「夏来」
 ―なつきたる―

 家を囲んだあの塀は、どうしてああも高いのだろう。

 母屋も、近年建て増されたという離れもいたって質素なたたずまいなのに塀だけはふつりあいなほど堅固で、大人の背を隠してあまるほどの高さをしている。
 家は、さして大きくもない。風雅を愉しむ庭の造作もごくあっさりとして、前栽は質素な築山、鯉の二匹で満杯になるささやかな池。野放図に育った庭木も野趣を気取った訳でなく、只ろくに手を入れる暇もないというだけだ。
 代わりに、裏庭は大きく取られている。こちらはよく踏み固められた剥き出しの土、そこここに立てた藁束も的をしつらえた弓場も、足を踏み入れぬ日はないといった態。松の枝にさえ縄で繋いだ木の板が幾つも掛けられているのは即席の木人に見立ててのことであろうか。小さいながら厩もあり、毛艶の良い黒馬がゆったりと飼葉を食んでいた。更にその隅、犬小屋もある。そのあるじの犬は二頭、黒白の毛並みをくんずほぐれつの斑にしつつ戯れ合っている。成犬にはまだ程遠いが、そろそろ骨も太くなってきたあたりの仔犬ども。
 そのおなじ裏庭に、蔵もある。蔵というより、物置と言った方がより正しい。日に焼けた瓦もそろそろ塗りが剥げ始めた白壁もじつに鄙びた風情、扉を開ければ使い古した戦物具がこれでもかと出てくる。実はこの蔵、奥には隠し戸もある。積んだ書物の影に隠した落し戸に掛けられた錠を開け、その奥、土にそのまま穿たれた空間は特別に、『御禁蔵(おとめぐら)』と呼ばれているのだがその存在は代々、当主職にしか伝えられない。秘事の中の秘事にあたる。
一方、外に目を転ずれば、暗き土蔵に対して、外は明るい。
 真昼である。
 土は白く乾き、雲は威勢良い入道雲。山むこうからむくむくと立ちあがり、目にも眩しい緑の山々に良く映える。外界はかぎりなく広く美しい。
 少なくとも、そのときの双子にとっては、そうだった。

 1024年、八月。この月のはじめ、冬見家初の双子が来訪。男子は常葉、女子は葉常と名付けられ、当家にてそのまま養育。この月の討伐隊の面子は薙刀士・睦月、槍使い・三日星。双子の母に当たる睦月が隊長を務めたこの月、実子の来訪と出発が入れ違い、母子の対面は帰還を待ってのこととなったと六代当主・七生は家史に記している。養育に当たったのは当主である槍使い・七生、弓使い・六道。このとき未だ元服以前の六道が家中に留め置かれていたことについては先月の負傷により療養の為と注釈がある。そんな時節の或る出来事の、これは前哨。

◇◇◇

 腕を、いっぱいに伸ばす。黄色い土壁に腕の内側のやわらかいところが擦れて痛くなるだけだ。瓦をかぶせた上の方まで手が届けば良いのだが,常葉の背丈ではどうしてもそこまで届かないのだ。
 勢いをつけて跳びあがれば良いかと試してみたところ、加減を謝り鼻っ柱をひどくぶった。おまけにひっくり返ったときに壁の下のほうで左の足、その小指を打ちつけてしまい、暫くは痛くて痛くて身動きも出来なかったほどだ。もう二度とやるまいと心に誓い、それでも諦め切れない。今度は慎重に、慎重に。右足だけで爪先立ち――左足はまだ小指が痛くて、爪先だちなどとても出来たものではない――、左の腕は身体の横にのばして体重を支え、残る右腕をぎりぎりまでさしのばし、じりじりと上へ上へと目指してゆく。中指の先端が瓦の裏に当たったときは心が踊ったが、しかしそこから先が良くなかった。右足一本ではそろそろ身体を支え切れず、ぷるぷる震える左足で何とか足場を探ろうとして、さっきとおんなじところをぶっつけ、おまけに中指が中途半端にひっかかっていたものだから落ちる時にその爪をはぎそうになって七転八倒。
 腕も痛いし爪も痛い、小指はもちろんじんじん痺れ、せんにぶつけた鼻までなんだか低くなったようなならないような、とにかく息もしがたく、ごろごろと転げまわらずにおれぬ。やがて転げ疲れ、倒れたまんまで、空を見た。
 底が抜けたみたいに青い、夏の空。無闇にあかるいお天道様が無性に憎たらしく思える、疲れて眠たいひるまごろ。塀のひとつも登れやしない。
 かたわらには、表の前栽からひきずってきた庭石。踏み石がわりにしたもので、これを人目につきにくい此処まで転がしてくるのもかなりの手間だったのだ。他に踏み台になりそうなものはなく、探せばあるかも知れないが部屋の脇息など持ち出せば、まず間違いなく、まっさきに見つかりたくない相手にばれる。敵はおそろしく目敏いのだとは、この一月足らずのうちにこの幼子がもはや何度でも思い知ったことである。
 ばれても、恐らくは、何も言わないのだけれど。そう思うとより一層、腹立たしい思いが募った。たぶん、いつものようにひっそりと首をかしげて、常葉のほうを見るのだ。目が合うと逸らす。だけど、あいつはこっちを見ている。必ず、ぜったいに、まず間違いなく、こっちを見ている。
 ふてくされ、転がったまんまでいたら、双子の妹がとことこやってきて常葉の名前を呼んだ。上から覗きこんでくる、赤い髪した童女の顔が、ふたごの兄の童子の顔に影をつくった。
「……何してんの?」
 顎のさきだけで、先ほどまで孤軍奮闘していた現場を示した。壁によせかけた石くれには、元あったところから此処までひきずってきた跡が続いている。押したり引いたり、じつに涙ぐましい努力の跡だった。
「おそと行くの?」
「とめたって、むだだぞ」
 先に牽制を入れるのは、この齢にしてすでにこの妹のほうがよく口が回ることを承知しているからである。
「とめないよ。いっしょに行く、」
 半身を起こした常葉に、葉常は頬をすりよせる猫みたいな仕草をした。もう片手で、背中にかくしていた風呂敷づつみを見せつけ、じゃあん、と銅鑼の音を口真似する。
「家出するんだから、おべんといるよね?」
 口も回るが気も回る。包みの中身は団子であった。おそらく、勝手の何処かに隠してあった筈のきょうのお八つ。我が妹ながら、つくづく感心してしまう。
 ほどなく、兄が妹を肩車し、妹が塀のうえから兄に手をのばし、双子は首尾良く冬見の家の囲いを乗り越えた。その見事さに敬意を表し、この際、降りるときに常葉が手をすべらせて尻をひどくぶったことなどには目をつむっておいてやるべきだろう――――そうしても、その事実には何ら変わりがあるわけではないのだが。

◇◇◇

 1024年、八月葉月末。この日家中で持ちあがったちょっとした騒動と、そののちの経緯については、家史には記されていない。とまれ、これが冬見家初の双子とその齢うえの指南役にまつわる諸々の事々の、その始まりであったことだけはまた、たしかなことである。