
「帰去来」
―かえりなんいざ―
(43:慟哭)
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何度も何度も息をすいこんでは止め、必死で泣きやもうとしているのに、あとからあとから喉に熱い石のようなかたまりがどんどんつきあげてきて、どうしても止まらないのだ。 常葉は手の甲で、いっしょくたになった涙涕をぐいと拭った。もう、とうにのども瞼も鼻も痛くってしかたないのだ。泣き止んでしまいたい心は大いにあるのだが、こめかみを中心に首のうしろまでがじんじんと熱く、どうしたって泣き止むことができない。 この双子――常葉と葉常がことに幼いこの時分、こうしたことはたびたび起こり得た。ひとりが泣き出すともうひとりがつられ、いっぽうが泣いているうちはもういっぽうも泣きやめず、結句双方が静かになるまでには大層長い時間がかかるのだ。常葉の妹であるところの葉常はもう口いっぱいに喚声をあげるほどの気力も尽きて、齢うえの六道の背なにおぶわれしくしくと細い啜り泣きをたてていた。 道には陽炎。 1024年、八月葉月末。鴨川河畔の土手を横目に、かれら三人のほかに道をゆく人影は見えない。せんに、蜘蛛の子を散らすようにしてみんな逃げていった。 六道は常葉の数歩前をゆきながら、先刻から一度も振りかえることをしない。うつむき加減に深く顎を引き、表情を見せはしないがふたりとも知っている。その額には傷がある。つぶて飛礫の当たりどころが悪かったらしく、その石の鋭利な一辺は柘榴のように爆ぜた傷口を作り、とめどなく流れた血は頬からおとがいを伝って清潔な襟もとを汚した。 血はもうそろそろ止まりかけ赤黒い跡を残して乾きかけているというのに、双子は、どちらもいまだ泣きやめずにいる。 ◇◇◇ なにを泣く。 なぜに泣く。 そも吾ら、人外化性の血にあらば、人世になにをか憂うべし。 あさましの姿や。 いと、あさましの姿や。 回り道をして、六道はことさらにゆっくりと歩いた。 背と腕にかかる重み、体温と湿度、泣声、寄せては引く波に似た調子で高く、低く、耳の底に触れる。 首もとの襟のうしろが熱く湿り、同時にしっかりと握りしめられている。それらを意識の外に感じながら、心のうち、ひたぶるに己に繰り返す。 知っていることだった。 わかりきっていることだった。 鬼殺の血筋として知られたこの一門に連なることが、如何なる目を世人にむけられることか。異形異彩の身に加え、半神の血といくさの日々がもたらす力、純粋な畏怖と得体の知れぬものへの蔑みの交じる嫌悪。ひとりびとりの目の歪みは言うべくもなく、群を為せば更にいっそう正しにくいことなど。 こと、昨年暮に大江山を閉ざすにあたっては、六道は実父であり五代当主であった青切が如何に奔走したかを伝え聞いている。そうしてそれを以ってしても、人の口には扉は立たぬもの。いったん流言となれば蜚語は野火の如くに広がる、ましてや鬼禍が勢いを倍するものとなり留まるところを知らぬ今、根も葉もなしと断ずることも容易にはできぬ。まことの鬼魁を解き放ったのが何ものであるのか、民草に仔細こそは伝わらねどかずかずの断片が武門の一であるこの家を示唆していた。 これら二つを重ね合わせれば、己らが世人にどのような扱いを受けるか想像するに難くはない。 だから、きょうのようなことは充分に起こり得るのだ。 いままでも、これからも。 知っていることだった。 わかりきっていることだった。 理屈で気持ちが割り切れるようなら苦労はない。 怒りがまだ、にがい石のような吐き気とともに胃の腑のあたりに凝っている。方術でもって暴徒を散らすのはさすがにやり過ぎたと思わないでもない。人死にが出なかったのは寸前で手ごころを加えたからではなく、ただの幸運ゆえであるとかれ自身がだれよりもよく知っている。 死ねばいいと思ったのだ。 死んでしまえばいいと思ったのだ。 己の仕儀の愚かしさなぞいま、六道自身がだれよりもにがく噛み締めている。これでまた、益体もない風聞が広まろう。無数の尾鰭を付け加え、己等にむかう世間の風をいっそう冷たく厳しいものとしよう。 だが、いまもう一度、先刻に目にした光景と同じものを目にしたならば、何ひとつ違うことなく同じ心の動きを味わい同じ殺意を発するだろうと思う。土埃に塗れたおさな子の裸足。悲鳴は短刀のようにこの耳を裂いた。突き倒され小さな躰は鞠のように地面で二度、三度と弾んだ。 反吐が出る。 まったく、理屈で気持ちが割り切れるようなら苦労はない。 ぎゅ、と首におさない腕がまわされ、六道はようやく泥のような物思いから僅かばかり浮上する。ふたごの妹の方はせんのいざこざの際に足を挫き、かれの背におぶわれてようやっと泣きやみつつあった。五歩ほど離れて後ろからついてくる兄の方はたぶん、もう暫くかかる。泣きやもうとして息をとめるから、そのたびに泣き声がふくれあがって結局ますます止まらなくなるのだ。よっぽど教えてやろうかと思ったがやめにした。一体どうしてこの強情な子どもが今までさんざ逆らってきた己の言うことなど聞くだろうか。 川風が、さらさらと頬に触れていく。色を変え始めた空、夏の終わりの青ずんだ夕暮れ。汗ばんだ首筋と背におろした黒髪に、風が吹いてゆくのが少しだけ気持ち良いと思った。 「少し、休むか」 ぎこちなく見えねばいいが。 ふりかえり子どもらに向けて笑んではみたものの、口もとあたり、まだこわばった感触がある。つとめてやわらかい声を心がけたが、語尾はやや不自然にかすれた。まだかれの腰ほどまでの身の丈しかない常葉の口はぽかんと開き、そこからしゃっくりを一度洩らして、とりあえず泣き声はやんだ。まじまじと目を皿のようにした葉常の視線が肩越し、頬の辺りに強く感じられて面映い。 そんなに驚かずとも良いではないか。 そう思って六道はひっそりと傷ついたが口には出さず、道筋を外れた。土手に茂る丈高い草を足で掻き分けながら河原に下りる。後ろから、せわしなくばさばさと両腕で草を分ける音が追いかけてくることをかれはなぜかそのとき頭から当然と信じて、疑いもしていなかった。 川の水面は空の紫暗を映して暗く、けれど夏の日はいまだ永い。まだ、家には帰りたくないとどんな子供も思う刻限だった。少なくとも、今は、まだ。 ◇◇◇ 腫れぼったい瞼に指が触れる。てのひらのくぼみに掬った水で目を洗ってくれているのだけれど、そのたびになぜか首筋がむずむずして照れくさく、葉常はそのあいだじゅうずっと呼吸を止めていたのだった。しあげとばかりに濡れたてのひらで赤髪を撫でつけられ、ようやっと肩で大きく息をした。 河原のひらたい石に葉常を腰掛けさせ、六道は挫いた足の手当てを始めた。 「冷やしたほうがいい。日暮れどきは節が痛むものだしな、」 そう言いながら袖口を裂いたありあわせの布子を浅瀬にひたし、足首に縛る。少し腫れてはいたが骨にも筋にも異常はなく、軽々しく治癒術などを使うのもかえってためらわれる。とりわけ育ちざかりのこの時分の幼子では、下手を打てば骨格が歪むので大事に及ばぬかぎりは自然にまかせるべきであった。 じっさい冬見の幼子は、ことに若い時分にはそれはもう、筍のように育つ。朝に着た単が夕べにもう寸足らずになっているなどざらである。みしみしと骨のたてる音の聞えそうな育ちぶりで、それとともにころんで作った膝小僧の擦り傷くらいならつるりと治ってしまうのである。 こくこくと声も出さずしきりと葉常がうなずくのは決して幼いながらにそれらの理屈が呑みこめていたからでなく、ただほかにどのような返事も思いつかなかったからなのだが。 幼子ふたり、だれにも言わず連れ立って家を出たのはきょうの午を過ぎたころ。 身の丈の倍もある築地塀を肩車とお互いの手と手でお互いを引っ張りあげることで乗り越えた双子であるが、この妹のほうはべつにまじめに家出をしたかったわけでもなく、むしろそこまで考えていなかったというのがほんとうのところだ。風呂敷づつみにされた団子を弁当がわりにさらって小脇にかかえ、手に手をとって走ったのも、ただただ見知らぬ外への興味と目先の興奮が先走った結果である。 そもそもこの妹、兄の常葉よりはるかに要領は良いし家族ともべつに折り合いは悪くない。六道などじかに指導をあずかるわけではないから、気負い過ぎた肩の荷もふっと降りるのだろう。適度にやさしく振舞うので、ぎくしゃくと力の抜けない関係が続く常葉よりよっぽど仲良く過ごしていた。だからべつに、裏庭から塀を乗り越えようと四苦八苦していた(踏台がわりにずっしり重い庭石までひきずってきていたのだから並大抵の苦労ではない)双子の兄を手助けする必要もなかったし、なんで常葉がそんなふうに顔をそむけて鼻の頭に皺を寄せるのかもわからない。 それでいて常葉をひきとめもせず、汗ばんだ掌と掌を握り合い、白昼家を抜け出したのはなぜだろうか。 ただのむこうみず、ただの出来ごころ、そうとばかりは決して言い切れぬ。生まれ出でた時をおなじくしたこの双子、この時分はことにお互いの心のありよう、その動きまでも同じくして、しかもそれがどちらのものであるか明言することが難しかった。 はなせ、ばか、おろせ、と根限りに喚く声のほうを見ると、おのが片割れである兄は襟首をつかまれ、さすがにいささかうんざり顔の六道に猫の仔みたくぶら下げられているところ。転んだひょうしに真っ赤にすりむけた肘と膝をしているのだからおとなしく手当てされた方がいいにきまっているのに、なんで暴れるんだろうか。やっぱりよくわからない。 わからないのにわかるのはまた首すじがむずむずする、照れくさくて走り出したくてたまらない気持ちだけで、それでもやっぱりそれが自分のきもちなのか常葉のきもちなのか上手く区別ができない。葉常は河辺のひらたい石のうえに裸足で膝をかかえて座りながらただ、ちょっといいな、と思っている。ちょっとうらやましい。うちで四六時中手習いをさせられるにせよ、稽古と称してつっかかっては逆にしごき倒されるにせよ、なんだか、それはちょっといい。なにせ葉常はいつも傍から見ている側だから気楽なもので、そんなことを考えている。 いいなあ、とこっそりつぶやいたけれど、どうせ兄が浅瀬でばしゃばしゃと立てる水音がうるさく、聞えなかったにちがいない。 ◇◇◇ まったくこの指導役のすずしげな無表情は家を出る前と出る後であっても全然変わりなく、何故だか知らないがとにかくその事実に常葉はやたらと腹が立つのである。 「あとでいいって!」 と何度も何度も訴えているというのにこちらの言うことが耳に入っているのかどうか、しまいには力づくに訴える態度もやっぱりまったくちっとも全然変わり映えしておらず、更にむかつくったらありはしないのだ。 「そうか、」とだけぽつりと呟いたときにはやっと自分の話を聞いてくれるのかとちょっとだけ期待したというのに、全然そんなことはなく、観念せよとばかりにひょいと襟首をつまみあげられては逃れようもないわけで。六道はこう見えて顔に似合わず気短である。承知しているのだが承知しているといっても腹の立つことは一向かわらないわけでつまり、じゃあこっちだって大人しく言うことを聞いてなんかやるものかと元来一本気な常葉はそう決め込むばかりである。 抵抗のかぎりを尽くした死闘の果て、業を煮やした六道がざんぶと音を立て河原にあがるころには暴れ過ぎてぐったりとした常葉が横抱きにされていた。ちなみに結構水も呑んで腹の中でたぷたぷしている。横にしようが縦にしようが敗者は常葉であった。最後あたりなんて誰がどう見ても溺れかけた常葉を救助する六道の図であり、実際にほとんど溺れかけていたあたり、もう言訳もできない。したいわけでもないのだが。 お互い頭から濡れ鼠のありさまと相成って、たいくつそうに座っていた妹の隣に常葉をすとんと降ろし、「なぜこうも手間をかけさせるのだお前は」等とぶつくさ言いながら肘の傷を検分し始める。他愛ないそのひとことで、急速にしかも際限なく気分が落ち込んでいくのがわかった。 そんなのじゃない。そんなのはちがう。 ほんとうは、ぜんぜん、そんなのじゃないのに。 もどかしく口をひらきかけても言葉がついてこず、深くふかくうつむきかける。六道はその常葉の手首を取り、目の高さに持ちあげてためつすがめつ、注意ぶかいまなざしで眺める。ちょうど目と目が合う高さに屈みこんでいるので、その額の傷のあたりがじかに視界に入るのだった。 血糊で固まった前髪。二寸程の傷まわり、点々と紫いろの斑が浮き上がっているのは石が当たったところが痣になったのだ。内側から透けるその内出血の加減のため、ただでさえ白い肌膚がますます白い。一筋二筋、思いのほか多くの血が出たが目に流れ込んできた痛みから乱暴にぬぐったまま、それ以上はかまいつけもされずに頬にかすれた指紋を残している。 手を伸ばす。手で触れる。血の痕は濡れた指の腹に溶け、うす赤く水にまじった。いぶかしげに目をほそめる、その眸はちょうど今の刻限に空がうつす色とおなじ色合をしている。ひんやりと冷えた頬。その影の輪郭がときおりきらきらするのは、逆光にうぶ毛が光るからだ。 「なんだ?」 つと目を細めてこちらを見やる、その言葉になんだとはなんだと叩き返してやりたくなったががまんして聞いた。なぜだろう、こうして触っているほうが、いつもよりずっと尋ね易い。 「なんでよけなかったんだよ、」 ぽつりとした言葉ひとつではどうにもたよりなく、焦燥にかられ言葉を重ねた。 「だってよけられたじゃないか。あんた、ずっと目をあけてたじゃないか」 それにつれてどんどんうまく言えなくなるのは常葉の性分なのだけれど、ほんとうはそれで足りるのだ。聞えないのではない、聞えないふりをしているだけなのだ。いま、やっと気が付いた。頭の良いやつだから、そう、わからないなんてはずがない。ほんの一言二言から、十も二十もひとの考えていることを言い当てることができる。 言い募るにつれ声がかすれた。実体のないはずの、言葉が喉に詰まって胸がくるしかった。 ……こんな傷、つくらなくってもよかったじゃないか。 ちいさな声、吐きすてるような調子、意地でもこちらの目なぞ見るまいとうつむいた旋毛。 頬に当てられた手はまだ、六道自身のものよりずっと小さい。幼い子ども独特のくびれた手首と、黒く土でよごれた爪と、不器用な指先。六道が沈黙し、そっと目を臥せるのはそのどれをも取りこぼしたくないからだと、いったいこの子がいつか知ることがあるだろうか。河の水面にゆらめく光の輪、今年はじめての蜻蛉がすきとおった羽根を動かし飛び立つ、そのどれをも取りこぼしたくないと思うので暫く、そのままでいた。 問われ、初めて自分がそのことに気がついたのだと、この子はいつか知るだろうか? そうだ、あのとき、自分は目は閉じなかった。いま、そのことに初めて思い至ったのだと。 ◇◇◇ ――何が起きたのか最初はよくわからなかった。 ただはじめに、背中が痛い、と感じた。 誰かに突き倒されたのだとぼんやりと理解したときにはもう、身体はふわりと宙に浮いていた。重心を完全に見失い、つぎにぐるんと目が回り目の前が白くなった。腰のあたりをつよく横抱きにされ、誰かの袖のなかに抱き込まれたのだったが、そうとはすぐに理解できなかった。まるで颶風のようないきおいで駆け込んできた、それが誰かもすぐには理解できなかった。さながら翼のごとく、風を孕んで翻る袖。常はしずかに背に流れる射干玉の髪はたなびくたてがみのように荒々しく乱れ、垣間見えた横顔の白さはさながら夜の嵐雲を通し眺める朧月。するどく緊張した頬の線、うすく開いた口唇と、次の瞬間噛み締められた歯列。腕の抱く力が、ぐ、と強まり、そうして何か、固いものがぶつかり合う高い音が立った。 避けられた筈だった。 ほんの一瞬、だが確かに見た。その目は閉じられもせず軌跡を追って動いた。そも、冬見の弓取りとしていくさする者がたかが飛礫のひとつ避けられぬなどということがあろうか。 避けられた筈だった。 だが、石礫はかれのこめかみ近くを打った。その鋭い一辺が肌を裂き、血が噴いた。 「満足か、これで」 はた、はた、と鮮血が白い襟元を汚していく。 六道の心が不穏なほど、その声音はつめたく落ち着き、ただほんの少し低まるのだと双子はこのとき、初めて知る。 群集のたれからもその血にもその声にも返すべき言葉は挙がらず、また六道も応えは待たぬ。ただ、言った。 「去ねや。下郎」 蒼天、雲は影もなし。 日輪隈なく、道は陽射に白く灼けつくというのに、その言葉とともに辺りはふと暗む。 あおじろい光が、その翳りを割った。さながら、氷面を砕く罅のように。 おそらくは一呼吸にも満たぬ刹那のできごとである。六道は呪言の一言も発さず、指で大仰な印ひとつ組まず、だのに紫電は虚空を裂き剣葉の鋭さをもって雷鳴は耳を聾した。鉄気を帯びた砂を雷性が引きつけ、足元でふしぎな紋様をえがいた。その腕に抱かれていてさえ、髪の毛が逆立つのがわかった。 かれはただその眸で見、ただそのほっそりとした指でゆびさしただけだ。目には鬼気。腕には子ども。盾となすのは己の身体と心ひとつ、幼子ふたりを庇い立ち、ただ血が一筋、二筋と流れてその面を濡らしていった。 ……やがてこの日の出来事はその生来の気性の苛烈さとともにかれに雷童との双つ名を与えるが、それはまたのちの話である。 ただ、双子はごく間近く、それを見た。 引き結ばれた口唇と、己が血潮に濡れた白面と。 鬼火走るがごとき眼光、うすい瞼に通う血の気が眦にうっすらと紅を刷き、あやしく瞬く雷光がその輪郭を影と光に喰い荒らす―― 背筋が震えた。 そのとき、その感じはどちらかといえば、千尋の高みから墜つれば必ず五体の砕ける谷間を覗く気持ちに似ていたと思う。耳を塞ぐ雷鳴、閃光が視界を白く灼きつけ、もうほかの何も見えない。何も聞えない。 涙が出たのは、恐怖からではなかったと思う。 ただ、遠かった。 ただ、何もかもが遠かった。 あまりにもやるせなくて、やりきれなくて、涙が出た。 ◇◇◇ ……ほんとうは、大した理由など何処にもありはしなかったのだ。 目を閉じなかった、軌道などやすやすと読めた、それでいて身を盾にし避けなかった理由など、何処にもなかった。 それでもちんまりかれの前に並んだ子どもらがあんまり必死な目をしているものだから、六道はひとまず答えを探す。泣きそうだから、途方に暮れて立ち尽くしてしまいそうだから、追いすがり泣きじゃくっていたいつかの自分と胸のうちのどこかで重なるものだから、頬に幼い掌を置いたまま、またいつのまにか袖にすがりよられたまま、じっと考える。 「――――思い知ればいいと思ったのだ」 そうだ、言葉にすればたぶん、これが一番近い。そうでなければ、こんな傷など作ることはなかった。避けることも、掌に掴みとることも楽にできた。 ただ、しようとさえ思わなかったのだ。ほんとうに、理由らしいものは、ただそれだけ。 知ればいい。 あいつら、己の手を汚すこともせぬものどもも知るといい。 己が鬼を殺す時、どんな心地でいるものか。どんな手応えでどんな匂いでどれだけの力を賭けて命を張っているものか思い知ればいいのだ。きっと変わらない。色も匂いも流れ出るときの感触も、まるで変わらない。現世の肉など持たぬくせに、痛みさえ感ずる。現世の命など持たぬくせに、涙さえ流し助命を乞う。 それらの鬼をすべて殺して、己がここにいるのだと知るといい。 そも人と鬼と、殺すときに大した差などありはせぬ。食らい食らわれ、死に死なれ、巡る因果は糸車。もんどり打って閻羅が淵の、地獄の火車と為らば為れ。…… やがて空が紫暗へと沈みゆく夕べ、河面はいまだ漣立つ黄金の夕映えの色をして流れゆく。風は肌にやさしく吹き、淀んだ暑気を散らす。六道は膝のひとつずつを子どもらに貸し、訥々と、言葉すくなに喋った。できるだけやさしく、平易に、意味を噛み砕いて話すということはなんと難しいのだとはかれがこの夏いくたびも思い知ったことである。だが、それに徒労を感じぬのはきょう、この時が初めてだったのだけれど、そうは思わぬままずっと、もう何度もこうして語ってきたような気がし始めていた。泣き腫らした目をした子ども、そっぽを向いたふりをして袖のなかに滑りこんでくる手の、なんと小さいこと。あやすように指をからめたり、またその力を緩めたりすることに何の不自然も感じない。またべつの、もう一方の片割れのてのひらが額に負った傷を気にしてか、頬のあたりをうろうろするのもいやではない、むしろおもしろいと思った。六道がそういうことにほほえむたび、双子が雁首そろえ目を大きくしてこちらを仰ぐのだけは少々面映く、やや居心地悪さに似たくすぐったさを感じたが。 「じゃあ、」 しまいにそう言ったのがどちらであるか、六道は一瞬区別がつかなかった。完璧にふたり同時の同じ調子。双子どうしでも区別がつかなかったらしく、お互い顔と顔を見合わせどちらからともなくうなずきあい、兄のほうがあらためて口を開いた。 「じゃあ、しかえしがしたかったのか?それだけ?ほんとうにそれだけ?」 ああ、この子らにとってはそうかもしれない、そうでなければ、この子らの言葉であらわせばそうなるのだろう。六道はそう理解し、曖昧にうなずく。それはかねてよりこの臓腑に暗くうずくまり、明確に否定も肯定もできぬ感情だった。ましてや言葉になどできようか。 かれとしては一度その点について熟考してみたいところであったが、いきなり両側から首ったまに抱きつかれたものでびっくりして、瞬時にそのことを忘れた。唐突で息が止まり、おまけにふたり同時にいっぺんに決めつけられる。やっぱり声の最初から最後まで完全に一致し、どちらに言われたものやらまたも区別がつかない。 「ばか。ばかだ。あんたっておおばかだ」 だってそうじゃないか? なんのいいこともないじゃないか? こんなに血が出てるのにこんなに痛そうなのに、そんなのすることないじゃあないか? 興奮しきって息つく間もなく両側からまくしたてられ、六道は暫く目をしぱしぱと瞬かせていたがやがて、ああ、と口から吐息にも似た、いまこの瞬間にやっと気付いた事実をほろりと零す。 「ああ、もしかして、俺は心配されていたのか?」 なんてことだ。 まったく、なんてことだ。今の今までちっとも気がつかなかった。いや、気がついていたかもしれないが忘れていた。この世に、そんなものがあることを忘れていた。さあよく見るがいい。じっとこちらを見あげていた顔ふたつ、みるみるうちに赤くなっていくさまを、また、まったく相対称にゆがんで怒りだすのを。もうあんまり怒り過ぎて口も聞けず、こちらの胸元を計四つの拳でたたくけれど、こっちは全然痛くなんかないじゃないか? むしろ一打ちごとに愛しいばかりで、愛しいばかりで、同時におかしくって情けなくってしょうがない。声が、しぜん高みを吹きぬける風の音で鳴った。ああ笑っているのか、俺は笑っているのか、自分の笑い声など聞くのはもう幾月ぶりだろう?ずっと忘れていた。初陣以来、餓えたように戦ばかりつづけ、ずっと忘れていた。 ――なんだ。まだ笑えるじゃないか。ちゃんとうれしく思うじゃあないか。 ならばいつか泣くことだって取り戻せるかもしれない。 人にあらずの謗りを受けてもよかった。あめつちのいずれにも属さぬことをいっそ是として戦する、ただそれのみの修羅でかまわなかった。失ったものを思わずにすむなら、苦しまずにすむなら、涙せぬことをいとわしく思わずにすむなら、もう一生そうして過ごしていこうと思っていた。 ――それでも、まだ、この子らがいるのなら。 清しきかな吾が心。 見当外れの怒りに駆られもう意味もよく取れぬことを喚き散らす子どもらを、ふいをついてきつく抱きしめる。赤髪のふたご。右腕に常葉、左腕に葉常。汗と干草と夏の土埃のにおい。すっぽり腕におさまり、しぶとくも何がおかしいとまだわめきたてる方の耳元にくちびるを寄せて囁く。 「なにも。なにもおかしいことはない、」 ただうれしくて笑ったのだ。 おまえたちが心配してくれて、うれしかったのだ。 いい子だ。 おまえたちは、とても、いい子だ。 一瞬、囁きかけた頭がびくっとして、それからじわじわと耳たぶまで血がのぼっていく様子をかれは心密かにおもしろがって眺めた。よく熟れた桃の実のように頬がぼうっと赤らんでいくのにつれ、せわしなく動いていた口も静かになり、胸元を叩いていたこぶしも大人しくなる。 「……はなせ。おりる」 ぶっきらぼうに一人前の口をきいてこちらの腕をつっぱねようとするもので、六道はすこしだけ意地悪をしてやりたくなった。かまうまい、自分だって幼い時分はさんざんしてやられたものだ、せっかく大きくなったのだからこのぐらいは許される。 「いやだと言ったら?」 「――、知らねえっ!はなせったらはなせ、もうやだ帰る!帰るんだから!」 「ほうそうか。ならば家出もやめてくれるか」 「なんだってやめてやるからとにかくおろせばかこっち見んな!――って、え?」 「これで俺もやっと六代様にも面目が立つというもの。葉常も異存ないか?どうする?」 「あっ、えっと、うん。やめるやめる!ね、それでいいよね?」 兄と妹と、みるみるうちに一方の表情に安堵が、一方に敗北感が浮かぶ。どちらがどちらであるかは言うまでもない。特徴ある頬のあざが歯ぎしりとともにぴくぴくと動き、やがてがっくり首を垂れた。 じつに、完敗という言葉にこれほどふさわしい心持ちはほかにあるまいと幼心につよく思ったものである。 ――結句、どうしてもいやだと常葉が意地を張ったもので六道はしぶしぶ妥協して下に降ろした。葉常はべつにこのままでかまわないと頬をふくらませたが、六道の言によればそれは理に合わないのだそうだ。かれはこの双子が来訪したこの月のはじめから、何事も不自由ないかぎり平等に扱わねばならぬというそれはそれは堅い信念を抱いているのである。 それに従い、葉常の意見を取り入れ、常葉の言葉に妥協するとつまり、こういうことになるわけで。 「……なんだよこの手」 六道の弓手にしっかとつかまえられたおのが馬手を、常葉はじつに複雑な顔で眺めやる。 「不公平はよくないのだ。そうは思わんか、常葉?」 わざとらしく顔をのぞきこむしぐさになぞ騙されるものかと思うのだが、前髪の先がこちらに触るほどの近さで言われるともう、さすがに浮き足だって騙す騙さぬ以前の問題だった。なんだかむずがゆく、ひどく居心地が悪いようなそうでもないような、どちらかに決められないのでどちらにもせずいっそ逃げ出してしまいたい気持ちがつきまとうのだ。 ……だからそうしたのにという忸怩たる思いが胸の芯にわだかまるけれど、齢上の一族のむこう、反対側で手をつないでいる妹がひょいとこちらを覗き込んでくるので落ち込むことも怒ることもどうにも上手くいかない。目と目が合い、お互い舌と舌を出し合ってさっと向こう側に顔をひっこめた。 一体何をしているのかとふしぎそうに首をかたむける六道の肩口、さらさらとこぼれる髪先が気になって仕方ないところをむりに目をそむけ、常葉は見なかったふりをする。同時に目に入った、まっさらな単に染みた血の跡も、気づかなかったふりをする。 ――――こいつにはきっと絶対に教えてなんかやらないのだけれど、もう、自分たちはきょうのようには泣くまいと思う。 もうこんなふうに、口いっぱいに声をはりあげて泣くことはすまい。何故とは問うまい、ほかの誰のためでもない。ただもうこんなふうに泣くまいという、強い予感がした。決意とは違う、何かが始まって何かが終わるときの寂寞感がつきまとう。 声を噛み殺し瞼を両の手できつく抑え、ひとり飲み込む泪のにがさは未だ知らず、それでも、じきに知るだろう。確信と予感は影のように兆すけれど、影はまだ西日にむかって歩く今、ひっそりと足元に伸びてゆくだけだ。汗ばんだ掌にひんやりと心地よい指、はだしに暖みを伝える土を踏む、きょうこの日の夕暮れには。 流れゆく雲の湛える黄金の残照、風にただよう秋の気配、手を引かれ家路を辿りながら、常葉は一度だけうしろを振り返る。 きっと、もう、きょうのようには泣くまい。 |