「鬼灯」
 ―きちょう―

 これは、決して離してはならぬもの。

◇◇◇
 ――永月どのは、お父上とだいじな御用があるそうだ。

 ――それで、私が留守を頼まれた。自分がいない間、彩どのが淋しい思いをせぬように、と。如何かな?私の家の近在へ、祭りでも見にゆこうか。

 そんなふうに言われたのではまさか、ついていかない訳にもいかないじゃないか。
 じっと、ひたすらうつむいて己の爪先をみつめ、手を引かれ歩きながら、彩はそんなことばかり考えていた。
 ちらり、と目線だけ上げて相手のほうをぬすみ見る。はからずも、かるく首をかたむけ彼方をすかし見る風情の相手と目と目が合ってしまった気がして、あわててあらぬ方へそっぽを向いた。
 古びて低い軒先の家並が続く、入り組んだ小路である。京の何処かの道筋であろうかと思うのだが、それが何処であったかはどうしても思い出せない。
 ――手は、離してはならないよ。此処で迷うと、大層難儀をするからね。
 そう言って彩の手を引いている、男のその手首のあたりがちょうど彩の目線である。ほっそりとした白い手首には数珠が巻かれていて、紫紺の飾り房がよく映えた。いっぷう変わったことには房にはいく筋かの金糸とともに小さな鈴が留めつけられていて、時おり玻璃のふれあうような音でちりちりと鳴るのである。彩はふだん着の地味な単に兵児帯姿だが、男じしんは僧形の、墨染の法衣を纏っていた。
 ――いつからこんな、殊勝な格好をするようになったのだろう。
 ともすればそんな錯覚を起こしそうになる。
 ――永月。
 名を呼びそうになって堪えることも、もう幾度目か。
 それにしても、ほんとうにそっくりだと、あらためて思う。たぶん違うところを数えあげるほうが同じところを数えるよりもずっと早い。そう思い、彩はこっそり目を凝らす。彩のその瞳は髪と同じく、秋の河の流れに落つる紅葉のように赤い。
 永月よりも、背は少しだけ高い。たぶん大人のこぶし一つぶんか、彩じしんのであれば二つぶん。姿勢が良く、颯々と大股で歩くので元来の身長よりもずっと押し出しが強い感じだ。また抜けるように白い肌膚(はだ)をしていて、細いおとがいや手首の筋が落とす影はまるで夕闇のように青ずんでいた。
 髪が、ひどく長い。
 腰のあたりでゆるやかに束ねてあってさほどうるさくは見えないのだけれど、かれの丈なす黒髪には何かしらの情念めいたものが籠もっているようで、それが何故だか、ほんの少しだけ怖いような気がする。
 そうして、まるで笑わないのだ。それが永月とのいちばんの違いだ。
 たまにすっと目をほそめたり、うっすらともの言いたげに口唇をひらいたりはする。でも眉根をあんまり動かさないし、笑い声を立てることなど更にしない。ふだん永月の、じつに表情ゆたかな言動を見聞している彩にとっては、まったく無表情にひとしいほど抑制されている。
 そうでなければ、この連れはほんとうにそっくりなのだった。顔の造作から体つきの印象から、長い髪の肩に落ちかかるときのようす、眦のきつい目と時折うっすらと紅く血潮ののぼる眼縁まで。
 かがみこむようにしてこちらの顔を覗き込まれるたび、いつもと同じふうで違う居心地わるさが彩をおちつかない気分にさせる。さらさらとこぼれおちる髪には、光の加減で走る翠色のうねり。ときにゆっくりと臥せられる蒼白い瞼のしたで、その眸は黄昏のひかりの色だ。目が合いそうになるたび彩が顔をうつむかせ目をそらすので、かれはそうやって首をかしげては目を臥せてばかりいる。もしかしたら、それが、かれなりの微笑であるのかもしれなかった。

◇◇◇

 囃子の音が遠くから響いてくる――
 太鼓。笛の音。どっと云う歓喜にも似た合いの手。通り過ぎていく行列の人びとはみなおどけた面とそろいの半被を身につけていて、それぞれ飄軽た身ぶりをしながら歩いてくるのだった。彩は他愛もなく興奮し、人波の隙間からしきりに爪先立ちしては覗き込もうとしたものだ。日の巡り月の巡りごとに己の時を噛み締める一族としてはむろん、生まれ落ちてさほど日数も追わぬ幼子なれば何にせよ、目の当たりにすれば何もかもが珍しい。
――あれ?
 そのうち、気がつくことがあった。
 影が無い。
 おもしろ可笑しく手振り足踏みをして戯るる、行列をなす姿は確かに人のものと変わりはないのに、ときにこちらに面の影から笑みを投げ指笛を鳴らしさえするのに。
 影が無いのだ。
 その足元に地上を歩く誰もが持つ筈の、微妙な陰影を持たぬ祭行列は御輿を担ぎことさらに言祝ぎの声を挙げて通るのに、その美麗な輿はただきらきらとした飾りつけがされているばかりのがらんどうである。
――ねえ。
ついつい永月相手にやるように、彩は連れの手を引いた。やってしまってから、ちょっと馴れ馴れしかったかなとうっかり鼻の頭を赤くした。
空っぽだよ。
言おうとした言葉の出先に先回りし、打てば響くように答えは返る。
「あれは、未だ生まれぬ御魂のための御社の御輿だから。ほら、あすこで何遍も回っているだろう?神様が居ないと鳥居をくぐれない。だから何遍でも此処を通るんだ」
 ふうん。
そういうものか。
そういうものなのか。
わかったようなわからないような言い回しに、しかし彩はするりと納得してしまう。ああ、そういうものだ。そういうものなのだ。現金にも、ずっと前から知っていたような気さえしてくる。ともあれ、話しかけようとして思いのほかきちんと、思ったよりもずっと穏やかに答えが返ってきたことに、彩はがぜん嬉しくなってしまって困った。
――ねえ、あれは何?
「茅の輪。触ると目を醒ますから気をつけて。一晩手拭といっしょに置いておくと蛇になる」
――ねえ、あれはどうして?
「龍が喉をかわかすといけないからね。ああしてお茶を石の御柱に注ぐのさ。一杯十銭。なんなら、やってみるといい」
 どんどん聞くと、連れもどんどん答えてくれるので、彩はやっぱり嬉しくなってしまって困った。手渡された銭は紙で出来ていて、何だか玩具みたいだと思ったが「夜市ではこれで大丈夫なんだ」と相手はしたり顔でうなずくのである。みてね、みていてね、と何度も念を押し、どきどきしながら買いに走った。甘い匂いの茶を手桶から柄杓ですくって渡してくれるお茶売り(おかしな、のっぺらぼうみたいな白いお面をつけていた)のところでさあ是非や如何とはらはらしながら手渡すと、果たしてちゃんと売ってもらえたので意気揚々と二杯分を手に凱旋した。男は「私もやるのかい?」とわずかに苦笑してみせる。無論だった。お互い片手に一杯ずつ持ち、するりと手をつなぎ直す。触れた指さきはひんやりとして、まるで水から揚がったばかりのほっそりしたきれいな魚のような指で、彩は馴染みの手との温度差にもう何度目かで首をかしげた。やっぱり、このひとは永月とはずいぶん違う。

◇◇◇

「――ああ、酸漿だ」
 ふいに男が声を挙げた。
 ものめずらしい祭りと夜市をひやかして、一体どれほど歩いたろうか。鳳や狐をかたどり自在に形づくられてゆく飴細工に見惚れ、香具師の面白おかしい口上に横腹を痛くして、しゃんしゃんと音を立てて細竹のささらを花火や柳や梯子に見立てて変幻自在の芸を見せる芸人に手が痛くなるほど拍手をし。
 もう少し、もう少し、とねだる度にこの連れは、困ったような、満更でもないような顔をして「じゃあもう少し」と言ってくれるので調子に乗って、ずいぶん外れのほうまで来てしまったようだ。よくよく見ればまるで無表情というわけではなく、微細な変化にも幾通りもの種別があって、そこからどんな感じかを読み取るのもそれはそれでそれなりの面白みがあるのだった。元より彩は察しの悪いほうではなかったし、ことさらにはしゃいでみせたりするのもちっとも嫌ではない、永月相手にだってよくやっている。いつもみたいに大仰に抱きすくめられたりはしないけれど、何処かはにかんだ風のほんのわずかなほほえみや、遠慮がちにそっと肩に置かれる掌や、口数すくないくせに教える口調になると途端になめらかになる口舌やなんかはとても新鮮な感じがする。うちの中の、他の誰のようでもない。
 市の売り物のひとつであろう幾つもの鉢の前、男が自分から足を止めたのはそれが初めてで、酷く興味を惹かれた。旺盛に茂った葉の、こんもりとした蔭から覗くうすみどりにほんのりと紅を差した実のかたちがふうがわりで面白く、ついついつられて座り込んで眺めてしまう。膝がしらを抱えるついでにこっそり連れの横顔をぬすみ見ると、まるでどうしても手の届かぬものを見るひとのような遠い目をしていた。
 彩は懐を探る。胴巻を探る。裾に縫い込んである隠しや、帯につけた守り袋の中も見た。連れはとうの昔にいかにも無造作、かつ鷹揚な態度でごっそりと紙銭の束を彩のてのひらに載せてくれていたのだった。
 ありったけの代価を両手に乗せておかしな頬かむりをした売り子に差し出すと、如何にも残念そうに首を横に振られた。
「とても足りやしないよ、坊や。近頃こいつはずいぶん高値(こうじき)なんだ。だけれども――」
 きゅうに、粘りつくように、声が。
 見上げると白い手拭いの下にあるべき顔にはぽっかり何も無く、だのにその薄闇に薄桃色の舌ばかりがひらひらと踊っているのを、彩は見た。背中のうぶ毛が残らずぞっとそそけ立つ。いつのまにか、からからに咽喉が乾いていた。目を反らしたくてたまらないのに視線が、膠で固めたように離れない――
 だん、と強く、足を踏み切る音が瞬間、何かを断ち切った。
 続いて鞭のように鋭く飛ぶ、おそろしく冷えた声。
「退がりおれ小物」
 はっとして振り仰ぐ。仄白い顔をまるで木面のように堅くして、黒衣の男は相対した売り子の顔を――無い筈の両目のあるべき場所を――睨めつけていた。
「童相手に貴様、何を言い遣るか!」
 まるで火花の散るような一喝に、ひい、と手拭いの下からか細い嗚咽が挙がる。「許しておくんなせえ、許しておくんなせえ旦那、舌が、舌が干いちまう――」
 うずくまり、売り子は無貌の顔を必死に隠して手拭いを引き下げようとした。ふん、と鼻を鳴らし、男はすっと金睛をほそめる。わざとそびやかす痩せた肩には、しかし、それにじゅうぶん見合うだけの威風があった。
「懲りたなら、そのよく動く舌であまり甘言を弄さぬことだ。それが生業といえ、私の連れにいらぬ悪さを仕掛けるならば――」
 とどめによく切れる刃のような流し目を呉れてから、連れは彩の腕を引く。背後から、ぎゃっと短い悲鳴が聞こえた。
 呆けたように口を開けたまま、速く広い歩幅で歩き去る男に半ばひきずられるかたちで幾つかの角を曲がり、幾つかの小路を抜けた。
 やがて歩調が緩やかになる。
 そうして男は敢えて顔を正面に向けたまま、独り言のようにして呟くのだ。
「すまない。気をつけていたつもりだったのに」
 彩は弾かれたように男を見上げ、そして絶句した。
「私のせいで、怖い思いをさせた、」
 ふいに向き直り、流れるような仕草で深く、ふかく頭を下げられる。
 混乱した。
 何を言えばいいんだろう、こんな時、何と言ってやればいいのだろう。ひとまず、彩はぶんぶんと首を横に振りたくって否んだ。
 ――怖がってなんかない。おれはそんな弱虫じゃない。
名前を呼びたいのに。あんたのせいじゃないと言ってやりたいのに、彩にはどうしても、この相手の名前が思い出せないのだ。
 先刻の拍子で散らばして失くしてしまった紙銭のことが今更悔やまれる。あの酸漿の鉢は買ってやれなかったけれど、少なくとも、冷やし飴や黄粉餅くらいだったらきっと、あるだけ買ってどっさり押しつけてやれるだろうに。
 彩は男の袖を掴む。手首を掴む。袖ごと、ぎゅうと両腕を抱え込むようにする。だって、その他に方策を思いつかなかったのだ。因みに、永月だったらこれをすると凄く喜ぶ。それはもうこちらが気恥ずかしくなるくらい喜んで倍の倍くらいやり返される羽目になる。
 とりあえず今はその心配はしなくてよさそうだ。両の耳が熱くってしょうがなく、その脇を通っておずおずと頭を撫でる指の冷たさがことさらに際立つ。何かをなつかしむような仕草だった。細い、ため息そっくりの声が、繰り返して言う。
「――すまないな」
――いいよ、そんなの。
それから、ぷいと顔をそむけ、手を引いて歩き出す。だって、もう一度いっしょにお祭りを見るのだ。渡してくれた紙のお金はもうないけれど、お囃子だってまた聞こえるし、あの行列だってまた通るだろう。男は苦笑して肩の力を抜き、ずんずんと先へ行く子どもに手を引かれるままに任せた。先刻までとまるで逆の格好だった。でも、これはこれで悪くない。悪くないと、彩はこっそりしたり顔でうなずく。ほんとうはすごく指の付け根やら喉の奥やらがむずむずして、おまけにこめかみの辺りにどきどきと血がのぼって照れくさくて仕方がない訳だけれど、精々顔には出さないようにしているつもりだった。

◇◇◇

 さっき行列を見物していた通りに戻ろうと、来た時と同じ角を曲がった筈だった。だのにいきなり、まるで検討もつかぬ場所に出て、彩はあやうくつんのめるところだった。
 まるきり見覚えのない、こじんまりとした社の前である。
 きよらかに掃ききよめられ、熊手で綺麗に筋目をつけられた玉砂利。質朴な鳥居からつづくきざはし。そこに座る、子どもがひとり。女の子だ。ちょんと座ってかかえた膝に、なにかを抱きしめて持っていた。
 齢相(としごろ)は、彩と同じくらい、だろうか。うろたえたのは連れがその子を目にして、いままでの無表情からつるりと皮が一枚剥がれたみたいに、ひどく悲しい顔をしたからだ。つらい苦しい怖い痛い全部ひっくるめ、そうしてその全部よりもなお大きい、悲しいかなしい顔だった。
「……――葉常」
 女の子がその呼び声に顔をあげ、ちょっと首をかしげてみせた。彩はつい男の傍らにかくれるようにあとずさりつつ、小声できいた。
――おうちのひと?
こっくりとうなずいたのは連れと女の子との両方で、奇しくもまるで同じ拍子な、同じふうなやり方だった。
「お友だち?」
 今度は女の子のほうが男に尋ねる。ちょっと答えあぐねる感じで口唇を幾度か動かし、「……そうだなあ」と何とも曖昧な答え方をした。
「――ふうん」
 まるでものおじしないたちらしく、その女の子はとっとこ近づいてきて彩の目をまじまじとのぞきこむのだ。近くで見てわかったのだが、彼女が抱えているのは幾本もの酸漿だった。せんに夜市で見たものよりもずっと枝ぶりも葉の茂りぐあいもりっぱで、ほんのり紅く色づいた実が沢山ついている。ついつい目を離せずにいると、また首をかしげて、言った。
「ほしい?」
 その言葉に、ぞっと背筋に悪寒が走ったのは、何故だろう。まるで悪意のない、むじゃきな声と顔つきにも関わらず。彩があわてて首を横に振るのと、男があわてて女の子を叱りつけるのは殆ど同時だった。
「葉常!」
 呼ばれた途端、彼女は如何にも身軽にくるりと振り返って彩とは反対のほうへまわりこむ。男の身体の反対側、つまり彩とは手をつないでいない腕のほう。そのついで、こっちにぺろりと舌を出していくのも忘れなかった。いたずらに見事成功した、と言わんばかりの満面の笑顔。
「うそだよー、だ。これはね、りくちゃんにあげるの。ほかのひとのぶんはないの」
「そういうことを軽々しく言うものじゃない、」
「でも、もうりくちゃんのだよ。それとも、ちがうの?」
 男は苛々と黒髪を引き、ついに負けを認めた。もう殆ど自棄を起こしたような様子で、早口に言い切った。
「……ああ、もう全部、私のだ。全部全部、私のだ!」
 だから、二度とそういうことを言うものじゃない、と。
 そう聞いて、彼女はほっとした笑みをみせた。ごく自然に、しっくりとむこうがわで繋がれた手。くるくると鮮やかに変わる表情。首筋でゆれる赤い髪は少し、彩じしんの髪の色にも似ている気がした。
「ねえ、いつまでこっちにいられるの?」
「きょうはもう、この子を送りにゆかなければ。あの子を――永月を心配させてしまう」
「じゃあよかった、間に合ったんだ、もう暫く会えないもの」
「会えない、か」
「うん。だから――これはりくちゃんのぶんだよ。ね、そうでしょう?」
 無数の、仄紅い色の透ける果実をつけた、たくさんの酸漿を。
 手から手へと渡されて、男は、酷く切なそうにした。
「こんな筈ではなかったのに」
 それを聞く。彼女は、ただ笑う。ただ笑う。ほかのすべを知らぬように。ほかの如何なる言葉も知らぬように。
 酷く名残惜しそうに握りしめていた手を離し、手を振って、社のほうへ走っていく。
 彩がその背中を目で追い、その鳥居をのぞきこんだとき、鳥居のむこうがわにはもう、誰も居なかった。今、ついさっき、この階段を駆けあがっていった筈だのに。
 困惑し、連れのほうを振り仰ぐ。
 男は束にされた酸漿のなかに口元をうずめ、目を閉じていた。静かに、静かに。それから彩のほうをちょっと見て、すこしきまり悪そうな顔をした。「送ってゆこう――」
 彩は何も言わず、ただこっくりとうなずいた。何か、見てはいけないものを迂闊に垣間見てしまったような気がしていたし、はやく家に帰りたかった。永月がいつものように笑って、大仰に出迎えてくれるはずの我が家の裏木戸を、今すぐにでも見たかった。

◇◇◇

 霧が、出てきたようである。
 手を引かれ、歩いている。
 もう片方の僧衣の腕には、揺れる酸漿の実。揺れる酸漿の葉。
 あかい実のいろは、先に行ってしまった女の子の髪に似ているかもしれない。みどりに茂る葉のいろは、くるくるとよく表情を変えたその目に似ているかもしれない。
 彩は聞きたかった。今しも問いが喉にせりあがり出てきそうなほど。だが、おなじくらい、聞くのが怖い気もするのだった。ただ黙って、いっしょに道を歩いている。
 男が、言葉にされぬままの気持ちを掬い上げるように、ゆっくりと口を切った。
「知ることもある。知らぬこともある。それを知ることを、定めと呼ぶ」
 天意ということもある。運命ということもある。いずれにせよいつか知る。知ることを意味づけて、知らぬことを含め、定めと呼ぶ。
 淡々とした口ぶり、遠く此処でない何処かに据えたまなざし、やわらかく幼子の手を握りかえす仄白い指。口にされる言葉は諭すようでもあり、悔やむようでもあり。
「ただ、それだけのこと――そう、それだけのこと。私が愚かだったということさ。私が、私ばかりが、ただ愚かだったということさ。あの子らはいい子だった。とても、とてもいい子だったよ」
 歩きつづけている。
 霧はいっそう濃くなりまさり、低い瓦屋根も築地塀も並木も薄くなる。なにもかもが薄くなる。ふいに男が、うすい口唇に仄かだがくっきりとした、やさしい笑みを浮かべた。
「ああ、きみも持っている。――帯の後ろを見て御覧」
 言われた通りに言われた場所を手探りに探ってみると、かたい枝のようなものが手に触れた。
 それは一枝の酸漿だ。
 どうして、いつからこんなところに差してあったのだろう。さっきの女の子がいたずらしていったのだろうか、だとしたらこれは返さなくてはなるまい。けれど、男は今度は、断固として言うのだ。
「いいかい。覚えておおき。それはきみのものだ、きみがしっかり持っていなくては」
 そうして、決して手を離してはならないよ。ほんとうは、あの子らのように人にくれてやってはいけないものなんだ。とても大切なものなんだ。
 己の手を添えて、しっかりと握り直させる。言葉につれて、胸が、早鐘のように鳴った。
 もう、家の裏木戸が見えている。相反して霧はさらにさらに濃く、何もかもが薄まってゆく。今の今まで手を繋いでいた筈の男の姿形も、よく知った人にあまりによく似た面影も、腕に抱えた沢山の酸漿も。
 彩が手を振る。男も、ちょっと照れたように笑って、手を振り返す。それにつれて、手首の鈴からちりちりと鳴りひびいた音を、何故か、よく覚えている。

◇◇◇

目を醒ますと、永月の膝の上だった。ふんわりした陽だまりのにおいと、水仕事ですこし荒れた指さきと、温かな高めの体温とに鼻の奥がつんと痛くなり、寝ぼけたふりをしてわざと乱暴に手の甲で目元を擦った。
「ただいま、」
「……おかえり」
 答え、のびあがって腕を伸ばすと、そのうなじ辺りで切り落とされた髪先に触れた。少しだけ驚いたふうで目を見開くけれど、永月はすぐに笑って背中を抱きなおしてくれる。緩やかに花弁の解けるのを見るように鮮やかで、しかも自然な笑みだった。それが彩のものごころついて以来見慣れた顔で、そして見慣れた表情なのだった。
 彩の頭を撫でるしぐさも、にぎりしめたままのこぶしに目敏く気がついてやさしく尋ねる声つきも、まるでいつも通りで、そのくせ千里万里も隔てられていたもののようになつかしい。
「なにを持ってるの?」
 その声は夢の中の連れであった男よりも少しだけ高く、澄んだ印象だ。彩のこぶしに浮いた笑窪をつつく爪は綺麗に気を使って整えられていて、もちろん乱暴な深爪などされていない。
 言われるままに、ゆっくりと、握ったてのひらを開いていく。ゆっくりと、ゆっくりと、種を新芽が食い破る速度で。汗ばんだ肌にも関わらずひんやりと手に触れる感触はまるで、夢から持ち越したような。
 一個の、ほんのりと夕焼けめいて色づいた、まるい酸漿の実が指のあいだからこぼれ出た。
「ああ」と永月が感に堪えぬような声を出した。「綺麗だねえ――」
 うん、と彩は声を出さずにうなずく。また鼻の奥がつんとして、あわてて下を向いた。いたずらめかして、そのくせ情愛ふかく頭を撫でるこの男とそっくりで、そしてまるで異なるもうひとつの面影を思い出し、目の前の襟元に額を押しつける。
 彩は、もう知っている。永月は、抜け目がなくて食えないやつだ。わざとふざけておどけてみせながら、だいじなことはまるで言わずにはぐらかす。そのくせ妙なところでは純で、とにかく一筋縄ではいかないやつだ。
 でも、もう少しだけしたら、きっと聞こう。永月とあの連れと、どんな数奇な出逢いをしたか、どうやって友達になったのか、みんなとどんな話をして、どんなふうに今日の留守のことを引き受けたのか。
 ああ、聞きたいことは山のようにある。
 でも、今はもう少し。
 もう少しだけ。
B.G.M「記憶から来た男」「白虎野」