「玉兎眠」
―ぎょくとねむる―


 ――ね、あなたのお嫁さんにいいと思うの。
 ――でも、約束してくれる?
 ――この子すごく怖がってたの。とってもかわいそうなのよ。
 ――だから、優しくしてあげて?

 うん。約束する、姉や。
 おれ、その子にやさしくするよ。
 ちゃんと出来るかどうかわからないけど、でもせいいっぱいやさしくする。

◇◇◇

 花は、一重。

 四弁の花片をもち、ひっそりと黄色の蘂がこぼれるそのさまは夕に開いて朝にしおたれる、儚い花の風情だ。
 だが折り取るとまずその花弁がもろくも崩れ、浅いいろの茎と葉が硬質の音をたてて割れ砕ける。透き通る玻璃と石英の粒は、掌の中でほとんど無色だった。
「ああ」と、七生はしんから残念そうな声を出す――
 此処に来てから、一度もうまく摘めたためしがない。ため息とともに頭を垂れ、それから今まで曲げていた背を伸ばしてのびをする。うん、と呻くと、ひょろ長い手足の骨がぽきぽき音を立て、空を仰ぐかたちになった。
 現ならぬ、天つ界の空だ。
 ――此処は夜の食す国、鬼のくびきより解かれたる月天子の領す処。
そう聞かされて見るせいか、この空は地上から見るよりもずっと高く深い気がする。雑音もなく埃もなく、星々はその輝きをより瞭かにし、そしていのちの気配もない。
 見上げるとかたちは日月に似つつ、それでいてしたたり落ちる涙めいた色の天体――
 くわしくは聞いてないけれど、彼処が、恐らくは地上。
 ならばこちらは彼岸か、そうでなければそこへゆく途中なのだろう。七生は勝手にそう思って、ひとり決めしている。
 蒼い蒼い、びい玉みたいだ。おれが今まで見てきたなかでも、いっとうきれい。
 摘めなかった花の代わりにあれを持って行けたらいいのに。そう思って、伸ばした指先には虚空の感触ばかりが触れた。まるで地上から月にそうしていたときとそっくり同じで、それがなんだか可笑しく、七生はくすくすと笑う。

◇◇◇

 一名を月宮殿と云い又一名を広寒宮とも云うこの場所はきららかで、ひろびろとして、そして世界のいや果てのように静かだ。
 何処かしら曼荼羅めいて不可思議な印象の庭園。その片隅にひっそりと結ばれた庵は、ここばかりが幽邃な竹林の趣だった。
 うさぎはそこに眠っている。
 子どものように板敷の簀子のうえで体をまるめ、ふくふくと鼻を動かしている。
 ――だから、やっぱりうさぎなんだ。
 そう思って七生はにっこりし、その鼻先にふっと息を吹きかけた。
「んむ」
 呻き声とともに長い睫毛が動き、ぽっかり紅い眸がのぞく――
「だれ?」
 言葉とともにさしのばされる白い腕――
「七生だよ。うさぎさん」
 この名前を教えるのは、何度目だろう。
 音を舌のうえで転がすようにして、彼女はその名を口にする。
 そしてもう一度、「だあれ?」と言う。七生は笑って、こう答える。
「きみの、おむこさん。」
 そうかあ、と如何にもほっとした風に、くたんと全身の重みをあずけてくる――
 白い柔毛でかがられた紗の衣。幼さばかりがあらわな薄い肩。
 すり、と胸元に擦りつけられる頬はやわらかく、耳は白くむろん長い。
 髪には冬の枯れ野から萌えそめる若草のにおいがして、彼女の出自を知らしめる――そも、菟神(うさぎがみ)とは予言と導きの神だ。季の廻りを知る長い耳と、先触れて野を駆けるための強い足。もっとも、七生がそれを見たことは一度たりとてないのだが。
 そのむかし、他愛ない嘘から落命し無残な屍をさらした、いとけないむすめ――哀れと思し召した月神が地上から召し上げて、以来、むすめはうさぎである。月の神さま自身から聞いたのだから、確かな話だ。槍の一撃で大江山の鬼の躯から二十柱の神々を解き放った七生はここの主である月神と、まあ顔見知り、くらいの縁があるのだった。
 ――いずれにせよ、今はもう手の届かないむかしだ。
 代わりに七生は指を伸ばし、ふくふく動く鼻先を擽る。ちんまりと低くてかわいらしい。
「ひゃ」
 おかしな声があがって、ついできゃっきゃと笑い出す。その口には人であったころの畸形の名残がある。胎のうちで成り切らなかったままの、縦に裂けたみつくち――人は世にこれを兎唇(としん)とも呼ぶのだった。そっと撫ぜると、すこしだけ怯えたような目の色。

 かつてむすめだったうさぎは昨日のことを覚えておらず明日のことで思い悩むこともなかったが、それでも夜の底で悪夢に噛みつかれてとびおきることがある。その汗のにおい、その肩のふるえ。夢が相手では突き殺すこともできないので、七生はその都度腕をのばしてぎゅうと抱きすくめることにしている。幼い子にしてやるように拍子をつけて背中をたたきながら、子守歌をうたうことにしている。
 ――こわいかい?
 ――わにがくるよ。こわいこわい、わにがくるよう。
 ――まだこわい?
 言葉にうなずく、泣きぬれて紅い眸。
 ――そうかい、それはこまったねえ。
 困った、困った。
 きみも困っているけれど、おれもすごく困った。
 こんなに困っているのにどうしようもないというところが、またすごく困った。

◇◇◇

「さあ、きょうは何して遊ぶ?」
 おはじきにしようか、あやとりにしようか。すごろくは決めごとがややこしくて彼女が覚えられないけれど、他にもできる遊びはたくさんある。水車をつくって庭園のせせらぎで回すのもいいし、竹とんぼというのもわるくない。
「うんとね、えっとね」ひとしきり、すごく真剣に迷う表情をし、それからふわふわの綿毛がひらくような笑顔――
「なんでもいい!」
 なんでもいいよ、だって、あなたあたしといっしょに遊んでくれるんだから。
 ねえ、ねえ、きのうもきょうも、あしたもあさっても、いっしょに遊ぼうよ。
「そうだね。それは、とってもすてきだね」
 七生は、にっこり笑ってそう答える。
 明日のきみは、きょうのおれを覚えてはいないだろうけれど。

 夏ごとに生まれる蝶の群れのように、彼女は日毎に数かぎりなく生まれる。
 命なき野辺を駆けてゆく白い足、微光を放つ砂に刻む踊るような足痕、触れるだけで砕ける花々。
 明日も明日も、かれは花を摘むだろう。この月を去る日が来てあの蒼い地上に還る日までともに遊びともに眠り、他愛ない約束をしつづけるだろう。
 ――ああ、でもやっぱり、おれはさびしいよ。うさぎさん。
 声には出さずにひとりごちて、彼女の髪をくしゃくしゃに撫でる。笑うと少し反った前歯がのぞき、だからかれにとって、彼女はうさぎである。
 困った、困った。
 どうしてこんなにさびしいのか、もう知っている。
「さあ、いこうか」
 空には蒼いびい玉のような地上が見え、そこにあるだろう人々の営み、一切からひっそりと隔絶されて月のうえで凍えた指を繋ぎ、それで尚、ふたりは何処までもひとりだ。
「うん」と彼女――風神・稲葉ノ美々卯は心から、うれしそうにうなずく。
 ――あたしと、ずっといっしょに遊ぼうね。

 ちゃんとやさしく出来ているだろうか。

 七生はしんから困り果て、それでも、かれのうさぎにほほえみを返す。