「遠望月」
 ―とおのもちづき―

 

 冬見の家に、墓所はない。
 死ねば骸は烟へと、残るものどもの手で還す。
 それが初代の始めから、この家に生まれたものどもが粛々と受け継いできた不文律であり、暗黙の了解である。

 ざくり、ざくりと灰を掘る。
 七生にはもう見慣れた風景だったが、両腕に抱えた双子はそのたび、びくり、びくりと震えるのだ。 当たり前だ。
 その灰燼は、己等の母であった人のものである。右腕に常葉、左腕に葉常、幼子ふたりを当主である七生が抱きこんでいるのは不安にせぬためでもあり、暴れ出さぬための用心でもある。いかに鬼殺の業を負うとも、まがりなりにも親であり子でもある。ことにものの道理もよく弁えぬうちに、その死に目に遭うことはつらいことに違いなかった。
 灰を掘るのは白い、痩せた両手である。乳白色の塵芥に塗れて、更に白粉をまぶしたような有様。
「……、ありました」
 常はなめらかで張りのある声を低くかすれさせ、汗で重くなった髪を揺らして、六道は振り返る。その手には椀の欠けたような、乳色の土器じみたものをうやうやしく、捧げ持つようにしている。
 されこうべであった。
 灰のまだ熱いうちに探り始めた指先はあちこちが赤くなり、ところどころが火膨れになっていた。
「ああ、ありがとう」
 受け取ろうと動きかけて止まるのは、両腕にひとりずつ、ぎゅっとしがみつかれて身動きできなくなったからだ。袖に顔をうずめて目をそむける、その両方の背中を撫でて、囁きかける。
「ちゃんと見なさい。おまえたちのかあさんじゃあないか?」
 幼子ふたりからは、この齢相の子供に特有の、干草のような匂いがした。おびえて冷たい汗で湿った、干草のような匂いが。
「――酷いことをおっしゃいますな」
おとなびた口調で、六道が息を吐くとともに呟いた。
「むごいかな」
「ええ、とても」
「だって、お別れじゃあないか」
「とても酷うございます」
 淡々と歯切れ良く発する声は、すでに落ち着きを取り戻しつつある。よく知った人の髑髏を両の手にかかげ、黒髪が風になびくと、細い首筋がのぞいた。ほっそりとした、蓮の茎のような首であった。
 草の上から腰をあげると、七生は柔和な顔つきにかぶさる白髪をかきあげた。無精のままの蓬髪を無造作に束ねている、そのおくれ毛が汗で喉元にはりつくのだった。
「じゃあ、もう埋めてしまおうか」
「白梅の下で、よろしいですね」
「ねえやの遺言だからねえ。埋めない訳にはいかないな」
 それにあの木の枝ぶりは、ねえやにようく似合っていたよ。うぐいす色の晴れ着を着てね。こう、すらりとした背中でね。
 しんと寒い頃に咲く花が、あのひとにはようく似合ったよ。……
 柔毛のように和やかな、その表情はいつもと何も変わらない。いつもと同じ語り口で、かれは手を伸ばして少年が差し出すされこうべを受け取った。そうして、「お別れ」とその頭蓋、生前ならば額のあたりにくちづける。
 やがて「やる?」と七生は小首をかしげて双子の方を見たが、どちらも目があうやいなや、ぶんぶんとひたすらに首を振りたくった。
「彼岸までへの餞ならば、読経あたりになされませ」
 あきれた声音で六道が言うのに、
「だってつまらないじゃあないか」
 七生はほんの童がするように唇をとがらせる。その唇にほんの少し、荼毘の灰がこびりついているのに気がついて、指で拭ってから照れたように笑った。
 鳥辺野のうえに空は青々、溶けた烟はもうはや、影もなし。
 ひぐらしの蝉の声が振る、残暑きびしい秋の午後のことである。

◇◇◇◇

 六道に言わせれば、七生はまったく酷い男であった。
 あおじろい毛並でひょろりと頼りない背中をまるめ、暗い場所では翠色に光る目をした、雄猫のような男だ。冬見家六代当主をあずかるこの男は、齢下のこの少年に言わせれば、まったくひどい嘘つきで、なまけもので、恥知らずで、図体ばかりが育った童である。糸の切れた凧のようにふらふらと危なっかしく、当主らしいふるまいなぞ微塵もしない、まことたよりない大人である。
 そうしてもっとも救いようのないこととは、己がこの六代当主を嫌いではないことだ。これに尽きる。これではまったくもって、救いようがないのである。
 ほんとうにどうしようもない。
 苦虫を噛みつぶした如き面持ちで噛み締めねばならぬ事実であった。
 そこまで考え、うんざりして溜息をつく。離れの自室、六道は書見台の上にぐったりと寄りかかり、全身から力を抜いた。秋の虫の声がする。日は既にとっぷりと暮れていた。野辺送りを済ませ、午後おそくには家屋敷へと帰りつき、それからもうまったく何もする気が起こらない。こうしてぐだぐだと、益体もないもの思いを弄ぶくらいが関の山である。
 六道にとって、これはいつものことであった。人の死にことのほか聡い生まれつきがわざわいしたか、それとも生来の性分か。いずれにせよ、家人の死はこの少年にとって、肉を骨からこそぎとられることに等しい体験である。ごっそりと気力を持っていかれる。なまなましい痛みと無力感があらためて背骨にのしかかる出来事。
 ぼんやりと、部屋の四隅に視線を投げる。そうしてまた、浮きもせず沈みもせず、たゆとうような物思いに身をまかせた。
 ――この家のものの殆どにとってそうであるように、六道にとっても、いっとう初めに出遭った死はその父の死であった。まだ道理もよく弁えぬころの出来事であったが、やはり生涯忘れえぬだろうと思う。毎朝毎晩、父の手に触れるたびにぞっとした。しだいに細くなっていく指と、きのうより冷たいきょうの掌。恐ろしくて怖ろしくて畏ろしかった。何度も声を殺して泣いた。月の終わりごろには、父の寝所までこっそりと枕を抱いて忍んでいくことまでした。とうにひとり寝を淋しく思う子どもではなかったが、父が照れたような、嬉しさをかくし切れぬような笑みを見せたのは、かれがそれまで甘えたい素振りも見せぬ可愛げない幼児であったからだろう。耳元で囁かれる子守唄と、蒲団の模様と、天井の染みのかたちを、かれはまだ昨日のもののように思い出せる。子守唄が鼾に取って代わられるまで息を殺して待ち、父が眠り込んだ頃を見計らって、そっとその左胸に耳を当てた。きのうより弱いきょうの鼓動に心底絶望するというのに、そうやって確かめることをどうしてもやめられずにいた。
 それだけの記憶があるというのに、じつは、六道は父が死んだその日一日の全容だけはどうしてもよく思い出せない。これは我ながら実に不甲斐ない、なさけないことだった。叔父の三日星から根掘り葉掘り聞き出したところによれば、六道はその朝方から高い熱を出していた。起きては吐き、吐くことで体力を使い果たしては気を失い、父の床から離して寝かされていたのだと言う。ぐずってぐずって、それはそれは大変だったらしいのだが、そのあたりのことは記憶にない。
 ――唯一記憶するのは、春のゆうぐれどき。
 雨の音と、鈍色の部屋の風景。
 ふわふわと覚束かぬ己の手がむやみに熱く、白布を取り去った父の色褪せた頬をやけに冷たく感じたこと。
 ふしぎと厭な気持ちにはならず、そのまま、いつもしていたようにその左胸に頬をすりよせ、耳を押し当てた。
 何の音もしなかった。
 その沈黙に耳を澄まし、六道はそのとき、泣きはしなかった。ただ、それだけで知ってしまった。ただもう、それだけで知ってしまった。
 父はここにはいないのだ。
 父はもう、ここからいなくなってしまったのだ。
 もうずっと、いなくなってしまったのだ。
 ……家人が病気の子どもから目を離した、ほんのいっときのことであったそうだ。それからかれは誰が何と言っても頑としてゆずらず、大層手を焼かされたと伯父はしみじみ語ったものだが、なにせ記憶にはないことなので当の本人としてはなんとも答えように困る。寝乱れた髪の間から炯炯と目ばかりひからせ、葬儀を見届けるのだと言ってきかなかったのだという。けっきょく、根負けした七生がぐったりと熱を持った六道の身体をおぶっていったのだ。その場面だけは朧で途切れがちながらも、かろうじて記憶に残っている。雨粒が当たらぬよう、七生が着せてくれた小袖は鳩羽色で、地に笹葉の文様が織り込まれていた。亡父の持物で、襟からはまだほんのりと、莨の香にまじった父の匂いがした。そうしてその小袖をともに着て、かれはその道中、ずっと子守唄を歌いながら歩いていったのだ。背におぶった子供をあやしながら、野辺送りの道を。
 六道はそれこそ、そのころからずっと、七生のことを酷い男だと思っている。意識せず、なにげない言葉としぐさで人のこころをずたずたにしながら、それをついぞ酷いこととは知らぬできた男であった。おそらく、これからも生涯、知ることはない。
 この世に情ほどこわい刃が有り得ぬことなど知りもせず、無造作に笑みこぼし、思うようにふるまい、綿毛のようにたやすく嘘をつく。
 ――おれは死なないから。
 だいじょうぶだよ。おれは死なないから。
 それがかれの口癖で、六道の口を封じるいつもの手口である。
 おそろしくも寒ざむしい。
 しかしその言葉をかれは何の気負いもなく、春野の風のような気やすさで口にした。そう言われてしまうと、六道にはもう、諸手を力なく下げて途方に暮れるしかすべがない。
 いつかは、すべてが嘘になるだろう。
 その事実を、その掌で知るゆえに。
 だから六道はにがく口を閉ざし沈黙する。そのことでしかその嘘を、いまひとときの現実にできない。おそらく、七生は生涯、知り得まい。やさしいことが、どのように人のこころをずたずたに引き裂くものか。己の仕儀がどれほどまでに、痛くむごい仕打ちであるものか。
 ……いつかは、すべてが嘘になるだろう。
 その日は来る。かならず、逃れようもなく来るだろう。あの、日毎に体温を失っていった手の甲のように。石のように無情な沈黙を返してきた左胸のように。
 けれどかれはその日まで、きっと繰り返し言い続けることだろう。思い詰めた目をした子ども、いつの日にか背に負って雨の道をともに歩いた子どもをひとときでも安堵させようと、まっすぐに目を見て嘘をつき、子守唄のように耳元に囁くだろう。

 いつか、すべてが嘘になる日まで。

◇◇◇◇

 どうやらすこし、眠ってしまったようだった。
 重たい瞼を手の甲でこすると、夕暮れの赤い光が目に染みる。今日はなんだかもう、ひどく疲れてしまった。

 修行もなく手習いの時間もなく、双子にとってはいっそ気楽といってもよかったのだが、なんだかふたりそろってぐったりと、頭の芯から疲れてしまった。
 夜もまだよく明けぬうちから家じゅうがさわがしい訳でもないのになんだかさわさわと落ち着かず、それにつられて双子も立ったり座ったり。手遊びをする気にも話をする気にもならず、さりとて離ればなれになるのも心ぼそく、結局背中あわせのまま、縁側で何時間も過ごした。ひるごろに六道がうっそりとやってきて、「出掛けるから支度をしろ」と、ぽつりと言った。
 途方に暮れたような、心が半分何処かに行ってしまったような、そんな顔をしていた。それでも強いていつものように振舞おうとする態度はいっそ痛々しく、常葉も葉常も逆にこちらの方が心配になってしまったくらいだ。
 何があったの、の一言さえ出てこなかった。
 六道は無言でふたりの世話をした。いつも着る普段づかいの単でなく、袴に滅多に穿かぬ足袋までそろえたよそゆきを出してきた。手ずから紐を結んだり、双方の髪に櫛を入れて整えたりと普段ならばひとりでできるようになれと一言を欠かさぬような些事にまで世話を焼いた。てきぱきとして淀みない手つきはしかし同時にあんまり上の空で、ふたりそろっておじけづき疑問の最初の一声でさえ口から出てこなかったのだ。
 やがて当主さまがいつもどおりの顔をぬっと出し、「もういいかい」と呼んだ。かくれんぼの子を呼ぶのと同じ、いつもの口調、いつもの声。そのいつもどおりにほっと安堵の息を吐き、ふたりそろって我先にその袖にすがった。
「見ての通りに。……参りましょう、六代目」
 六代目、とは六道が、この当主に当主としての振舞いを求める時の呼び名である。
 七生はくしゃりとその前髪をかきまわし、幽かに笑ったようだった。ただでさえ茫洋とした顔つきなので、そうして目元を隠してしまうとほんとうに笑っているのか、はたまた泣いているものか、ちょっと見にはよくわからなくなるのだった。
 ……空はきれいに晴れあがる。
 透明な風に蜻蛉がついついと飛んでいて、七生は手でつかまえた二匹に糸をくくりつけ、常葉と葉常のそれぞれにくれた。六道は腫れぼったい目元でまぶしそうな顔つきをして、それを見ていた。「ほしいのか」と常葉がきいても答えはさっぱり要領を得ず、しまいには大層腹を立ててもうこいつとは虫取りをして遊ばないとかたく心に決めたのだった。とっときの、いちばん綺麗な蝉の抜け殻もやらないし、ゆっくり羽を動かす揚羽をつかまえたって見せないでおこう。そもそも六道がそうした児戯に目を向けてかまってくれることなど十日にいっぺんもあれば良い方なのであるが、それらはひとまず忘れておく。ついでに、夏じゅう集めた蝉の抜け殻のうちでどれがいちばん綺麗なやつか半日かけて選び抜いたすえ、結局言い出せないまま未だ手箱にしまってあることも。
 ……風はさやさや吹きすぎる。
 齢上のふたりが担いでいた素焼きの甕はずいぶん大きくて、常葉と葉常はふたり入って遊ぶことも容易に出来る大きさだった。
 中から出されたものは白布にすっぽりとくるまれ、六道はそれをことのほか丁重な手つきで扱った。七生がこっそりとその布を持ち上げかがみこんだときにふわりと風に吹かれて、波打つ髪がのぞいた。翠緑の髪の毛はどこか色褪せていたもののかれらの母親のものに似ていて、常葉はこっそり首をかしげた。くちづけていた髪から口唇を離した七生が顔をあげ、目が合ったとき、片目をつむってひとさし指をあて、しー、という仕草をしたので、なにか言うのはやめた。
 ……空にうっすら烟がのぼる。
 後にのこった白いかけらを、七生はだいじそうにふところにしまって「さあ、帰ろう」と言った。六道はぼんやりと、空をながめていた。こいつはときたまこういう顔をする。座敷ですわっていたり、縁側でぼんやりしていたり、だれもいないところにあたかもだれかがいるような目をむけていることがある。なんだか人とはちがうものを見ているみたいで、正直言って、ちょっとこわい。
 声をかけられるとびくりと全身をふるわせ、まるで夢からさめたみたいな顔つきでこちらを振り向いた。火ぶくれのできた指で一瞬だけ、強くこめかみを押さえ、いつも通りの声を出した。
「ええ。――帰りましょう」
 家に帰ると、玄関にはおじさんが立っていた。
 三日星はちかごろ流行病にやられ、寝たり起きたりをくりかえしている。だからほんとうはそんなところに立っていたりしてはいけないはずで、常葉がこっそりそのことを耳打ちすると「これぐらいは大目に見ろ」と、どこかが痛いような顔をして笑った。
 ……そうして。
 常葉も葉常も、きょうはずいぶんくたびれた。何があったのか訳がわからないまま、訳がわからないなりにずいぶんくたびれて、ふたりして背中あわせで眠ってしまったのだった。
 足先やてのひらがぽかぽかと暖かく、あらがい難い眠気をさそう。
 手足は正体なく投げ出して、春の泥土のように眠った。
 ――目をさますと、秋のゆうぐれの匂いだった。つんと鼻の奥がいたくなるような、穏やかなひなたの匂い。ひんやりと冷たくなりだした風の匂い。あかく燃え立つ西の空で月影はほのじろく満ちた望月の相。寝ているうちに掛けられた小袖の下からもぞもぞと這い出すと、白い大猫みたいな当主さまが縁側で裸足をぶらぶらさせている。
 その顔をながめ、ようやっと、朝からの疑問を口に出すことができた。
「なあ。かあさんはどこ?」
 どこ?
 どこへいったの?
 問われ、七生はいつものように、いつもどおりに、柔毛のような笑みを浮かべる。ふたごの片割れをくるりと膝にのせ、紫色の夕空をゆびさした。

 死んだひとは、お墓にいるよ。
 あの世につくまでの長い長い道の上で、髪を風に吹かれているよ。

 月はその指の先、晧々と光を放ち始め、いずれ欠けたるところもなく、まろやかに美しい。常葉はその膝の上で背伸びして、腕をのばした。まろい、よく磨いた玉のような月は葉の色づいた柿の木にひっかかっていて、ずいぶん大きく感じられる。手に取れば、きっとひんやり冷たくて気持ちいいだろう、枕もとに置いて飾るのもいい。
「ほしいかい?」
 七生が尋ねる。常葉はこっくりうなずいた。この当主さまのいいところは六道などよりよっぽどとっつきやすいことで、他の大人には言えないこともどんどん言える。うちの中でも、仲はずいぶん良い方だ。
「じゃあ手伝おう」
   そうやって、ふたりして庭に降りた。

◇◇◇◇

 膝にあるのはぐったりと重い、やわらかな塊。
 瞼は泣きつづけたせいですっかり赤く腫れている。すこやかな頬のまるみが流涕で汚れ、きつくまるめた身体をぎゅっと抱え込むようにしているのがことさらに痛々しい。
 灯りもともさぬままの離れでだらしなく身体をのばしていた己のところに、このふたごの片割れは何を思ってたずねてきたものだろう。ねむたげな眸をこすりあげながら、ふらふらと夢うつつのままの足取りで、家じゅうを捜し歩いたとおぼしき埃や糸屑をつややかな赤髪に沢山くっつけて。
 ねえ。
 かあさんはどこ?
 どこ?
 どこへいったの?
 そればかりを繰り返すあまりにつたない口振りに、六道は、心底凍えついたのだ。額にいやな脂汗が流れるのがわかった。不器用に幼子の背を撫でていた掌がこわばるのもわかった。おそろしさのあまり、その幼いまなざしを覗き込む気には、どうしてもなれなかった。
 死んだひとは、どこへゆくのだろうか。
 死者に手向けるこの思いは、この願いは、一体どこへゆくのだろうか。
 知らず、腕に力がこもった。腕の筋が引き攣れるほど。息苦しさにか小さな手足がじたばたと暴れたが、力を抜くことはどうやっても出来ないことだった。
「居ない」
 口にすると、あまりのにがさに舌がひりつく心地がした。
 彼岸に蓮華の花が咲くなら、どれだけよかろうか。
 妙音鳥が耳に優しく歌うなら、人はどれだけ救われようか。
 ただかれが知るのは、そんな世界ではなかった。真綿で首を絞めるたぐいの残酷な嘘も、かれには持ち得ぬものだった。
「死者は何処にも居なくて、そして何処にでも居る」
ただそれのみが、かれの知り得る世界であった。
 死んだひとは、どこへゆくのだろうか。
 死者を思うこの心は、この怒りのにがさは、一体どこへゆくのだろうか。
 見鬼の眸を以ってなお、それは知り得ぬことである。
 声をあげて泣き始める幼子の重みの確かさを感じ、そのゆくすえの心許なさを感じた。ただその二つのみを腕に抱き、六道は泣きもせず、喚びもせず、じっと耳を澄ます。父が死んだ日、その胸郭に耳を当てその不在を知った、あのときのように。
 あのときと同じに。

 月輪円かに。
 星はさやけく、遠く瞬く。
 幼子なりの重たさをずっしりと二の腕に感じながら、暗い渡殿を歩いた。
 さいわい六道は夜目が利くたちで、月がなくとも星影ほどの光さえあれば足元があやうくなることもなく、事物の在処も充分に察することができる。
 泣くだけ泣いてようよう寝ついた幼子である。たとい母御がおらずとも、明日の日の目を見るときは馴染んだ部屋で、片割れとともに居るのがよかろうと思ったのだった。少なくとも、六道は、その方がいい。当たり前のように目をさまし、当たり前のように一日がはじまるのがいい。うん、とむずかる幼子の耳元に頬を寄せると、わずかに甘い香がにおった。甘く、少しく重たい、乳のにおいだった。 寝つくまで、それこそ喉が枯れるほど、子守唄を歌った。いままで大して思い出さずにいた記憶は朧でたよりなかった。幽かな糸を爪繰るように定かならぬ音律をたどり、口にすると、調子はやや外れていると思えた。それでも、六道はほかに子守唄を知らぬ。ほかにすべを持たぬのだ。泣く子をあやす嘘もない。

  月がほしやと泣く子には
  夜空のとばりが降りるころ
  露はいくつと問いたまへ

 いっぷう変わったこの歌は、父が祖父に教わったものだと言う。または伯母がその母から、伯父がそのまた大伯父から。
 この子も、いつかは歌うだろうか?
 そのとき思い出すのがこの晩の、この歌であらねばよいと思う。もっとあたたかい、手触りの柔らかな、そんな思い出であってほしいと、切に願う。
 母屋の一室に床をのべ、蒲団を着せて暫く、その傍に座っていた。
 頭の芯が重く、熱い。熱した砂でもつまっているのではないかという塩梅で、疲労は充分に自覚できたが眠気もほど遠い。

  月がほしやと泣く子には
  さいの河原でつむ石の
  塔はいくつと問いたまへ

 己の為に、いくら歌っても眠くはならぬ。
 数はいくつだろうか。朝が来ればはかなく消ゆる、草葉の陰の白露は。夕にきりなく突き崩される、弔いの塔は。六道は力なく抱いていた己の膝をほどき、部屋を見まわし、はたと心づくことがあった。  双子のもう一方は、一体どうしたことだろう?
 ここに居らぬからには誰かの部屋か、はたまた厠にでも立っているので姿が見えぬのだろう。そう思うても、どうにも座りがよくない。あまり気が落ち着かぬ。理由があるものでもないので、暫くは意識せぬまま親指の爪を噛んでいたが、とうとう腰をあげることを決めた。
 赤髪の妹の、その寝息の安らかさ。
 それを確かめ、むきだしになった肩のうえに夜着を着せ直してから、部屋を出た。

 秋の夜風に、影は仄かに蒼く落ちるのだった。
 露の匂い。虫の声。
 月はさながら形あるもののごとく、形なき光をふりこぼす。
 あまりの影の鋭さ、触れれば切れそうな輪郭に息を詰め、注意ぶかく、影を伝いながら歩いた。
 影の縁では日々の歩みに磨き抜かれた板張りが、白く光をはじく。庭の玉砂利を見やれば、石の一粒ずつがまろやかに蒼みを帯びた影を抱く。庭の草薮は紫暗に透け、仰ぐ木の枝は天に慈悲乞う両掌のかたち。  ――嗚呼。
 洩れる吐息はだれとも知らず、だれであれ、ため息つかぬものはあるまい。さこそ蛇であれ、鬼であれ。
 人であるなら、尚の事。
 しらしらと、夜風さえ真珠の微光を帯びて吹くような、それは美事な望月の相である。
 満ち足りて、ただそこに在る。
 真如と云い仏の悟りにすら比し得る月が、そこに在る。
 そのみごとさに息をとめ、それから声を耳に留めた。
 天より地へと目を遣れば、庭木のあたりにいびつな人影がたわむれている。目を凝らさずとも、大人が子どもを肩にのせる姿と知れた。月のひかりに仄暗くうつる、幼子の赤髪と、男の老人のごとき白髪と。その背で結わえたその髪は夜気にますます蒼く映え、氷の色さえ透かしてほんのりと光る。言い争うような声がした。
「枝から離れちゃったねえ?」
「まだ。まだとどく。ぜったいとどくんだから、」
 他愛ない掛け合いに、口を出す言葉をなくして六道は、ふと己の来し方を振り返る。己もかつて、月がほしいと泣いただろうか?手の届かぬものを恋うような愚挙を、かつて己に許したことがあったであろうか?
 ――嗚呼。
 踏み散らされる無数の露の数は。きりもなく殺されてゆくもののための、弔いの塔は。
 死者のゆく先は、何処であろう。
 身を千切るこの思いの激しさも、ただ劫と吹きすさぶ風に消えゆくのみか。修羅の巷より浄土の月を恋うて手をのばすとも、我等は血腥く喚び泣くしか叶わぬか。
 身体が骨から震えはじめ、歯がかちかちと鳴った。鈍い吐き気が胃の腑の奥からせりあがってきて、眼裏を灼くそのまっしろな眩暈を怒りだと悟った。
 いっそ、この場にひざまずいて泣きたいとさえ思った。
 祈りほど無惨なものはなく望んだものさえあまりにも遠く、愛したものはこの指をすり抜け虚空へとこぼれ落ちていく。
 それでも、あの男はやがてゆるやかに振り向き、綿毛のようにたやすく微笑むだろう。月がその掌に落ちずとも、くりかえし、くりかえし手を伸ばすだろう。
 あの月は遠く、虚空で満ち足りている。
 誰の手も届かず誰の手も必要としない。そうして、ただ見るものを不安にさせるのだ。訳もなく心許なく、嘘寒い心地にさせるのだ。眩暈とともにする吐き気を押し殺し、六道はまなじりを引き据え、あえて目をそらす。あまりにも理不尽だった。これほどむごいこともやはり、そうはあるまい。

 ――――つくづく、酷い男だと思った。

B.G.M「月に叢雲花に風」「叢原火」