「水鏡橋」
―みかがみばし―



 河童だ。
 水神・白波河太郎の姿は、前から見ても横から見ても河童である。
 露を宿した蓮の葉をひょいと担ぎ、蓬々たる蓑を纏うた異人の風采。紐で結んで首に提げたるは何故か、一本の瑞々しい胡瓜。
「ごめんねえ、びっくりさせちゃって」
 口をひらけばぷくぷくと、水底からのぼる泡粒の如き声。
 いや、と冬見月爾は首を振る――それは確かに、びっくりはしたのだが。しかし此処相翼院の見目麗しき池水を渡る橋の欄干を踊り越えて水中から襲い掛かってくる鬼には既に幾度も遭遇していたし、柄頭で皿もつ頭を殴り倒した妖怪がじつは溶解でなかったには魂消はしたが、べつに好きに妖怪だったわけでもあるまい。相手のせいではない。
 よって、かれは静かに首を振る――河童は、金いろの円い眸をきろきろと動かして首をかしげた。嘴がないせいか、顔つきはどちらかといえば蛙だ。
 娘の沙夜はきらきらと目を光らせて上気した頬、月爾の腰のうしろで草摺の板をつかんで顔だけをのぞかせている。気持ちはわからなくもない。斬り倒せば血糊ばかりを残して霧散するはずの妖怪ばらが一転、澄みわたる水気を放って神の姿を取り戻したとあらば誰しも目を瞠ろう。ましてや現世に降りて父ともどもに初陣の土を踏んだばかりなのである。
 ――童なのだ。
 月爾はそう思う。「怖かった? もう何にもしないよう」目を合わせてかがみこんだ水神は幼子をあやすそぶり、娘はたちまち頭をひっこめるも、やがて好奇心に負けて、そうっと。
 顔を出した先には両手で顔を横にひっぱった、火男も笑い転げるおどけ顔。
 ひとたまりもなく、腹の皮がよじれた。
 傍で見ていた月爾が吹かなかったのはかろうじて、父という矜持をもって必死で歯を食い縛った御蔭である。
 幼子の笑い声が無心にひびく、春の昼下がり。
 1018年、四月卯月のことである。

◇◇◇

 そのまま暫く、話をした。
 なんで神がかような姿に封じられていたかといえば曰く、「足がすべっちゃって」と、いうことらしい――うっかりさんなんだから、と腰に手を当てて沙夜が怒る。ごめんごめん、これからは気をつけるよう。
 羽休め台、と名づけられた露台は橋でつなげられた浮島の中途にあり、弁当を広げるにもころあいの広々とした展望をもつ場所である。
 討伐もそろそろ終盤、日保ちのする糧食ばかりの昼餉も思いも寄らぬ賓客を迎えて、俄然華やいだ。
「父さま、父さま! 半分こ、半分こしましょ!」
 貰った胡瓜片手に駆け寄る娘。「……忝い」と目礼をひとつ。なにもつけずに齧った胡瓜は青い香りと心地よい歯ごたえで、ああこれがきっと、これから知る夏の味なのだと思った。

 天女の小宮から先に行くにはまだ場数が足りぬ。
 親子揃ってこわごわ覗き、燃え髪の鬼にぼこすこに殴られながら父の亡魂にお越し願って命からがら、危地を脱したばかりだった。
 丸薬もそろそろ底をつくことだし、そろそろ切り上げどきかと思う――
 訥々と不器用に語る剣士に、白波の名をもつ神は、「そうだねえ、それがいいよ」とにこにこうなずく。出会ってわずか数時間、この気の良い渡し守にあっという間になついた沙夜はたちまち、しゅんとした。月爾はそれを見、何か口にしようと唇をひらきかけ、
「じゃあ、送ろうか?」
 その河太郎の一言にぱたりと口を噤んだ。
「いいの!?」
 うんうん、と見た目にも柔らかそうな顎を胸元にうずめる。「何処から帰っても同じだもの。お見送りくらいはできるよう」
 娘はやったあ、と歓声をあげ、水かき持つ手と手をつないでくるくる回る。
「お父さんもそれでいいかい?」
 とにこやかに尋ねかけられ、月爾はきまり悪そうに目を逸らしながらうん、と首肯する。

◇◇◇

 魚の名前、水草の名前、雲のかたちの名前。
 楽しそうに喋り合う会話に月爾はいちいち入り損ね、その度にいちいち落ち込んだ――傍目からは寡黙な武人肌と見られがちの初代だが、要は不器用な男なのである。単に。
 自分の気持ちにさえ不器用なので、しんがりで辺りの様子に目を配りつつも、河童の皿と娘のつむじを見比べて首をひねってばかりいる。僥倖にせよ初陣にして神の解放という難事を成し遂げたというのに、どうしてこうも胸が塞ぐのか。もやもやとして、何だかすかすかとうつろに落ち着かぬ気もして、胸骨のあたりがちくちくもする。
 だから最初の浮島に辿り着いたとき、月爾は大層ほっとした――じゃあね、元気でね、と頬と頬をよせて別れの挨拶をする姿を見て、また大層もやっともしたのだが。
 そうして娘をとんと地面におろした水神は、
「……御達者で、」
 とのみ呟いてその先を得ない剣士に苦笑する。嫉妬という言葉にも未だ辿り着きえぬ、人であるより先に父であろうとする男。「うん。お父さんにも、娘さんにも、御武運を――」
 ごめんね、と小さく動かした口吻にも、気付いたかどうか。
 河太郎はぷっくりとした腕を伸ばし、池から蓮の葉にひとすくいの水を汲む――花曇の四月の空に撒かれた水滴はそのまま、さあっ、と音たてて虹に変わる。
「わあ……!」
 沙夜が感嘆の声とともに諸手を空にさしのべる。月爾も娘とともに初めて見る虹に、その眸を瞠った。

 ――有難う。元気でね。

 そのとき既に、声は幽かに。
 天へと架かる虹を渡りながら、蓑笠つけた河の渡し守の姿は声とともに薄れてゆく。
(リクエスト:俺屍・白波河太郎周辺)