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(BGMは、Celene Dionの Just walk away.)


(3)そして悔恨の日々

Written By Dengakudan



1. 特命事項の発令


特命とは、特別命令の任務のことである。会社に於いては、社長から特別に任命された業務のことで、通常は組織を通さずに、社長から、特定の個人に直接に命令が下る。

因みに、この命令が下ったことと、その命令の内容については、この当事者2人以外の者は、全く知らないことが多い。ただ、下った命令が、時たま社長自身の真の腹心の者に伝えられているケースが、たまにある。加えて、大抵は、ある特定個人の素行、思想、業務の遂行状況、仕入先等社外取引先との関係、などについて秘密裏に詳しく調べ、依頼者である社長にだけ報告する、ということを指している。所謂、企業内でのスパイ任務という、恐ろしい仕事である。


ロミー商会の江嶋社長から、この物語の主人公である田淵英一に、特命事項が下ったことから、田淵の不幸が始まった。ひとえに、田淵の愚直と無知から生じた彼の人生のシミである。否、汚点である。そして、このことがあってから、彼の人生は暗転を始めることになる。いや、本当に、彼の性格と能力に関わる問題だけであったのだろうか。


篠原三郎は、田淵英一がロミー商会に勤務していた頃の、2番目の上司である。西新橋のガード下の安い飲み屋で、焼酎のソーダー水割りをしこたま飲んで酩酊し、荒んでいたその男は、テーブルに俯せになりながら、今日もこう言っている。顔は、定かに分からない。


「クッソーあの野郎。その名を聞きたくもねえよ。奴だぜ。吐き気さえ催してくるんだようー。もう済んだことで、思い出したくもない遠い話さ。おい、放っておいて呉れねえーかい。みんな、俺が悪かったのさー。今日もハローワーク通いだよ。もう、かれこれ1年になるんだぜ、あの野郎・・・・」

ロミー商会を事実上に首になってから、ハローワーク通いを始めて、かれこれ一年になろうとしていた。ほんの少しあった蓄えも底を突き、妻との諍いも毎日のように起こっている。


篠原というのは、元々は、印刷業界大手の日版印刷という会社の営業マンだった男だ。額が驚くほど狭く、顎が張って、分厚い唇が受け口になった、精力家的な風貌の小男である。当然のことだが、印刷作業行程の各プロセスや見積の仕組み、そして印刷原価に、大変詳しい。


当時のロミー商会では、1種類で最低でも30万部を越えるという多部数の印刷物を、しかも多種類に渡って印刷物を発行していた。そして、印刷物の総発行部数は3000万部程度あり、また印刷経費は当時の金で何と150億円以上にも達していたのである。この印刷経費の1割がコストダウンできれば、15億円の粗利が手に入るという訳だ。ここに目を付けたのが、江嶋社長。


偉大なる素人集団と自称していたロミー商会の社員達には、印刷に精通している社員はいなかった。ロミー商会の江嶋社長は、そこに着眼して、印刷のエキスパートとして、真意は印刷のコストカッターとして、日版印刷側のロミー商会担当の営業マンであった篠原を、自社の社員としてスカウトしていたのだ。


尤も、印刷に限らず、その他の編集や出版、工務、経理、財務、人事、営業等の要職は、江嶋自身が足で歩いて、口説いて集めた人材で占められていた。


当時、田淵英一もある電機会社の宣伝部から転職して、上手に泳いで、当時在籍していた編集企画部の次長にまで登り詰めていた。田淵がソフトを制作する側のNO.2の責任者であり、篠原はそのソフトを印刷物にするハード部門の責任者で、編集管理部という部署の部長をしていた。


ロミー商会で、田淵の1番目の上司である編集企画部長の林という男は小心者で、当時、飛ぶ鳥を射落とす勢いで活躍していた田淵から、やがて自分が追い落とされるのではないかとの恐怖心に取り付かれ、為に田淵をイジメ倒して蹴落とすことだけを目的とした、紙面で紹介するには恥ずかしい限りの、陰湿でかつ悪質な行為を田淵にしていた。


だから、田淵と林との人間関係はうまくいく筈はなく、林の部下であることをすら、田淵は悩んでいたのである。このことに気付いたロミー商会の江嶋社長は、ある日突然に田淵を社長室に呼んでこう言ったのだった。


「君も知っているように、当社の売上高は1700億円を超えた。しかるに、利益率は年々歳々低下している。2000億円にも近づく売上高になると、利益は黙っていても、自然に増えてくるものだ。しかるに、それが低下傾向にある。


更なる印刷経費をコストダウンする目的で、篠原君に来て貰って、ロミー商会で色々とやって貰ってはいるが、未だに、なかなか思うように印刷コストが下がって呉れない。だから、印刷コストを下げることが、我が社の当面の目標である。多分、前の印刷会社の連中との人間関係が出来てしまっているから、それの所為で、篠原君には、コストダウンの為の思い切った鉈が振えないのではないかと、私は想像している。いや、もしかして、もっと他にも、何か特別の理由があるのかも知れない。


そこでだ、田淵君。君に篠原君を監視しつつ、大幅に当社の印刷経費を削減する方策を見出して貰いたい。これを、君に対する私からの特命事項として、受け止めて欲しい。これからの、君の新しい仕事がこれだ。林君との過去のしがらみを捨てて、これからは編集管理部の次長として、総勢85名の部下を率いて、この新しいテーマに向かって頑張って呉れ給え。君なら、やってのけるだろうと、私は睨んでいる。思い切ってやってくれ給え。成功を期待しているよ」


江嶋社長はそう言って、田淵を部屋から遠ざけた。


2. 篠原三郎の入院

 田淵が江嶋社長の特命を受けて、新しい部署に着任して直ぐの頃のことだ。かねてから胃潰瘍を患っていたという篠原は、ある日突然に、口から胃潰瘍特有の真っ赤な鮮血を多量に口から吐いて入院した。


役員連中は、酒好きだった彼の、以前からの胃潰瘍が、酒の飲み過ぎで、急に悪化したのだろう位に思っていたようだが、田淵は、彼の着任目的に感づいた篠原がその為に神経を病んで、ストレスを溜め、潰瘍が急速に悪化したからではないかと、深読みをしていた。従って、篠原が、裏で相当にあくどいことをしているに違いないとの先入観を、最初から田淵は、幸か不幸か持ち合わせることになっていたのである。


田淵の着任以外に、彼がストレスを倍増する要因は、他には見当たらなかったからだ。そして、田淵が着任してスグに入院となり、それからほぼ3ヶ月間というもの、彼は胃潰瘍の手術と術後の療養で入院したままになってしまう。開腹手術の結果、胃ガンではなく、単なる胃潰瘍であったが、潰瘍は大変にひどい状況で一部が胃穿孔になっており、そこから激しく出血したとの主治医の見立てであった。


着任後スグに、田淵も病院に見舞いに行った折りに、主治医から直接に聞いた報告である。篠原が、一番恐れていた胃ガンではなかったから、彼にとっては不幸中の幸い。しかし、本当にそうであったのだろうか。


 彼が入院している間に、田淵は、当部が関係している印刷会社の全部、製紙メーカーや製紙卸売会社等の紙屋関連、製本会社等へのここ2年間に渡る全ての見積書、発注書、指示書のファイルの全部を、大滝という名の当部の印刷管理課長に提出させた。


そして田淵は、これらを一ヶ月間かけて詳細に調査を実施した。しかし、誠に残念なことに、特段に不可解な疑問点は、ついに発見できなかったのである。


発注価格も、見積書も、請求書も、経理への支払い依頼書も全て正常で、特別問題と感じる疑問点は全く発見できなかったのだ。ただ一点、不思議なのは、印刷会社が6社、紙屋が4社、製本会社が5社と発注先が、思いも寄らぬ程の多岐に渡っていたことが、誠に奇妙な印象であった。Whyである。


『後は個別の印刷会社、紙屋、製本屋と個別に交渉して、発注価格の引き下げを計るより仕方がないか。方法として、発注会社が全部で14、5社と多岐に渡っているのを、2つ、3つの総合印刷業者に集約させることで量を確保してやれるし、また単価も下げられる筈だろうと思う。

また或いは、素人考えだが、印刷も用紙も製本も全部を総合してある特定の印刷会社に発注することでコストも下げられるのではないだろうか。当面、分散しているのを集合させることしかないだろうな。分散から集合が方針だな』


と田淵は考えた。しかし、こんな方法は誰でも考えるごく一般的な方法であって、量販店の仕入れの方法と同じであるから、日本を代表する大手の印刷会社である日版印刷に在籍していたという元営業マンの篠原が、何故そうしなかったのかと、或いはまた何故このことに気付かなかったのかと、田淵は、大変に疑問に思い、また不思議に感じた。このことで、更に激しく彼に疑念を持つに至った訳である。


篠原三郎は、日版印刷在籍当時からの腹心の部下であった久野という62歳のご老人を、ロミー商会にヘッドハンティングされても自分の部下として、自分の仕事を補佐する顧問という立場に据えて抱え込んでいた。このご老人は、若い頃に、左の手を、肩から下全部を、印刷機械に巻き込まれるという大変な事故で遺失したが、為に当時から印刷の神様と言われていた人だ。


この人がロミー商会にいるだけで、印刷会社に対する重鎮としての役割が行使できるから、篠原は彼を重用した。ロミー商会に出入りする印刷会社の営業マンはご老人に畏敬の念を抱き、いい加減な仕事はしないだろうという篠原の考え抜いた智恵だったのだ。


篠原が入院しているとき、彼の能力を試したいとの判断もあって、一度、このご老人に、篠原は自分の考えである『現状の発注先が多岐に渡っているが、この分散している発注先の状況を、特定の大手の印刷会社に集約させることでコストは下がる筈ではないだろうか』という、この『 分散から集合へ、という田淵理論 』を老人の反応を試すべく、久野にぶつけてみたことがある。すると、久野老人は顔色を変えて苦言を言ってきたものだ。


「田淵はん。こういう大事なことはなあ、部長に相談しなはれや。勝手にやるとえらいことになりまっせ。次長はん。軽々に事を起こしたらあきまへん。気を付けんとあきまへんで」


頬の筋肉をピクピクさせながら、普段は見せたことのない真顔で、脅すような口調で彼は言ってきたものだ。このときは、まだ、久野の言うことの真意をすら、田淵は理解していなかった。


しかし、田淵には、

『分散から集合以外に、江嶋社長の特命任務を実行できる方法は、他にはないのではないか』

との考えに凝り固まっている。分散から集合だ、分散している現状を集合さすのだと、念仏のように、当時の田淵は唱えていた。


3.手口

      編集管理部の篠原部長の席の側に机を置いて、部署の庶務的事項を処理してくれる、また部全体の出納伝票の受付を担当している女性がいる。名前を、猪口良子という。


元々は篠原が、自ら面接して自分の秘書もやらせようとして採用した女性である。日常の業務を通して教育されてきた女性であるが、身分はアルバイター。身分はアルバイターでも、なかなかの美人で心根も優しく、記憶力も抜群で処理能力も早く正確。依って、仕事も良くできる。結婚もしていたから、部の若い社員からもお母さん、お姉さんと呼ばれて、大変に信頼されていた。


篠原の入院中には、彼女が田淵の秘書としての役割も兼務していたが、彼女が違う主人に仕えることになったので、田淵と猪口との間は何となくぎこちなく、他人行儀な関係となる。


田淵は、何を頼んでも、何か上の空で、軽くあしらわれているように感じて、心が通わない窮屈な思いをしていた。また一面、田淵が彼女に何を頼んだか、どこに電話していたのか、誰と話していたのか、どんな仕事をしているのか等が、どこかで篠原に筒抜けになっているように、感じていた。


篠原が入院中も、彼女は、篠原に届いた文書やFAX、或いは尋ねてきた人、掛かってきた電話の主とその用件、他部署の動き等を携えて、3日に1度は、篠原の病院まで出向いて届けていたからだ。部長の所へ行ってきますと、何時もニコニコとして書類ケースを抱えて、いそいそと外出するので、田淵は彼女を疑っていた。


初夏のある日のこと、輸入紙専業の渡辺紙業という紙屋と値段の交渉をして、さあ発注に入ろうとしていたとき、篠原から突然に電話が入り、田淵は怒鳴りつけられた。新規参入の紙屋ではあったが、輸入紙ではあるけれども、紙質も良いし、コストも安い。小型の非定期的な印刷だったから田淵が決めたのだ。


「田淵君、渡辺紙業とかに発注する、その発注は中止だ。これは、厳命だ。越パの中嶋営業部長との取り決めで、今期の、紙の製品別割り当てトン数は、決められているのだ。江嶋社長も先刻ご承知のことだよ。

だから、これは越パに発注することが、期初から決まっていることなのだ。勝手にいじくる様なことはしないで呉れ」

えらい、剣幕だ。

越パとは、製紙業の大手である越後パルプのことである。他の紙業メーカーとの取り決め単価よりも、同じ種類の紙で、0.8%は高く設定してある。紙には、厚味の他にも、上質紙、中質紙、コート紙等の紙質の種類がある。紙厚と紙質を同一にして比較しないと話にならない。


しかもkg幾らで価格を取り決めることになっている。1歩弱も高いということは異常な高さである。篠原の言い分は、こうだ。


「君のような印刷のド素人には、とても分からないだろうが。紙の価格は生き物なのだ。量と価格は世界的な紙市場の需給関係で変動するのだよ。我々が一番腐心するのは、我々のように紙を多量に消費する、しかも定期的な印刷物にあっては、まず量の確保が大前提なのだ。

同じ斤量の紙で安いからといって、他から買うという一過性のものではないのだよ。だから、越パとの間で価格を取り決めて、代わりに安定供給を委託していると言う訳だ。そんなことをして、越パから紙が入らなくなれば、当社の事業は成り立たなくなるのだ。こんなことも、お前は分かっていないのか。ド素人」

電話の先で、珍しくガンガン怒鳴りつけてくる。こんなに昂奮した篠原の声を聞くのは初めてだ。直感で、裏に何かあるぞと、田淵は感じた。

『痛いところに触られると人は怒るものなのだ。越パの中嶋部長とは、篠原が日版印刷時代の前職からの長い付き合いだとは、前々から聞いて知っている。ここから抜いているのかも知れない。今は、輸入紙がふんだんに入るようになって寧ろ、量の確保は容易になっている筈だ。

紙質もドンドン良くなっている。


他の出版社から聞いた話でも、コストの安い輸入紙に切り替えている会社が多い。何故なら、印刷部数が50万部を越えると85%が紙代になるからだ。ロミー商会のように、全印刷物トータルが3000万部、印刷費総合計が150億円もの規模になると、約130億円前後が何と紙代となる。130億円の1歩は1.3億円だ。これを皆で分け合っているというのか』

田淵も、素早く頭の中で組み立てる。


印刷機に掛けるいわゆる「印刷通し代」は微々たるものになってくる。いかに安い紙を仕入れるかに、このビジネスの観点があるのだ。田淵も、田淵なりに新しい視点で勉強もし、出向いて他の出版社の専門家にも話を聞いたり、印刷コスト・セミナー等にも出席して或程度のコスト削減の観点は頭に入っていた。


加えてもう一つは、田淵の持論の、「分散から集合」理論だ。紙も集合して、1社からドンと買えば、もっともっと安くなる筈だ。篠原の工作は見え透いている。


篠原は、普段から電話で、ここには触れられたら困るとの防波堤と、猪口良子から、紙について調べ廻っているということを聞いていたから、田淵にクドクドと指示を出していた。


「紙はワシがやるからな、君は製版代、通し代、原稿製作代等の印刷関連経費だけを注視していてくれればいいのだよ。一切、余計なことに手出しをしないで呉れよな。絶対だぞ」


4. 疑念と暗号

 篠原が入院しているとき、N大学に行っているという彼の息子が、一度会社に遊びに来たことがある。社員でもない者が、部長の息子であるという理由だけで、会社に来ること自体が異であるが、課長の大滝と親しかったからだ。


たまたま、偶然にもその場に居合わせていた田淵は、その派手な遊び人風の風体を見てビックリする。また、印刷管理担当の大滝課長との話の内容を聞いて、大変に疑問に思う。


大滝課長は度々、篠原部長の家に訪問していたから、特に息子とは親しい間柄の様で、篠原の息子とは友達感覚で、明け透けに会話をしている。彼等の話を、聞くともなしに聞いていた田淵は、その話から色々な情報を入手するのである。


親父が胃潰瘍の手術で入院しているというのに、①息子が親父の篠原三郎から外車を買って貰ったということ、②夏休みに一ヶ月間も、ハワイでサーフィン三昧であったこと、③親父が会員のゴルフ場で月に3回は友達とゴルフをしていること、④親父のそのゴルフ場の会員権は埼玉県下で2カ所を持っているということ、等だ。


部長といえども、篠原は一介のサラリーマンに過ぎない。家のローンを払うのに、皆は精一杯だ。なのに、この豪勢さはどうだ。直観的に、田淵は、篠原が会社から金を抜いている、或いは何かの事業をしているに違いない、と判断する材料を手に入れるに至った。問題は、どういう方法で、どれ位を抜いているかだ。そしてまた、どういう方法で、これを調べ上げるかということだ。


あるとき、偶然にも篠原の自宅に訪問する機会に恵まれた。大宮にある、鈴木製本の製本現場に立ち会いに行くからといって、大滝課長が田淵を誘ってきたからだ。


本人は、ごく軽い気持ちで、製本の現場を、田淵に見せておこうと考えて言ったことだったのではないかと思うが、他に深い意図があったとは考えられない。しかし、もしかして本当は、田淵の知らないところで、篠原の陰湿な深い意図と筋書きがあったのかも知れないと、最近になって思うことがある。


そのことは別にしても、この製本現場の見学に同行して、更なる疑惑が田淵の心の中に起こってきたのだ。そして、驚くなかれ、あろうことか田淵自信が、奥深い事件に巻き込まれる羽目となったのである。それは、こんな単純な、大滝の誘いの言葉から始まった。


「田淵さん、今日の午後にですね、大宮にある鈴木製本で、今丁度、女子産業編の製本をしていますのでね。一度、製本現場の立ち会いに、ご同行を頂けませんか。入院されている篠原部長からも、一度お連れするようにとの言付けもありましたので、今から、私と一緒に是非ご同行ください」

「ああいいよ。一緒に行こう。ところでね、その本紙の印刷はどこの工場でやったのだい」

「ああ、それは以前に説明しましたように、日版印刷の沼津工場ですよ」

『静岡の沼津で印刷したものを、どうして大宮で製本するのだい、おかしいじゃないか。産業版は50万部だから、本紙はトラック4台分だぜ。運賃も随分掛かる筈だよ。どうなっているのだ、これは』

田淵は、自問自答する。


大宮のその製本会社までは、何故か会社の下に来て待っていた大型の黒塗りハイヤーで送られることになる。えらく豪勢じゃないかと聞くと。大滝課長は平然と何でもないように言う。


「製本会社が私達のためにと、気を使ってやってくれたことですよ。雨ですし」

高速道路を使い、小一時間でその製本会社に到着する。梅雨時の、ジトジトする嫌な細い長雨も、まだ降っている。

その製本会社は、鈴木製本㈱といって、社長は鈴木義男と言う人だと大滝から聞く。鈴木社長は、今日は商用で東京に行ったとかで不在。


『ああそれで、気を遣って車を用意したということなのかな。しかし、この会社は、まるで家内工業じゃないか。誠に小さな工場で、製本会社というのには。おこがましいほどの小規模の会社じゃないかえ。よくぞ、こんな会社に発注しているなあ。大丈夫なのかい』


と、田淵は、半ばあきれ果てた。すると、大滝が聞いていたかのように言う。


「この鈴木製本はですね、実は篠原部長の奥様の弟さんがやっておられる、会社なのですよ。ここを使うようになったのは、2年前からです。篠原部長がそう決められました。何でも、鈴木義男社長は、以前は商社にお勤めだったようですが、3年前に脱サラして、この製本会社を始められたと聞いていますが」

『どういうことだよ。この大滝という奴は、ペラペラと何でも喋ってくるが。これも篠原の指金かもしれないな。こんなのは、分かった上で、義理の弟の事業を助けることが目的で、意図して鈴木製本に発注してやっていることじゃないか。こんなことは、勤め人として許されない事項じゃないのかえ』

大滝が言う

「篠原さんはですね。奥様と大変に仲がいいのですよ。部長の奥様は大変な美人ですよ。そのせいかもしれませんが、奥様の言われることに、部長は弱いのです。

だから、奥さんから弟の事業を助けてやってよと言われて、部長が一肌脱がれて、決断されたことの様ですよ。製本経費は沼津でやろうが、ここでやろうがそんなに大きくは、違いはありません。だから、義理の弟を助けるためにも協力してやってくれないかねと、私にも部長は頼まれたのですよ。僕らは、実は、人間味のあるこんな部長を尊敬しているし、また部長から頼まれたら断れないのですよ」

「ところで、この鈴木製本の製本技術には問題はないのかな。製本の歩留まりが悪いと、印刷した本紙が無駄になるから、結局トータルコストが上がることになるからなあ。その点はどうなの、大滝君」

「さすがスルドイですね。おっしゃることは、ごもっともです。当初は、半年間というものは大変でしたが、今は落ち着いてきています。歩留まりも上がり、現在は92%程度に向上しています。後、もう少しです。

しかし、僕らの気持ちを分かってくれているので、仕事がし易いし、また、納期などの点で僕らの無理も聞いて貰えますから、別の意味のメリットもあるのですよ。僕らの仕事は、最後は納期が問われるのです。ここは、イザとなったら徹夜してでも、翌日には納品してくれますからね。大手の製本屋では、なかなか、こうはいかないのが現実です。僕らにとっては、ここが、納期の辻褄合わせをするという、貴重な最後の砦なのですよ」

『大体に、構図が見えてきたぞ。身内の会社に発注することで、裏でリベートを取っているのだろうな。義理の弟からペイバックさせればいいことだから、誰にもバレない。記録にも残らない。

またどうせ鈴木製本の役員にも名前を連ねているだろうから、役員給与と賞与で取り返すこともできる筈だ。こうでもしていないと、ロミー商会の部長の給与だけで、ゴルフ場の会員権を2カ所も買える訳がないじゃないか』

『また、大宮の田舎は従業員のコストも安いし、ご当地・田舎の年輩者のパート代で済むから、従業員のコストは、日版印刷の半分以下だろうな。ほぼ、同じ製本の発注コトスとしても、販管費とランニングコストが半分以下になるだろうから、利潤が30%は増える筈だ。


なかなか上手く考えているではないか。鈴木製本が20億円の売り上げと聞いていたし、そして1割が利益だと言っていたから、その3割は6000万円か。これが、彼らの分け前だ。元商社マンが印刷の製本会社を経営するというのも、話がうますぎる。もしかして、鈴木義男というのは飾りで、実質の社長は、篠原がやっているのかもしれないぞ』

あれこれと、田淵の思惑が頭を駆けめぐる。

『しかし、大滝は何故開けっぴろげに、私に全部を見せようとするのか。ここに案内するのも、篠原の指図といっていたが、なにかここには、私の知らない裏があるのかも知れない』


田淵は、調子のいい大滝も疑っていた。


「田淵次長さん、今日の女子産業編の製本チェックは特に問題なく、スムーズに行われているのが分かりましたので、今日の立ち会いはもうこれで終わりにします。

ああ、それから、このワインはですね。義男社長から次長様に差し上げてくださいと、預かっていたものです。私の分もあるのですが、ブルゴーニュ産の10年もののワインだそうです。お越し頂いたお礼にと、鈴木社長からだそうですので、お願いですから、どうぞお受け取り下さい」

『何だと、一緒に引きずり込んで、分け前をやるから目をつぶっておけということか。この大滝という奴も、篠原に引きずり込まれた同類かい。俺にも同類になれという、暗号なのかい。このワインが』

田淵は、大滝という小僧の足を払ってやりたくなった。

この、大滝という男は大変に機転の利く、頭のいい男である。かつて、こういうことがあった。

「田淵次長さん、クイズですよ。氷が解けたら何になりますか」

田淵は、暫く考えて「水だろう」と彼に答えた。

「ブーブー、残念でした。春ですよーだ」

「次長さんの答えは、水戸の先ですね」

「なんだい、それは」

「大笑いということですよ、ブーブー」

彼に二本も取られてしまったのだ。


5.女狐、篠原文子の陰謀

その大滝課長がいう。

「部長のお宅が、ここからすぐ近くにありまして、できたら次長様と一緒にお立ち寄り下さいと、文子奥様から言われていましたので、いまからお宅までご案内します。私と一緒にご同行いただけませんか。どうでしょうかね。次長さん。宜しいですよね」

『そういうことか。まあいいか、一度、篠原の家も見ておくことも必要だから、同行しようじゃないか。大滝君のも立場もあるだろうし。まあいいか』

と思い、つとめて明るくOKの返事をする。

「ああ、いいですよ。それは、返ってありがたいことですから」

「来るときに乗ってからずっと、待たせていた先程のハイヤーに乗って、ほんの5分程で篠原の自宅に到着する。120坪程度の土地に、建て売り住宅だが、割と大きめの家で壁が白く、瓦が小豆色をした、スマートな雰囲気の家だ。


奥さんの趣味なのだろう。駐車場は、4台が留まれるほど広くて、既に2台が駐車している。なかなか豪勢なものだ。駐車場に車を置いて、大滝に連れられて玄関に着くと、彼女が立って待っている。お出迎えか。なんで、こんなに気を遣ってくれるのか。大体の想像はついているが、部長の奥さんも大変なことだ。


彼女は、篠原よりも5歳若くて、46歳になったばかりと大滝課長が説明する。すると、田淵より10歳年上だ。佐久間良子という女優によく似た、瓜二つの顔をした美人で、仲々に気品のある風情である。


『なんでこんな美人が、篠原のようなおっさんと一緒になるのだ。癪にさわるほど、なかなかのものだ。横顔が教科書で見たネアンデルタール人そっくで、鼻孔が広がり、顎が張り、分厚い唇をした篠原とは、まさしく美女と野獣の組み合わせではないか。篠原の、その精力的な雰囲気に参ったのかな』田淵は、余りにも組み合わせのギャップに感心する。


ドーンストン・ドン・ドン、ドーンストン・ドン・ドン 二階の部屋からは、ボリームを一杯に上げたステレオの音が聞こえてくる。流行っているアル・クーパーの“ I stand alone ”という曲のレコードだ。


『篠原の息子だな。こいつも、アル・クーパーを知っていたか』田淵は、独り言を言って、音の大きさに呆れる。

「田淵次長様、過日は、篠原の入院先までお越し頂きまして、お見舞いも賜りまして、大変にありがとうございました。篠原からも、よくお礼を申し上げて置いてくれとのことでした。お陰様で、術後の経過が大層よろしくて、あと20日もすれば、退院できそうですのよ。本当にありがとうございました」

「ああ、それは、それは、よかったですね。当社の印刷の神様に、早く元気になって貰わないと。これからが、印刷のフルシーズンで、一番シンドイ時期を迎えますのでね。これで、私もやっと肩の荷が下りるというものです。ほんとうにおめでとうございます」

「ところで、次長さま、先程ご覧いただいた製本工場は、実は私の弟が経営しておりますのよ。商社マンだったのですが、宮仕えは自分の性分に合わないと言って、篠原の指導でこの事業を始めましたの。最近になって、やっと軌道に乗り始めてきたと、弟が言っていますのよ」

「ええ、大滝君から先程、その話を聞いて、知っています」

「ところで、次長さんは編集企画部の林部長さんとの仲がお悪くなって、篠原の部署に来られたのですってね。江嶋社長さんから、何か特別のお仕事でも仰せつかってこられたのかしら。それが、何なのか、ご使命の内容をそろそろ明かして下さらないかしら」

「この部署で使い者にならなかったらなあ、他に引き取り手がないから、もう田淵君は退職するしかないなあ、と篠原は言っていましてよ。オ・ホッホホホホ」

「それとも、部長への昇進を約束するし、また近い将来、役員への推薦もするから、篠原一派に入れと君から説得しておいてくれないかとも篠原は申しておりましてよ。入るか、入らないか、この2つに1つしかないのですのよ。田淵さん」

我々のすぐ側で、大滝課長も一緒になって話を聞いているが、彼女は全く頓着しないし、気にもしていない。

『なかなかに、肝の据わった女だ。弟に事業をやらせることも、この女の指金かもしれない。それにしてもハッキリものを言う人だ。きっと私に揺さ振りを掛けているのだろう。そして、仲間に入れば、抜いている金の分け前をやろうということだろうな。ズケズケ言うことで、冗談だと思わせて、カムフラージュしているのだろうな』と田淵は思った。

「奥様、何かご冗談を仰っておられるのではないでしょうか。私は、いつも部長の味方ですし、篠原部長の部下ですから、いつも仰せの通りにしておりますよ。今でも、一派のつもりですから。社長からの特別の任務なんてものは、全く存在しません。私が知りたいぐらいです。私かって、会社をクビになるのはイヤですからね。私を試すようなことは、もう止めて頂けませんか」

『社長からの特命事項を承けたことは、勿論、此奴らには、決して口外するものか。此奴らの構図は把握できたが、証拠資料をどう集めるかだ。まさか、大滝課長には頼めないし、自分で集めるしかないだろうなあ。会社の金を吸い取っている、篠原一派を絶対に地獄に送ってやるぜ』

『どうも、匂っている。女狐の頭から立ち上っている辺りも臭いぞ。紙の発注価格の工作と、ここの鈴木製本の私物化か。両方合わせて2億円前後か。この時点で江嶋社長に報告を上げて、指示を仰ぐのが本来の筋道だろうかなあ。しかし、私にも、コスト削減策という方策の結論を或程度出してからにしたい、という自負もあるしなあ。異動先で、確かな実績もあげたいし。今報告を上げたら、社長は、キット、君出直してこい、と言うだろうしなあ。

それに、篠原は、近々に退院するとはいえ、今、報告を上げたら、病み上がりの者の背後から、バッサリと斬りつけるのと同じことになる。そんな卑怯なことは、僕には、絶対に出来ないしなあ。』


このときは、特命事項の真の意味を理解せず、浅はかにも田淵はこう考えていたのである。要するに、お人好しで、考えが甘かったのである。この浅慮が、後々、彼の命取りになるとは知らずに。


6.篠原の退院

予定通りに、それから3週間して、篠原は退院してきた。田淵が嗅ぎ廻っているのを猪口良子の連絡で知った篠原は、自分の身に嫌疑が掛かっていることを感づいていてからは、尚更心配で、じっとして居れなかった。


かんかん照りの晩夏の暑い日に退院した篠原は、翌日には、もう早速に出社する。社長に話が、既に届いているかも知れない、という疑念が起こって、自宅にジットしておれなかったからだ。勿論、何を差し置いても、江嶋社長の処に伺っての退院挨拶だ。その他の役員連中の部署にも訪問して、背中を丸めて手揉みしながら、精一杯の笑顔を作り、ニコニコして、ガラガラの大声で退院の挨拶をして、相手の反応を確かめている。


篠原の挨拶は、誰にも同じで、型通りである。感づかれてはいないか、と確かめるのが目的だからだ。


「大変に長い間、留守に致しまして、ご迷惑をお掛け致しました。誠に申し訳ありませんでした。これから頑張りまして、その分を取り返しますので、どうかお許し下さい」

役員の皆が言うことは、

「早く退院できて、良かったねえー、篠原君。余り無理をしちゃあいけませんよ。しかしねえ君、酒も程々にして呉れないと、これからはだね、困るよ」

と、また殆ど同じだ。感づかれてはいないようなので、心底、ホットする。


編集管理部の部署には、出社して2時間ほど経ってから、戻ってくる。先程とはまるで異なる憮然とした表情で、病み上がりの青い顔色で、しかめ面をしている。そして、主立った幹部を集めて型どおりの挨拶をする。


次ぎに、ドサッと自分の往年の部長席に座る。席に着いた彼の姿は、何故か一回り小さくなった様に見える。しかし、田淵とは、決して視線を合わせようとしない。かなり重傷のようだ。


『自分の心の作用なのに、私の所為にするつもりのようだな。私の知ったことではないわさ』田淵は、彼の表情から心を嗅ぎ取ろうと凝視。すると、感づいたかのように篠原は、突然に言ってきた。


「田淵君、大滝君と同行して、大宮の鈴木製本で、女子産業編の製本チェックをしてくれたようだが、どうだったかね。何か感想は、ないのかねえ」

「ええ、ちょっと大変な製本会社ですね。部長の義弟がやってらっしゃる会社ですってね。吃驚しましたよ」

田淵は、一寸カウンターを利かせてみせる。


「さよか、それだけか。ああ、それから田淵君。君のこれからの仕事は、制作拠点の統括をして貰うので、印刷管理の仕事はだね、担当をはずれて貰いますよ。印刷管理の仕事は、大滝君にやってもらうことにしたからな。それから、大滝君は、この9月1日付で、編集企画部の次長職に昇進することになっているから。君も宜しくな。」

そこにいる幹部には、あらかじめ話がしてあったのか、吃驚もせず平然と聞き流している。知らなかったのは田淵だけのようだ。田淵は、突然にアッパーカットを喰らったかのような衝撃がして、頭の中がクラクラとした。そうか、それで視線を避けていたのか、と後から気づく。


『入院している間に、久保田も交えて皆と作戦を練ったという訳か。篠原の自宅に行ったとき、文子が私に言っていたのは、このことだったのだな。やられた。作戦負けだ。何だと、制作拠点の統括だと。私が前職の時、苦労して作り上げた組織で、これはもう済んだ仕事だ。これじゃあ、閉職じゃないか。江嶋社長もご存知のことなのだろうか。もう遅いか。いや、それでも一言だけは、確認したい』

田淵は、取り乱し自問自答する。


「このことは、江嶋社長もご存知のことでしょうかね」

「何を言っているのだい、君は。これは、部内の担当の変更だからな、社長の承認もへったくれもあるものかい。私の一存で、全部できることなのだよ。尤も、先刻、江嶋社長の部屋に伺ったときには、一言だけ報告はしておいたがね。どうだい、田淵君。もっと良く勉強し給え」


7. 謀  略

そうこうするうちに、猪口良子が会社を辞めるという噂を田淵も知った。今や、部内の誰もが、閉職同然の田淵に、何事をも話そうとはしない。他人の話の端々から察したのだ。何もかも知り尽くしている猪口から、ボロが出るのを篠原が感じて、彼女を辞めさせるのかも知れない。篠原が退院してきてから、その後2週間して、猪口はバタバタと退職する。


退職の理由というのはこうだ。半年程前から、彼女の夫は、勤めている電機会社の要請で、ずっと単身赴任をしていた。しかし、二重生活に疲れ、また金銭的にも限界にきたので、夫の赴任先の福岡に同行することになったという。二人で相談して、この9月末で、退職することにしたそうだ。退職まで後2週間しかないという、慌ただしい時に、何故か、田淵の処にも、挨拶に来た。


「実は、先週の金曜日に、篠原部長のご自宅に伺って、今までのお礼を申し上げて、いま申し上げたようなことなのでと、お話しして、部長のご了解を戴きました。短い期間でしたが、田淵さんにも色々とお世話になりまして、ありがとう御座いました。心から、お礼を申しますわ、田淵さん」

心のこもらない、型通りの挨拶だ。


『なに、先週の金曜日だと。その日は、篠原の命令で、制作拠点のトラブル処理に、仙台まで飛んでいたのだぞ。その間に、猪口を呼びだして、何かを相談したのか。その結果、辞めることにさせたのだろう。猪口のから、何か情報が漏れることを警戒しているのかも知れないなあ。或いは何かの工作をする前触れかも知れないなあ。これは、きっと裏で何かが起こるぞ』

直感力の働く田淵は、前後の経緯から、そう理解した。


「篠原部長は、その他に何か、仰っておられましたかねえ」

「いえ、なにも。ただ田淵次長にはキチット挨拶をするようにとだけ、仰っておられましたが」

「ああそれから、私の後任の人は、奥様のご友人の娘さんでとてもいい人がおられるとも、仰っておられましたわ。北村百合子さんという名前も伺いましたわ。部長の秘書もして貰うので、気心を知った人の方がいいのですって」

慌ただしく、裏で何かが動き始めているような、ある種の予感を田淵は肌で感じる。そして、それは突然に起こった。


1週間後の9月23日だ。その日のことは、田淵英一は決して忘れることが出来ない。


「田淵次長ですね。経理課長の飯島ですが、ちょっと経理部まで来て貰えませんかねえ。大至急ですよ」


突然に経理からの呼び出しである。心当たりは全くない。


『例の、渡辺紙業のことだろうか、仙台の交通費のことだろうか、それとも、私が掴んだシッポの事が聞きたいからだろうか』思惑が頭を巡る。


経理部に行くと、蒼々たるメンバーが集まっている。管理本部長の田島常務、経理部長の奥田取締役、経理課長の飯島だ。田淵は、何事が起きたのだと、因果関係を捜すべく頭がフル回転する。心当たりは、全く見つからない。と、経理課長が言う。


「田淵次長の承認印のある、この支払依頼伝票ですが、これは田淵さんの認め印に間違いはないですね。今、ご確認ください。篠原部長がご入院されていましたから、部長承認覧に田淵さんの押印がされていますが、これは篠原部長の合意の基でされたことなのでしょうね」

差し出された4枚の伝票を、彼は受け取り確認する。合計4890万円になる、次のような伝票だ。



(2)鈴木製本宛、女子産業編製本加工費50万部、 製本費用 450万円

(3)日版印刷宛、女子産業編印刷加工費50万部、 印刷費用 1520万円

(4)島田運送宛、女子産業編印刷紙運送費4t×4台、往復運送費120万円


全て、彼がこの部に異動してきて、猪口良子に言われるままに、押印をしたものに間違いはない。先月の8月20日の支払伝票締日のことだ。猪口からは、「田淵部長は、部長の代理の方でいらっしゃるし、また私の方から、部長には申し上げておきますから。今までにも、部長がご出張で、ご不在の折りには、大滝課長が代わりに押印されていましたし、全然、大丈夫ですよ」

そう聞いていた田淵は、いわば確認なしの押印をしたのだった。しかも、成る程、言われる通りに、篠原の承認も得ていないのは、事実である。


管理本部長の島田常務がおもむろに、口を開く。


「田淵君、君は当社の内規を知っているかね、110万円以上の支払いは、部長職の承認印が要るということを。君は、それを知っていて、篠原部長に報告無くして、支払依頼伝票に押印したのか。それでは、内規違反じゃないか。実は、篠原部長からこの9月10日の、業者への支払内容を見たいと先日電話があって、部長に、リストを見せたところ、この4枚の伝票については、彼は承知していないと言うのだ。それで、詳細を調べて欲しいと言ってきたから、8月20に遡って、支払依頼伝票を調べて、篠原部長にも確認して貰ったのだ。すると、これらの4枚については、彼は初耳で、全く知らないと言う訳さ」


経理部長の奥田が次いで言う。

「合計で、4890万円の支払いは、高額ですよ。何時も支払時期の前になると、篠原部長は、個別に交渉して、約5~7%ダウンの支払い交渉をして貰っているのですが、今回、この4件については、9月10日でもう既に支払われてしまっているのです。君が、篠原部長に報告しなかつたからです。約350万円の損失ですよ。ですから、内規違反と金銭遺失の違反です」

「従って、田淵君、誠に残念ではあるが、内規に従って、次長職から、2階級下の係長職に、降格とします」

島田管理本部長からの、死の宣告だ。


田淵は、顔面蒼白となった。

『ええっ、何と言うことか。しまった、嵌められた。それで、猪口良子は早々と辞めたと言う訳か。彼女に煽てられて、押印したのが間違いだった。すると、大宮の、篠原文子に出会ったときから、筋書きがあったということか。支払い依頼書の全部が、鈴木製本に確認に行ったときの、女子産業編の印刷に関する事ばかりじゃないか。ああ、何と言うことだ。彼らはグルになって、私のことを嵌め込んだのに違いない。自分達の身辺を守るために、私を計ったのだ。猪口も退職したし、もう証明する者は誰もいない。これは謀略だ。篠原文子が言っていたのは、このことだったのか。これは、完全犯罪だ。何という嘆かわしいことか。あの時、何故、江嶋社長に事実関係だけでも、先に報告しておかなかったのだろうか。しまったー、後悔先に立たず。ああ、もう万事休子だ。神様、無知な私をお許し下さい』


田淵は、初めて事の重大さに気が付く。スパイ業務を請け負った者が、関係者一同の悪意で阻止され、そして逆に陥れられたのだ。挙げ句の果ての、係長への降格だ。給与も半分になる。妻と子供2人、そして横浜市に住んでいた戸建て住宅の、高額のローンを抱えて、やっていける金額ではない。


『恐ろしい判断だ。もう、ロミー商会を辞めて他の会社を探せというシグナルに過ぎない。ああ、万事休子だ。悪いことをしているのは彼奴なのだ。

病み上がりであろうが、なかろうが、なんであれ、少しも頓着せずに、どうして、あの時、先に報告しておかなかったのだろうか。自分の馬鹿さ加減に呆れてモノが言えない。しまったー』

悔やんでも、悔やみきれない、悔恨だけが残る。


こうして、ロミー商会を自己都合退職した、田淵の人生は、それから暗転をはじめることになる。そして悔恨の日々が始まったのである。毎日が、ハローワーク通いの日々となる。ほんの少しあった蓄えも底を突き、妻との諍いも毎日のように起こっている。


後日談であるが、更に同じように江嶋社長から特命を承けて査察に来た田淵の後任者は、躊躇することなく、文子を初めとする篠原三郎一派の悪事全てを白日の基に晒したと聞く。概ね、田淵が掴んでいた通りの構図で、約2億円強の業務上横領行為を、密かに実行していた訳である。そして篠原三郎自身は懲戒解雇となり、その後、不幸な人生を送ったと田淵は人づてに聞いて知った。また一方、その後のロミー商会は、利益率が飛躍的に向上し、為に新規事業も軌道に乗って隆盛を極め、今や日本を代表する大企業にと成長しているのである。しかし、田淵にとってはもう遅く、今更どうでもいいことで、ここでの話は、遠い昔話となってしまったままである。


 と、先程のガート下で飲んでいた男が顔を上げた。な、なんと、それは、額の狭い、エラの張った独特のあの顔だ。篠原三郎その人ではないか。篠原三郎は、自分のした事が、悪いことであるとの自責の念があったから、彼の守護霊がして、田淵の目を通して、自分がしてきた姿を、夢で見せて呉れていたのである。


そして、田淵英一は、暫くの浪人の後、ある半導体メーカーの広報部長として迎えられ、世界を股に掛けて活躍していると聞いている。ガード下の男には、そして悔恨の日々が、まだまだ暫くは続いていくことになる。





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