
「白嶺雪」
―しらねのゆき―
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何ひとつ、知らなければ良かったのに。 ◇◇◇ ぱちり、ぱちりと音がする。 閑かな秋の縁側で、足の爪を剪る男がひとり。 暑がりなのか片肌を脱いでさらした体躯はひとすじの弛みもなく鍛え抜かれた拳法家のもの、すずしげな面差しながら瞼をいつでも半眼にしたひょうじょうが何処か茫洋とした印象だ。翠色を帯びた黒髪に金色の眸、土性土気の瞳の色は一族の始祖以来のもの。すこしばかり人と異うものを見る気があって、それを嫌っていつもこうして目を細めている癖がある。 名を、凪切という。冬見家三代当主の長男にあたる。 「兄さん。兄さん――?」 幼い声とともに、ぱたぱたと立てる足音は如何にも子供らしい。「……ん。」返事とともに手を止め、凪切はすこし首をかしげた。駆けてきた子は雨彦といい、この月来訪したばかりの弟だ。それでも既に子供らしからぬ落ち着いた気性で、このようにあわてたそぶりはあまり見せたことがない。 「あの、あの音はなんですか。なにか大事ですか」 そう言われて耳をすませば、遠く、囃子の音。笛と太鼓と勇壮な掛け声。「……ああ。」 「いくさですか。弓をもってきたほうがいいでしょうか?」 道理で、息せき切って駆けてきたと思った。弟の方を見遣れば片手に持ったままの、読みさしの漢籍。来訪したてながら能く書を読む弟だが、都にひびく正体不明の物音にすわ一大事かと早合点するあたり、まだまだ可愛らしい。 ついつい手を伸ばして、下げ髪にした頭を撫でてやる。あれあれ、と目を白黒させる雨彦に、「……祭。」とたった一言で説明した。 「――お祭? ですか。どんなものですか」 正直、凪切もよくは知らない。1021年、十月神無月。荒れ果てた都がようよう復興のきざしを見せ、その先駆けとして一族が初めて目の当たりにする祝祭であった。 「…・・・行こか。」 剪り終えた爪を集め、立ち上がる。「……はい!」 仔犬のようにうしろをついてくる弟が可愛くてまた頭を撫でると、雨彦は細い目をますます細めて、うれしそうに笑った。 ◇◇◇ 都が焼けておよそ三年。 凪切の今まで見知った京とはそこかしこ剥き出しの地肌、そこに生え出た雑草と仮住まいもあらわな板屋という、なんともそっけない風景であった―― それでもその日ばかりは生まれて初めて出会う人いきれというものに目を奪われた。平生目にしたこともない人の数は、或いは焼け出されて近在の郷に身を寄せていた人びともかなり混じっているのか。山車と鉦の音。耳を楽しませる囃子にゆかしい祭礼の唱え事。ところで、車のうえにのっかっている、むくつけき裸形の張子は何なのか。弟に尋ねてみたが、「さあ…? 本で読んだところによれば世には裸まつり、というのもあるそうですが」と、首をひねるばかり。ひとまず、秋風にはちょいと寒そうな格好の人びとと、それを上回る熱気の出所だけは確かなようだった。 「父さんだ」 雑踏に声をあげて駆け出そうとする弟の襟首を凪切は間一髪、はっしと掴み止めた。 群れ集い歩き笑う人波の中に、男と女。凪切は不審そうに見上げる雨彦に、そっと首を振ってみせた。 男は遠目にも切れ長の目許に色気を含んだ、水際立った男振り――女は女というよりいまだ娘の年頃、晴れの祭にあでやかな粧いを凝らすわけでもなく、ただ姉さん被りの手拭ばかりがきりりと白く、清潔なたたずまい。 弟の手を引いて、とっさに元来た道を引き返す。いまだ未練げに後ろを振り返り、振り返りしている雨彦の機嫌を取るように、「飴、買うたる。鶴がええか? 龍にしよか」 露店に並ぶ飴細工で、しょんぼりしながりも幼子が選んだのは尻尾をちょろりと丸めた鼠。ぐるりと回り道をしてそこらをひやかすうちにぽつりと、 「――わたし、父さんが好きですよ」 いつも忙しくて、なかなか遊んでくれないけど。無茶しいで、見た目の割に粗忽で、見栄っぱりだけど。 「……ん。」 俺もや、と、凪切はうなずく。 ◇◇◇ 女は知るまい。 斜に構えたいつもの振舞にも似ずに少年のように含羞む男が二児の父であることも。大鬼との戦の相次ぐ昨今、櫛の歯を引くように数を減らした一族を繋ぐために繰り返し神と交わり為していることも。 誰もしたがらないことなら、当主がするしかないのだった。 凪切は父が若い時分の子であるせいか、父と子というより年の離れた兄弟めいた感がある――すこしばかり無頼めいた口振りと意固地な態度、それでも三代当主・霧夜は情愛ばかりは溢れるほどに持っている。 折節に家を抜け出す父が誰と会っているか、凪切はいつとはなしに知っていた。何のために餓えたように戦をするのか、ともに戦する一族を失うたびに憤りむせび泣きながらも強敵に挑むのを止めぬのは何故なのか。 ――俺は人間になりてえんだ。 ――あいつといると、まるで自分が人間みてえな気がしてくるんだ。 屍を焼く烟を眺めながら、ぽつりと洩らした言葉を覚えている。 そういうものか、と凪切は思う。そういうものなのか。 ◇◇◇ 凪切は人とは異うものを観る眸を眇めて、遠く、都の北を見る――その目に映るのは秋色の錦繍を纏う山々ではなく、うっすらと白く烟る雪の山の端。そうして人波のかなたに紛れた父と、母でない女の姿を思う。 手にあるのは小さな弟のてのひら、聡い幼子のつむじを見下ろすうちに、すこしばかりやるせない気持ちになった。 何ひとつ知らなければ、憎むことも出来たろうに。 |