に訪問して売り込みを掛け、最低1社でも受注には持ち込めればいいかと考えた。


早速、岡田は、地下鉄難波駅から地下鉄御堂筋線に乗り、心斎橋駅で乗り換えて、長堀橋駅に着く。村瀬ビルは、目立つガラス張りのファサードに、鏡のようなステンレスの丸柱のあるハデなビルで、すぐに目に入った。この自社ビル2階の受付にと向かう。


岡田美子は、化粧が濃い目の、少し肥り気味で、何となく陰のある受付嬢に名刺を差し出し、村瀬社長に面会を申し出る。受付嬢は、面倒くさそうに電話を社長に入れて、指示を仰ぐ。そして、彼女は、受付嬢から応接間に通され、ソファーに座るよう案内された。ソファーは革張りだが、柔らかくダークグリーン色をしている。趣味の良さを感じる。


岡田美子は、ハンドバッグから手鏡を取り出し、サッサと化粧崩れを直し、服装の乱れも整えて待つ。暫くして、社長の村瀬が一人で部屋に入って来た。村瀬は、32、3歳で、背が高く、一重のスルドイ目付き、浅黒く引き締まった顔に白い歯が印象に残る。先程の受付譲とは対照的に、シャキッとした雰囲気でオーラが感じられる若い社長だ。村瀬物産の二代目だろうか、村瀬の風貌を一目見てから、彼の雰囲気に飲まれて美子は一瞬ゾクッとするものを下半身に感じた。


「はじめまして、私が岡田美子です。お忙しいのに、お時間を取っていただいて、ホントに恐縮ですわ。村瀬純一社長さま」

と明るく快活に言う。


「どうして、私の名前を知ってるの」

「はい、今朝の御社の広告に村瀬純一と社長さまの名前が書いてありましたわ」

「ああ、そうだったなあ。いきなり、名前を呼ばれたんで、ビックリしたがな。よう、そこまで調べて準備してきたなあ。ちょっと、君に親しみが持てたよ」


そう言って、お互いに名刺を交換する。事前に調べておいた社長の名前をフルネームで呼ぶというのが、相手に近親感を持たせる、ブレーン社の営業テクニックの一つだ。今日も上手く事が運び、初対面ながらも、お互いに気持ちは一歩近づく。


「電話でお話を致しましたように、当社の媒体に、製品広告をお願いしたいのですが。村瀬純一社長さま、いかがでしようか。新聞広告なんかよりも比較にならないほど、効果が高いと評判ですのよ」

「製品広告やてー、なんで効果が高いんや」

「はい、テーマ取材方式を採用した、記事風の製品広告ですし、当社の媒体は、50万部という部数の集合媒体が、直接に顧客の手元にまで届けられるハンドオン・システムですから、パワーが強いのです。今朝の新聞に出稿された、村瀬社長様の会社の製品広告の3倍は効果がありますわよ。これは、私が断言致しますわ」

相手の目を見て、その奥にある脳髄を掴む思いで、念を込め、岡田はセールスする。


「ホンマかいなあ、ハンドオン・システムで3倍も効果があるってかー。じゃあ、費用は、どんだけするんや。美人の岡田はんの、折角のお勧めやさかい、ほんなら1回だけ、やったろかなあ」

この村瀬の一言が、村瀬と彼女の運命を変えることになろうとは、美子は想像すらしなかった。


その後に、訪問した2社からは、折角訪問したにも拘わらず、押し売り同然に、けんもほろろに追い出され、媒体説明をするどころではなかった。こんな事は、しょっちゅうあったので、美子は別にどうとも思わなくなっていた。


この広告の制作過程には、次回のテーマ企画説明と見積書の提出に始まり、そして取材、原稿プレゼンーション、文字校正、ゲラ色校正と校了、請求書提出、掲載見本誌提出と実に、この後約一ヶ月掛けて、7回も村瀬に会って、一緒になって仕事をすることになっている。当然、顔を合わせる回数も多くなるから、出会う度に人間関係も密になる。


とりわけ村瀬に好意を持っていた、岡田美子は、長堀橋に行くのが楽しみになる。また、理性では押さえきれず、知らず、知らず自然に体が火照るのを自覚するようになる。


「おはようございます。村瀬純一社長さま。今日は、最後の色校正ですから、念入りにご覧になって下さいませ」


とシャッキッと元気に言って、校正紙をテーブルの上に広げる。

「岡田はん、うちの製品のなあ、このミニスカートの黄色は、向日葵のようにもう少し鮮やかにして呉れへんかなあ」

と校正紙に顔を近づけて言う村瀬に、岡田美子も同じように顔を近づけて、校正紙に見入る。村瀬の、頭髪からは品のいいラベンダーの香りがする。一瞬、岡田はクラクラッときたが、辛うじて理性を保つ。そして、無事に原稿は校了となる。


「美子はん。本音やけど、今回のこのテーマ取材した記事広告やけどなあ、これは仲々いい出来やで。反応がワシも楽しみや。反応のハガキがなあ、550枚を越したら、岡田はん。ワシが、夕食を奢りたいんやが、どや受けて呉れるやろ」

と村瀬は地金を出して満足そうに言う。

「あら、いいですわね。勿論、純一様となら、喜んでご一緒させていただきますわ」

と胸を張って答える。そして、体の芯から何かが走るのを、美子は感じざるを得なかった。


4. 村瀬の招待

それから、2カ月後の初秋に、テーマ取材本の「ムック」が、予定通りに発行された。問題の、広告反応数は、何と549枚だった。美子は、北村英子以外の、営業2課の同僚達である、吉田、中野、田村という3人の住所氏名を借り、書体を変えて記入したものを紛れ込ませて、返信ハガキを552とした報告書を作成する。


しかし、いずれにしても、この程度の広告で、返信が500枚以上というのは、ブレーン社の媒体の中でも、事実、素晴らしい成果である。折角の、村瀬の申し出を無駄にはしたくなかったから、今回は、神様は許していただけると念じて、岡田美子は掲載見本誌や請求書と共に報告書類をひとまとめにする。そして、銀杏の葉が色づき始めた今日、金曜日の夕方5時、村瀬と会う約束だ。


彼女は、北陸特有の、色が白く、見た目ほっそりで、鼻が細くて高い。顎が少ししゃくれて、二重の目は切れ長で大きく、瞳は薄い茶色だ。彫りが深いので鼻から目にかけて、少し、ロシア系が入っているように見える。母一人、子一人の家庭で育った薄幸の人だが、真面目な努力家である。父親は、彼女が小学生の頃、外に女を作って家庭を放り出した。母親の民子は、雪深い柏崎で、学校の給食婦をしながら美子を育て、そして、我が子の幸せだけを願い、美子にだけはと、大阪の短大まで卒業させたという人だ。


美子は、雪が嫌いで、小さいときから、柏崎を出て大阪で働くのを夢見る。大阪が、父親の出身だったからだ。そして、いま夢が叶い、広告会社ブレーン社の第一線営業レディーとして活躍する日々となっている。今のご時世だから、男関係が無かったといったら嘘になるが、学生時代を含めて4、5人の男性と付き合い、その内2人とは肉体関係を持ったが、美子には、何か物足りなかった。だから、それ以上には発展することはなく、今は一人だ。


村瀬物産に、約束より少し遅れて着いた。

「ごめんなさい。約束より少し遅れましたわ」

「反応数が足りへんよって、それで今日は、もう来てくれへんのかいなあと思ってたがなー」

「お約束通りの552名の書類と、掲載見本誌、それに大事な請求書ですわ。フル・カラー4頁のテーマ企画の返信ハガキ付きですから、合計で650万円になりますわ。純一社長さま、どうぞ、よくお確かめになって」

美子の今日のファッションは、いつもの濃紺のOLスーツでなく、シルクの淡いセピア地色に、渋い色の薔薇の花柄模様で、裾の広がったワンピース。淡い白のタイツに白のハイヒール。美しい顔に良く似合った、ノースリーブで胸の膨らみがよく映える、シック&エレガンスなファッションだ。イヴサンローランの薔薇の香りがほのかに漂う。

「君の言うた通り、新聞広告の4倍の反応になったなあ。岡田君の御陰やで、ありがとう」

「ありがとうございます。私もホッとしましたわ」

「美子はん、お金はなあ、締め日に、指定の銀行に振り込むように、経理の部長に指示しておくさかい、安心しいや。それから美子はん、今日はもう会社に帰らへんでもええんやろ。そんなら、早速いきまひょか。車を持ってくるんで、下でチョット待ってて呉れへんか」

そう言って、下で待つ岡田美子の前に、シルバーグレイのBMWスポーツを乗り付ける。

「今日は、美子はんは、お客様やから」と言って、助手席でなく、リアシートに彼女を座らせて、車を加速する。紳士的な配慮に、美子も安心する。

「南港のホテルなんや。友人がオーナーシェフをやっている、美味しフランス料理店があるんや。年代物のワインもなかなかのもんやで。佐藤知也という名でなあ、ワシの早稲田時代の友人や。卒業と同時にフランスに渡って、知己のあったカルチェ・ラ・タンの4つ星レストランで8年間修業したんやてー。おとうはんも料理人や」

『南港なら打ってつけだわ』と心の中で、彼女は相槌を打つ。

普段の村瀬になく、低い艶のある声で饒舌に語る。

「それになあ、美子はん。ご時世やなあ。佐藤君の方が、実質の年収額はワシより多いんやで」

「せやけどなあ、8歳年下の若い奥さんと、最近離婚しょったんや。なんでも、顔はかわいいが、大変気の強い子で、相性が悪うてなあ、どうにもならへんかったようやで。確か、名前は、北村英子とか、言うとったよ。えつ、ワシか、ワシは勿論、まだ独身やがな。ああ、ここや、ここや、着いたで。あんたになあ、ワシは参ってしもうたわ。ワッハッハッ」

ここで、村瀬の口から、北村英子の名前が出るとは想像もしなかったが、岡田美子は、純一との浅からない因縁を胸に感じたが、北村のことは、言わずに伏せておこうと思った。


5. 岡田美子の仕掛部屋

気が付くと、彼女は中埠頭のマンションの自分のベッドで横たわっている。送ってきてくれた村瀬を部屋に招き入れ、ベッドを共にしたことまでは記憶しているが、そこから前後の記憶は、途切れている。ビールの薬が効きすぎたのか、思い出せない。


久方振りに本気になった情事だったので、頭が朦朧として、キット、彼のとコップを間違えたのだ。時計は、土曜日の朝4時を指している。体がけだるい、皮膚もべとついている。形のいい胸の隆起と臀部をした、肌の白い、見事な肢体を起こす。風呂場からはシャワーの音がする。純一だろうか。シーツで体の前を隠して聞く、


「誰、そこにいるのは。純一さんなの」


「私だよ、美子」


エェッ、母親が居るではないか。


「ああ、かあちゃん、居たの。あの人は、どうしたのかしら」


「ああ、さっきお前と一仕事してからのう、お前がグッスリ寝てしまったので、シャワーを浴びてから、気付けに、冷蔵庫にあった冷たい牛乳を飲んでから、帰ったようだよ。そこの風呂のマジックミラーから、いつものように、お前達の顛末を観察していたから。間違いはないよ」


彼女は、ポートタウン西にあるマンションを続きで2戸分購入し、一方に自分が住み、他方に母親の民子を住まわせている。世間には、親子ということも内緒にしてある。しかし、お互いのバスルームの大型鏡の裏に仕掛けドアを作り、このドアを通して、相互に行き来できる様に改造して、仕掛部屋としたのだ。


母親の民子は、年齢が今58歳。給食婦の仕事は、50歳でうち切られ、柏崎の田舎では、民子一人では到底生活が出来ずに、美子が一計を巡らして、5年前に柏崎を引き払い、家も処分して3年前から南港のこの仕掛部屋で、一緒に住むようになったのだ。マンションの購入資金は、彼女がローンを組んだ。そして二人は、この部屋を舞台に、世間を欺く、驚くべき秘密の行為をしていたのだ。


夫に捨てられた民子は、美子を大阪に送り出し、短大を卒業させる為にと、辛酸を舐める。給食婦の給与だけでは、どうしても金が足りない。田舎では他に仕事もなく、男から金を巻き上げるしか手がない。


そこで、民子は、睡眠剤を飲ませて何人かの男と関係を持ち、男が正気を無くしている間に、金を取るのは無論のこと、妊娠したので堕胎するから金を寄越せよ、でないと世間にバラスぞと嘘をついて、更に男から金を巻き上げるという手口で金を作っていたのだ。


美子が、短大の2年のある夏休み、民子に連絡せずに柏崎に帰ったとき、男と同衾している民子を、彼女は目撃する。そして、その哀しい手口の全てを民子から聞き出したというのである。


美子が連れ込んだ男と同衾しているとき、民子が密かにバスルームの秘密のドアを通って、美子が用意したビールの入ったコップの片方にだけに、ハルシオンの液体を注入するという方法で、男の記憶を消すのだ。


それは、このマンションまでの道順、そしてこの部屋の場所の記憶を消すことで、後々の脅迫をし易くすると共に、男からの仕返しから逃れるためだ。また、いざという時には、民子の部屋が美子の逃げ場ともなり、また民子が男の暴力から助けに来てくれるようにと、美子が考えた巧妙な仕掛である。


村瀬との出会いのように、ブレーン社での実際の営業活動を通して、知り合った男が、彼女の本当の、自分のビジネスの客となる。主にそれは中小企業の社長だったが、彼等と会社の仕事を成功させ、村瀬と同じようにして、食事に誘わせるのだ。そして、美子のフェロモンで彼らを酔わせ、結局、彼女のこの部屋まで送りに来させる。最後に、ハルシオンの入ったビールを飲ませ同衾し、民子の使った手口と全く同じ手口で、今まで30人強の男達を食い物にしてきたのである。驚くなかれ、金額にして、約6000万円強の金を、それで稼いでいたのだ。


6. 村瀬への脅迫

美子は、今までになかったことだが、あの南港の自分の部屋ではなく、玉造にある「ミレージュ」という目立たないホテルで、その後も月に2、3回ほど、村瀬純一に出会って情を交えていた。もう出会えないとなると、体が自分の体でなくなり、頭がおかしくなるからだ。


それは、2カ月ほど続いた。そして、母性がとうとう妊娠する。しかし、理性では生むわけにはいかない。そして、ついに村瀬への脅迫が、始まったのである。村瀬には、心底申し訳ないとも思ったが、母親との共同生活の為には、いた仕方がない。生活費も、二重のローン代も要るからだ。いよいよ、それは哀しくも始まる。


秋も終わりのある日、村瀬物産の受け付けに岡田美子の姿があった。電話でなく、敢えて直接乗込みという方法にした。これが、彼女のやり方である。

「純一社長に取り次いで下さらない」

「分かりました。あなた様は」

「美子と仰れば、分かるはずよ」


暫くして、村瀬が応接間に出てきた。

「どないしたんや。久しぶりやなあ。美子ちゃん」

間髪を入れず、単刀直入に言うのが、美子の方法だった。

「あなた、どうしてくれるの。できちゃったのよ、あなたの子供が。今、3ヶ月だって」

「えっ、ほんまかいな。ほんまにワシの子か。信じられんなあ」

「そうよ、あなたが私の部屋でした時の子よ。覚えているでしょ」

「あの時はなあ、あんたは酔っぱらっていて、大変だったんだぜ。本間に、始末が負えんかったよなあ」

「そうなの、私は酔っている時の方が確率が高いのよ。だって、大好きな純一さんの、その貴方のジュニアが本当に欲しかったのですもの。私の、苦しい胸の内を分かっていただけるでしょ。私は、もう生むつもりで、病院にも手続きをしてきたのよ。あなた、いいでしょ」

「げえっ、それだけはやめてーな。あんたには、言うてーへんかったけどなあ、ワシはなあ、そろそろ今が年貢の納め時や。知ってるやろ、この前に一緒に食事した店の、あの佐藤君の妹となあ、来月に結婚する予定なんや。金の面でも、助けてもらえるしなあ。ワシの会社もシンドインよってに。分かってーな」


スルドイ目を一層引きつらせて、村瀬はいう。


始めての、純一の本音を聞いて、美子は気弱になりかけたが、かねてからの母親の強い口調で言い聞かされていた。

「おどごは、最後はだれでも逃げよるんじゃ。そこを、切り札を出して、もう二押しするんじゃぞ。負けたらあかんよ」

これを思い出し、唇を噛んで、もう一言を彼女は、押しまくる。


 「そんなこと、私とは何の関係もないわよ。こちらは、純一さんの子が出来ちゃっているんだから。じゃあ、生んでもいいのね」


純一も、美子の真剣な言葉にぐらつく。


「ワシをいじめるのはやめてえなあ。どないいうたら、分かつてくれるねん。ホンマもう、勘弁してえなあー。なんとか、生まんでも済むようにならへんのかえ」


「だったら、手術費と慰謝料を込みで350万円を貰えるかしら」


「えつ、なにをぬかすじゃ。このアマ。350万円寄越せやと。じょー、じょーだんじゃないぜ。お前なあ、最初から、ワシを騙すつもりやったんやろ。今から警察に行こか」


男と女の修羅場の始まりだ。


「貴方、何を言っているの。これを見て下さらない」

美子は、最後の切り札の、仕掛部屋のマジックミラーから民子がデジカメで撮影した、美子と純一との淫らな同衾写真を見せた。

「げえっ、どないなっとんねん。こないな写真、誰が撮ったんや。ネガ、ネガはどないなっとんねん」

相当に、村瀬は慌てふためいている。

「馬鹿ねえ、デジカメ写真だから、ネガはないの。URLに、もう入っているかもよ。貴方が拒否すれば、公開するわよ。もう、絶対に逃げられないのだから。貴方のご商売にも差し支えるわよ」

「ほんならなあ、せめて、200万円に負けてえなあ。どないや、なあ他人やないやろ、美子ちゃん。たのむわ。悪かった、ワシが悪かったんや。ほんまやで、マケてえな」


純一の最後のあがきだ。ここで押すと全てが壊れると、美子は母親から教わったノウハウも知っていた。

「私の、大好きな純一さんの子供だから、絶対に生むわ。だけど、貴方がそこまで言うのなら、仕方がないわ。残念だけど、堕胎するわ。それからね、時々なら私の部屋に来ても良いからね。合い鍵を、純一さんに渡して置くわ、どうぞお使いになってね」

こう言って、合い鍵を渡す。純一との別れが辛いのだ。せめてもの罪滅ぼしということか。

こうして、難なく200万円もの大金をせしめた。今日は、中埠頭のマンションで民子と赤ワインで乾杯だ。


7. 村瀬純一の死

それから1ヶ月後が経過して、冒頭のように、村瀬純一は岡田美子の部屋で死んでいたのだ。美子が、昨日の夜、ブレーン社の勤めを終えて、例によって別のサイドビジネスの前哨戦を演じて、相方と一眠りをしてから、今朝方の午前5時に自分のマンションに戻り、キーを空け、自分の部屋に入った時に、村瀬の死体を発見したというのだ。


母親の民子は、一昨日から季節替わりの風邪から肺炎となり、病院に入院している。その間に村瀬が、持っていた合い鍵で美子の部屋に入ったということらしい。


何故、自分の部屋で村瀬が死んでいるのか、見当が全く付かない。自殺では決してない。他殺か、他殺なら、犯人はどこから入って、どこから出たのか、その痕跡すらない。合い鍵は、村瀬以外には渡してはいない。これは、間違いのない事実である。しかも密室状態での、殺人である。

では、岡田も母親の民子も留守の間に、誰が美子の部屋に密かに入り、そして誰が村瀬に青酸ソーダを盛ったというのか。

その死体は凄惨を極めていた。ドス黒い顔の、死んだ目は虚空を睨み、両手は首筋を掻きむしり、首にミミズ腫れさえ起こして硬直している。ズボンの後ろには大小の便を漏らしたらしいシミと強烈な臭いも放っている。

余程苦しかったのだろうか、辺りの床には吐血と胃からの吐出物が辺り一面に散らばっており、加えて異様な臭気をも漂わせている。

美子は、思わず卒倒しそうになり、秘密部屋の母親に助けを求めたが、勿論のこと不在だ。会社に行くどころではない。

村瀬を一目見たときから尋常ならざる感情の高ぶりを押さえきれなかった彼女は、自分が村瀬を揺すって金を取ったことを深く反省し、そのことが今回の結果を招いたのだとしか、自分には考えられなかった。

村瀬を思う気持ちと、自責の念に支配されて、美子のデリケートな精神は放心状態に漂っている。どうすればいいのか、彼女には判断が付かない。2、3時間もウロウロするばかりだ。

そして、その朝9時過ぎに、心配した田村昭子から、出勤してこない岡田に電話があったという訳である。


8. ホテルの一室

事件があってから一月後の、クリスマス・イブに近い、ある金曜日の夜のことだ。住之江公園の南側にある、ファッション・ホテル「レスポワール」の1室に、何と言うことか、裸当然の秋元茂と田村昭子の姿があった。秋元は、妻との間も疎遠になっていたので、週末の今日も、昭子と一緒だ。 


会社の近くでは、見られたらいけないと、四つ橋線の終点、住ノ江公園駅で下車して、住之江公園のすぐ南側にある、ここが二人の長年の逢い引きの場所だったのだ。職場では、昭子が秋元を嫌っていたが、二人の関係を分からなくする、昭子の偽装工作だったのである。


2人は、先程まで情を交わした、乱れたベッドに腰を掛けて、話をしている。昭子が、フウーッと大きくタバコの煙を吐き出して、秋元に聞く。

「茂さん、それで、結局のところ、幾ら稼いだのよ」

「金のことか。そうやなあ、美子から、昨年の最初の頃はー、月に30万円ぐらいでー、今年になって、月に50万円程は貰っているかなあ」

「ズル賢いわねえ、あんたは」

「まあな。そうさなあ、バード・ウォッチングを装って、岡田の部屋を監視していて、偶然に俺が、見つけたんだぜ。美子のサイド・ビジネスを。最初は、美子も玩として否定していたが、仕掛け部屋のからくりまで、母親・民子の役割まで、俺が知っていると分かって観念したのさ。それから先は、従順になったぜ」

「それで、皆で幾らになったのよ」

「最初の一年が大体360から400万円か、今年になって全部で600万円位ということかな。皆で1000万円いくか行かない位か。大したことはないわさ、奴らの稼いでいる金に比べれば」

「へえ、スゴイじゃない」

「そりゃそうさ、お前とのホテル代も要るし、服とか指輪も買ってやらないかんし、ローン代も払わなくっちゃいかんしさ。俺も大変なんだよ」


彼等は、秋元が着任して、殆どスグに男女関係となったのである。大抵の男から、見向きもされなかつた年増の田村昭子に、秋元が偶々乗り合わせたエレベーターで、例によって彼女にヒップタッチをしたのがキッカケとなった。職場では、二人の関係を隠すために、ここ4、5年もの間に渡って、意識して、わざと秋元を嫌っていたのである。


「それでさあ、村瀬純一をやったのも、茂だろ。絶対に、そうだよ」

「なんで、分かるんや」

「だって、美子は村瀬さんと結婚したいしたい、とばっかり言ってたんだよ。純一さんも、本当は美子が好きだったし、佐藤知也さんの妹さんと結婚するという話も、後で壊れたんよ。

だって、愛情のない、お金が目当てのお話だったからさ。妹さんの方から断りを入れたらしいよ。だから、結局は、美子が、純一と結婚したら困るから、やろ。結婚したら、月50万円の稼ぎがパアーになるしさあ、あんたも干上がってしまうもんね」

「さすがやなあ、お前は。あっちの方だけはスゴイが、年増で顎張りのお前には、絶対に分からんやろ、と思っていたが、判ってたとは驚きやで」

「なによ、年増の顎張りて、誰のこと言うてるの。うーん憎い人ね」


2服目のタバコをふかしながら、そう言って、昭子は秋元茂の脇腹を肘で軽くツンと突っつく。

「それで、どういう方法で殺ったのよー、教えてよ。密室殺人よ、住之江署の刑事も、感心して言っていたわ」

「その方法だけは、お前にも絶対に明かせないな。殊にお前には、お前は、まだ警察に呼ばれている身分だぜ。この事件はなあ、密室殺人の完全犯罪として迷宮入りになるのや。そして、釈放された岡田美子は、これからも俺に目つぶし代をビジネスの続く限り、ズーット払い続けることになるという寸法や。分かるやろ」

「まあ、大した悪人だねー」

「それからなあ、犯人が捕まるまでの間は、これからでも、お前は、警察に何回も何回も呼ばれるぜ。だって美子があの調子じゃ、話にならんやろ。だからなあ、俺のことは、どんなことでも一切話すなよ。絶対にだぞ。会社の中でも、一緒やで、言うなよな」

「うん、わかった。分かったからさあ、あんたあー、はやくうー」

鼻声でそう催促して、再び、昭子は秋元を導くのである。


9. 住之江署の取調室

秋元の予想通りだった。それから即に、田村昭子は、週明け月曜日の午後に事情聴取をしたいから、署に来るようにと、住之江署の関根刑事から電話で呼ばれた。


「度々に、お越し頂いて、申し訳ありません。もう一度、伺いますが、貴方が村瀬純一の死体を発見した時、岡田美子の様子はどんなでしたかねえ」

「前にも、言いましたように、両手をだらりと下げて、目も据わって、異様な雰囲気でした。ええ、勿論、手には何も持っては、いませんでしたが」

「部屋に誰か人がいませんでしたか。或いは、誰かが隠れているような雰囲気があったとか、何か気付かれませんでしたかねえ。どうですか」

「確か、部屋には、私と岡田さんの他には誰もいませんでした。無論、隠れているような気配とか、物音も全く、しませんでしたわ」

「矢張りそうですか。ああ、それから、警察に第一報を下さったのですが、その前に、誰かに言いませんでしたかねえ、事件のことを」

「そうでしたわ。課長の秋元さんには、一番最初に、電話をしました。だって、勤務中でしたし、課長の許しを得て、美子の部屋までタクシーを飛ばしたのですよ。当然でしょ」

「成る程ねえ。ところで、秋元さんとは、どういうご関係ですか」

「えっ、どういうことですか。課長と課員と言うだけで、何もありませんわ」

「そうですかねえ。話は別ですが、田村昭子さん。先週の金曜日の夜には、秋元茂と、そこのファッション・ホテルのレスポワールに居ましたね」

「ええっ、何を仰るのですか、何のことですか。いませんわ、そんな処に。誰か、別人でしょ」

「いえ、貴方のその顔は、目立ちますからねえー。それに、前に会社に伺ったときに、秋元茂にも、私は会いました。先週の金曜日の夜、9時過ぎに私が見た2人は、間違いなく貴方と秋元です。私の目に狂いはありません。愛用のデジカメでも撮影もしましたよ。何だったら、お見せしましょうか」

突然に、真実を言われたので、昭子は思わず赤面している。


「それに、ご存じなかったようですが、ここの住之江署から、レスポワールの入り口は丸見えなんですよ、昭子さん。ワッハハハー」

「えっ、ホントですか」

昭子は、観念した。更に、続けて刑事が言う。

「それに、ラッキーなことに、レスポワールの経営者の謝文夫君は、私の友人でねえ、貴方の顔を見てスグに、謝君に電話して、盗聴器も部屋に仕掛けて貰ったのです。あなた達が入った部屋は、実は盗聴器付きの部屋だったのですよ。お陰で、大変に激しいのも聞かせて貰いましたよ。貴方達の会話は、残らず全部、録音されていたのです。どうですか」

「ええっ。本当ですか・・・・・・。それでどうすれば、いいのですか」


「秋元茂のことです。その後、何か言っていませんでしたかねえ」


「何をですか」


「実はねえ、村瀬純一が飲んで、こぼしたコップの縁に、小さな小さな小鳥の羽が一枚、付着していたのです。秋元は、小鳥を飼っているでしょ」


「さあ、見るのが趣味だとは聞いていましたが、詳しくは、知りません」


「我々も、テープで聞いたあなた達の会話から知って、昨日の日曜日に、美子の部屋のからくりも全部確認しました。

だけと、殺人の方法が、密室殺人の仕掛けが、今ひとつ、分からないのです。明日ね、秋元を逮捕して吐かせますが、その前に、貴方から先に、事前に調べて、裏を取っておきたかったのですが。そうですか、ご存じないか」


10. 仕込まれた手乗り文鳥

翌日、秋元は逮捕され、住之江署の関根刑事から厳しく取り調べを受ける。頑として、口を割らなかった秋元も、田村昭子が吐いてしまったと、嘘の話で誘導尋問され、気の弱いこともあって、とうとう、経緯を吐いてしまうことになる。それは、次のような、驚くべき方法だったのだ。


関根刑事の質問に、彼は答えていう。


「私は、小鳥マニアになってしまったのです。子供の頃、秋祭りの神社の境内にやって来ていた、見せ物小屋や食べ物屋に混じって、私は、ある老人が見せる、手乗り文鳥の芸を見ていました。手乗り文鳥が、老人の突っつく箸先の合図で、老人の手の中に置いてあった[おみくじ]を、金を払って見ている客の目の前まで運んでいく、という素晴らしい芸でした。その手乗り文鳥の芸を見てからと言うもの、私は、その虜になってしまったのです。母親に、小鳥を飼いたいからとせがみましたが、貧しかったので、母はそんなものに、つぎ込む金の余裕がある訳がありませんでした。当然です」

それで、どういう方法なんだよと、刑事が急かせる。

「成人して、会社勤めをするようになってから、子供の頃の夢を叶えようと、僕は住之江の小鳥屋で手乗り文鳥を購入しました。そして、子供の頃に見た芸を、仕込み始めたのです。引き出しに入っていた、おみくじではないですが、手頃な形と大きさの物として、小型の風邪薬のカプセルを選び、それを文鳥にくわえさせて、部屋の隅に置いてある、ガラスのコップに入れるという訓練をはじめたのです」

「最初は、巣箱の中で訓練していました。出来るようになってから、逃げられては困るからと、部屋の窓を閉め切って、僕が使っていた八畳間でやります。帰宅後には、毎日、毎日、僕の日課となっていったのです。妻との間も疎遠になり、諍いも起こります。手乗り文鳥の大好物の、椎の実を用意しておいて、カプセルを喰わえることが出来たら椎の実を一粒やり、これを何回、何回も繰り返して、好物の木の実で釣って、訓練するのです。今では、手に載せた文鳥の尾羽に触るだけで、僕の手乗り文鳥は、同じ手の上に置いてあった、カプセルを喰わえて、部屋の隅に置いてあるコップにそれを落とし、そして再び手の上に戻って来るという芸が、完全に出来るようになりました」

驚くなかれ、大好物の椎の実に釣られて、秋元の手乗り文鳥は、今では、完璧に、これをやってのけるまでに訓練が出来ていたのだ。


再び、関根刑事が急せる。

「それで、薬はどうしたのだ」

「西脇に住んでいた子供の頃のことです。友人から、彼の家にある小瓶に入った、或る粉末の薬品を貰って、一緒に川に遊びに行ったものです。ほんの少しだけ、川にその粉を落とします。すると、魚が一杯、浮き上がって来るのです。こんな遊びを、友達とよくしていました。その薬ビンは、大事に今でも持っています。いつ、役に立つかもしれないと思っていたからです」

「西脇では、その子の家は裕福で、割と大きなメッキ工場を経営していましたよ。当時は、何んの粉末か、知りませんでしたが。後日に、それが青酸ソーダだと知りました。メッキ工程の洗浄液に使っていたのです。しかし、面白いように、魚が浮き上がってきましたよ」

「それが、とうしたというのだ。どういう方法で、村瀬をやったのか、早く結論を言えよ。おい、お前」

「はい、済みませんでした。岡田美子と村瀬が結婚するかもしれないと分かって、村瀬の殺害を決心しました。理由は、刑事さんが聞いた録音テープの通りです」

「それで」

「はい、岡田美子の部屋の、ドアの新聞受けの処まで、来た私は、丁度、都合良く村瀬が部屋にいることを知ったのです。タクシーを飛ばして、市岡の家に置いてある手乗り文鳥の入っている鳥籠を取りに帰り、人知れずに、それを抱えて再び、ここに戻りましたよ。覗くと、村瀬はまだ部屋に居て、コップでビールを飲んで、酔っていました」

「成る程、それで」

関根刑事が、結論を急かす。

「この時のためにと、用意しておいた、青酸ソーダの小さなカプセルを出して、私のキャリーバッグで自宅から運んだ鳥籠から、手乗り文鳥の、かわいいピー子を取り出しました。普段から訓練しているので、飛び立たないし、さえずることもしません」

「そして、普段の訓練のように、ピー子にカプセルを喰わえさせて、村瀬の飲んでいたビールのコップまで運ばせたのです。その時、村瀬が小鳥に気付いて手を挙げたときに、小羽が落ちたのでしょう。これが、失敗でした。後は、刑事さんの推察の通りです」


<エピローグ>



『そして、この事件の関係者の処分は次の通りとなった。秋元茂は、第一級の殺人者として起訴され、現在裁判を受けている。岡田美子と民子は、売春防止法違反と恐喝容疑で、現在もまだ取り調べ中であるが、岡田美子の精神状態がすぐれない為に、取り調べが長引いていると聞いている。


一方、田村昭子は、事件とは無関係であると判明して、勿論、無罪となった。そして、驚く無かれ、彼女の一番最初の男であったという、高松に飛ばされた田淵一彦と所帯を持ったというのだ。実は、田淵が、宮下春子との関係を偽装して、本当に好きだった昭子を退職されないようにと、工作していたのである。その昭子は、大変に辛抱強く、賢い女性で、秋元を上手に誑かして、彼が岡田から分捕った金の半分以上は、実は田村昭子がくすねていたのだという。もしかして、秋元も、この田村昭子に踊らされていただけかもしれない。四国の高松で、田淵一彦との間に一子も授かり、落ち着いた、悠然たる生活を送っている、この田村昭子こそ、事件の首謀者だったのではと、筆者は想像している。


何、私ですか。私は、岡田美子の好きだった村瀬純一の友人である、佐藤知也です。この小説は、村瀬君へのレクイエムであります。村瀬君、どうぞ安らかに眠り賜え・・・・』


今日も、岡田美子は、西の空にひときわ大きな流れ星を見つけて、胸の前で手を組みつつ、じっと暗い空を見上げ、流れ星の軌跡を目で追いかけている。その目尻からは、一筋の涙が零れる。




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