「水上」
―みなかみ―

 泉があった。
 白いしろい真砂を底に置く、円いまろい泉だ。とどまるを知らず溢れこぼるる水の描く波紋は繊細にして不可思議。湧き出ずる音は玄妙にして悠遠。
 さてその泉の在する、その地はいまは朝であるか。夜であるか。その泉を抱くのはふかき霊山の仙境であるか。はたこの世の果てなる荒涼たる海岸であるか。いずれでもありいずれでもなく、ただ確たることは現ならぬ、という一事であった。百八柱の神々のつどう、天つ界に属する。
「泉源氏さま、泉源氏さま」
 水音に声がかぶさり、神名を呼ばわる。おさない、高い声であった。五つ六つの子どもの声であるのに、その口調ばかりがひどくおとなびた。
 水面に映る影もまたそのように、ほんの幼子そのものの顔つき、体つき。それにも関わらずその両の眸に落ち着いた、怜悧な光があった。
 呼ばい、その子は諸手をさしのべる。水鏡にゆれていた、幼子の影が墨絵の水に溶けるように崩れた。代わりにそこに浮かびあがるのは女の影である。雨糸をつむいだがごとき銀髪を長くながく引いた、淡く深い不可思議な水のいろを映す眼をした。まろみを帯びた肩をあらわに羅(うすもの)をまとう女の相であった。
 子どもの面差しにはあきらかにその女の面影があり、女の顔立ちにはたしかに子どもの容貌と似かようものがある。細いおとがいやうすい口唇。ものやさしげな瓜実顔にすっきりと通った鼻筋。深く切れた眦にどこかしら漂う凄味まで。
 幼子が幼子らしからぬ仕草で三つ指ついてふかくこうべを下げるのも、さほど奇異とは思われぬ。おとなびた言葉つきも落ち着いて、しっかりと様になっていた。
「これより人界にくだりますゆえ、お別れにまいりました」
 女の相が片眉あげて、指さしのべると水面より白く繊い手が出でた。次いで肘があらわれ、肩へと至る。長い髪は連なる雫を珠と飾って、そのうっすらと光るように白いすあしが水面を踏んでいてさえ、尚余った丈が水面に銀(しろがね)の波のごとく漣立った。指がつと、幼子の頬に触れる。掌で包みこむ。最前まで水のうちにあった筈の肌は濡れてもおらず、ただひんやりとして冷たい練絹の感触だった。
「ゆくのかい」
 女が口を開いた。意外なほどぞんざいな、礼にかまいつけぬ口調であった。幼子はおどろきもせず、やはり幼齢に似合わぬほど落ち着きはらった声音で答える。
「ゆきまする」
 屈みこんでいる女と面を上げた子どもの目線はひたりと噛み合っている。千変万化の水の眼に対する眸は、ゆかしい古金いろ。頬のしろさに黄昏どきの雲のように映える色彩。幼子の肩あたりで切りそろえた黒髪はすんなりとやわらかく、たったいま若木より萌え出たばかりの若芽のさわやかな香がにおった。
「ひとりでかい」
「ひとりでございます」
「こわくはないかい」
「おそろしゅう思うほど、まだ此世のなにも知りませぬ」

 生まれるときも、死ぬるときも、どちらのときもだれもみな、ひとしくひとりだ。

 問われる言葉も、返す言葉も淡々と。
 およそ今生の別れを前にした問答とは思われぬ。
 それでもおそらくこの会話が最後の会話であると、ふたりがふたりとも、よく承知しているのである。泣きぬれて抱き合わずとも別離することはできるし、どちらかと言えばそちらの方が傷つかずにすむと思うものもいる。そうした者がふたり偶々そろった、それだけのことである。
 女が立った。さらさらと音をたてて銀の裳裾が足元にひろがる。その指さきが子どもの頬を離れ、虚空で翻ると、その掌中には一顆の玉。凍れる水よりまだ澄んだその御珠、色あさいくちびるでくちづける。女がそのまま息を吹き込むと珠の内に幾重にも漣が立った。その眸と色を同じゅうする、千変万化の波を封じた珠を幼子の掌にうつし、囁いた。
「持っておゆき。私の息吹が一度だけ、人の世でおまえを護るよすがになるよ」
 子どもは頷く。手にした護り袋にその珠を落とし込み、ふところ深く抱きしめるようにして収める。
「それでは、これにておいとまいたします。並ならぬお世話をいただきました」
 もう一度深く礼をし去ろうとする幼子を、女は一度だけ引きとめた。
「待って。一度だけ」
 振り向き小首をかしげる子どものほうには目を向けず、ただ長い後ろ髪だけを見せていた。
「いちどだけ。……かあさまとでも呼んではくれないかい?」
幼子は、幼子らしからぬほほえみをし、女の相をした神に答える。
「では、母上。――どうぞすこやかにおすごしください」
 それだけ言って、母子は別れた。
 それが今生の別れであると、どちらもいつからともなく知っていた。
 女がふたたび身を沈めた泉は深くふかく、いつとも変わらぬ風情でこんこんと水を湧き出していたが、やがて、あふれた水かさが少しだけ増したようだった。
B.G.M「来世邂逅」