*冬見家家訓

其ノ壱 命ハ宝ト思フベシ
其ノ弐 朋ハ宝ト思フベシ
其ノ参 己ノ望ムトコロ、偽ルコトナカレ

以上三条。冬見家初代月爾記ス。
吾ガ子等ニテ吾ラノ禁忌ト為スベキト思フ条ヲ見イ出セシ者、此レニ連ネ書キ置ク由。
(――1019年二月如月、初代冬見月爾死亡後、家史の端に走り書きされていたのを発見。二代当主朔矢の書写を経て、家訓として揚げられる。三代霧夜、六代七生、十三代龍那、以上の歴代当主がこの三条に書き継ぎを行っている。)
 

当一族・冬見家に関する諸々かつ様々な設定群。
拙宅における「俺屍」はこんな感じという説明で御座います。
御笑覧下さい。

・冬見家前後史

冬見家始祖・源太〜東国出身の坂東武者と伝えられる。「冬見」の語源は「訃由見」――訃の由(よし)を見るもの、即ち死を告ぐるその理をこそ見極めるとの意である。その昔から多く見鬼――此の世ならざるものを見る異能の者を輩出する一党であり、地元では畏敬とともに畏怖の対象でもあったと云う。大江山の鬼禍に際し、いずくかより尋ね来た素性も知れぬ娘を伴い京へとおもむく。そのうちに情を通じて夫婦となり晴れて一子を授かるが、1017年討死。享年35才。

・ 冬見家立地

馬一頭と妻女一人をのみ連れて京へ辿り着いた始祖が居を構えた土地。五条より下。当初はあばら家よりややましといった程度のたたずまいであった。第一次増築は五代当主、第二次増築は十九代当主の時世。
当世流行の寝殿造りからは程遠い、どちらかと言えば武家の郎党の家屋敷の体裁を取ったのは始祖の出生ゆえか一族の生計に関わるからか。
裏庭は鍛錬所とされており、前栽などよりよっぽど手入れも行き届いて立派である。母屋裏手から見て東には厩(と犬小屋)。西には土蔵。(冬見家の蔵には当主職以外は閲覧禁止の「御禁蔵(おとめぐら)」と呼ばれる隠し場所が存在し、奥義の秘伝等が保管されている)
裏庭と厨のすぐ近くに掘抜井戸があり、夏は冷たく冬はほんのり暖かい、不思議と良質の井水が湧く。この井戸の由来は不明。
第一次増築では母屋を建て替え離れを設け、渡殿で繋いだ。
第二次増築では蔵を建て直し家財を入れ替え部屋数を増やした。庭なども多少立派になったらしい。
尚、初代当時から冬見家敷地内には「産霊屋(むすひのや)」と呼ばれる社がある。交神の儀に関係するので、普段は禁足地とされている。「交神」の項を参照。

・ 「鬼冬見」由来〜冬見家一族に関する風聞

後世「鬼冬見」との二つ名で知られる冬見家である。
一族が朱点童子打倒に邁進していた当時、都の人々の間で呼ばれた通り名は「鬼殺」。
イツ花などと直接面識の有る市井の人々には半ば英雄視・伝説視されていた面もあるが、そうでなければややもすると鬼子と呼ばれ畏怖と嫌悪を受けるという、どちらにせよ両極端な扱い。
内裏との関わりは、あくまで非公式。そもそも始祖の源太からして仕官の口を求めに来た訳でなし、大江山の朱点による鬼禍のどさくさに紛れて勃興した一族。真っ当に相手をすれば内裏の威信に関わる模様。しかし鬼相手と云えば何かと使い勝手の良いこの一族、事ある毎に引っ張り出されるので代々、公権力に対する印象は一貫して悪い。(六道辺りがしばしば人間相手に憤っているのも此の辺りの事情) 代わりと言っては難だが、神祇官・陰陽寮や寺社勢力、はたまたよその討伐隊面子等との間には横の繋がりを有し、相互協力が成り立つ関係であり、一族の個人個人が私的に親交を深めた例もあった。