
「長夜髪」―ながよのかみ―
(31:夜)
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一念迷ひし始めより無明のくらき闇に入り 長夜のねむり深ければ夢の驚くこともなし ――――――――――「延命地蔵菩薩和讃」 ――……声、が。 呼ぶ、声がする。 それは聞いたこともない、未知の言葉のひびきのようでもあり。 或いは懐かしい、心やすらぐ子守唄のひとふしでもあるような。――…… 「九、曜?」 強いて声を出そうとすると、ひからびた喉が痛んだ。目が開かないのはものごころつくころから馴染みの眼疾でもなく、ただ単に鬱血してひどく瞼が腫れてしまっているからだった。触らないでもわかるぐらい浮腫んでいて、無理をしてこじ開けてようよう、細目の視界を覗くことができた。 己の肩をゆすぶる、ほそい手の甲がまず最初に目についた。 「九曜?」 もう一度名前を呼ぶと、手のあるじである少女はふいに両腕をいっぱいに差しのべてこちらの体をかき抱いてきた。喉の奥で呻くような、細いしわがれた泣き声が耳に届き、それでこの子もきっと今まで泣いていたのだ、と思った。 罪悪感が吐き気のようにこみあげてきて、この一両日でさんざん中身を吐きつくした胃の腑が、また絞り上げられる。けれども九曜はこちらのそうした委細には構わず、溺れる者が藁を掴むように両手にはしゃにむな力が込められていて、どうあっても離そうとはしないのだ。 目が合った。 淡い、春を告げる小鳥の羽毛めいてやわらかな、翠緑の瞳――しずくを含んでことさらに大きくみえる両目の瞼は赤く擦れ、眉間に寄っていた見馴れぬ皺がふいに上向きによじれ、眉が八の字に歪む。 「りくちゃん、」 当主職を継いで以来、はや忘れかけていた呼び方だった。この子が初陣を踏む前にはまだ、こう呼ばれるにまかせていた。咎めだてする気は起こらず、ただ痛々しいと思って眉間の皺をひとさし指で撫でた。ふいに気力が折れたように、九曜が声を挙げて泣きじゃくり始める。「このっ、このまま、おき、おきなかったらどうしようって、わたし、わたしね……」 その先が続かない。うわああん、と子どものように喉を振り絞って泣き声をあげる。ほかにどのような手段も思いつかず、六道がひどく強ばって小さくまるめられた背中を抱きよせるとぎゅっと握られた襟元がみるみるうちに熱く濡れていく。栗鼠みたいだ、となんとなく思った。あの小さくて、尻尾がふさふさの、縞になったやつ。暫く、そのままその背をさすっていた。ゆっくり、ゆっくり、潮の引くように泣き声が小さくなり、言いたいことがちゃんと聞き取れるようになるまで。 薄暗かった筈の部屋に、ほそく引き開けられた蔀戸からうっすらと光が射してきて眩しい。微細に舞う埃が黄金いろがかっていて、それでもう夕暮れ近い、とわかった。 まだ、頭の底のほうが熱っぽく膿んでいるような気がする。それでも今朝方に比べればずいぶんましになったと、自分でそう判断がつけられる。闇雲な恐怖と、激しい慙愧の念と、夥しい罪悪感――それらは、まだそっくりそのままのかたちで意識の裏側に残されてあった。 何が変わる訳でもない。 ようやっと、その自覚に手が届いた。喪失は喪失としてなまなましく、ぞっくりと生きた血肉からこそげ取られたままのかたちで、自分とともにある。 逃げられよう筈もない。 知っていた、そんなこと。あの初陣の日から今日に至るまで、ずっとずっと、途切れることなく知っていた。 ――ただ、少し、少しだけ、つらかったのかもしれない。 おまえたちが言ったように、つらかったのかもしれない。 すまなかった。わからなかった。ずっとずっと、俺はこんなだったから、それがあたりまえのことだと思っていたんだ。おまえたちがあんなに心配してくれたのに、俺は、わかりたくなかったんだ。 謝りたかった。誰かの膝に身を投げて繰り返し繰り返し、心ゆくまで許しを乞いたかった。全てを投げ出し、全てを打ち捨て、全てを曝け出し、何もかも全部。 耐え難い津波のような衝動に、しかし、かれは渾身の気力で耐えた。少しだけ、温かな子どもの背中を抱き寄せる腕に力が篭る。わずかに、うすい口唇に意識して笑みを刻んだ。己をあざける、嘲笑に似た。 これが罰だ。 どんなに謝りたくとも、それは出来ぬことだった。 これこそが罰だ。 一生、こうして耐えていかねばならないのだ。しかし、俺はいっそ、このことを喜ぼう。こうして痛み続けているあいだ、俺はずっと、おまえたちを思い続けていられるだろう。 今度は意識せず、息の音に似た苦笑が洩れた。 我ながら、歪んでいることだ。 ◇◇◇ 爪の間から流れ出た血は、手首まで伝い乾いた筋を作って固まっていた。 盥で持ってこられた湯にひたすと、当たり前のことだが、とびあがりたいくらいに沁みた。 「いーい?きちんと洗うのよ」 腰に手を当てて、指先を目の前につきつけて、九曜はいばってそう言うのだけれど、 「……左手中指だけは、いっそ抜かせてくれ……その方が綺麗に治る」これは本当だ。血が出ている爪の殆どはちゃんと肉について残っているけれど、この一枚は途中から折れて中の肉が見えている。 処置して、包帯を巻く途中で、 「もう。ほんとに、どうやってこんな風にしたの?」 と聞くので正直に、「……寝惚けて」と答えたらぽかりとかわいらしい、ちいさな拳で殴られた。ちょっとひどいと思う。ちゃんと正直に言ったのに。 「うそついたら針千本だからね!ちゃんと千本かぞえるからね!」 と、こうだ。嘘なんてついてないのに。可愛がっていた裾っ子にあらぬ嫌疑をかけられ、六道はきちんと敷き直した布団にうつぶし、よよとばかりに世を嘆いた。もちろんできるだけあざとく、わざとらしく。無論九曜のほうはそんなことは一顧だにせず、残り湯の温度をたしかめ、 「ほらぁ、起きて、こっち向いて。お背な流したげるから」 これには少しく抵抗が為された。むかしから人前で行水なんかするのは無作法に感ずるたちなのだ。それくらい自分で出来る、と抗弁したところ、「その指で?」とたたみかえされた。ぐうの音も出なかった。あきらめきれず、「見苦しいからいやなんだ」と言い募ったが説得は功を奏さず、問答無用で帯を巻き取られそうになり、ああもうわかったわかったと観念して袖から両腕を抜き、諸肌を脱いだ。そうでなければあやうく剥かれるところであった。どうやら途中から何かの遊びのようで楽しくなってしまったらしい。そういえば九曜はわりと長いあいだ父親と一緒に風呂に入っていた。道理で抵抗がない筈だ。ううむ納得。 「俺なんか湯屋にも行かないのに」 などと未練たらしくぶつぶつと文句を言っていると、袖にたすきを掛けた九曜が、 「行かないの?広くって気持ちいいのに」 「行かないよ。だって」 だって、怖がられるじゃないか。 しまった、と思った。口が滑った、とも思った。 首筋から背骨に変わるあたりに、きちんと絞った手拭いが当てられる。その温度とおなじく、耳元にそっと届いた声はしずかで、力強い。 「でも、わたし怖くないよ」 無数に走る、縦横の白い傷跡。なかでも腰骨から百足のぞろりと這ったようになっているのは一番古く、かつ一番大きかった。 「……かなわないな」 ゆっくりとあたたかな湯気にあてられ、こわばっていた筋肉がほどけてゆく。 「ね、髪も洗おうか?わたし得意だよ。おとさんと洗いっこしてたもん」 「いや、手間がかかるからいい。この長さだと洗っている間に湯冷めしてしまうし」 「じゃ、梳かしてもいい?ずーっとやってみたかったんだ。ね、いいでしょ?」 「へんなことをねだるなあ」 笑って、いいよと言った。好きにすればいい。 「あとねえ、わたし、きょうこっちで寝るから」 「……おまえいやなところが似たな、六代様に」 父親の七生と同様、九曜はいつだって本気である。どんなに冗談に聞こえても、全力で本気だ。あと、何気に押しの強いところもそっくりだ。 「いいでしょ?いいよね。あと、わたしの寝たいところにたまたまりくちゃんがいるんだからね。間違えないでね」 「そこは了解した。したが九曜や、おまえ、このあいだ元服した気がするんだが、あれは私のかんちがいかね」 思わず口調も年寄りめくと言うものだ。気分は老中か若年寄か。だが、まあべつにいいか、とも思った。どうせ、一人で寝たって部屋が広いだけだ。家人を数に入れなければ二人ぽっちの家の中で、それはあまりにうそ寒い。部屋の空虚(うつろ)から、何処かに何かが流れ出してしまいそうな気がする。 とりあえず、枕だけではなくて布団も持ってきなさい、と釘を刺しておいた。これはけっして面積上の問題ではなく、かと言って節操の問題でもなく、けじめの問題である。 はあい、と言って九曜が部屋を出ていった。ひとりになると、静寂ばかりが、夜の中に深い。 ◇◇◇ 「んーじゃ、わたしからね。鬼ワラ。」 「ら。羅セツ」 「つ?つ、つ、つ……」 「いーち、にーい、さーん、しーい、」 「あー、待って待って!つ、つ、つ……」 「ごーお、ろーく、しーち、」 「待ってよお、そうだ、土将軍!…って、あれ?」 「はーい、んが付いたー。私のかちー」 「あーん、もう一回、もう一回!」 布団を敷いて、短く切った灯心を油皿に浸して、六道はされるがままに寝巻きの肩をうしろに向け、九曜は九曜で黄楊の櫛をせっせと動かしながらしりとりに興じているのであった。寝支度のすんだ枕元、お気に入りのりぼんもきちんとたたみ、寝る準備も万端である。ちなみに六道、石拳などその場かぎりの運勝負にはめっぽう弱いものの、こと知識量と機転を問われるこの手の遊戯には法外に強い。百人一首なんかも強い。花札になるとちと旗色が悪いものの、読みと粘りで役を揃えて根性でじりじり追い上げてくるので決して油断してはならない相手である。父親ゆずりの勘と天性の勝負強さを誇る九曜とは毎度いい勝負でせめぎあい、当然の余波としてその後ろでは食い散らかされた鴨が死屍累々。鴨の正体は主として双子の兄か双子の妹であった。その場の熱気にあてられて舞い上がりやすい双子はきわめてよく頭に血をのぼせ、あっという間に毟られた。冷血無情で知られる七代当主は身内には存外甘かったが、勝負事には容赦をしないという己の理念に忠実であった。 まあ、昔の話だ。 ほんの二ヶ月ほど前の、もう二度と手の届かない昔だ。 どこからか這入り込んだ蛾がしきりに鱗粉を撒き散らしながら行灯の炎をめざし、体当たりを繰り返している。 手の下でゆったりとうねる、黒髪の流れ。 幾筋かに分けて垂らした髪の房に櫛の歯を入れ、九曜はことさらに丁寧にくしけずっていった。他愛ない言葉あそびにも飽きたのか、人の毛先をもてあそびながら言う。 「いつもどのくらいかかるの?これ。洗うの、たいへんそう」 そういえば六道が悠長に髪の手入れなどしているのなんて見たことがない、とくちびるを尖らせる。それは九曜がねぼすけなだけだ、と六道はあっさり一蹴した。人より寝るのが遅いくせに起きるのも人より早い、そんな当主である。 「いつも朝は顔を洗って、ついでにざっと櫛を入れるくらいだ。人前に出るときはもう少し気を使うから、小半刻くらいかな。洗うのは一仕事だぞ。大体半刻かけて洗って、流して、それで乾くまで半日」 「はんにち!」 絶句した。 肩を過ぎ、腰を流れ、座っているいまは床に落ちてやや余る。立てば膝裏まで届こうかという長さの髪を、九曜はまじまじと手に取って眺めた。父親の七生も大概、背の中ほどくらいまであったが、九曜は知っている。あれは単なる不精である。こまめに手入れするのが面倒くさいので伸ばしてひっつめていたのである。六道はまめなたちなのでそれなりに前髪を揃えたりはしているが、しかし、それはそれでたいへんには違いない。何と言っても半日である。半日。 「むかし、願を掛けたんだ」 それから、ずっと切らないでいる。 端座して、六道が九曜にむけている横顔は、仄白くしずかだ。幽かな笑みさえ乗せて、 「わらうか?女々しい、願いごとなど」 九曜はだまって首を振る。櫛を動かし続けながら、「いつから?」と聞いた。 「初陣前。あすは発つという晩にな、おなじ部屋に朋輩がいて。切ってやろうかと言うんだ。大分伸びていたし、いくさには不便をするものだし。私はことわった。ぶきようだったんだ、その子、折紙にきちんと折り目もつけられないくらい。虎刈りにされるのがいやで、それで、うまくことわろうと思って、言った」 やめておきます。六道は、この髪に願をかけておりますゆえに。思い出し笑いに、すこし肩がゆれた。 「いやあ、うるさかったな。何の願だとか、一丁前に色気づきやがってとか。それで勝手に約束していったんだ、成就したら自分が切ってやる、いいか、だからそのとき教えろよ、って」 それで、それから、ずっと願を掛けている。 聞かれたら、こう答えようときめておいたんだ。みんながぶじに、ちゃんといっしょに帰ってこれますように。―― それで、それから、ずっと六道は後ろ髪を切らずにおいている。だって、切ってくれる相手がいないから。 「これでも、何度か自分で切ろうとしたんだが。どうもだめだ、こう心構えをして、鋏を持とうとすると、手がな。 手が震えて。あれ以来、手入れをするときは剃刀を使う。鋏の光を見ると、どうもだめだ。……」 髪は伸びてゆく。連綿と、己が息をするかぎり、かなわなかった願を篭め。或いは、それは、恐怖の別の名だ。 断ち切れば、もしかしたらまた、誰かが帰ってこれなくなるかと思うと。 幾度繰り返しても。 手から櫛が滑り落ちる。寝支度をした布団の上に落ちて、僅かな音を立てる。振り向かず、吐息を吐くように、六道は苦笑する。 「おかしいな、いっとうはじめに、私の願など足蹴にされているというのに――」 その先を、九曜は続けさせなかった。横顔をむけたままの背中から首すじにかけて、力のかぎりしがみつく。かれが目をさましたときと同様、細い腕に出せる力のかぎり、波に解けてゆく舟の舫い綱を押しとどめようとする人のように。「九曜、」そっと、名を呼ばれた。困ったように、わずかばかりの笑みさえ含めて、いとけない幼子に言いきかせるときとそっくり同じに、ことさらにやさしい声で。 「私が殺したんだ」 あの子も。あの子もあの子もあの子も、私が殺したんだ、きっと。 聞きたくなかった。肩のうしろ、かたい骨の当たるあたりに額をおしつけ、いやいやとかぶりを振った。かれはいままで知らず知らず自分が抱いていた罪悪感を見抜いて、それできっとこんなことを言うのだと思った。さんざん泣きつかれたはずの瞼にひとたまりもなく涙が溢れ、それでも九曜は、握りしめた拳で何度も何度も六道の背を叩いた。「ちがうもん、ちがうもん――!」 言葉で割り切れず、感情が破綻する。涙でぐちゃぐちゃになった声でしきりに口を開きなにかを言おうとし、そのたびに言葉を失う苛立ちに目がくらみそうだった。半身を向けなおし、指でそっと眦を切るしずくをぬぐわれる。その力加減の注意ぶかさに、理不尽なほどの腹立ちを感じた。乾いた、やさしい掌だった。少しひんやりとして、落ち着かせようとことさらにゆっくりと肩の震えをなだめる、人の身を切るようにやさしい手。 その手の下、ひくっと背筋が痙攣し、また新しい涙が湧いた。ひくい嗚咽が吐く息にまじり、途切れ途切れに、 「だめ。……そんなこといっちゃだめだよお、やだよお、いやだあ……」 行ってしまう。 行ってしまう、何処かへ、手の届かない岸のむこうへ、現世の理の及ばぬ、ほんの紙一重の裏側へ。ゆるやかに目を細め、この背を撫でながら、何処かへ。激しい予感に囚われ、赤子のように泣きじゃくりながら、いっちゃやだ、とそればかり繰り返す九曜の背を撫でて、六道は囁く。 「何処にも行かないよ」 おまえをひとり残して、私が何処へゆけるというのだ。 或いは、これも、嘘なのかもしれない。 心から出た言葉であるけれど、意図せずにそれでも、嘘になるのかもしれないと思った。あの人の口癖のように、口にされるたび憎んだあの言葉のように、嘘になるのかもしれないと思った。それでも、死ぬまでつき通すことが出来たなら、それは一面の真実だ。 髪は、伸びてゆく。連綿と、呪い続ける己が宿業ととともに、口にされぬ哀悼の意(おもい)を連ね。それを恥じるよう、目に入らぬよう、この子まで絡め取られてしまわぬよう、つと己の胸に抱き寄せる。泣き疲れて九曜が寝息を立て始めるまで、六道は、ずっとそうしていた。灯明の火の周囲でしきりに翅をはためかせていた蛾が、燃え移った火の粉に焼き焦がされて死んでいくのを、ずっと見ていた。やがて油皿の油が尽き、部屋の四隅から昏黒が沈む。 ひとりは眠り、ひとりはめざめ、部屋はいま、夜の底である。 |