
「霞隠」
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すとん、と何かが落ちた音がした。 何が落ちたのかも、何で落ちたのかも、振り向かぬうちからもう知っていたような気がする―― 部屋の片隅、文机と壁の隙間にそれを見つけ、何もかもが腑に落ちた。見覚えのある文箱、黒漆に砂子を流し、描かれた蒔絵の模様は幽谷に遠く瀬かかる滝と霞。手ずれして塗りの剥げたところを指でなぞると、むかしに聞いた調子そのままの声が胸のうちに繰り返され、とまどいとともに苦笑が洩れた。 ――それでは、頼まれてくれますか。乃々花。 大丈夫だよ、当主。あたしだって、もうじき。 ◇◇◇ 十一月の雲霧には、春のそれとはちがう秋霜の気配がある。 このあたり、と立ち止まった景色の掠れた四つ辻に、小走りに駆けてきた人影は奇体な人獣主従ではなく、すべらかな黒髪の幼女と、それよりやや年嵩の頬に痣もつ少年。しどろもどろに口上を述べる少年とそれを権高に叱咤する幼女の遣り取りに案内され、やがて辿り着く古びた武家の門構え。 門前で手持ち無沙汰に箒の柄に顎をのせていた知己は彼女を目にした瞬間に草色の眸をこぼれんばかりにまるくしてはしゃいだ声を出した――子どものように小さく飛び上がり、背くらべをするまでもなく開いた身長差を埋めようとさえした。白くこぼれる下げ髪と、さくら色に上気した頬。歩をならべ交わす言葉もきりもなく、そちこちへ脈絡もなく飛んだ。それでも、見えぬ顔ぶれと家の中にとひっそりと積もる塵のような静けさについてはどちらも、けっして触れようとはしなかった。 ひえびえと広い渡殿からながめる庭景色も、低くたれこめた曇天とともに朧だ。 その先で待つ相手は細った肩に真綿を入れた夜着を掛け、暖を取るためとも思えぬ銀の角炉を手元に、何かひかる物を玩んでいるようだった。人の気配に、さりげなく袂にかくした指が握るそれは、銀の鍼のように見えた。 「――よう見えられた。橘の和子(わこ)。いや、八代目と呼んだほうがよかろうか」 どちらが良い? 尋ねられ、ふいに、胸の中でくしゃりと何かが握りつぶされたような気がした。たぶん薄紙でつくられた、七色の紙風船。小さいころ息を吹き込んで、両手の指のさきで天井ちかくまでいくつも投げ上げて遊んだ。 「……どちらでも、お好きなようにお呼び下さいまし」 喉元にせりあがったのは、涙ではない。懐かしさではない。 あえて言うなら、もう小さな子ではないからだ――だから乃々花は内心が如何にあれ、作法に則りしっとりと落ち着きある礼をすることが出来るし、流れる所作で文箱を差し出すことも出来る。 「では、乃々花どの。もそっと近う寄って、手など焙ると良い。外は冷えたろう?」 ――入りなさい、乃々花。ああ、こんなに手が冷えてしまって。 おだやかな声音に重なる、雪人形の面影。天井から落ちてくる、いくつもの紙風船。あれからずいぶん、時も過ぎた。 ◇◇◇ 「今は開かない。もう、じきに開く。」 彼女に差し出された文箱をかれはそのままには受け取らず、ことりと床に置く。 謎めいたことばに目をしばたたいたところへ、案内してくれた少年が盆に器をのせて二人ぶんの飲みものを運んできてくれた。但し彼女のぶんはほっこりと気持ちの和む湯気をたてる薄茶であったけれど、あるじの分は面妖な色と匂いの傍目にも怪しげなしろものだった。思わず盛大に顔をしかめる乃々花に、かれは珍しく声を立ててわらった。 「薬はおきらいか。ま、飲まずにすむならそれに越したことはないがね。どれ、おひとつ――」 「いいいいらないよ! じゃ、なかった、遠慮いたします!」 ははあ、と笑いと揶揄を半々に混ぜたような吐息で、茶に添えられた菓子のほうを指す。 「いらないかね。おわびにも一つ差し上げようと思ったのだが。天神堂の栗菓子」 和三盆の衣にくるまれた甘すぎず上品な味わいと、栗そのものの歯ごたえが見事に調和した一品である。好物だと思うてわざわざ千影を遣いにやらせたのだけれど、そうか私の覚え違いか。 えっ、あっ、と答えに詰まるうち、も一つどころか三つばかりをきちんと懐紙にくるんで手渡された。おなじ包み二つは少年の手にも渡り、「遣いと出迎えの駄賃だ。三世とふたりで、分けて食べなさい」 千影と呼ばれた少年が頬と痣との両方を色よく染めて退出するのを二人、ほほえましく見送った。 「……私が迎えに出られれば良かったのだがな。年のせいで、それも難しい」 「お体の具合が?」 体ではない、としずかに首を振る。 「行くのはたやすい。若いころより、ずっと。生来あちらの水の方が肌に合うせいか、近頃は下手にあの霧のなかへゆくと、戻る道がわからなくなる」 だから用心することにしている、と。 細った肩に、おだやかな目。瞼をふせると金いろの三日月に似る眸は、若いころよりずっと遠くに焦点を結ぶようだった。ほほえんで、ただ面映いほどに一心に、こちらの顔をながめてくる。 「あの。……あたしの顔、何かついてますか」 茶碗から目線を上げて尋ねると、うすい口唇につとめて刻まれる、大樹の年輪のような柔和な笑みが。 「なに。――あのいとけない和子がようお育ちなさったと、ついな。……私がこのように言うのも難だが、凛々しゅうなられた。とても」 さぞ、沢山戦をしたのだろうと思うと、ついな。 「そんなんじゃ。……あたしは、ただ、」 ただ、はやく一人前になって。はやく、当主の役に立てるようになって。 漫然と時を追うこともならず、息せき切って、何かに追われるように。 ふいにまたせりあげてくる、喉元と瞼の熱。これではまるで、ほんとうに子どもみたいだ。ついと伸びて黙って髪を撫でる白い手に誰かを思い出すのも、子どもみたいだ。ほたほたと膝に落ちる雫をぬぐおうとはせず、ただ繰り返し繰り返しあかい髪に指をすべらせる手の持ち主も、或いは誰かを思い出しているのかも知れない。それでよかった。かまわなかった。すべてはただ有るように在り、ありのままでいられるというのは時の流れの中で、とても得難いことだから。 「蓋。……開くようだ」 静かな声で指し示す先には、ちょうど真ん中に置かれた、漆塗りの文箱。手も触れていない匣の合わせ目が外れ、ことんと音を立てて蓋が落ち、中に入っていたのは書簡などでなく、ただ一枝の花だった。 染みひとつない雪白の花弁。ほんのりと覗く蘂の清楚な、葉もみずみずしい白椿。 白い指がそれを取り上げ、丹精込めたしぐさで赤髪の一筋を掬い上げ、彼女の耳元にそっと挿し入れる。 「あたし、その、似合わないんじゃないかな。こんなの……」 白い挿頭(かざし)に指をのばしかけ、触れるのも気おくれするそぶりでそんなことを尋ねる。 「まさか。似合わぬ筈がない。和子が、一生かけて咲かせたものだもの。」 口をおさえるひまもなく、あ、と声が洩れた。子どものように素直な吐息だった。「そうかあ……」 「道は、もうおわかりかと思うが。……迷うようなら、それで足許を照らしていくと良い」 白い花と、白い面影と。 いまにも雪の降りそうな、霜月の曇天。瞼に描くと、あたりにかかった霞がうすれるような心地がした。 「じゃあ、あたし、もう行くよ」 霧がうすれるにつれ、かげろうのように薄まる笑顔。髪のいろとともに、あざやかな冬の紅椿のような。 残ったのは、封を解かれた文箱。 茶碗の薄茶は半分ほど残って湯気を立てており、最前まで客人のすわっていた円座にはまだ温みが残っていた。 「――……お気を付けて。和子。」 六道は手を伸ばし、かちりと音を立てて、文箱の蓋を閉める。別れのことばはその蓋のなかへ吸い込まれて消え、消えた先はおそらく、つややかな髪に白椿を挿頭した童女が誰かのもとへいっさんに駆けてゆく、冬のさなかの雪路だ。 |