
「釣狐」
―つりぎつね―
(20:神社)
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月が、赤い。 いびつにひずんだ櫛の形をして、上弦から望月までにはいまだ二夜三夜ほど足らぬと見える。夜気は雨あがりの水のにおいをたっぷりと含み、大気は朦朧として円天は曖昧なる雲に満つる。その切れ目切れ目に投げかけられる光の腕もまた、うっすらと赤い。 だん、と石畳を強く踏みしめ、踏み切る音が立った。 昼のうちは朽ちて崩れていた灯篭が夜となれば石龕の洞にめろめろと青い陰火を灯し、参拝の善男善女も絶えて久しきかつての神域を照らす。道引きのあかりではない。人を惑わし誘い迷わす、怪しの火である。鬼一口とばかりに背後の闇からぞろりと牙の生いたる口を開く、魔のともしびである。 かつて数多の鳥居を重ねて幾筋もの社殿へと続く道を区切ったものであったが、いまはそれもまた、八衢(やちまた)の迷い路。季と季の五行の方陣、四大の法を解きほぐし正しく一なる門を選び得る者はわずか。背後にひろがる森の気配、樹霊のささめき、道を踏み分ける足を青草すらもが絡め転ばす魔域に羽虫のごとく誘われるでもなく、意思を確かにたもち足踏み入れる者もまたまた、ほんのわずか、片手の指で数えて足る。 しゅ、と鼻先を掠め過ぎていく風には、きつい獣のにおいがした。獣の、毛皮のにおい。吐息にいりまじる肉の腐臭がなんとも耐え難い。野狐。山域の髪の眷族、豊穣を担う神使ともされるこの畜類は、しばしば化け、又能く人を惑わすとも言う――が、いかなる由縁か。いま、この場にて襲い来るかの獣には、その尖った鼻先は三つある。なめらかな金毛の頭を央に置き、老いた白毛と意気盛んなる黒毛をそれぞれ左右に、その三つの躰は央の背なをくだった辺りでひとつに溶けて、しっかと踏んまえた後肢がたけだけしい三頭とそれぞれのそなえた前肢を支える。 吐息があかき火焔の火花をまじえ、ぐっと低めた央の頭がぐるりと四囲を睨めまわす。おおよそ、後肢で立てば人の背丈も越えようかという化性である。一方の頭が口の端からふつふつとしたたらす、泡まじりの唾液からその狂乱の度も推し量れよう。老狐の頭は片目をば狙った矢に射抜かれ、半死半生の態。だらだらとだらしなく零れる血からはなまぐさい、人食いの獣のにおいがした。 手負いながら化性の動きは存外すばやく、また吼え狂いつつもその狡知もかなりのものと見ゆる。刻は丑三つ、夜はいまだ明けやらず。参道脇の玉砂利にあやうく足をとられそうになり、常葉はひそかに苛立って歯噛みする。すでに両の掌でにぎりしめた槍は鮫皮で巻いた柄でさえ、血と汗でもってぬるぬると滑る。槍使いの戦装束として頭に巻いた布地もぐったりと湿り、もはや生半可な風には靡かぬくらい重い。 かっ、と烈しく音が立ち、けだものの後肢の爪が石畳を蹴る。三つの口腔が喉の奥の臓腑まで覗けそうなほど開かれ、互い違いに三つの急所を狙っていた。一つを石突に噛ませ、一つの喉笛に蹴りを入れ、最後の一つを避け切れず、かろうじて体をさばいて食らいつかれるのだけは逃れた。脇腹からしたたる血の糸を意識せぬまま、がらあきになった腹に爪先をぶち込んで蹴り離す。槍柄の長さを回し切れず、追い討ちで放った一撃は穂先でなく柄でもってあやかしの背を打ち据えていた。 鞠のように石畳にはずんだ三頭の野狐は、その勢いのままに転がったと見せて跳躍。ひときわ巨きな黒鳥居の上に着地し、ぬけめなく距離を取る――寸前、人影が颶風のごとく駆けた。ふたごである常葉とおなじ、夕日のごとくに燃えたつ赤髪。しなやかにたわむ四肢でもっておなじ高さにまで跳ねあがり、身体ごとぶつかってゆく。事前にうちあわせた訳でもなくこれだけ息の合った連携を為し得るのは常葉と葉常、この双子ならでは。時をおなじくして生まれたこのふたり、おたがいの間に奇妙な紐帯と云うべき繋がりがあり、そう望むならばまるでお互いがお互いの右腕と左腕であるかのようにまるで違和感なく動くことができた。 金毛が飛び散り、血と交じった。三頭といえど身体はひとつ、どこかで骨の折れる音がした。一撃目で掌底、二撃目で両の膝でもって首を捕らえ、そのまま頚骨を折ろうとぎりりと力を込める寸前、鋭い制止の声がひびいた。 「――いかん、離れろ!」 ぼう、と足元が明るんだのに気付いたのはその瞬間。とっさに身体を回し、足から獣の体躯を振り払い、だがそのときにはすでに一拍逃げ遅れた。 方術、"夏狂乱"。 足元から音立てて噴きあがる火焔が立ち、空気の熱さに肺が焼け、悲鳴がかすれた。とっさに地面に転がり、服地に燃えついた火を揉み消そうとするところへいままで後ろで控えていた九曜が駆けより、ばたばたと袖でもって消し止める。いまだ幼い少女の銀髪が煤に汚れた。だいじょうぶ、と潤んだ眸にうなずき返し、葉常は気丈に声を張る。髪が焦げただけだ、このくらい何でもない。 「莫迦。深追いし過ぎだったつの、」 「兄キこそ。槍持ちならあのっくらいはたき落としてよ。ちょろちょろ五月蝿いったらもう、」 お互いに毒づき合う、その間にも双子ふたり、視線は三頭の妖狐から一度も外そうとはしない。すでにこの人外のいくさの相手は大鳥居のうえに陣取り、三つの口から絶え間なく呻きと泡立つ唾液とをふきこぼしている。 片手に握った弓をおろし、つがえかけた矢を箙に戻し、六道――せんに葉常を制した声の主――はしずかに首を振り、視線を流した。それだけで、この双子は一瞬口を閉じる。おさない頃から叩きこまれてきた習性は、もう元服も迎えようかというこの時分になってもいっかな消えようとはせぬ。かわりに口をひらいたのは、すえの九曜である。ひときわ幼いものの、先代当主の遺児でもあるこの娘はその血を強く引き、いくさごとの場とあっては奇妙なほど鋭い直感と洞察力を垣間見せた。 「でも、どうするの?」 鳥居の高みに陣取られては徒手空拳を旨とする葉常はおろか、常葉の槍や九曜本人の薙刀の間合いでさえ遠過ぎる、そのことを示唆している。舌足らずな一の言葉から十を解し、六道はひとつうなずいて眉間に皺を寄せる。 「届かぬならば、こちらの間合いに撃ち落すまで。次の合で詰むぞ、葉常は後手に回れ、常葉と九曜は両翼にして打って出る。――巻き込まれるなよ」 すらりとすすみ出るその後ろ姿に双子の妹は「無茶しちゃだめだよ」と声を挙げ、双子の兄は「ちったあ手加減しろ」と文句をつける。六道は前者にかるく目を伏せてほほえみ、後者にはひとこと、「そんな器用な真似はできん」と言い切った。懐手にしたその右手を次に取り出す、そのときにはすでに手妻のように一枚の符が握られている。 だん、と大きく音を立てて足を踏み切る、その一足が辺りの空気をぴんと張りつめたものに変えた。そのしぐさがすでにして呪そのもの。禹歩といい反閠という呪的歩行。 たとい符という形代をもってしても、天つ法地つ法に働きかけ神変の不可思議を為しそれにふさわしき威をもたらすには、相応の技量が要る。力量が要る。鬼狩の家筋、冬見の家の七代当主を務めるこの男、その道にかけては並ぶものなき巧者であり、当代随一と称される術者であった。 擦るような独特の足のはこび、要所で踏み切る動きはどこかしら、舞に似る。低いつぶやきが切れ切れに、風に乗って耳朶を打つ。 ――貪狼、巨門、禄存、文曲、廉貞、武曲、破軍。 ――七星七曜、揺光の柄を傾け北天の斗を反さん。 足下に踏むは、北斗の七つ星が描く天の柄杓のかたち。天に相応、地に相応の映し鏡。 強い、水の香が辺りにみちた。清冽な清水ではなく、豊潤な海の潮のにおいであった。 海鳴りがした。 遠いとおい、山の彼方に横たわる千尋の海を、いまこの場に居る誰ひとりとて知らぬ。それでもその刹那、かれの背後に立った水界をみな、それと知る。鉄錆のにおいを思わす汐の満干。血の記憶。父なるものにして母なるものにつらなる、始源の幻景。 瞬間。 耳を聾する轟音とともに、圧倒的な質量の水が雪崩れ落ちた。無数の飛沫はそのまま無尽の牙と化し、うねる水面にのたうつ波は巨獣の顎とも見紛う。流体のかぎりない優美さとともに容赦のない獰猛さを備える龍と化し、虚空を奔る津波であった。そのとき、みなは、たしかに、見た。己等の頭上を通り過ぎる銀の水面を――荒れ狂う怒涛の音は、けれど痺れた鼓膜には届かず、鱗立つ激流はかれらをひとしずくたりとも濡らすことなく走り抜けていった。 ……ありえぬはずの波涛がくだけ、嘘のように消え去ったあと、それでもまるで嵐のあとのごとく参道脇の木々の枝は折れひしがれ、ぽたぽたと雫がしたたるのだ。ほんのまたたくほどの一瞬間、方術符の招いた潮はそれでも当たるものをみな呑み込み、噛み砕き、薙ぎ払う力の顕現であった。 その力の渦が呑んだあやかしがよもや無事でいようとは思われぬが、それでもその姿を見失い、常葉と葉常はあたりに目を泳がせる。それは確かに、一瞬の隙にちがいなかった。一行のうちで最も目端の利く六道が、この大規模な水界呪のために集中力の大部分を持っていかれたこともわざわいした。極度の集中を解いた反動の、一瞬の放心。視界の端に白く星が散り、呼吸が乱れ、すぐには動くことができない。 きりきりと宙たかく舞いあげられた妖狐が樹上をとび翔けり、一声、たかく吼えた――三頭の口からおのおの反響する、三重の咆哮。六道は、とっさにその間合いを読み切れず、右の手で番える矢を求めて箙をさぐり、それとほぼ同時に左肩にごぎり、と鈍い衝撃を感じ、天地が逆さになった。 血が、夜目には黒く飛沫いた。 赤くひずんだ月夜であった。 苦痛の為に、視界が更に赤く霞んだ。己の骨がおぞましい音ともに砕かれてゆく、その苦痛よりもその感触のほうがもっと耐え難い。首筋になまぐさい息づかいを感じ、頭がひやりと冷たい石畳におしつけられるのを感じた。胸に置かれた前肢が強く、倒れた身体を圧迫している。左腕がきかぬ。己の得物である弓は、せんの衝撃で手から飛んだようだった。 考える以前に、生き延びる為に身体が動いた。かれにはいまだ無事な右腕があり、かれの目の前には肩に食らいついた一頭とはまたべつの、もうひとつの鼻面が舌を垂らして荒い息を吐いている。指先の感覚の失せた左腕が、がくがくと震えながらその背をひきよせようと爪を立てた。そうして、ぎりりと握り込んだ右の拳。不自由な体勢、痛みのために細い呼吸、満身の気力と胆力を込める。 そうしてその右拳を、口腔に叩きこんだ。 牙が、手の甲を浅くすべって傷つけていく。唾液が不快な粘度で手首を伝い、だがそれらには一切気をとめず。喉の奥まで押し込んだその拳をぐ、とひらき、その舌の付け根を掴んだ。 およそ犬につらなる畜類は、その舌を掴まれると動けなくなるものである。この瞬間、かれとこの妖狐との生き死にの勝負はついたのだった。そのまま、ぎりぎりと引き抜かんばかりの力を込めてゆくと、肩に食いついていた一頭が高く悲鳴を挙げて白目を剥いた。 「常葉!九曜!」 六道が名を呼ばわる。正確に間合いを計った薙刀が一閃して三頭の頚骨を薙ぎ、よく磨かれた槍の穂先がふかぶかと心の臓を狙って沈み、そのどちらも、かれには傷ひとすじたりとももたらさぬ。そのことを、かれはだれよりもよく承知している。己の脇腹からほんの二寸ばかりの石畳に突き立った槍先をながめ、六道はふかぶかと息をついた。 満足げな表情だった。 ◇◇◇◇ |
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