
「蝉羽月」
―せみのはづき―
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魔が差した。 葉常にはそのときの衝動を、そうとしか言えぬ。 ◇◇◇ 朝からの汗ばむ陽気は日も入り合いとなって、ようよう息をつけるかと思われた。 1025年六月水無月、梅雨の切れた空は既に夏の色相である。気の早い蝉が、何処かで鳴いていた。 黄昏――草いきれのにおいで夕風が鼻先を吹き過ぎてゆく。 昼の光に灼けた簀子は、すあしで踏むとまだ熱を含んでいた。それでもおろしたての単のえりあしに風が触れて、行水をつかったばかりの髪に涼しい。 裸足の足で床をぺたぺたと鳴らしながら、葉常はそのときいたってのんきに、きょうの夕餉のことなど考えていたのだ。またはそろそろ蚊遣りを出すことや庭の蓮池のことなんかを。生まれ月が夏のせいか双子はともども暑さに強いが、虫に刺されやすいのには閉口する。そうそう、庭といえばよく裏庭に顔を出す栗鼠、あれはどの木に巣を作っているものだろう?…… じり、と耳鳴りめいた蝉の一声でとりとめない物思いから醒め、足を止めた。 ちょうど目当ての部屋の前に来ていた――代々の当主が日夜差配をつとめるその部屋は、常葉と葉常にとっては幼子のころからいたく馴染み深い。ちなみにべつに何か殊勝な心がけがあってのことではない、先代の当主が行けば必ず遊んでくれる相手であったので手習いや鍛錬をちょくちょくさぼっては菓子などせしめに行っていたのだ。毎度毎度そう首尾良く行く訳でもなく、大抵は当主部屋に詰めているもうひとりにすげなく追い返されたり、手が空いていればそのまま其処で手習いのつづきを見てもらったり。 几帳のかたわらに端然と控えていたそのころとは違い、いまかれ――六道が坐っているのは当主の座だ。 御簾にその見慣れた人影が映っていない――ぎょっとして簾の隙間から顔をつっこみ、部屋のあるじが脇息にもたれて寝入っているだけだと知ってほっとする。日頃の過労が祟ってついに倒れたかと思ったのだった。 おそらく、ほんの寸暇の休息のつもりだったのだろう。手元の巻子本がほどけて床に転がっているのをくるくる巻き直しながら、葉常はそう見当をつける。労多くして報われることは少ない、一族当主とは元来そんな役回りであるし、七代目のこの時世では、殊にそうだ。 ――五月が相翼院、四月が親王鎮魂墓、三月が鳥居千万宮。 指折り数え、葉常は知らずため息をつく。迷宮の奥にひそむ大鬼とのいくさは勿論、いまの面子では奥にたどり着くまでの有象無象の雑鬼を相手取るにも骨を折る。 春先の三頭の野狐、たけなわに恐ろしいかわらけのからくり、晩春に片翼の母鳥。奥義に酷使して指さきの動かぬ手を弓束に括りつけて征矢を放ち間一髪で戦線をくぐり抜けながら、都へ帰れば帰ったでこの有様だ。 寝息は静かだが、手枕にあずけた面のしろさと相まって死人を思わせる。 ――無茶しいなんだから、ほんとに。 くちびるをとがらせて文句を言おうと思っても、思うはしから言葉はほろほろとほどけて声にはならなかった。 わかっている、わかっている、かれがこうも無謀と紙一重のいくさを繰り返すのは――いつか鬼魁を弑すという思い描けもしないいつの日かのためなどではない、いまここで藻掻き足掻くきょうこの日のためだ。血と泥に塗れた頬で笑い、肩を抱いて無事を喜び合う自分達家族のためだ。 文机に巻子本を置こうとそっといざり寄った。余程草臥れているらしく、普段気配に聡い男なのにまるで目覚める様子がない。そういえば、近頃疲れが抜けぬのだと聞いた。 ――幾つになるんだっけ、 葉常は元服をふたつきばかり前に迎え、一族としてはちょうど盛りの齢相である。ひのふのと再び指折って数え、春生まれの六道との差をそこに足す。 ――一歳三ヶ月。 思い当たった瞬間に膝から力が抜けた。ぺたんと尻をつき、年端もいかぬ子どものように。 思えば葉常がそれを確と意識したのは、このときが初めてだったかも知れぬ。 ものごころついたころから傍らに在るのがあたりまえの従兄弟筋、落ち着いたものごしと裏腹の苛烈な気性、それでも、先に立って引いてくれる手の感触はいつだってひいやりと優しい―― 何処かで耳鳴りめいて、蝉が鳴いた気がした。 この人は順当にいけば確実に、しかも遠からず、先に死ぬのだ。 ◇◇◇ 冬見の一族で二年を数える寿命を持った者は、いまだ居ない。 女子は通例男子よりもほんの少し命数が長いが、それも一月か二月の違いだ――神気にくるまれて天界より生まれ落ち、鬼気に蝕まれて人界で戦い死ぬ一族はそれこそ齣落としで一生を送る。 一歳三ヶ月。 丁度己の血に力を添える神と交わり、子を為し、持ち得るかぎりのわざを遺し伝えることを視野に入れねばならぬ時期である。 わかっていることで、当たり前のことなのだ。 ふたごの自分達を生んだ母も、伯父も、先代当主であった叔父も。 そうやって生きてきたしそうやって死んだのだ――始祖たる呪われの父子が人界に降り立ってはや七年。両手両足の指の数にあまる一族達が幾度となく繰り返してきたことなのだ。 それこそ必死で、死にもの狂いで己に言い聞かせる。耳鳴りは止まなかった。心臓がきゅっと縮んで、縮んだ分のうつろが酷く痛んだ。胸元をきつく押さえる。そうしても耳鳴りも胸の痛みもおさまらなかったが、ただ心臓のありかを意識すると、耳元で鼓動が強く響いた。 いつか消えてしまうのか。遠くないいつか。 あの指も目も背も肩も首も髪の一筋さえも、かつての野辺送りの母のむくろのように、たよりない烟になってしまうのか。 魔が差したのだ。 矢張り葉常には、そうとしか言えぬ。 黄昏の無数の光の筋が御簾越しに射し込み、部屋のなかは一層に仄暗い。 幽かな寝息と、墨染の衣に染みた香のにおい。蝉の声。 そっと息を殺し、仄白い面差しを間近に覗き込む―― 起きない。 そのことが、葉常の心の奥底あたりを捻じ切るようにした。魂の臍の緒あたり、生まれたときから双子の兄と息するように通い合うあたり。 今からすることを、誰にも知られたくなかった。 眠る男の顔に屈み込み、不器用にぎこちなく首をかしげ、恐る恐る、くちづけを。 渇した者が泉から水を盗み飲むように。 ◇◇◇ 苦い、おそろしい、そして目のくらむような不安。 それでも粘膜でじかに触れるぬくもりに安堵があり、その奥でまだ目も見えぬ赤子めいて形もさだまらぬ欲が、確かにあったのだ。 うすく開いた歯列、吐息の感触のなまなましさがひどく後ろめたい。早く離れなければと思う一方、どうしていいかわからないままの名残惜しさに強烈に後ろ髪を引かれた。 逡巡した一瞬、肩に触れる手が。 反射的に身を引こうとして、そのままきつく抱き込まれる――きつく、しかし此方には一片の痛みもないよう慎重に加減された力で。 目が合った。ごく静かな、怒りも悲しみも見えぬまなざしに、却って歯が鳴った。 そして唇で唇をなぞられる、ほんの一呼吸ぶんのくちづけ。 いっとき、蝉の音が途絶えた。 やさしい囲いが解けるように腕がほどけ、再び鳴き出した蝉の音の底から低い声が囁く。 「――逃げよ。今すぐ、ここから」 「…………どうして?」 「鬼が居る。ここに」 手が取られ、墨染の衣の胸元に当てられる。その瞬間、互いが互いの目の中に同じだけの恐怖と同じだけの欲を等分に見て取った。 人まじわりの出来ぬ、種絶の呪。 「俺が鬼だ。だから、お前が逃げる方だ」 幼い頃にした目隠し鬼のときと同じに、六道はそっと背を向ける。 今にも数をかぞえる声が聞こえてきそうな気がする、笑い声とともに廊下を駆け回る子供らの足音、ゆうぐれ空にもういいかい、もういいよと呼び合う。 黄昏のいろが空から消えるまで隠れ場所で息をひそめ、見つけられない不安に泣きそうになっても、その腕が抱き上げてくれれば一瞬で嬉しくなってはしゃいだ。 そして葉常は、どうやって部屋から出て井戸端まで辿り着いたのか、まるで覚えていない――ぐちゃぐちゃに熱い頭を冷やしたかった。釣瓶を落として汲み上げた桶を頭のうえで逆さにし、初陣を迎えてからはじめて、濡れ鼠のままで声を挙げて泣いた。 逃げられぬ、逃げられぬ。 己の影からは逃れられぬように、欲の在り処も、ここに。 たとえ日が暮れて夜の更けるまで息をひそめていたとしても、もういいかいと呼ぶ声が聞こえる事は、二度とない。 |