「白千鳥」


 浅小竹原 腰泥む 空は行かず 足よ行くな
 海処行けば 腰泥む 大川原の 植ゑ草 海処はいさよふ
 浜つ千鳥 浜よは行かず 磯伝ふ

◇◇◇

 こんな夢を見た。
 枕元には白い鳥が横向きに留まっていて、嘴をひらいて静かな声で、もう死ぬのか、と言う。鳥はほっそりとした翼を姿よくたたみ、繊細な冠毛をうしろに流している。真白な羽毛はふうわりと柔らかそうで、眼縁の色は無論赤い。そして嘴をひらいて、もう死ぬのか、と言う。
 千影は床に仰向きになって寝ていて、もう死ぬよ、と答える。そう答えると確かに、これは死ぬなという気がしてきた。鳥はそこで、そうか、もう死ぬのか、と上から覗き込むようにして尋ねる。うん死ぬんだ、と言いながら鳥の眼と目を合わせた。大きな潤いのある眼で、赤い眼縁に囲まれた中は只一面に真っ青であった。その真っ青な中に、横たわった千影の姿が浮かんでいる。
 ああ。まるで果てしない海のただなかに浮かんでいるようだ。
 そう思ったところで、目が覚めた。

◇◇◇

「愚にもつかぬな」
 と、三世は千影の夢の話を一刀で切って捨てる。そうかなあ、と言って千影はくすくすと笑う。幼かったころ、はにかんで出来なかった分を取り戻すように無邪気な、童めいた笑い方であった。
 1027年、一月睦月――
 先年の暮れから寝ついた千影の病状は一進一退、気分のよいときにはこんな風に奇妙に饒舌にはなるものの、起き上がるには至らない。深夜、苦痛を堪えて粘つく汗を流しながらも人を呼ばぬのを見兼ねて、三世はこの数日を隣室で寝起きしていた。
 いいよ、悪いよ、と千影がしきりと遠慮をするのに千影、と三世はその名を呼んだ。初陣前から馴染みの間柄であるこの二人、ことに三世は口唇に馴染んだ愛称をいつも使って、きちんと呼ぶことはあまり無い。
「お前は、吾の何だ」
 ええっと――と、あからさまに言い淀む。千影と三世はいまの一族では三月ちがいの同輩で、幼い頃から面倒を看たり看られたり、さて何かといわれてもまず、一口では言い難い。もごもごと口元を動かしては上目遣いの目線を投げる。すると三世はふっと笑うような溜息をして、袖に両手をおさめ、こう言うのだ。
「何を迷う。何を悩む。お前は、吾の当主ではないか?」
 父祖代々、短命種絶の呪を継いで鬼狩のいくさを続ける冬見の一門。数えて凡そ八代月爾の名を賜る、吾の当主ではないか。
「当主ならば当主らしゅうせよと、何度言えばお前は判るのだ。吾を使え。無理を言え。自儘を言って好き勝手するが良い。吾はお前が一言口にすればそこらの雑鬼から京に居すわる天子までなべて殺してみせようと言うのに、何と情けない」
 ええ、と千影は今度は、あからさまに困った顔をした。ものやさしい、はにかみがちで引っ込み思案の性は、むかしから変わらない。その温かな性情、日々勤め弛まぬその性分、どちらもともに三世がもっとも快とするところであった。
 困り、そうして夜具の下から、痩せて細った手をのべる――
「そういうのじゃないけど。……手を」
 ふしぎそうに首をかしげ、それでも三世は言われたまま、組んでいた腕をほどいて手を差し出す。思いのほか強い力でぎゅっと握られ、はたと胸を打たれる心地がした。ふふ、と、千影は笑う。
「おれ、幸せだなあ」
「なぜだ」
 問いには答えず、微笑んだまま、浅小竹原、と口ずさむ。
「空は行かず、足よ行くな…・・・か?」
 上代の、古い古い歌謡であった。歴戦の勇士が死して白鳥と化し、看取る者らはみな声を枯らし、泣きながらその鳥を追うのだ。けれど小竹に足を取られ腰まで埋まる草の葉に誰も、思うようにはその鳥を追うことはできない……
「ね? だから幸せだ」
 思わず覗き込んだ三世の頬を、もう片方の掌でそろりと撫でて微笑む。
 追わなくても、白い鳥が此処に居てくれる。
 三世は思わず、握り返す指の力を強めた。
「おい。寝るな、話していよ、何でも良い。夢でも何でも、…・・・」
 ん、と千影はかろうじて、落ちかかる瞼をとどめた。でも眠い、とむずかるように舌足らずな口調で。ごめん、でも、すごく眠くて。
 ゆらゆらと、眼裏に揺蕩うように、蒼が。
 耳にひびくのは聞いたこともない海鳴りか、それとも、手を握ってくれているひとの鼓動だろうか。ひどく安心なような、ひどく不安なような、不思議な心地がする。目の前には夢の、白鳥の眸の蒼、ああ、いや、これは、
「……眠いなあ……少しだけ、眠らせてもらうよ……」
 答えに思い至る寸前で、千影の瞼は落ちた。

 ――だから、愚にもつかぬと言ったのだ。
 手の中にはいまだぬくもりをとどめる掌。程なく温度をなくし屍そのものの手触りになることを知りつつも離せずに、三世はくちびるだけを動かして呟く。
 翼があって、何になろう。お前が吾を追うのではないのだ。
 お前が吾を置いていくのだ。
 海のようにしおからい泪が、三世の蒼い眸を潤す。
 ――それでも、お前が、そう呼ぶのならば。

◇◇◇

 のち、七代長子にして八代当主補佐を長く勤めた弓取り・三世はその身罷りたるときに際して魂を神仙の列に叙せられ、神と血を淆える冬見の一門にして初めて、氏神として神名を賜った。
 その諡(おくりな)を、白鳥ノ冬見、と号す。

◇◇◇

 ただ翼あるのみ、空ゆかば空の蒼、海ゆかば海の蒼。
 いずれにも溶けず、白鳥はただよう。
(リクエスト:俺屍・千影と三世)