「冬木守」
―ふゆこもり―


 天つ界の森は現し世と境を接しながら生ける者は誰ひとり一足たりとて踏み入ることはできぬ禁野と、風説は云う。
 一説には神世のひらく更にむかしから在るとも言いつたえられる神域の森は、ひたすらに遠く深い。
 かの地の主たる千古の年経りた木霊が姿を消してから、もうずいぶんと経つ――爾来此処の見回りは、留守居を任せられたかれにとって、一日たりとゆるがせにできぬつとめである。片目を名にし負う十六夜月のようにほんの少し細め、黒く濡れた鼻で風の匂いを嗅いだ。霧のしめりけに、針の葉の樹々の香がする。
 神々に応じてかたちを定める天界は、すなわち神々なくしては葦芽(あしかび)ほどにもかたちを定め得ぬ場所でもある。殊に鬼王との大いくさを経てすぐは綻びもひどく、肉趾から血が滲むまで駆けずり回った。このごろはようよう安定もみられるが、未だ気を緩めることはできぬ。
 何処の梢にどんな鳥が止まるか、どの木の洞にどんなけものが巣をつくるか、かれはみな知っている――落ちかけた鳥の巣をそっと鼻先で押しあげ、冬篭りのさなかの小獣の眠りをおびやかさぬよう忍び足で木の根方を通り過ぎる。
 ふと辺りの静けさに耳をはためかせ、頭上を仰いだ。

 ……やあ、雪だ!

 天然の。六弁の花弁もつ水の結晶――
 この冷厳なる美をつかさどられる女神は、いまは地上のいずくを彷徨うておられるのか。
 それでも、人世に近い辺境の原生林には時折こうして、人世の季節もおとなう。
 暫し見惚れ、そうしてはたと我に返る――そういえばきょうは、待ち人ありと告げられた日ではなかったか。
 この姿を見て、怖れて泣き出さねばよいのだが。
 いずれにせよ、急がねば。
 この空模様、長く待たせてはきっと凍えてしまう。なにせどんな相手でも、自分のように自前の毛皮は持つまいからに。

◇◇◇

 左撚りの縄に白い紙垂を下げた一角は、森の結界の標である。
 あかくなった指を擦り合わせては、吐きかける息が白くただよう――娘は白い袴に白い袿、清流のように蒼味を帯びた髪に挿した白い山茶花の一枝だけがそのよそおいの中で唯一、飾りらしい飾りであった。
 ほ、と息を吐いて、こちらを振り返る――
 目が合った。
 小動物めいて円らな眸が大きく見開かれ、かれは何とはなしに罪悪感を覚える。せめてももう少し人間らしい、優しげな姿が己にあったらば、と。
 けれど娘はいかにもほっとしたらしく、その髪を飾るひらきたての山茶花のように微笑んだので――かれも随分、ほっとしたのだった。

◇◇◇

 ご案内を頼めましょうか。
 はい。ほんとは、ずいぶん困っていたのです。
 お迎えに来てくれるなんて思いませんでしたから、この森の中でどうやって旦那様を探したものかと――

 臈たけたほほえみに、何処かしら童女めいた言葉つき。
 雪が積もるくらいには地面はまだ冷たくなっていない。しんしんと降るほどに、雪路は黒く濡れた。
「まずは、凝っとしていてくれて良かった。この森は広いから、迷うと大層こわいことになるぞ」
「はい」
 見失わぬようついてきてほしい、と言うと、娘は素直にうなずき、ふふ、と笑う。かれがいぶかしげに振り仰ぐと、あわてたように手を引っ込めたところだった。
「……何かな」
 いえ、その、と娘は口ごもり、なぜだか両手を後ろにかくしてしまう――そのまま数歩行き、くるっと振り返る。目隠しして囃す、子供の遊戯のように。今度は娘の手はかれの手に触れるか触れないか、そんな微妙な位置にあった。
「……寒いのなら、もそっと寄って歩くが良い。この通りのむさいなりだが、暖くらいは取れようから」
「え、でも、そんなこと――」
 どもるように言葉をつんのめらせ、「――いいのでしょうか?」と、頬をそめた上目遣いで。かれは森神にふさわしく、鷹揚にうなずく。そうっと、おそるおそる乗せられる娘のてのひらは節の高めの指と、武器を握りつづけて固い肌をして、それでもすんなりと綺麗なかたちだった。そうしてやはり、山茶花の咲きこぼすような笑顔。
「こうしていれば、迷子にならずにすみますね」
 そうもあろう、と、かれはぱたりと尻尾を振った。

◇◇◇

 一月のうち月のめぐりの十六夜を数えるまでは人の姿ではない――その姿を伏せるがゆえに、かれの神名は十六夜伏丸という。
 神域の留守居をあずかる森神と、人にして鬼狩を宿世とする冬見の最初の娘。
 かれらの出会いは、まずはこのようである。