「眠目間」
 ―いめのあはひ―

(06:眠り)

 冬見の屋敷に届けられてのちの常葉の指南役をあずかった六道は、滅多に眠らぬ男であった。
 端正な身仕舞いと常にしずかな物腰が印象的な、うすい唇と切れ長のまなざしが総じて酷薄に見えがちな、そんな男だ。口数こそ少ないがその唇から放たれる言葉は辛辣な棘を往々にして含み、怜悧に過ぎる面差しが極めて侵し難い距離を生んだ。
 朝は寝汚い当主様を起こし、その頃にはもうすでに長い髪も櫛目正しく端然として、夜は夜で母屋の火が落ちて後にも未だ遅く、障子に火影を映してひっそりと影絵が動く。
 常葉はその日まで、この男が居眠りをするところなど、ついぞ見た事もなかった。

 双子でふたりして初陣の前日である。その妹の葉常はいち早く母親である睦月のところに行ってしまい、いっしょにいこうという提案を餓鬼っぽいという一存で一蹴したものの眠れぬことにはかわりなく、おまけに一人で部屋で眠ることもこれがはじめてである。四隅から闇がのしかかってくるようで、蒲団を被ってその感触に耐えるには九月の残暑の宵はあまりにも蒸した。明日が初陣ともなればなおのこと不安が募り、術法の巻子本から写した半紙をにぎりしめて部屋を出るまでにわざとうるさい物音を立ててみたが、夜のしじまにはそれがことさら反響し、返ってくる谺にますます脅えてしまったので、これはまったく逆効果と言わねばなるまい。
 そんなこんなで、常葉が離れにある六道の自室に辿り着いたときには、口が裂けても言えないが大層ほっとしたものだ。障子に映るほんのりとした橙色のひかりが、ひどく頼もしく思えた。半紙をにぎりしめる掌が汗ばんでいたのであわてて着物の尻にこすりつけ、深呼吸してからそっと障子戸に手をかけた。
 夏の終わりの、微温い夜の匂いがした。
 ふわりと螺旋を描いて混じる、この匂いは何の香だろう。一度手にとって教えてもらったことがあるが、さして数もないそれらの名前を常葉はどうしても覚えられない。どれにも優美な名前がついていて、区別はつけ辛かった。灰にうずめた炭団で焚く、香木のひとかけら。呪言のように発せられる名のふしぎな響き。頭がぐらぐらとして、頬に血がのぼり、まったくそれどころではなかった。
 青磁に透かし彫りのある香炉は、そのときに見せてもらった六道の気に入りの品である。うすく煙をのぼらせるその模様は、雲を従え駆ける龍の姿を象っていた。
 部屋の隅で香をくゆらせるその煙は途切れずにいたが、部屋の主である六道は身動き一つしない。眠っているのだ、と思い至るまで、驚きに跳ねあがった鼓動が五つ打つほどの時間が要った。
 ぐったりと落した肩がゆるやかに上下しているので、あやうく叫び声はあげずにすんだ。書見台のうえに組んだ両腕、そこに頭をあずけるようにして、幽かな寝息を立てている。長い黒髪が幾筋にも分かれ、背なや腕を流れ落ちるさまは細い滝の流れを思わせた。
 障子戸に掛けた手がゆれてがたりと音を立てたが、目を覚ます様子はない。よっぽど眠りが深いのだろう。足音を忍ばせ、おそるおそる顔を覗き込んでも一向に目覚める気配はない。次第に大胆になり、試しに台のこちら側に落ちた髪のひとふさを摘んでみても、やっぱり起きない。
 眠ってるんだ、とひどく当たり前の事実を目の当たりにし、なにやら宇宙の神秘にでも触れたような気持ちになって、ただひたすら驚愕した。

 常葉の知る六道とは、ひどくおとなびた振舞いと賢しげなまなざしを持つ指南役である。きびしく容赦ない言葉を投げ、泣言をゆるさず、静かな面差しに似合わぬ激情をたくみに隠し込んでひとに見せようとはしない、もどかしい相手である。偶然とはいえそんな男の、このように無防備な場面を見出し、常葉はなにやら得意げな、そら見ろ、とでも言いたいような気持ちになった。
 初めて見るその寝顔は、死んだような顔つきである。しげしげと見るにつけ不安になるたぐいの表情、弛緩しているにもかかわらず童子めいた無邪気さもほほえましい愛嬌も微塵も見られない、疲弊しきったあおじろい無表情。睫毛や鼻梁が作り出す蒼ずんだ陰翳が不吉なほどだ。生来、顔色の良い男でもないのだが。ばさりと落ちかかった黒髪からのぞく耳元から首筋にかけての線が、その眠りの深さにも関わらず時折ひくりと痙攣する。
 どう見ても、あまり良い夢を見ているような顔ではない。
 鼻の頭に皺を寄せるのは、不安を感じるときのこの双子に共通した癖だった。
 六道は、弱みを見せることを酷く嫌う。弱音を吐いたことさえ一度たりともなく、だが常葉は、ぼんやりとだが、それはあまりいいことではないと思っていた。ぎりぎりと張り詰めた弓が放たれた後、戻ってくる弦の激しさに驚いたことがある。弧を描くほどに強く強く引かれた弦の美しさに、そしてその反動の激しさに。それはそのとき弓を引いていた男の性根と、まったく同じに思われた。
 常葉は元々口のまわる子どもではなく、指南役の六道とはそれを原因としてしばしば衝突を繰り返した。何が言いたいのかわからない、と六道はあきれた顔で言う。それは残酷なほど、はっきりと言う。何が言いたいのか話せ。おまえが何を伝えたいのか、何をしたいのか、何をして欲しいのか、俺にきちんとわかる形の言葉にしろ。
 口では決して、上手く言えたことがない。
 だから常葉は、いまでもこの男とよく衝突して、そのたびに言い負かされるのだった。
 そしてそのたびに、もやもやとした曰く言いがたい気持ちが生ずる。ずっとずっとその感じを腹の辺りに抱え込んでいる。このときもそんな気持ちになった。掌がまた汗ばんでくる。けれど握り締めた髪の房を離そうという気は起こらなかった。だからまた、さらさらと零れる髪を撫でた。手触りの良い髪であった。母親が一度だけ着ていた、あでやかな絹の晴れ着に触れたときの感触に似ていた。きめこまやかで、少しひんやりと冷たいところまでそっくりだ。鴉羽のように艶やかな光が走る射干玉色。
 そうして他の何より、それはかれの眠りに繋がっているのではないかと思われた。その決して安らかではない眠りに何処かで繋がる、蓮の糸のようなものではないかと思われた。頬をすりよせてみるといい匂いがして、この匂いにもやっぱり名前がついているのだろうと思ったが、常葉には香の名前などやっぱりひとつも思い出せない。思い出そうと躍起になるうち、だんだん眠気がさしてきた。
 こてんと書見台のこちらに頭を乗せると、自然眠ったままの男の顔をぬすみ見るかたちとなった。顔色は良くないし、そうそう死に顔めいた造作に変化があるとも思えない。それでもなんだか、だいじょうぶだという気がしてきた。おれがついててやるから、だいじょうぶだという気がしてきた。この指南役が偶に見せる、「ふふん」と鼻で笑うような表情を真似してやろうと思ったが、くふん、と鼻が鳴ってしまう様子はどう見ても照れ笑いになっている。
 そうしてそのまま眠ってしまった。
 書見台のこちら側、いまだ小柄な躰をあずけ、人の髪の毛をにぎりしめたまま。あけっぱなしの障子戸から吹きこんできた夜風に、火皿の灯しがちらちらと揺れる。

 ……その六道が微睡から醒めたのは、その火皿の油が尽きる前のこと。
 かれがあまり眠りを摂らぬのは、かれが眠りを怖れる気持ちによるものだ。それはずっと幼い時分、闇を怖れる気持ちと本質的には同じである。
 六道は、生来、夢というものを知らぬ。
 眠りと目醒めのあわいにあるというそれをついぞ、己の眼では見たことがない。己の夢というものを観たことがない。かれにとって眠りとは、空洞な水晶球のようなものであった。己の中にぽかりと口を開けた穴のようなもの。それを透かし見ることは酷く容易く、しかしそのうちには何も無い、触れることの出来ぬ何かであった。
 だから六道は、眠ることを心の何処かで厭うている。こうして微睡むことなど、滅多にあることではなかった。躰が意識を喪失し、己を手放すまで鞭打つように働き続け、糸が切れるように寝床に倒れ込むのがかれの日常である。
 少々気を抜いたところを睡魔に襲われたものだろう、幼子を指南することは未だ元服も迎えぬ六道にとって初めてのことであり、大層な重責であり、ぴりぴりと神経を張り詰めてばかりいた。明日でやっと初陣という思いにどうやらこころが緩んだらしい。嘆息し、眠りに熱ぼったくなった四肢を動かそうとすると、くん、と髪の一房が引っぱられた。
「……?」
 いぶかしく視線を振り向けた先には、赤髪の子ども。その後ろには幾枚かの半紙があり、先日かれが手ずから書写した術法の写しと見えた。要点でも聞きにきたものであろうが、当人は書見台のむこうがわ、猫の仔のようにまるめた躰をあずけ、その手にはどういう訳か己の髪がにぎりしめられている。
 ――おやおや。
 正直六道は、常葉を扱い難い子どもだと思っている。妹である葉常のほうは素直に慕ってくれるぶんだけ判り易いのだが、こちらの兄貴には好かれているのだか嫌われているのだか、どうもよく判らぬ。もしかしたら本人さえよく判っていないのではないだろうかという気もする。
 しかし扱い難い子どもではあるけれど、六道はその不器用なところは嫌いではなかった。すぐ顔を赤くして口ごもるところも嫌いではなかったし、運が悪いのか要領が悪いのかどうにも格好のつかないことが多いそのふるまいも嫌いではなかった。そもそもかれは己の家族という存在をうとましいと思ったことが一度も無い。ただ己より幼い一族に接すること自体がはじめてで、扱い方のわからぬところが多々あるということだけが難なのだった。
 ――いつもこうだといいのだがな。
 いつもこんな風だと、俺としても楽なのだがな。
 眠っている子どものてのひらから器用に己の髪を外しながらそんなことを考え、六道はついつい吹き出してしまった。素直な常葉は常葉ではないという気がしたのだった。六道にとって、常葉は扱い難い子どもである。かれがごくたまに頭を撫でるとそっぽを向き、耳の先まで桃色にしている子どもである。強情できかん気の、要領が悪くて不器用で、その分を努力でおぎなうことを知らず知らずに知っている子ども。
 起こすか寝かしておくか暫し迷って、結局六道はこのまま置いておくことに決めた。母屋の火はもう落ちている、皆が寝ついたころに騒がせるのも気が引けたし、そしてそもそも己も眠くて仕方が無いのだった。よく眠っておかねば、明日からの討伐にも差し障りがあろう。それにこの子がいるのならば、眠りもさして恐ろしいものではないような気がしたのだった。
    そういえば誰かと眠ることなど、ずいぶん久し振りである。おそらく、父が逝去して以来のこと。その頃には己もこれっぱかしの幼子であったろうと思うのだが、今となってはその実感は十万億土の彼方である。
 子どもの掌は未だ握りしめられたかたちのまま、それを見遣り、そしてそこに握り締められていた髪の房を思う。無間の淵に垂らされた命綱。或いは仏の御手よりさずけられる蓮華の糸。そのようなものがあるのならば。
 救いを求めるのは己であろう。
 そして救いの手はこの子であればよいと思った。この子や、この子の妹や、或いは見慣れた家族の誰か。すでに死んだ父、自由闊達な当代、たおやかな伯母、厳格な叔父。
 その外の誰にも、救われたいとは思わない。
 汗ばんだ赤毛に触れると、夏の日差しの匂いがした。草いきれと照り返る熱波、そして白く灼けついた土の匂いが。目を醒まさせぬよう、己の袖口でその額に浮いた汗の粒を吸い取り、それから薄く風通しのよいものを選んでそっと上掛けを被せる。それからその傍ら、己も目を閉じる。さきほどまでたゆとうていた眠りの訪いは、いつもよりずっとすみやかだ。その直前、幽かに秋の虫の声を聞いた。

 もうじき、夏も終わる。