「濁夜」 ―にごりよ― 
(33:ひとり寝)


 父上もおば上も、おじ上もちいおじ上も、みなさま今日はお出かけです。
 六道は、ひとりでお留守番。
 ひとりでも、ちゃんといい子にしております。
 いい子にしておりますから、みなさま、はやくお帰りになりますように。

◇◇◇

 部屋が暗い。
 雨戸を開けて風を入れる気も、灯心に火を灯して明りを取る気も起こらない。手も足も、まるで自分の物のような感じがしなかった。動けば動くほど、心と体がずれていくような違和感が強まるばかりだ。
 だから、こうやってじっとしていよう。部屋の片隅で、掌で両耳を覆ったままでいよう。
 時間の感覚がふわふわとして、どうも上手く掴めない。
 朝餉は済ませた覚えがある。起きたとき九曜が枕元まで持ってきてくれたから。味の無い粥と、椀に入った汁物と、少しばかりの副菜。残してもいいから、口に入る分だけでいいからと言うのだけれど、ちゃんと全部食べた。おいしいよと言うことだって忘れなかった。ちゃんと、うまく出来た。出来たと思う。一刻もしないうちに厠で全部戻してしまったわけだけれど、ちゃんと始末して綺麗に掃除までしたからばれていないと思う。御蔭で戻ってからふっと目の前が暗くなって、だからこうして横になったままでいる。
 何か、する事があったような気がするのだけれど。こうしているうちに、それが何だったのか、だんだん、わからなくなってきてしまった。一体、何だったろうか。俺は一体、何をしなければならなかったのだろうか。
 前にも一度こんなことがあって、そのときはそれをしていればそれだけで結構気が紛れたような気がするのだが。
 いまは、わからない。
 何だか、きゅうに、わからなくなった。それは何だったろうか。俺は今、ほんとうにそれをしたいんだろうか。今、何の為に俺はそれをするんだろうか。疑問でさえなかった疑問が指に肘に肩に脛に臑に腿に腹に胸に喉に絡みついてきて俺を離さない。
 少し、息がしにくいようだ。
 窓を開き、風を入れれば良いのだろうけれど、どうしてもそんな気が起きない。開ければ光が入る。
 光は嫌だ。
 恐い。
 ひゅうっ、と悲鳴じみた呼吸を吸い込み、かろうじて叫び声を挙げるのだけは堪えた。瞬きひとつしないままの目線で暗い部屋の中を隅々までまさぐり、ようやっとほっと安堵の吐息を洩らす。
 何もかもがぼんやりとして曖昧にしかわからないけれど、わからないことは何て素敵なんだろう。何て安心なんだろう。だから、このままずっとこうしていよう。耳の外で嵐が過ぎるまで両手で塞いでじっとしていよう。ここは静寂だ。とても、静寂だ。
 両の眼がひどく乾いて痛むのは、瞬きのときの一瞬の闇を嫌って可能な限り瞼を開けたままでいようとするからだ。きっと充血してひどい顔をしていると思うのだけれど、どうしても意識して目を閉ざすことができない。
 光と同じくらいに、瞼の裏の闇も怖い。
 疲弊し切った精神を緩やかに波のように揺する、己の睡りが畏怖い。
 息を殺して、待った。ごうごうとこめかみで鳴る嵐が一瞬でも早く過ぎてくれるよう、膝がしらに頭を押しつけて、荒い息をつきながら、じっと待った。かたかたと小止みなく全身が震えていた。瞳孔がぶれるように焦点を失い、視界が中心から暗く滲んだ。――……

◇◇◇

 ――……しんと音の欠けた静寂ばかりが、自分の周囲にはあるのだった。辺りは仄明るく、色も無く、ただ鳶色の影ばかりが濃淡を付けている。
 ……父上は何処だろう。
 きょうは、とても上手に手習いが書けたのだ。むずかしい真名もひとつも間違わなくて、出来た瞬間には己の筆使いながらちょっとほれぼれしてしまった。いつも忙しなくしている青切がめずらしく家に帰っていて、それでどうしても手習いをみてもらいたくなったのだ。ご迷惑にはならないだろうか。お仕事の邪魔になりはすまいかとあやぶみながらも、それでも、どうしても。
 母屋から当主の起居する居室、座敷、縁側、厨房、土間。父上は何処だろう。辺りはただただしんとしていて、見慣れた家具調度のかたちばかりが浮き上がっていて、そうして、青切はいない。お庭かしら。思いついて地面に降りた。踏み石の傍に置いてあった雪駄も、もちろん、ちゃんと履く。子どもが履くには大き過ぎて鼻緒も太すぎる。ちょっと足指の付け根が痛くなったけれど、我慢した。
 家に来て当初から六道はいい子だと言われつけていて、自分でもそうするように心がけていた。手あわせも術の修行もおもしろかったし、きたなくしているのは性にあわなかったし、それに何より、ほめてもらえるのがすてきだ。「よくやったな」等と言われると天にも昇る心地がするし、頭をなでてもらえるのもうっとりする。だから、ずうっといい子でいた。宿題だって言われる前にきちんきちんと片付けたし、的射ちだっていつも十本よけいに練習したし、家中のこまごまとした用事なんかもすすんで手伝った。いままではずっとそうして、ちゃんといい子でいられたのだった。
 あずま屋に、池に築山、垣根をまわり、そうして厩にたどりつく。父上はそこにいた。ちいおじ上もとなりに立っていて、何か言い争っている様子だった。音がきこえないから話の中身はわからない。ただ口がぱくぱく動いていて、大きな声を出したりして、何かとても怒ったような様子で言い争っているのだった。ちいおじ上が怒るなんて、ほんとにめずらしい。いつもは怒られるばかりで、それでもちっとも気にしなくて、のんきに笑ってばかりいる人だのに。いま行ったら邪魔になるだろうか。考えているうちにも青切は厩の黒鹿毛に鞍を置き、いましも跨り馬腹を蹴ろうとするところ。引き留めよう。父上の、次のお帰りがいつになるかなんて、六道にはわからない。
(父上、父上、待ってください)
 声を出そうとしたのに、どうしてか、喉には焼け石が詰まったような感じがするばかりで、ひとつもちゃんとした言葉になろうとしないのだ。そうしているあいだにももう、父を乗せて黒馬は走り出している。どんなに声を出そうとしても、もう、振り向こうとはしない。……

 ……暗い。
 体が重い、頭がふらふらしてうまく物が考えられない、何より手足がぬるぬるして気持ちが悪い。沓(くつ)を片方なくしてしまった。何処へやったのだろう。手には身の丈に合わせて切り直した弓、箙はちゃんと腰につけてある。でも、ここはどこだろう。みんなどこへ行ってしまったのだろう。闇路に現れるのは狂った角度の橋、橋桁、欄干。いくつ渡りいくつくぐりいくつ越えたのか。何処から来たのかもうわからない。何より、足が重い。ねとねとと糸を引くような感触がずっと続いていて、それが何処まで行っても終わりにならない。
 ずるりと。
 足元から地面が逃げていくように滑り、したたかに鼻の頭を撲った。
「……っふ、」
 しゃくりあげようとして、息が止まった。覚えのある温みに、ぬめりに、血の匂いに。
 ああこれは。これはこれはこれはこれはこれは。
 遠い雷光。雷鳴。悲鳴、空気の焦げる匂いが鼻をつき誰かが撤退を叫ぶ。がくがくと腰に力が入らなくて足が立たず、動かない足で振り向こうとして見る。暗く濡れ光る口腔にぬめつく紅に染まる舌、牙、這いのぼる鱗が床にこすれて耳障りに鳴る。逃げなくてはという本能が視界を赤く染めて狭め、それでも、手を。
 手が。
 熱した釘を打ち込まれたような苦痛があっけなく意識を呑んだ。意識の舞台が暗転し、緞帳が落とされるように、崖から突き落とされるように、救いの蜘蛛の糸が切って落とされるように。――……

◇◇◇

 ――……目が醒めた。
 声にならぬ、かすれた悲鳴が肺腑を絞り尽していた。生々しい血と臓腑の感触から逃げ出そうと身をよじり、這い、爪を立て、しかし起き上がることはできなかった。
 手を伸ばす。
 加減ない力が体の下にあった柔らかい布地を引き裂き、耐えかねて折れた爪を、しかし、かれは意識しなかった。引き攣れた喉から臓腑でよじれた苦鳴ばかりがこぼれ、暗く、低く地を這った。
(父上、父上)
 眠りから醒め得ない、幼子そのものの目つきで誰かの面影を探した。思い出すのは少し照れたような、ばつの悪いような表情で振り向く、その一瞬の顔。傍らにいることは少なかったし、言葉を交わしたこともあまりなく、ただいつでもその帰りを待っていた。かれと同じく無口なたちの父だった。家にいても父は夜中遅くまでひっそりと仕事をしていて、眠りに就くまで読書の合間合間にこっそりと眺める背中が好きだった。
 呼んだ。
(伯父上、伯母上、小父上、)
 呼び続けた。
 思い描いた面影は手応えなく鳶色の闇に呑まれていき、誰も彼も皆自分を置いていく。地をうち叩く拳の力無さが更に己をうちのめして逃れようもなく、思う。
 ああ。なんという罪悪だ。
 無力なることはこの世で最も重い罪に違いなかった。少なくとも、かれにとっては――そうだった。
 はじめていくさに出たとき、かれのすぐ上の子はかれの代わりに死んだのだ。
 その時から逃れられずにいる、これはきっと、罪に違いなかった。

 夕斗は六道より四月は齢上で、でも家中では六道の次に齢下で、六道の次に子供あつかいばかりされていた。仲は良かった。良かったと思う。自分のひとりよがりの思い違いでなければ、きっとその筈だ。都合があって誘いを断わることはあっても、折良い機会さえあれば必ず一緒に遊びに行ったから。野原とか林とかそういう遠出が大好きで、生来出不精の六道はいつでもちょっと尻込みしたけれど、行って後悔したことなんかないからやっぱり、楽しかったのに違いない。田植え待つ田圃の畝に咲いていた蓮華草をひどく気に入り、それをいたくからかわれたことを、六道はまだ覚えていて根に持っている。蓬でつくった弓での的射ちの真似事も、野端の湧水に潜む蜊蛄を釣ることもしたけれど、本当はそういう草や花をながめて楽しむのがいちばん好きだった。夕斗はちょっと眇目で、あかい髪を肩口できりそろえていて、外で遊んでは泥足のまんまで部屋に上がる癖があり、見つけるたんびに六道が捕まえては雑巾で拭いていた。なまいきだと言ってその都度こづかれたり髪先をひっぱられたりしたけれど、それも含めて、嫌いではない相手だった。朋輩というべき存在が自分にあるのなら、きっと、あれがそうだったのだと思う。むかしから大人びて鼻持ちならない子供だった六道はほかに、そんな相手を知らない。
 そんな命を糧に、踏み越えてきた道だ。
 立ち止まることは出来なかった。空白はやがて、戦の日々が埋めた。往時にはもう、実父も現世から去っていた。
 けれど、いい子でいなければ。
 他にどうすればいいのかわからなかった。だから、いい子でおふた方の帰りを待っていよう。いい子でいれば伯父上も誉めてくださるし、伯母上も名前を呼んでくださるし、小父上ともたまには遊んだって良い筈だ。だから、ひとりでも、ちゃんといい子にしていよう。どうすればいいのか、答えはすぐに出た。この家は鬼を狩る為にあるのだから。自分はその為に生まれたのだから。生まれてからずっと、自分はそれしか知らないのだから。
 沢山殺せばいいのだと思った。
 そうすれば、きっといい子でいられると思った。沢山、沢山、鬼を殺そう。自分の敵を殺そう。自分の好きな人たちを傷つけるものを、全部全部全部殺そう。
 そうすれば、きっと、ずうっといい子でいられる。いい子にしていれば、そのうち父上も帰ってくる。今度のお土産は、白尾の狐の毛でつくった筆かしら。それとも青いせとものの、三本足の蛙のかたちの文鎮かしら。父上はときどきへんなお土産を持って帰ってくるけれど、どんなへんながらくたでも、きっと大事にしよう。大事にして、誰にも見せないで、そっと手匣の奥底にしまっておこう。そうしたら大丈夫。きっと大丈夫。割れて、砕けて、この指の間からすり抜けていくことに、苦しむこともない。……

 のけぞった喉に空気が入ってこない。名前を呼んでも、名前を呼んでも、答えてくれる声がない。もうみんな死んでしまった。みんなみんなみんな死んでしまった。もうきっと息が出来ない。もう一度立って、弓を引くだけの力も出ない。
 息をする代わり、おかしな音が喉から洩れ出て穴が開いた竹筒のような気分になった。開くばかりでろくろく閉じられもせぬ出来損ないの眸が針で突いたように痛く、熱い膜が張って視界が歪む。
 沢山、沢山、鬼を殺した。
 腕がだるくて、爪から血が出てきて痛いです。どうやって家へ帰りましょうか。ここから、何処へ行けばいいのでしょうか。六道にはもう見えません。役に立たないものですから、もう、えぐって捨ててしまってもよいのでしょうか。みなさまがお止めするのでこうして残してまいりましたけれど、ほんとうは、怖いものなんてちっとも見たくはないのです。
 沢山、沢山、鬼を殺した。
 まだ足りませんか。まだ、許してはもらえませんか。あと、どれだけ殺せばいいのでしょうか。でも、天も地も、足も頭もぐるぐるしていて、うまく立てません。幾度立っても、幾度立っても、足元から居場所が崩れてゆきます。大事なものばかり、包んだ掌からこぼれ落ちていきます。
(父上、父上、御免なさい)
 ずうっといい子にしていようと思った。
 そうすれば、父もそのうち帰ってくるかもしれない。朋輩だって、いつかは許してくれるかもしれない。伯父上に誉めてもらえるし、伯母上に名前を呼んでもらえるし、小父上とだってたまには遊んでも良い筈だ。
 ずうっと、ずうっと、いい子にしていようと思った。
でも、もう、とても無理だと思う。そんなの、さいしょから無理だったのだと思う。ほんとうは誰かにほんの少しでもほめてもらいたいばっかりで、やさしい言葉をかけてもらいたい一心で、べつにいい子になりたいわけではなかったから。
 だからきっと、罰が当たったのだと思う。

◇◇◇

 生きたまま臓腑を灼かれるような痛苦にのたうち、熱い水の膜が眦を切って流れ、手に触れる布地や綿を力まかせに引っ切りながら、そらした喉からは長く糸を引く、途切れ途切れの、赤子のような声が出た。
 薄暗い自室の片隅、初陣で朋輩を亡くして以来ついぞ零れることのなかった涙滴が、耳元を伝って顎に流れていった。母胎から生み落とされたばかりの嬰児のように、ただこの世で息をする為だけに、ただ在るばかりの苦痛と怒りの激しさゆえに。

 かれは慟哭した。
B.G.M「残骸」「Venus Say…」