
「晦雪」
―つごもりのゆき―
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きっと、綺麗に咲くだろう。 誰が望もうと、望まなくとも。誰が見ても、見なくても。 ◇◇◇◇ 咲き残した白梅の、最後の一枝である。 愛らしいつくりの五弁の花、匂い立つ香はきりりと清しい甘さ。花は、散り際にもっとも強い芳香を放つのだ。 1025年、二月如月。 空は曇天。六道は、ちらりと目を眇めてから樹下にそろえた草履をすあしに引っ掛ける。軽く単に一枚羽織っただけの格好では、さすがに寒気が身に染みる。ほんのりと赤く、凍えた足指にはすでに感覚がなかった。前をかき合わせるとともに、手折った梅の一枝。花弁のひとひらも落とさぬよう、丁重に胸に抱く。 庭の白梅の根元には、掌大の木切れが差し込んである。風雨に耐えてすでに幾月か、表面に書き残された文字は達筆なのか悪筆なのか、どうにも判別はつかぬ。如何にもあの六代目らしい筆跡ではあった。それでも、書かれた文字はまだ、かろうじてこう読める。 『睦月』。 彼女の遺骨は、この木の下に埋まっている。 眠るように穏やかな死顔を思い出しながら、六道は、ふと遣る瀬ない心地になった。 一体、誰が覚えていてくれるだろう? ここに一人の女が埋まっていることを、誰がこの、拙い筆跡から知るだろうか。籠の鳥でも埋めたかのような、このあまりにささやかなしるべ標から。 赤銅の一輪挿しに活けたその一枝を枕元に置くと、七生はことのほかよろこんだ。掻巻のしたからもぞもぞと這い出してきて枕を両腕に抱え、肘をついて眺めている。 相も変らぬ、童のようなふるまいである。 だが、衰えた、と思う。生来、丈の割にはほっそりとした身体つきの男であるから大して目立たぬのだ。細い面の、頬骨の線がきつくなった。強健であった手首が細ってゆくのが日毎、手に取るようにわかる。 変わらぬのは、その仕草と、笑みばかり。綺麗だねえ綺麗だねえと同じことばかり繰り返す、子供めいた口調。 「冷えまする」 掻巻を肩に掛け直すと、うん、とおとなしく肯くやり方も、やはり童のようである。仰のいて天井を眺めながら、独り言のように呟く。 「桜が見たいねえ」 六道は、聞かぬ振りをした。 七生は近頃、頻りにこの言葉を口にする。桜の花が好きなのだ。ねえ、桜が見たいねえ。もう少し暖かくなったら、みんなで花見をしよう。八坂に行くのも良いけれど、おれは山桜が一番好きだなあ。…… 連日の微熱にかすれた声でものやわらかにとめどなく、他愛ない願望を語るのを、六道はもはや止めようとは思わぬ。 ただ、心の底から思うだけだ。 呪詛うように、血を吐くように、日に何千度も思うだけだ。 ――桜など永遠に咲かずともよい。 ◇◇◇◇ 自室に帰ると、双子の兄貴の方が火鉢で餅を焼いていた。 鉄網を載せ、膨らんだところをひっくり返しては程好い焦げ目をつけている。あぶられた餅の匂いがほんのり漂う、その己の部屋らしくないあまりの平和さ加減に頭痛がしそうだ。綿入れを羽織り、箸で餅をつつき回していた常葉が振り向き、罰の悪そうな顔をする。六道は部屋の扉口に立ち、炭火も消えそうな温度の低い声で開口一番、こう言った。 「それはくらべこう競香に使う角炉だと、何度言えば判る?」 不穏なくらい冷静で、聞くものが聞けばおそろしく不機嫌であることが判る声音である。それでも常葉はなけなしの反論をこころみた。 「……だって、だってよ、この部屋他に火鉢ないじゃん。帰ったときに部屋がぬくいのって嬉しくねえ?」 離れを自室として与えられてより、余暇の殆どを部屋でくつろぐことに費やす六道の趣味の通りにこの部屋はしつらえられてきた。だからたとえ冬であろうが、暖を取るための鉄火鉢ひとつない。行火と綿入れと気合で寒さなんぞ如何とでもなるものだというのが、かれの持論である。 「生憎、寒い方が頭の働くたちでな。……その餅は食って帰れよ」 どうやら焼きあがるまではここに居てもいいらしい、と見当をつけ、常葉はこっそり安堵する。心底機嫌が悪いと、一片の容赦もなく叩き出すのが六道という男である。木枯らし吹きすさぶ霜月であろうが、粉雪ちらつく師走であろうが、いっさい躊躇はしない。きょうなんか、ずいぶんましな方だと思った。今月の討伐で隊長をつとめて以来、六道は毎日まいにち不機嫌である。じつに始末の悪いことに不機嫌も好機嫌も判別のつけにくい能面のような表情を崩さずにいるものだから、ひどく扱いづらいのだった。 どこから口火を切るべきか常葉はしばし思いあぐねた。箸でつついていた餅の皮が、ぷしっと音を立てて破れる。どうせ頭はよくないのだ、悩むだけ時間の無駄だ、餅は焼きすぎるとあとは炭になるだけなのだ。覚悟を決め、顔をあげ、そして常葉は絶句する。六道は脇息に両肘ついて、だらりと身体を伸ばしていた。 らしくない態度である。 実に、六道らしくない態度である。ひとつまばたき。深呼吸。吐くと、思いのほかするすると言葉が出てきた。 「…………なに。なんかあったの?」 軽口めかした台詞は、ぎろりと、刃物のような目つきで睨めつけられた。六道は、斜めに切れあがった目尻をしているものだから、そうやって気迫あるまなざしをすると実にこわい。金色の瞳が地を這う蛇のうごかぬ眸を思わせて、見るものの背に鳥肌を立てる、毒のような視線だ。その顔筋からは、表情らしい表情が抜け落ちている。 「――当代の指輪が外れた。いまは神棚に置いてある。」 箸から、ぼたりと餅が落下した。火鉢の灰にまみれたそれをじつに情けない顔つきで眺めたが、そうさせたのはそんな日常の些事でなく、今しも口にされた言葉の方だ。その証拠に、じりじりと黒煙をあげ燻り始めても、常葉は微動だにしなかった。 「……冗談にしちゃきついぞ、そりゃ。おまえお笑いには向かねえなあ」 それだけで人が殺せそうな視線が頬に痛い。笑い飛ばそうとしてしくじり、居心地の悪い沈黙が重く場を支配する。常葉は黙って灰の中から、炭になる途中の餅を拾い上げた。六道はまったく容赦せずに言葉を継いだ。石のように重く、無情な言葉を、あえて口にする。 「保って精々あと三日。四日はいくまい、俺の父はそうだった。秘蔵の沈香を賭けても良い。――何を張る?」 「もういい。やめろって!……もういいから、……わかったから、」 制止され、六道はふと、ひどく傷ついたような顔をした。水面の陽炎のようなゆらぎが、仄白い無表情に翳りを落とすのだ。口にする一言一言に己自身が切り刻まれながら、かえってそれで楽になる、それがこの男の心の在り様だった。常葉は、こっそり鼻から溜息を吐く。傷口を己の手でこじ開けて血を流せばそれで良いと思っているのだ。この男は。そうすれば、ふとした拍子に傷が開くことには怯えずにすむ。そうすれば、いつか何も感じなくてすむようになると信じている。 なんて厄介な性分だろうとつくづく思う。六道は万事そつなくこなす器用で頭の回転のはやい男であるけれど、その性分が他者の目にどう映るかということだけには、なぜか考えが及ばぬらしい。先回りして止める側の気持ちにもなって欲しいところだ。 灰をふるい落とし、焦げたところをこそげ取りつつ、常葉は目の前の男からそっと目を逸らす。うなだれた首筋、ついた両肘をがくりと崩して、両の手を額におしつけていた。組み合せた指が幽かに震えている。その蒼白な指。あおじろい骨張った手に、さらに浮かびあがる関節の白さ。容易に人を殺せるほどの力を込めていることが、ありありとわかる。食欲などもはや微塵もなかったが、常葉はわざとばりばり音を立てて、焦がしてしまった餅を食う。灰の味しかせず、口の中がじゃりじゃりするが、かまわずに嚥下した。胃に悪そうだった。 「で、どうすんの」 なげやりな口調で、ぼそりと呟く。どうせ避けられない話題だった。いやいや口にしていることがはっきりわかる、傍目にも不機嫌な顔つき。常葉の感情の動きは極めて読み易い。 七生は以前から、次代当主に六道を指名している。 今居る一族のうちでもっとも相応しい人材であるのがその理由だ。年齢的にももっとも脂が乗り、円熟を始める時期にさしかかっていた。六道は、補佐としてはかぎりなく冷静で有能な男だった。当主職のなすべき仕事を良くこころえ、いくさに強いとあって、ほかの一族もみなこれ以上に相応しい者はおらぬと認めるところだった。 ところが、当人がそれを固辞していた。 初めてこの話が出たときのこの男の顔を、常葉は生涯忘れられぬだろう。すうっと蒼褪めた表情が次の一瞬で、能面そのもののようにこわばった。滅多に感情の動きをあらわさぬ男であるが、ごくまれにその感情が沸点を越えると、六道は更に表情をなくす。戦場でしかみせたことがないその怒りの矛先が人に向かった瞬間を、常葉はそのとき初めて見た。本気で修羅場を覚悟した。絶対血を見ると思った。全員が全力でかかっても止められるかどうか。その場に己の得物がないことを死ぬほど後悔した。あっても勝てないかもしれないと思ったことは、妹のほかには内緒だ。隣で、こっちの首筋がびりびり痺れるくらいに緊張していた。葉常の肘がこちらの脾腹をつつき、いくさのときと同じく、それだけで気心が知れた。己が右で葉常が左。背後から呼吸をあわせて出来る限り動きを封じる。…… 鬼相手のいくさでも、あんなに怖い一瞬は、そうはない。 眉をあげただけで顔いろひとつ変えぬ七生を、常葉はそのとき心底尊敬した。いろいろ問題のおおい当主ではあったものの、その胆の太さだけで賞賛に値する。 「お断りします」とだけ発して六道が部屋を出た瞬間、双子など全身から力が抜けてしばらく立てなかった。立とうとしても、膝の震えが収まらぬのだ。全身が緊張のあまり硬直していて、動くと筋がばきばきと音を立てた。末座にちょこんと坐り首を傾げている九曜を見て、さすがはあの七生の娘だと思った。あの場が何事もなくおさまったのは多分、他のだれよりも六道自身の自制心の御蔭だ。円座の前に残された湯呑はその話を聞かされた瞬間にかれが握っていたものであるが、片付けようとしたらぱっくりと割れた。その瞬間にかかった圧力と、それを誰にも向けずに抑えこんだせめぎあいの結果を如実に示している。怪談並にぞっとする落ちだった。 これでも常葉は、この男の琴線と云うか、神経を逆立てるときのこころのありようなどは心得ているつもりだ。ふだんの冷静過ぎるほどしずかな面差しの水面下で何を考えているかまでは掴み切れずとも、こう来たらどう動くか、位のことはわかる。初陣からこっち、殆どの戦をともにしてきた仲である。それぐらいの呼吸が判らねばこっちが困るのだ。その鼓動、その足はこび、無意識のうちにそれら全てから導き出される次の瞬間を予測する。六道は、冷静な男である。冷静で抑制の効いた、そうしてそれらの箍できつく戒めねばならぬほど、情のこわい男である。 「――――あのさ、」 思い切った。 「おまえが厭なら、おれがやるよ」 この瞬間、やっと楽になれたと常葉は思う。 「おれでも、葉常でも、九曜だってさ。みんな言った。おまえが厭なら、自分でやるって。おまえあのとき出ていったから、聞いてないだろ?言っとこうと思ってさ。おまえ何でも、ひとりで決めるだろ?おれらに聞かないだろ?だからさ、決める前にさ、言っとこうって。だから、ええと、だからなあ、――」 その辺りで、言葉が絡まってわけがわからなくなる。あたまの中が一瞬でぐちゃぐちゃになった。承服しがたいことに、喉までつまった。焼けた石でも呑んだみたいだ。泣く寸前の、喉からせりあがってくる、あの感じだ。 「だから、何だ」 こんなときにこんなことを言うやつに、意地でも顔を見られたくないと思った。どうせこんなときの六道の顔なんてもう何べんも見たのだ、見なくたって瞼に思い描ける。ほんの少し眉根を寄せて、ほんの少し口唇を開けて。そこで言わせなくたっていいじゃないかと思った瞬間に、いつも気持ちが破綻する。言葉にあまって、自分でも割り切れない。収拾がつかない。その先が続かない。その一瞬で、もう自棄糞になった。 「だから!……無理しなくたっていいって話だよ畜生!!」 怒鳴りつけて、その勢いのままどかすか足音を立てて、常葉は離れから出ていった。その後には餅と、箸と、金網と角炉と、姿勢を正しかけて中途半端な姿勢で怒鳴りつけられた六道が取り残される。 結局何が言いたかったのか、は常葉の頭の中でぐちゃぐちゃになったまま。自分でも訳のわからない収拾のつかない形にこんがらがり、いつものように何も言えぬまま終わった。 ――だから何だったのだ今のは。 餅相手にひとりごちてもらちはあかぬ。むろん答えてくれるわけもない、餅とは食べるものであり話をするものではない。結局、残った丸餅ふたつを六道は己の胃に片付ける羽目になった。 歯を立てるとほろりと香ばしい皮が崩れる、よい焼き加減になっていた。すこし焦げたくらいが六道の好みに合っている。 そういえばここ数日、きちんとした形での食事をあまり取っていなかった。もともと食欲の旺盛なほうでなく、ほかに気にかかることがあれば尚更で、六道はよく朝暮の膳につくのを忘れる。ひさしぶりに何かを美味いと思った。人心地がつくとはこういうことだと思った。 腹がくちると、しぜん眠くなる。身体を横たえ、己の肘を枕に、すこし眠った。 ◇◇◇◇ 六道は滅多なことでは夢を見ない。それは子どもの頃からで、その当時はべつだんおかしいこととさえ思っていなかったふしがある。初陣前の二ヶ月はじめごろに初めて夢を見たのだが、そのときなどあまりの恐ろしさに起きてから暫し呆然としてしまった記憶があるのだ。おそろしい夢だった、という感触ではない。夢を見たという、その体験自体がおそろしかったのだ。己のうちに何か、得体の知れぬものが、ある。その違和感。躰のなかにぬるりとした気持ちの悪い怪物を飼っているような気がして、絶対に病気にちがいないと思い込んでひとり悩んだ。その内容を家人に逐一うちあけたのはついに耐え切れなくなったからであるが、そのついでに、もうひとつ判ったことがある。叔父が家伝の前史という古びた冊子を探し出してきたからだ。 通眼筋。 人に見えぬものを観、人に見えるものが視えぬ、その血筋。 それは確かに六道の、幼時からの疑団を言い当てていた。現の瞼を閉ざすとたちまちにざわめき蠢く無数の影。意識の焦点からあえて逸らした、視界の境の気配。鬼とも呼ばぬ小妖ども。草葉のうえをゆく、指ほどの丈をした侏儒の行列。うつろいゆく季節を告げて不可視の薄紗をひるがえしてゆく何ものか。鬼眼子と呼び、世には見鬼と称されるその異能を、かれは極めて巧みに飼い馴らしていた。現と現でないものの境目を見分け、人の目に見えるものと見えぬものの違いを受けとめ、己で上手く采配をしながら釣合いを取っていた。当時何も知らぬ幼子であったことを思えば、我ながら薄気味悪いほどだ。 ただ、黄ばんだ紙に漢文で書かれた内容は、それだけではなかった。 ――観夢眼。 能く魂離りして、現と夢とのあわいを繋ぐ糸を渡る。己のうちに夢を見ず、ただ己でなくひとの胡蝶を観ずるもの。何とも解し難い内容をじつに端的に言い当てたのは、相談を持ちかけた三日星ではなく、一部始終をそばで聞いていた七生であった。 ――だって、それ、おれが見た夢だもの。 今でもあの一言は忘れられぬ。 だって、それ、おれが見た夢だもの。 理屈にあわぬ話だとして六道は強硬にゆずらぬ姿勢を見せたが、七生はまるで答えあわせをするようにして確かめ、話をすこしずつ解きほぐして説き聞かせた。薄曇の空、経堂の屋根の色から、部屋のうす暗い様子、頭の下の枕のかたさまで。障子のむこうを繰り返し通る足音はなぜか、尼僧のものだと知っていた。その足袋と床板がこすれて立てる幽かな音までも。 全てが一致し、しかたがなく六道の方が折れた。 爾来、六道にとって夢とはあまり良い思い出のある単語ではない。それは己の思うようには動かぬ、十一本目の指だ。益体もない、役立たずの指のくせに時折酷く痛み出し、そちらに目を向けずにはいられぬように仕向けるのだ。ちょうど今のように。 目線がずいぶん低かった。 いまよりずっと髪がみじかく、だからそれは子どもの頃の己だ。初陣のいくさを経てのち、六道は後ろ髪を切らなくなったから。左の手首に結んだ五色の紐は、魂結びのまじない。手ずからそれを結んだ七生が、その左手を引いている。歩幅がひろいので、いつもこちらは倍も足を動かさねば歩調があわぬのだ。ふうふうと必死で足を運んでいるといつでもゆるりと笑ってこちらの頭を撫でてくる、それからやっと、ついてゆくのが楽になるのだ。 山道。 ――どこへゆかれるのですか。 問うても答えぬ。 笑うばかりで、微笑うばかりで。 わけもなく不安になって、更に問う。 ――どこへゆかれるのですか。 ――みんなゆくところだよ。どうしていまさら、そんなこと聞くの。 柳の花の柔毛のような、しらじらとした笑みが仄かに浮かぶ。 山道の砂利が足に痛い。 暗い夜道に忽然と、月が浮かんだ。ああ、あそこへゆくのだなと思い、みんなあそこにいるのだなと思い、ほっとすると同時に、あんまり遠くて泣きたくなった。 ――そうだね。遠いねえ。 ――でも、ほんとは近いよ。すぐそこだよ。 笑うばかりで、微笑うばかりで。 うすい瞳と、やさしいほほえみ。 胸が痛いのは、なぜだろうか。 どうしてこうも、わけもなく不安になるのだろうか。 もう一歩だって歩けない。歩きたくない。 齢上の男は、困ったように少しだけ眉根をあげて、それでも尚も笑みつつ言った。 ――だって、みんなゆくんだよ。知ってるじゃないか。 仕方ないじゃあないか。…… そうして、そこで目が醒めた。 ぼんやりしたまま、六道は左の手首を眼の前にかざした。無論、そこには五色の紐はない。あれは元服のときに外したのだった。外して、焼いて、灰にしたのだった。頼る心が残ればどうしても、弱くなる気がした。己は、いつもそうだ。逃げ道を断たねば、後戻りしてしまいそうで怖いのだ。だからそうして、ひとつひとつ、大事なものから切り捨ててゆく。逃げ道を己の手で焼き払わねば気が済まぬ。止めを刺すのなら己の手でせねば、気が済まぬ。 ――これもまた、或いは病と呼ぶのだろう。 あの人が、何もかも許してしまうように。残酷なほど何もかも受け容れ過ぎる、その心の在り様のように。 それでも、人はそれを尚、やさしさとも呼ぶのだ。 起きよう、と思った。 でなければ泣こう、と思った。 どちらでも良い。どちらでも大差ない。何故ならば、六道はそのときに、起きあがることも泣くこともできなくなったからだ。胸郭が激しく痛かった。心の負荷がそのまま肉体に跳ね返ってくる。呼吸が細く、浅くしか継げぬ、真っ白い苦痛の波だった。うす暗い部屋の底、ただひとり石のようにうずくまり、膝を抱え、死にもの狂いで、己の痛みに耐えた。 それが此の世でただひとつ、確かに己だけのものだった。 ◇◇◇◇ ――深夜。 枕元に置かれた梅の香が、しんしんと骨にこたえるほど匂う。 ぼんやりと微熱に漂いながら、七生は何度も浅く眠りに落ちて、そのたびに幾つも幾つも夢を見た。色彩がめまぐるしく多く、唐突な転換と落差を繰り返し、それが可笑しくて、夢を見ながらくすくすと笑った。くすぐったいのを堪える子どものような忍び笑いに自分で目を醒まし、それがまた可笑しくて、起きてからも少し笑った。わらうと喉がかわく。枕元の水差しをてさぐりすると、誰かのひんやりとした掌がその手をそっと止めた。土器がおしつけられ、水差しがかたむけられる、ととと、とやわらかい水音が水底めいた静寂によく響いた。手馴れた、てきぱきと淀みない対応だった。指先までよく神経の行き届いた、無駄のない所作だった。 「――お水をどうぞ」 聞き慣れた声がし、うれしいというよりなんだかびっくりして、また笑いたくなってしまう。枕に顔をおしつけてふくみ笑いをごまかしていたら、声が不機嫌そうに、やや低くなった。 「いらぬのなら取り下げますが、」 むろん入用である。すなおに頭を下げて土器を手に取ろうとすると、重みに、手首がゆらぐ。見かねて添えられた手を土器といっしょに両手でつつんで、水を飲んだ。美味しい、つめたい水だった。ひんやりして、己のものよりすこし小さい掌だった。 昔はもっと小さくて、紅葉みたいなかたちをしていた。いまはずっとほっそりとしていて、流麗な骨格だった。指が長く、爪はいつもやや深爪ぎみに整えてある。左手の親指だけはよく、ぎざぎざになって痛そうな縁の爪だ。爪を噛むくせが止まぬのだ。ほんの小さなあの頃から、すっかりおとなびて澄ました顔をしているいまになっても。 ――また同じ夢を見た。 この子が枕もとに来るときは、きっとそうだった。そうしてじっと座っている。なんだか座敷わらしみたいだった。そう言うと、「では六道がいなくなると、家運がかたむきまするか」ときまじめな顔で尋ねた。七生が例によって、「そうだねえ、傾くかもねえ」などと莫迦正直にやらかしたもので泣きそうな顔で走っていってしまった。人前ではけっして泣かぬ、強情な子どもだった。強情で、むこうみずで、人見知りが激しくて本が好きだった。そうして、いつも必死だった。足りぬ歩幅をちょこまかと動かしてついてくるのが当時、七生は大層うれしくて、わざと歩幅を合わせなかった。今から思えば、あれはちょっと意地悪だった。反省している。 ――また、同じ夢を見た。 水を飲み終え、ほっとひと息ついて、七生は六道の顔を下から覗き込むようにして眺めた。肩にそのまますべらせた黒髪、細い、筋張った首筋。顎も細い。むかしは女児のように愛らしい口唇と、円らな眸の子どもだった。いまは削ぎ落としたように甘みのない顔つきに育ったが、ぜんたい小作りで、きちんと整った容貌には端整という言葉がじつによく似合う。ちんまりと膝に両手をそろえて座っていた子どもはいま、まくりあげた袖から痩せた肘のとがったところをのぞかせて、布を水で冷やしては絞っている。かまってほしくなり、七生は枕から顔をあげて声を出す。 「ねえ。先刻ねえ、夢、見たよ」 「――知っております」 観ましたから。 そっけない口調で言うけれど、とりあえずかまってはくれたので七生はうれしい。 「岩山みたいなごつごつした処でねえ、だれかと手をつないで歩いてた。なんか途中でごちゃごちゃになってよくわかんなくなったけど、たぶん、ずうっといっしょに歩いてた。月が出ててきれいだった。そこだけ覚えてる」 「――知っております」 ああ、やっぱり同じ夢を見たのだな。そう思って、七生はなぜか安堵したような気持ちになる。夢の中であれ、だれかと一緒であるというのはかれにとり、大層うれしいことだった。 「ねえ。散歩したい、散歩しよう?」 例によって唐突に思いつき、七生はその思いつきにはしゃいだ気分になる。六道は一瞬、ひどく困ったような顔をしたが、それでも何も言わずに七生の腋の下に肩を入れて、立ち上がるのを手伝ってくれた。 もう何日も床についているものだから、だいぶ足の力が弱りはじめている。重力が腰にこたえて、足元が覚束かぬ。六道はやっぱり何も言わないまま掻巻を肩に懸けようとするので、ついでにいっしょに入ることにした。「二人羽織」とふざけて言うと、「終いには縁側から蹴り落としますよ」と脅された。声がだいぶ本気だ。ほんとにするから、この子はこわい。「これくらいせねば利きませぬ」としれっとした顔で言うのだ。反論できない兄が気の毒で、正直にその感想を洩らすと、「誰のせいだと思ってる」とふたりがかりで怒られたものだ。なるほどたしかにおれのせいだなあ、と叱られながらも妙に納得していた七生である。 「なんか、こういうの、あったねえ」 ぼんやりした記憶を手探りすると、 「覚えていますよ、三月でしょう?雨が降っていたから、合羽のかわりに小袖を着ていったんです。私が熱を出していて。」 ああそうだったそうだった。 六道はむかしからものおぼえが良い。対して七生は、よくもの忘れをする。それはもう、どんどんどんどん忘れてしまう。忘れて、ぼんやりと曖昧で、倖福な何かになるのだ。忘れるということは、ある種の恩恵だと思う。印象と感覚と感情のほうが、記憶と知識と理性よりもずっと強く、心に残るから。 人を救うのは、そういうものだ。 未だ来ぬ未来ではない、とうに過ぎ去った過去。いつでも、望むところに直ちに舞い降りてくるものだ。そうして今、この手に触れる現在の確かさ。いまこうして肩を支え、ともに庭に降りる子ども。その肩は骨張っていて、自分のものより、やや肩幅がせまい。髪が長いので、さらさらと頬にふれるのがちょっとくすぐったいのだが、七生も寝くたれた白髪をそのまま解きおろしているので、相手のほうもたぶんくすぐったいと思う。背が、ずいぶん伸びた。むかしは結構小粒なほうで、七生がそのまま肩にかつぐこともできたのだ。 そんなとき幼時の六道は、おろしてくださいおろしてと実に強硬にあばれ続けたものだが体格差は歴然としており、しまいには疲れ果て肩のうえでぐったりと静かになった。あのときは、降ろそうとしたすきに手酷く頭を蹴られた。自業自得とはこういうことだとしみじみ実感した。でも楽しかったので後悔はしていないと言い添えると、今現在の六道は、そんなこともありましたとじつにしみじみ厭そうな顔をする。あまり良い思い出にはならなかったらしい。ううん、ちょっと残念。 「楽しくなかった?」 「恥ずかしかったですよ。人がいやだって言うのに家じゅう練り歩いたでしょう」 あれ、そうだっけ、と間の抜けた声を出すと、肘でこづかれ、ついでによいしょと気合を入れなおされた。幅はなくても丈はある、案山子みたような体つきだが、どうしたってそれなりの目方はあるのだった。 「――ああ、綺麗だねえ」 ほろりと呟く。しぜん、二人とも足を止めていた。庭の白梅のところだった。もう殆ど散ってしまったけれど、今年はことのほかよく咲いた。六道は、その前年の花を知らぬのだけれど。もう散ってしまったあとに生まれて来たのだけれど。 年々歳々花相似たり。 歳々年々人同じからず。 これほど、これらの言葉が間尺に合わぬ一族もない。 これほど、これらの言葉が無惨にひびく一族もない。 けれど、七生はいつも、そう、いつでもこの言葉が示すほどの不幸を実感したことはないのだった。 花は美しかった。人は優しかった。日々は楽しかった。 ならば、それ以外の何を望もうか? それ以外の、一体、何を望もうか? 「ねえ」 七生は言う。 「死んだら、何も残らないのがいいね」 骨も欠片も、何も残らないのがいいね。 「そうですね」 六道は言う。 「何もかも、消えてしまうのがいいですね」 思い出も夢も、すべて消えてしまうのがいいですね。 「ああ、雪」 ふいに、七生は空を仰いで声をあげる。子どものようだといつも言われた、そんな調子で。 雪が降り始めていた。 きっと、この如月の最後の雪だ。 ちらちらと白く、無数に、暗い夜空から暗い土へと。 無数の死者を埋める、埋葬の土へと。 空に月は無く、星も無く、重い雲と風だけが天と地をへだて、そして大差はないように思えた。 倖福も不幸も、大差ないように思えた。 それらはただ、あるようにあるだけ。 けれど、七生はきっと言う。何度も何度も、くりかえし言う。 「きれいだねえ――」 雪はただしんしんと舞い落ちて、それ以外の何物でもないのだけれど。 花の香はせず、咲くべき枝も持たず、ただそれ以外の何物でもないのだけれど。 ◇◇◇◇ それより二日ののち、冬見家六代月爾・七生は息を引き取った。 眠りに落ちるように、ふと気がついたら死んでいたとでも言いたげな、いつもと何変わらぬ笑みを湛えた死顔であった。 それより七日して、前年よりずいぶんと早く、桜花は一斉に咲きはじめた。 六道は、以来、桜の花が嫌いだ。 どうせもう、己は見ることがない花なのだけれど。 ――桜などもう、永遠に咲かずともよかった。 |