意識を失った人間の躰は重い。
 それはまるでつかみどころのない重さで、土くれで作られた人形のようで、千影は家に帰り着くまで何度でも、六道の息をたしかめずにいられなかった。
 悪い夢のようだった。
 真っ暗な恐怖が泥のように胸のなかを埋めていくのも、荒れ野がひろがっていくような果てしない不安も、まるで悪い夢のようだ。
 悪夢そのものだ。
 そしていちばん悪いのは、無論。これが二度と醒めない現実だということに決まっていた。
 醒めれば良かったのに。
 千影は、今でもときどき、そう思う。
 醒めれば良かったのに。

 おそらく六道自身はおぼえていないだろうが、帰途、かれは幾度かめざめて何か呟くことがあった。竹筒に持ち歩いていた水で口を洗ってやると多少楽になったようで、千影もすこし安心して、少々休んだ。足も腕も肩も、気を抜くとふるえだすほど疲れ切っていた。ましてや人ひとり背負っていては、息も切れる。
 丘のうえだった。
 さらさらと、晩秋の風に草の穂がなびき、銀色の光が疲れた眼を射るように眩しかった。
 秋の、夕暮れの匂い。
 九曜は六道の頭を膝のうえにのせ、顔にこびりついた血をぬぐってやっていた。彼女はぼろぼろと泣いていたが、それは、かなしいからではなくて怒っているからだった。九曜は、いつも、怒りながら泣く。
 多分、その涙のしずくを雨滴のように頬に感じたからだろう。
 六道が、うっすらと目を開いていた。
 黄昏のひかりに金いろの眸はいっそう映えたが、きちんとものが見えているとはとても思えなかった。そういう目をしていた。
 それでも顔に置かれていた九曜の手をそっとなぞり、すまない、と唇をうごかしたので。
 九曜は、更に泣き出して顔を覆い、もはや嗚咽にしかならない声を歯の間から漏らした。莫迦、という言葉が何度もきこえたが、それ以外はまるで人語にはなっていない。
 六道は二、三度大儀そうにうなずき、やがて目を閉じてしまった。ゆるやかな息の音。
 一瞬このまま死んでしまうのかと疑って頸の脈をはかったがひとまず安定していると見え、千影は先をいそぐことを決めた。泣き過ぎて真っ赤な九曜の目。
 うす蒼い、宵闇の気配。
 このまま夜が来てしまえば、二度と明けないような気がした。
 無論、そんな筈はなかったのだけれど。

 都に着くころにはすでにとっぷりと日が暮れていた。
 人目につかないことだけが有り難かった。たしかにいまの自分達の異様な風体は、都人の風聞にのぼるに足る。血にまみれた異相、異装のみちづれに石を投げられないことだけを感謝した。今、そんな事をされたら、千影は問答無用でそいつらを斬り殺すと思った。それだけで殺すに足る。誰も、自分も、許すまい。焦燥と激情が去り、こころはひび割れてかわき切った河底のようで、舌にはひきつれた苦みがこびりついている。頭のなかはにぶく熱く、発熱しているような感じがした。
 大路を右に折れて小路に入る。
 一族の屋敷は、鬼に荒らされた都のうちでもっとも復興のはやかった区域に位置した。昼ならばにぎやかしい巷も、この夜のなかではしんと静まる。月下の小路。千影はいらぬほどの力を込めて、どん、どん、と門戸をたたく。音が、低くひびき渡って夜陰に染みた。
 やがてぱたぱたと、あわただしく走り寄る足音。重い閂を回す音。
 少女の悲鳴。
 彼女はもう何度こんな悲鳴を挙げたのだろうか、そんなことを思い、初代のはじめからこの家に仕えつづけてきた少女のあおざめてふるえる様子をもはや無感動な目つきで眺めやる千影は、疲労の極にある。
 休ませてくれ。
 終わらせてくれ。
 もう、見たくなんかないんだ。とうに知っているんだ。そのことで毎日、ずっと苦しかったんだ。
 もう、――見たくなんかないのに。このひとが死ぬところなんか。
 うずくまり膝をかかえ赤ん坊のように指をくわえて眠りたかった。
 何も思わずに。もう、何も感じずに。
 肝の底で、どうどうと音を立てて巡る昏い大渦のようなその本音を、千影はしかし、口にせずに終わった。
 千影は、六道の為に床がのべられ彼が落ち着いて休めるようになるまで付き従い、万事とりはからい、そうしてずっと傍らにいてその息を見守った。
 結局、そのようにしかできなかったのだ。
 いつかの夕暮れ、己の生い立ちを気に病んでみずからを傷めていた子供には。

***

 暫く、眠っていたようだった。
 六道には滅多にないことだったが、稀にある深くすこやかな眠りのあとのように断絶した意識の谷間は完全に途切れていて、気を喪ったほんの一瞬のちにめざめたような感じさえしたものだ。
 勿論、そんな筈はなかった。
 丸一昼夜、意識の混濁の果てにふいに覚醒したかれの見たものは仄じろく明けかけた朝と、薄暗くもなつかしい部屋の風景と、そのそこここに思い思いにうずくまり寄り添うひとりひとりの姿。
 掻巻のふところあたりにしがみつくように寄り添うている、おさなごのつややかな髪が見えた。三世と云う。かれの娘である。見るたびにじわりと愛しくなるので、かれにはすっかり目をそらす癖がついていた。
 今もまたそうやって目をそらすと、足元の辺りには九曜が盆をかかえこんだまままるくなって寝入っている様子で、ああやはり先代に似ているなと思った。父親の七生にも、やはりああして床のうえにまるくうずくまって眠ってしまうくせがあったから。
 千影は千影で、かれの枕元にすわりこみ胡座に太刀を抱きしめてうつらうつらと船をこいでいるのである。あの、愛用の黒鞘の太刀は、守り札の代わりかも知れない。災い為すものは切り捨てることの出来る、頼り甲斐のあるお守りである。
 長く吐息をつくと、その千影がぴくりと動いた。集中したまま微睡んでいたらしいがしかし、そら恐ろしいほど反応がはやい。
「……当主様?」
 寝起きの、眠気を含んだ表情が一呼吸のうちに目覚めていく様子を六道は眺め、唇にそっと人さし指をあてた。
 みな、疲れているようだから起こしたくなかった。
 反射的に居ずまいを正して声をひそめる、千影はやはり、何処までも生真面目な少年である。
「なにか、ご入り用ですか?」
 水を貰った。
 ほんのりと障子紙から透けた光が、器のなかの水面に揺れて綺麗だった。鉄錆の匂いにみちた喉を甘やかにすべり落ちていく、みずみずしい井水の匂い。ゆらめく光の輪を胸のなかに入れた気がして、ずいぶん心持ちが良くなった。
「夢のようだな、」
 そう、呟いた。
 舌が少しもつれたが、かれの意識は清澄だった。
 布地越しに感じる幼子の体温、おだやかな光と影、やすらかに繰り返される呼吸。こんなに小さく、か細く脆いのに、そのいのちだけはかれ自身のものよりはるかに力強くて、触れることさえためらわれた。
 そうっと、息をころして指先だけでその頬にふれると羽毛のようにやわらかく、暖かい。あらゆる感情が熱を持ってあふれだし、躰のせいでなく、息が苦しくなって困った。今、泣くことが出来たならどんなに楽だろう。
 夢のようだった。
 曖昧にぼやけていく視界、その中で際立つ光の粒子。何もかも、夢のように思われた。

 かつて見ることも叶わなかった、倖福な夢のように。

 六道はふたたび眠りかけていたが、千影が、横たわるかれの胸のうえに何かを置く仕草をしたので、片方だけうす目を開いた。
「お返しします、」
 その言葉だけで、それが何かを悟った。
 赤銅が今は朝日にきらめく、当主の身を証し立てるもの。
 その指環の姿をみとめ、六道はかるい苦笑を漏らす。
 つくづく、生真面目な子だ。
「もう、おまえのものだ。どうするかはおまえが決めなさい」
 私も昔、そうしたのだから。
 溝泥に捨てるなりせよと言われて受け継いだものを受け渡し、六道の心持ちは今、大変やすらかである。
「……俺には無理です、」
 揺らぐ声音と、泣きそうなほどおびえた心。
 たしかに畏怖すべきものであろう。呪われた血脈、その象徴を目の前に差し出され、その重みに怖じない者を、六道は知らない。
「私もそう思ったな」
 淡々と、ほほえみさえ浮かべて答えることが出来た。
「何度も逃げようかと思った。指ごと切り落としてみようかとも思ったし。それでも、まあ……私のような意気地無しでも、此処まで来たのだからな。そんなに無理なことでもあるまいよ」
 そうして付け加える。

「おまえの方が、私よりずっと似合う」

 六道がおぼつかない手つきで自分の胸のうえを手さぐりするのを見て、千影は、かれがもう殆ど視力を失っていることを知る。おそらくはもう、明暗とぼんやりとした距離感だけで、ものを見ている。
 ならば気付かれまい――
 千影はそう思い、声は一切立てなかった。膝のうえで両手をぎゅうと握りしめ、目を閉じると、眼裏の暗闇に光があふれるようだった。瞼はかぎりなく熱く、にぎりしめた両手はふるえ、千影は、そうやって泣いていた。

***

 ――夢のようだと思うよ。
 こうして、此処にいることが。生きている事、生きていた事、そのものが。
 なにもかも、昨日のこととおなじ距離に感じる。
 父上が死んだ夜のことも、私の初陣も。つまらない我を張ったことも嬉しかったことも、何もかも、みんな。……夢のようだ。
 それも悪くないと思える。
 外は晴れているのか。風が、ここちよいな。
 ああ、もう、どうにも見えなくなってしまったらしい。私の目も。
 ……泣いているのか?
 それとも、怒っているのか。だが、仕方ないよ。寿命なのだもの。 思えば、大分長生きしたものだ。
 たのしかったな。
 たのしかったよ。
 嫌なものもずいぶん見たけれど、その分、うつくしいものもたくさん見た。見えないと言うのは、もどかしいことだな。……見えない。おまえの顔が、もう見えないよ。
 ああ。泣くな。私はすこしも嫌ではないのだ、こうして死んでいくことが。何を泣くことがある?私は今、とてもみちたりているのに。どうしたら良いか、わからなくなるじゃないか。
 九曜。いろいろ心配を掛けたな。すまなかった。……有り難う。
 三世。おまえは私に似て強情張りだから、気がかりもあるけれど。大丈夫さ。千影と仲良くして、よく助けてやりなさい。
 ……千影。
 あとは、おまえが決めることだ。思うようにすれば良い。
 より高みを望むことも。思うように思うままに、お前の掌の中に。

 ――なあ。

 いままで見ていた夢から醒めて、別の夢を見始める……
 死ぬって云うのは、それだけのことさ。

***

 思い出すことは、数かぎりなくあって。

 すでに息の音を止めた六道を置き去りにして、千影は部屋を出た。
 外気が身をつつみ、陽光がにわかにまぶしく照りつけ、目眩がした。幽かな頭痛。
 あの日の、あの夕暮れの、あのときに立った場所と同じ場所に立ち、その果てしない遠さに目眩がした。今や、何も同じではなかった。
 通廊の高欄に身をあずけ、千影はずるずると座り込む。
 何度でも繰り返し思い浮かべた情景が眼裏に浮かび、目眩がした。
 目眩がした。

***

『――おまえの父御は、おまえを誇りに思うていたよ。』

***

 夕暮れの通廊、動かなくなった二人分の影、赤い、赤い赤い光が、空を血に染めているように思えた。
 長すぎる沈黙に、六道はちらと目を反らし、空の光を眺める。
 ふとその視線がいまわしげな色彩を帯びたと思うのは、千影の深い劣等感の裏返しかも知れない。彼自身かなりどうかと思うほど、その感情はその心の奥深くに根差していたから。
 或いは、六道自身が、その心の奥深くに根差したかれの傷跡を辿っていたのか。
 そうして、幽かな吐息。
 その気配に、千影はびくりとすくむ。
 ある時期、そう、この少年のものごころつくかつかないかという、この一時期――冷厳にして苛烈、しかし意外なほどやわらかい情の脆さを隠し持つこの当主は、或る意味、彼の世界の全てであったから。
 きらわれるのはこわかった。
 考えるだけで絶望的だ。ただでさえ自分に失望しがちなこの少年にとっては、それこそ、世界の終わりにもひとしい。他の誰かなら何を思われても構うまい、そう思いながらただひたすらに木刀を振り呪法の理をしるした秘伝を紐解き、文字通り寸暇を惜しんできた少年にとっては。
 だから。
 次に発せられた言葉は、彼にとっての世界の一部を破壊するに足りた。その石積みを砕き土台から傾がせ新たに目をひらかせる、そんな威力を持っていた。
「――おまえの父御は、おまえを誇りに思うていたよ」
 けっして嘘ではない響きを持っていた。
「おまえは憶えていないだろうけれど。私は知っているよ、あの人は、おまえの行く末を楽しみにして、誇りにしておられた」
 普段真面目で口数の少ないその人が、赤子の話をするときだけそれは嬉しそうに、いつまでも話をしたがったこと。きっとこの子は俺よりも強くなると、その言葉こそ力づよく語ったこと。往時の当主であったその弟が兄の態度をよく冗談の種にしてからかったことや、そのたびにむきになった姿。その姿は六道が見てさえたいそう面白く、ひどく微笑ましかったこと。そのようなことを全て、千影は、そのとき初めて聞いたのだ。
 ……だから、そんなに忌まわしく思うことなど何処にもないと。

 おまえは言祝がれて生まれてきた。
 父御はもう居ないけれど、その代わりにはなれないけれど、それでも、私がおまえの傍に居よう。
 おまえは、言祝がれて生まれてきたのだから。

 夕陽の階に座り、ふたりで暫く、其処に居た。
 六道に泣いている子供を置き去りにしていくことなど、出来よう筈もなかったからだ。
 座って、その膝を両手でぎゅうと握りしめ、千影は泣いていた。声を挙げて泣くことは、ものごころついてからそのときがはじめてだった。胸のなかで噛み殺しつづけてきた嗚咽はひどく熱く、際限なく頬をころげる涙のしずくはどこか甘やかでさえあり、何もかもまかせきったこころよい涙だった。
 あまりにもひどく泣き続けたので、六道はすこし困った顔をして、それから千影のもつれ髪をくしゃくしゃと撫で、子供の肩に腕をまわして、くすぐったげな微笑を洩らしたものだ。

***

 あかい色をした黄昏。
 残暑の残る、夕暮れの風。
 空の端に、銀いろにひかる三日月。
 ……あのひとの微笑。

 あれは、たった三月前のことだ。

 ひとつの世界が終わりかけ、別の世界がうごき始めた、あのときの夕暮れ。
 子供のように膝をかかえ、夕暮れから顔をそむけ、夕暮れと同じいろの瞳で、千影はまた、ほんの少しだけ泣いた。

 ――あれは、たった三月前のことだったのだ。