「広寒宮」 ―こうかんきゅう― 
(02:異類婚)

 こんなに月が青いからよくないのだ。

 灯火が魚油の腥い匂いをさせて焦げつく音を立てた。剪ってあった芯に新たに明かりを移して火皿に戻すと、ほんの少し部屋が明るくなった気がする。
 無論、ほんの少しだけだ。
 ぞっぷりとしたたるような月夜にほんの少しばかり四隅の角を付けた、頼りない明るみだ。それでも何とはなしに人の領域であるという気がしてわずかばかりの安心を得ることはできるので、六道はあまり此処から出たくはない。火皿のそばで、巷で流行の物語の写しでもだらだらと読んでいる方が、よほど良い。
 半分ばかり上げたままの蔀戸から吹き込んでくる風はひんやりと、秋の気配を深めて肌寒い。物語は葵の段。唱え事と梓弓に生霊の現れ出でるくだり。寄り人は、今ぞ寄り来る長浜の、葦毛の駒に手綱揺りかけ。しらず合わせて口ずさむと、背後から冷えた腕が首の周りにまといつく感触。六道はおどろく様子はけぶりほども見せず、
「弓弦でも鳴らしてほしいですか。生憎私は、こんな重ったるいおんぶお化けは呼んだ覚えが御座いませんが」
 こちらの言うことは気にも留めずに頬をすりよせてくるあたり、おんぶお化けとさして違わないという気もしないでもない。ならばもうちょっと小さくおさまりの良い姿形でもよかろうに、実際は身の丈六尺、白髪碧眼、とぼけた顔と案山子めいた体つきの冬見家六代当主なのである。うっとうしいことこのうえない。たまに五代当主であった実父に何故よりにもよってこの叔父貴を選んだのか聞いておけばよかったと後悔にかられる。そうしておけば少なくとも、このような振る舞いに遇う度におのれの人生について考え込まずにすんだのに。
「さむいさむい。冷えちゃった、」
 言葉どおりにすりよせられる頬は白く冷え切って、秋の夜空の空気と同じ温度だ。暖を取りたいなら、あの双子でも布団に入れておくがいいのだ。自分などよりよっぽど体温が高い。おかげでこっちは夏の間じゅう、寝苦しくて難渋した。寒風吹きそめて暖かな寝床がうれしい時節になってみればもうはや難しい年頃で、いっしょに寝るのはいやだと言うのだから世の中うまくいかないものだった。そのくせ夜中の厠には付き合わされるのは如何なものか。二度手間ではないのか。いっしょに寝ていれば少なくとも、暗い廊下を歩くのはがまんせずにすむと思うのだが如何か。考えつつも言葉はすらすらと出てくるあたり、六道も大概、七生のこの手の振る舞いに馴染んでいた。
「掻巻はそこ。足りなければ母屋で火鉢に当たりなさい、離れではまだ出していません」
 さむいさむいと繰り返しながらもぞもぞと夜着を引き被る間じゅうも片手でくっついて離れようとはしないのだから、根性の入ったおんぶお化けだった。うんざり顔で、しかし突き放せない自分が居ることも、六道はよくよく承知の上だった。対極にあるというのはつまり、相似しているというのと同じ位置にある。まるで、囲碁につかう黒白の石だ。お互いに、見捨てることも見捨てられることも出来はしないのだと承知している。あの初陣の五月の月から、互いの心のうちの仄暗い、湿った部分を共有してしまっている。
「寒いのならちゃんと着なさい。お風邪を召しますよ、」
 世話を焼く細い手を取り、指を頬に触れさせ、七生はむじゃきにわらう。
 たとえば必要さえあればこの笑顔のまま、自分をやさしく絞め殺すことが七生には何のためらいもなく出来るだろうし、おそらく自分も同じことが出来る。その一点に於いてのみ、かれはこの六代当主に絶大な信頼を寄せているのだった。
 今の今まで外に出ていた袂からはひいやりと、秋の夜空のにおい――
 そこから薄様の紙がはらりとこぼれ、
「落ちましたよ」
 何の気もなく拾いあげ、手に取り、それが何であるかに気がついた。
 文だ。
 黄いろい、小さな、星の粒のような花々が折り目にまぎれて芳香を放っている。少し萎びてはいるものの、甘い、強い香の木犀の花房から零れた小花。
 見なければよかった、と思ったのは垣間見てしまった、その文面だ。
 子どものように丸みを帯びた拙い筆跡。墨を付け過ぎてところどころ、滲んで皺ばんだ部分がある。紙だけは上等の、表面にうっすらと銀の粉を流したような上品な物であるのがより一層の違和感を強めた。ひらがなばかりの、ほんの七つの子どもの手習いのような、一状の文。
 おげんきですかだいじょうぶですかさみしくありませんか。
 つきのおそらにほしはみえませんがつきのおにわにほしのはなはさきます。
 あいたいあいたいあいたい。
 おげんきですかだいじょうぶですかさみしくありませんか。
 あいたいあいたいあいたいあいたい……
 ぞっと、背筋の産毛が残らず総毛だった。折り目に沿って畳み直す指先が震え、しかしその文を七生の胸元にどんと押しつけて離すころにはもう、既に動揺は波のように引き去っていた。
「……きちんと持っておかなければだめでしょう。折角、思いをかけてくだすったものを」
 道理で長い間縁側に出ていって戻らないと思った。
「うん。そうだねえ」
 にっこり、と。
 七生はあくまでもこちらの瞳を覗き込んで微笑むので、六道はすこし居心地が悪くなる。何故かうしろめたい感じがした。何に対してなのかはわからなかった。
 七生は直に、人の親となる。
 神と交わり血筋を残す儀式を終え、あとは産霊屋から届けられる子を待つばかりである。
「どんな方でした。月の兎は」
 尋ねれば、ううん、と首を一方にかしげ、
「かわいかった、」
 と答える。
「どんな処でした。月の宮は」
 尋ねれば、ううん、と首をもう一方にかしげ、
「さみしかった、」
 と答える。
 七生は己の膝を抱えている。長すぎるきらいのある手脚を折り畳み、膝に片頬をくっつけている。自分の筋張ったくるぶしの辺りに手を置き、そこのとがった骨の感触を確かめている。そうやって、言う。
 みんなにはやく会いたかった。
 広くて、寒くて、何もない処だった。

 二人で居て尚、うそ寒い場所。
 地平に砂の花が咲き乱れ、万年の夜が空しく美しい、きらびやかな場所。そこでどんな言葉をかわしたか、どんな昼と夜を過ごしかれが地上に戻ってきたか。ともに目覚めともに眠り、それで尚、二人は、何処までも一人だ。

ああ、こんなに月が青いのが、よくない。
彼処と隔てられた場所から、文が届くのが、よくない。
まるで死人のように青ざめて夜をゆく、あの月が目に入るのが、よくない。
こんな風に、考えなくても良いことを考えすぎるのが、よくない。

 こんな晩にいずこかから届いた文など垣間見るのではなかった。月のことなど聞くのではなかった。らしくもない後悔に内心うちのめされながら、それでも強いて気軽に、六道は言う。
「手紙をお書きなさいな。お返事を。文でも、歌でも」
「えええ、どうしよう、ちゃんと出来るかなあ。手伝ってよ、ねえ。」
「だめです。こういうのは。礼儀にも悖ります」
 甘えかかってくる自分より大きい大猫をわざと邪険にあしらいながら、それでも、墨と硯くらいは出してやってもいいだろう。
 こんなに月が青いのだ、彼処と隔てられた地上からでも、届けるすべはいくらでも考えつく。秋の夜長の更けるまで、筆尻を噛んで悩む六代目を眺めて暇を潰すのも、まあ、悪くないかと思った。

B.G.M「月のワルツ」