「月籠」
―つきご―


 ねえ、おれのこと、覚えていてね。

◇◇◇

 月から還ってきた男は、六道の苛立ちも知らぬげにそう、繰り返し囁く。

「でも、思い出すのはたまにでいいよ」
「偶にしか思い出さぬから忘れるのではないのですか」
「そうなの?」
 この、ふしぎそうに覗き込んでくる面ときたら。
「少なくとも、俺はそうです」
「そうかな。うぅん、そうだっけかなあ」
 七生はきのうの晩飯をとっさに答えることはできないが、どの書の何頁めに何が書いてあるかとか、どの花がどの歌集のどの歌に詠み込まれているかとか、そういうことだけはすこんと出てくる。多分、頭の中で仕舞っておく場所が違うのだ。 幼時には神童と云われたことさえあったという。いまの姿を見るかぎり六道には想像も及ばぬ呼び名であるのだが、なにせ三日星の言であるし信用できないことはないと思う、かなり疑わしいのだが。現在進行形で疑っているのだが。
 秋だった。夜だった。月が出ていた。
 六道が自室に仕事を持ち込んだり書物を読んだりしているときに、七生はたいてい足音も立てずにするりと忍び込んできてはいつのまにか膝にいる。馴れてはいるが交神から帰ってきて以来、とみにそういうことが増えた。人恋しいのだろうとは思うが、六尺ゆたかな大猫じみた体躯で大猫よろしく擦り寄ってこられるとちと困る。むしろ正直鬱陶しい。
「ねえ、約束。覚えていてね?」
 それでも、ふと回される腕の重み。吐息。見ているだけで、わけもなく人をやるせなくする微笑。

 ――ああ、
 
 苛立つ。喚き散らしたくなる衝動が喉のあたりに溜まる。この手で、この指で、きりきりと首を押さえて絞め殺してやれたらどんなにいいだろう。そしてそのときでさえ、この男はほほえんでいるに違いないのだ。
 時折抱く殺伐とした夢想は、ふいに息苦しいほど甘やかな感触を帯びることがある。仄暗い蛇めいたそれを、かれはあえて見ることはしない。知っていながら、知らぬふりをする。
「……気が向いたら、そうすることにしましょうか」
 息を抜き、わざと莫迦にしたふうに鼻を鳴らす。ええー、とか、未練がましく背や肩に纏いつく腕など、六道の知ったことではない。

◇◇◇

 己ひとりが覚えていたからといって、なんだと言うのだ。
 所詮草花よりも少しばかり長いだけの寿命、鬼殺の業の呪われの一族が。


    花籠に月を入れて
    漏らさじ、これを
    曇らさじと
    持つが大事な
    ――――――――――「閑吟集」