
「霧籬」
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霧が出ている。 ぎゅう、と胸元で文箱を抱き込むようにする。 ――少し遠いですが、届け物を頼まれてくれますか。 そう前置きされて、彼女は勢い込んでこう答えたのだ。 ――当主のお言い付けだったら、何処へだって行くよ。あたしだって、もうじき初陣なんだから。 座敷にさしむかい、姿よく端座した青年は雪細工の人形のように繊細な容貌、斜めに角度をつけて顎を引き紅玉の眸に憂いを帯びた表情などつくればそれはもう、やりすぎなくらいに絵になる容姿の持ち主である。でもそのときは首をかしげ、目尻をさげて苦笑した。そんな顔をすると、整った顔だちも存外に子どもっぽい。考え考え、 ――そんな大層な用ではないですが。けれど迷いやすいので、なんな俺私が付き添いをしようかとも…… みなまで聞かず、ぷくーっと河豚のように膨らした頬を見て此方の心境を察したようだ。ああ、いやいや、と首を振り、当主こと橘冬至はこう言った。 ――それでは、頼まれてくれますか。乃々花。 そうして持たされた書簡と道筋をしるした書きつけの通りに、幾つかの小径を抜け、幾つかの四辻を曲がり。 間違ってはいないはずだ。少なくとも、今のところは、まだ。落ち着かぬ気分で書きつけを見直そうとする。どっこい、気付かぬままに不安に駆られてついつい強く握り過ぎてしまった。幼子の湿った掌の中である。ぐっちゃりと皺の寄った半紙の端切れである。読めぬ。 あたしのばか…っ。 がっくりとうなだれ、同時に、不安がはっきりと胸底に生じる。 霧がますます深くなってきたようだ。 ◇◇◇ 「――おぅい。……おぅい……」 声が。 途方に暮れ、ぽつねんと立ちつくしていた乃々花にはその低い声はまるで山賊のもののように聞こえたし、ぼうと明るんだ霧を透かした灯はまるで怪しい光物か、人魂のように見えた。走ろうか、それとも身を隠そうか。思案した隙に、霧の襞から矢玉のように飛び出してくる、犬ほどの大きさの黒い影。 「次郎丸!」 一喝。 短いが鋭い一声に、影の塊はギャウンと打たれたように横ざまに転がった。つづいて光物の相が霧から姿を瞭かにしてみればそれはどうやら人の手が下げた提灯で、白地になにやら見覚えない家紋が付いている。掲げもつ人影はぜんたい黒っぽく、背が高く、ふわりと風を孕んで膨らむ袖が一瞬、翼のように見えた。 ……御先烏? そう思ったのはほんとうにほんの一瞬で、瞬きして見直すとちゃんと、ふつうに人の格好をしている。長い黒髪、墨染めの衣に仄白い貌。転がったのは野犬でもなく狐で、金いろの毛並みをしていて、奇異なことに尻尾が三本あるように見えた。見間違えだろうか。乃々花はごしごし手の甲で目をこする。その間にも人影は狐のほうに刃物のような視線を向け、低い声で恫喝した。 「育ちの悪い野狐め。迎えが脅して如何するつもりだ、どうやらよくよく、私に手ずから躾られたいようだな?」 怖い。 「んだよ。俺が気ィ利かせて捕まえてやろうってのに、文句あんのか?ああ?」 ようよう立ち直った狐は人語をあやつり反論した――勢いだけはよろしいが虚勢を張りたいなら人に化けるなりなんなりした方がよいのではないか。三尾のうち二本までが股に巻き込まれていては威厳を保つのも難しい。その証拠に狐の言葉には憐れむような一瞥だけをくれて、その人は乃々花のほうに向き直ってしまう。 「見ろ。こんなに怖がらせてしまって。……うちの識神が無礼を働いて、申し訳ない。何せ此奴は見ての通りの野育ちでな、教養やら礼儀やら、教え込んでも教え込んでも中々ものにならんのだ」 謙遜に見せかけ、さりげなく失礼なことを言っている。嫌味というか、むしろこれはこの三尾の狐に対する苛めだろう。乃々花の身近にも時々、似たような物言いをする人が一人居る。それでも屈み込んで子どもの目線に目を合わせるそのしぐさが気遣わしげで、困ったようにぎこちなくわらう目許がやさしげで、乃々花は腰を抜かしたままおそるおそる口を開く。 「……えっと、知らない人にはついていっちゃいけないって、その、うちの当主が」 言うと、不意をつかれたように瞬きし、それから短い笑声。 「これは失礼。――私は冬見家六代月爾の名代だ、その届け物の宛名先。此処はよう迷子が出るのでな、あるじが心配して、迎えに行けとの仰せだ。和子(わこ)は橘のお子だろう?怪我はないか。立てるかい?」 立てなかった。 狐に脅されたせいでなく、むしろその後のこの人の恫喝のせいで腰が抜けたのだが。――まあ、目の前の名代という人には言わないでおこう。きっと傷つく。声やたたずまいはちょっと怖いけれど、それらとは裏腹、いい人そうだと思った。乃々花のようすを見て取ると、顎に指をそえてちょっと考え、「なら乗りなさい。背に。」などと言い出す。 「無理をすることはない。……それに、これ以上待たすとあとが面倒だ。さあ」 そうしてひょいひょいと手を取り、またたく間に乃々花を背におぶさらせてしまう。なんだかずいぶん手馴れている。家に小さな子でもいるのかもしれない。彼女の子ども特有のやわらかい髪をひとつ撫でるとき、 「――同じ色だ」 という呟きが聞こえた。肩越しに目と目が合い、ゆるりと微笑した。その切れ長の金目の縁がほんのりと紅を刷いたように赤いので、じつは照れているのかも知れない、と思った。 「餓鬼には甘いでやんの。」 毒づくのはさっきの、人語を発する狐だ。男は口もとの微笑はそのまま、目つきだけをまたも刃物のように鋭くして、「お前に言われたくはない」と言った。 ――へんな人たち。 そう思った。 しっかりと背におぶわれ、安心感とともに急速に差してくる眠気。 「眠いのなら寝ていてかまわない。その方が早く着く」 意味はよくわからないけれどそう言うので、少しくらいはかまわないだろうか。お使いの書簡はちゃんとふところの中。目を醒ましてちゃんと届ければ、ちゃんと当主のお言いつけを果たしたことになるだろうか。歩き出す肩の揺れと、頬に感じる人肌の体温。その感じに覚えがあり、いつだったろうかととろりと重くなってきた頭で思い当たる人を考えた。考えるまでもなかった。 ◇◇◇ 一方その頃、冬見家家中では。 「お茶菓子これで足りるかなあ?水菓子のほうが好きかなあ、そうだ、柿むこうっと」 語尾に音符でも付いていそうな浮き足立ちっぷりの六代目当主と、 「玄関とお座敷の掃除終わったよー。あ、濡れおかきだ」 「草むしり済んだぜーって、聞いてねえや。食っちゃえ食っちゃえ。ほれ、九曜もひとつ」 家事労働のすえにつまみ食いを堪能する双子と、 「いただきまぁす。……ねーえ、りくちゃんときつねさんとお客さま、いまどこらへんかなあ?」 ちゃっかりお相伴にあずかる裾っ子が首を長くしていたりするのだが。 それはまた、別の話である。 |