描写する100の御題 Type : 2

(01:鍵)

 それは一個の鍵だった。

 表面はうっすらと金色を帯びており、ところどころ緑青の錆を吹いている。手に触れるとひんやりと冷たく、持ち重りする。磨り減り角々に出てきたやさしい丸み。持ち手のところには単純な、唐草めいた模様が刻まれている。
 呉れたのは、四代当主と呼ばれたその人である。眠たげな厚い瞼に、笑みを刻むよう上がり気味の口角。ここだけの話、睦月にはその顔が眺めているとだんだん蛙に見えてくるのだが、べつだん莫迦にしているわけでもない。雨蛙は好きだ。つやつやと草葉色に光る背中と、ひんやり濡れた小さな水かき。そういえばかれの下げ髪の尻尾も、光の加減でおなじ翠緑を帯びる。菜種雨の時節、か細い銀線のような雨が静かに、しかし小止みなく降っていて、それもまたよく似合っていた。名前のせいかもしれない。当主になる前、かれの名前は雨彦といったのだった。

◇◇◇

 ――此処に入ってはなりません。
 常穏やかな気性にも似ずかれがそのとき語気を強めたのは、怒ったからではなく狼狽したからだった。柄にもなく。
 ――でも、どうしてですの?当主さま。お蔵の中にもう一つお蔵があるなんて。へんですわ。おかしいですわ。
 とっさに襟首をつまんで猫の仔のごとくぶら下げられた態の少女はそれで動じもせず堂々と思うところを述べきった辺り、こんな小さいうちから中々の大物ぶりである。
 ――へんで結構。子どもの入るところではありません。さあさあ。
 頭の後ろに手を置いて蔵の入り口へと追い立てられる。背中に回った雨彦は二度と睦月を振り向かせず、後ろ手に鍵を掛けた。がちゃりと重い音がして錠前が回った。鍵と同じ、唐草めいた模様を四囲に描き、鍵と同じひんやりと重たい光を放つ錠だった。その仔細を睦月がはっきりと覚えているのは、その位置が当時の彼女の目線と丁度ぴったりだったからだ。
 ――まったく、油断も隙もない。
 ぼやく口調で、独り言めいて雨彦が言う。それを聞いて、睦月がにっこりと笑った。碁の勝負やなんかでいい手を打った時と同じ口調だったからだ。但し、まだ一度も勝てたことはない。あぶないあぶないと言いながらするりとかわして逃げ切ってしまう、雨彦はそんな戦法を常道としているのだった。
 ――誉めていませんからね。
 苦笑を消して、釘を刺された。首をすくめて舌を出し、
 ――でも、閉じているから入りたくなるんですわ。当主さま、あのお蔵の中身をひっくり返して部屋にあげたらどうかしら。大事にしまっていなければ、きっとみんな気になんかしませんわ。
 ――一理ありますが、でも、それは私の方がいやです。
 聞き入れられなかった。ちょっといい思いつきだと思ったのだが。それに、部屋にあげてしまえば少なくとも、雨彦が蔵に入り浸って何時間も出てこないことはなくなるだろうに。
 ――あのお蔵、一体何が入っていますの?
 ――大人になったら教えてあげます。子どもは知らなくてよろしい。
 ――もうすぐに大人ですわ。来月初陣ですもの。
 えへん、と小さな胸を張ってみせる。雨彦は口元に手を当て、へんな咳払いをした。失笑したのだった。頭の後ろに置いたままでいた手で、そのままくしゃくしゃっと髪を撫でられる。柔らかく波打つ睦月の髪はその分絡まりやすく、これをやられると後でほどくのが大変なのだが、けっきょく止めさせられないままだった。
 ――そうですね。それに来月にはお姉さんですね。
 えへんえへんと更に胸を張ってみせる。当時、まだ三日星は来訪していなかった。交神から帰った母上に委細を聞き、弟だなんてひどい、と身も蓋もない言いがかりをつけたもののそれでも、やっぱり指折り数えて待っていた。
 ――ね、だから、大人になるまで待てますね。約束ですよ。
 ――あら、それなら、ちゃんと指きりしてくださらないとだめですわ。大人はすぐにうそをつきますもの。
 ――おやおや。私がいつうそをつきました?
 ――もう二度も。傀儡まわしを見に連れていってほしかったのに!
 ――あれは申し訳ないことをしました。貴族のかたにお呼ばれして歌を作らねばいけませんでしたので。でも沢山謝ったし、お土産もとくべつに持ってきたでしょう?
 ――ですから、指きりしてくださらないとだめですわ。そうでないと信じませんわ。
 ――はいはい。では、指を。大きくなったら、あなたに鍵をあげましょう。

 歌いながら、小指と小指を絡ませる。ほんの数秒で切って離した節の高い指には脇に筆胼胝があり、幽かに爪のあたりに墨の染みが付いていた。

◇◇◇

 蔵は結局開けなかった。

 でも、その鍵は、まだ持っている。

(1023年3月・京・睦月と雨彦)

(02:赤い花)

 何度でも、眼裏に黄泉返る。

 それは目を閉じた暗闇を熱風のように吹き抜ける。

 蔵の中にあるには一組の夜具と、盥と、鏡台である。
 そして生白い脛と、足の間から流れる血と、頼りない火皿の灯り。
 枕辺にひたと取りすがり、生れなかった死児のように声を挙げて哭いているのは、父である。
 女を殺したのは生れる筈もない胎児(はららご)である。著しい短命と、短命ととともに種絶を絡めて呪う血筋の種は体の撒かれた畑を鬼胎と変じて母なる女を絞め殺す。その呪いを身を以って知らしめたのが、雨彦の父なる男なのだった。
 顔は見えない。蔵の床と入り口の段差で、それは見える位置にはない。雨彦は凝っと、女の脚を血が伝う様を見ている。夜具の布地に滴り落ち、ゆるゆると描かれる赤黒く不定形な広がりを見ている。
 ぽたり。
 ぽたり。
 ぽたり。
 雨彦はゆっくりと、声には出さずに、口唇だけを動かしている。
 赤血、真血。燃えゆけ、絶えゆけ、枯れゆけ、生霊(いきすだま)。……

◇◇◇

「――……当主さま。当主さま――?……」
 幼らしい、高い声が蔵の壁越しに微かに伝わってくる。慌てて手元の鍵束をさぐり、足早に御禁蔵(おとめぐら)を出る。ひょこりと物陰から覗く小さな頭に舌打ちをひとつ。間一髪というところだ。
「此処へ入ってはなりません。私はちゃんと、そう言ったでしょう?」
 後ろ手に鍵を掛けながら吐息に乗せて、やり切れぬ怒気を少しずつ吐いていく。八つ当たりには違いないと、自分でもわかっている。
 蔵の中には、何もない。
 あるのは盥と、鏡台と、一組の夜具だけだ。一年前に起きた惨事を思わせるものは少しずつ整理され、残っているのはそれきりだ。
 そもそも、師走大晦日のその日を自分は討伐に出ていて、実際に目にしてさえもいないのだ。父もその後長くはなかった。三代から四代へ、当主職の引継ぎの忙しさに取り紛れ、暫くは蔵に足を踏み入れもしなかった、日々が過ぎ、必要に迫られ武具の処分をと思い立ったのがきっかけで入ったのには、何の他意もない。
 暑い日であった、と思う。喉の渇きと、それと裏腹に凍えついた背骨。足元に広げた夜具と、点々と残る赤黒い血痕。
 以来、見もしなかった筈の光景が、眼裏に灼きついて離れない。回数を重ねるごとに鮮明に、あたかも手に触れれば重みも温もりも伝わるような臨場感を持って、かれの脳裏にその光景は存在する。
 自分にことさらになついてくれる幼い少女と、他愛ない会話を交わしながら、かれは殆ど上の空のままでいる。そうして声には出さぬまま、そっと口唇を動かしている。それは呪詛の言葉である。

 燃えゆけ、絶えゆけ、枯れゆけ、生霊。
 血花に咲かすぞ、微塵と妙婆訶。……

 今では、顔も思い出せぬ人ならぬ女ではなく、この眼裏に棲む死んだ膚(はだ)の女こそが自分の実の母であるような、そんな気がしている。
 勿論、そんな筈はない。
 けれど、どうしても、そんな気がするのだ。

◇◇◇

 生涯、あの蔵の中に在るものを出すつもりはない。
 だから私とともに醜く腐り、崩れ、枯れてゆけばいいのだ。
 この眼裏に咲く赤い花。

(1023年3月・京・雨彦)

(03:死に近き)

 心臓に、鈍い痛みが跳ねた。

 苦痛は一瞬だけで、あとは透明な膜が視界から剥がれてゆくような、奇妙な目眩。
 振り向くとかげろうのように揺らぐ白い、人骨を積んだ城郭を遠景にして、立ち止まった肩越しに夕空が朱色に抜けた。
 まるで鮮やかな、赤い花のよう。
 いつかこれにそっくりなものを見た、と思い、次の一秒で頭を振ってそれを否定する。思い出したのは自分のではなく、妹の記憶だった。
(……と、言うのだよ。……)
(……曼珠沙華と、そう言うのだよ。……)
 口角に溜めた、うすい刃のひかりのような微笑。そっと臥せた瞼の貝裏めいた白さ。そして腕に抱く、赤いあかい……
 いつか。いつだったか。これにそっくりなものを見た。
 暑熱の残る緩やかな川風。白く粉を吹いたような柳の葉。今にも足を取られそうになる土手の勾配。けれど身体を支える手はやさしく背に回され、たしめるように頭を撫でていくから、これはやっぱり妹の、葉常の記憶だ。常葉相手にだったら転ぼうとするところに手は貸さず、貸さないままで腰をかがめ一言二言苦言を吐いて自分で立ち上がろうとさせるので、昔から口には出さないままでもこっそりずるいと思っていた。
 おなじきょうだいなのに。双子なのに。
 もっともっと幼い頃には二対の耳目でまるで同じものを見、同じものを聞いていて、共有される記憶に齟齬はなく違和感を感じたことさえなかった。それが当たり前のことだと信じていたのだ。ひとは誰でも、自分で見たものではない記憶を思い出せるものなのだと。いつから二人で二人とも違うものを見聞きし、それぞれ別の記憶と感じるようになったのははっきりとはわからない。ともかくあの初陣前後のころにはそれが原因でよくとっくみあってけんかしたものだ。
 ずるい、ずるい。
 おなじきょうだいなのに。双子なのに。

 振り返った目線を元に戻すと目の前にはあの日赤い花を抱いてた男の肩先、振り向かぬ横顔、戦装束の上から伺える血の染みた痕は六道自身のものと、あとは自分の妹のものだ。
 枯れた花束のように褪せた顔容にかぶさる髪ばかりが赤く、黒ずんで勢いなく流れ続ける血よりもかえって鮮やかに赤く、やはりそれはあの日川に投げ入れられていた花のように見える。自分の目では目にしなかった、彼女の記憶の中の花のように見える。
 そして膝から下に一瞬、重力を失ったかのような浮遊感が吹きぬけていった。それで判った。今、遠く離れた。
 この瞬間に見た光景を、常葉は生涯、忘れまい――空は光を失いつつある紫暗、目眩めく黄金を宿す雲、地平の際に雫のように溜まる最後の陽光。遠く、夕陽が見えた。こんなにも鮮やかな日没を、俺は知らない。たった今知った。もう二度と今までのように知ることは出来ない。
 場違いな感動めいたものを覚える裏腹、心はひどく重く、うしろめたかった。足元の影のようにひきずって歩くのは遠いあの日に憶えた嫉妬。ずるい、ずるい、お前ばっかり。
 そうして、俺も、きっとお前にしてみたらずるいんだろう?――いつものように声には出さずに聞いてみようとして、今更のように実感する。鉄槌で頭を殴られたように思い知る。

 もう、死んでいる。

(1025年6月・白骨城・常葉)

(04:痛み)

  忘れてはいけない。
  許してはいけない。
  許されてはいけない。
  口にしてはならない。
  耳を貸すことはできない。
  立ち止まってはいけない。
  安らいではいけない。
  望んではならない。
  折れることはできない。
  まだ何ひとつ諦めてはいない。

 俺は只の一個の苦痛の塊で、それで構わない。
 お前達が此世に遺した真っ赤な傷口で、それで構わない。
(例えば呼び声や指先で触れたぬくもりやお前達の笑顔など)
(不満らしく膨らした頬や曲げた肘の上をつつく指や囁く息にくすぐったげに身をよじる仕草など)
 それらを失わずに記憶に留めておけるのなら俺は何の迷いもなくそうしたいので、俺はまったく何ひとつ諦めてはいないのだ。

(1025年11月・京・六道)

(05:遠く離れた)

 体に回された腕ばかりが、泣きたくなるほどあたたかい。目の他にも鼻や耳や口から血や何か他の液体が流れるままになっていて、だから泣けるわけもないのだけれど。きっとおばけみたいなひどい顔になっていると思う。でも、自分では見えないからまあいいや、と思うことにする。これも今さらだ。今さらもう、しょうがないことだ。
 体が動かない目がよく見えない耳もうまく聞こえない。それでも自分を抱き上げてくれた両腕があたたかく、鉛のように冷えた手足にはまるで同じ血肉とは思えないほどあたたかく、それで、ああもう別なんだ、と判った。もう全然違うんだ。
 こんな時なのだけれど、六道にはとてもすまないとは思うのだけれど、でも葉常は、少しだけ嬉しい。きっと一生、こんな風にはして貰えないとずっと思っていた。もう絶対に無理だと思っていた。
 顔が、こんなに近いのに、でもよく見えない。泣いているのだろうか、怒っているのだろうか、せめてもっとよく見たい。これが最後なのだから、しっかりと灼きつけておきたい。身じろぎし、その拍子にごぶりと胸の底から何かが溢れて口元を汚した。体の中で何かが破けている。
 痛みは、あまり無い。
 苦しくはあるのだけれど、それも段々感じなくなってきた。だから葉常は、他の人にはどう見えようともそれなりに安らかな心地でいる。おまけに少し嬉しがってさえいる。きっと双子の兄には筒抜けだが、まあ、武士の情で六道には内緒にしてくれると思う。それに関して、少しばかり悪いなとは感じる。
 だって、きっと、これはぬけがけだ。こんなのはずるだ。
 他にもっとうまい言い方があるのかもしれないけれど、今、とっさには思い出せないのでそういうことにしておこう。たぶんあんまり間違ってもいない。
 こんな風に抱っこしてもらうのは子どもの時以来で、だからますますそんな気がする。昔から手はよく繋いでもらったけれど、その分甘やかして抱き上げてくれることは、あまりなかった。座っている膝に飛び込んだりすると、いつでもちょっと困ったような、とまどった顔をした。多分、自分であんまり甘えたりすることを思いつかない気性のせいだと思う。六道は厳しくて厳しくて、でもその分ふっと気が緩んだときなんかぬすみ見ると、凄くやさしい顔をしている。きっとあれは、自分では気付いていないのだろうけれど。
 耳元にたえまなく、波のように聞こえては遠ざかるのは癒しの方術の咒言。今まで気付かなかったけれど、少しあれはうちの子守唄に似ている。ひどくしゃがれた低い声になっているのは一昼夜絶え間なしに繰り返し唱え続けているからで、その御蔭で痛みもあんまりなくてこういうことを考えていられるのだけれど、でも、やっぱり血は止まらない。緩やかに流れ続けていて少しずつ浮き上がるような、透きとおるような感じがする。
 そして最後に感じたのは、まぎれもない罪悪感。

 ああ、自分はいま、とてもひどいことをしている。

 乾ききったくちびるを動かすと、ざらついた血の味がした。声はきこえただろうか、自分でもあまり自信が無い。でももうしょうがない。もう、身体を離れる。これから、無限の速度で遠ざかる。

 今、遠く離れた。

(1025年6月・白骨城・葉常)

(06:漆黒)

 その日、千影はおよそものごころついて初めて出る〈外〉というものを、ぽかんと口を開いて眺めたものだった。
 普段六道は戦物具の仕度といったら懇意の商いをしている処から呼びつけるか、急ぎのときは家人を使いに走らせる。だからそうやって自ら足を運び何がしかの品物を選ぶといったらその頃にはもう滅多にないことで、その分強く記憶に残っている。秋の或る一日、前日に降った雨に空気はしっとりと冷たく湿り、吐いた息は白く靄のように口の周りにただよう。空は雨模様でこそないものの重く垂れ込めた曇天、うっすらと雲の向こうから微妙な陰影を縁取るひかりばかりが金色に透けていた。雑踏のにぎわいをよそに、見上げる天ばかりが奇妙に静かで美しい。
「――此処から此処まで、一通り見せてもらえるか。それと、在るのなら兼俊の新打ちを」
 ざっと並べられた刀の柄を手で示し、六道が言うのに店先に座った翁――禿頭でヒャッヒャとおかしな声で笑うたび、歯の抜けた歯茎があらわになる――はぺちりと己の額を叩いた。「こいつぁ目の利いたお客が来たもんだ。どちらに聞きなすった?」
「父に。先々代の剣士に良い品をあつらえてくれたと。この子の初陣にあわせて、何か選んでやりたくてな」
 いまのいままで僧衣の腰のうしろにぴったりとしがみついていた千影はそこでびくっとし、顔をかくそうとしたもののもうこれ以上、どうやっても隠れようはないのだった。
「私は矢の節にする割竹を見たい。千影、まずは自分の眼で見て、持ってみるといい」
 そう言って背を叩かれたものの、中々しがみついた両手を離すことができない。やれやれ、とひとつ息を吐くついでに頭を撫でられ、それでようやく顔を挙げる決心がついた。瞬間、目にしたものが指で顔じゅうの皺をおかしな風に引っ張った老人の顔であったものだから、思わず女の子みたいな悲鳴を挙げてしりもちをついてしまったものだ。

「さ、さ、坊ん。選んでみなせえ、どれも獲れたての魚よりもぴっちぴちだよ」
 皺ばんだ手に手を引かれながら連れていかれたのはまだ鋼に火の粉の匂うような新刀が並べられたところで、確かにどれもきらきらと銀いろに光る刀身が静止した魚のようにも見える。もっとも近くにあったひとつに恐る恐る手をのばして持ち上げると、思いのほかずしりと手首の沈む重み。そこからひんやりと伝わってくる冷気に心臓をつかまれたような気分になり、あわてて背筋をぴんと伸ばした。
 三日月のように反りを打つ優美な細身のもの。
 青竹のように生硬な線が見る目にも剛直な古風な直刀。
 どれも美しく、清廉で、なおかつ刀身から切っ先へと抜ける線は人の魂を虚脱させる妖しさ。どれにも見惚れた。どの刀も皆、違う顔をしていた。それでいてどれか一つ――と言われるとどれにもぴんと来ず、こんな美しいものを自分が手にしていいのかとわれ知らず逡巡してしまう。悩みに悩んで、困り果てている千影の背後にいつのまにか、音もなく六道が立っていた。待ちきれなくなったのかと思うとますます自分が情けなくなり、しゅんとしてうつむいてしまう。
「困っているようだな」
「あ、あの、もうしわけありません、おまたせしてしまって……」
「良い良い。お前の長所は、その悩む所だ。――私もひとつ選んでみたが、これはどうかな」
 手渡されたのは腰刀とも呼ばれる短めの刀身をもつ一振り。美しく漆が塗られた鞘には刻み目が入れられ、下緒を巻きつけて腰に結わえるように出来ていた。促され、そこからわずかに刀身を引き出してみると、水を珠にして弾くような鮮烈な白さが目を射抜いた。白刃の名に相応しく、黒鞘の対比にいやまして白く、正に白。
「すこし小さくてもの足りんかもしれんが、お前の腕には、まだ大刀は重かろう?育つうちにおいおい替えてゆけばいいさ。中の刀も無銘ながら、それなりに良い拵えだ。お前に似合うと思う」
 声が意識の上っ面を横滑りに滑っていった。目線を刃に当てたまま、ぼうっと間の抜けた惚けた面を晒し、うっすらと開けたままの口から魂が出ていくような瞬間。あれからずいぶんと経ち、自分の目で刀を選ぶようにもなったけれど、あのときほどの感動は未だ味わえぬままである。
 これが良いです。この刀にします――
 ぱくぱくと何度か口を開け閉めし、唾を飲み込みせばまる息をようやっと言葉にした千影に、六道はなんだかすこし物足りないような顔をした。いや別にどうしてもこれにしろと言っているわけではないのだが、とか、もっと自分の好きな物を選んでいいのだぞ、とか。千影にしてはめずらしく、何と言っても聞く耳持たなかった。これが良くて、この刀にしたいのだから、どうしても仕方なかった。

◇◇◇

 千影もあれからいくたびか、育つにつれまた必要に応じて刀を替えてきた。
 それでもまだ、あの美しい拵えの黒鞘巻ノ刀は、千影のお守りだ。

(1025年9月・京・千影)

(7:同じ日)

 九曜はおじ上だという三日星のことが、口には出さないがちょっと怖かった。
 いつでも眉間に皺を寄せているし、もの静かな人なのにたまに大きな声を出すと――それは大抵、三日星の弟で九曜の父の七生のことを叱っているのだったが――それが凄く怖くて、びくっとしてしまう。しかしそれより何より、最初に顔を合わせたときが一番怖かった。
 部屋は暗くて、つんと鼻をつく薬の匂いがしていた。それに混じって、何か金気くさい厭なにおい。そのときは――やがてさんざんいくさ場で嗅ぐことになったわけだけれど――それが何の匂いかは、まだ知らなかった。その中でひどく蒼白い顔をして寝ている人がいて、肩車で九曜を連れてきた七生がその顔を指さして言った。
 ――この人がおれの兄や。
 しー、と口に人さし指を当てながらずいぶん静かに言ったつもりだろうけれど、それでぱっちり目をさましてしまった。起き直って、いきなりひどく怖い声で怒鳴りつけたのだった。
 ――何故連れて入ってきた。このうつけもの。
 七生は皆まで聞かず、すたこらさっさと逃げ出した。その後を追って手桶やら盥やらが飛んできて、それも当たりはしなかったけれど耳元で大きな音がして、九曜は思わずちょっと涙ぐんでしまったのだった。
 ――兄やは胸の病が悪いんだ。ずっと前からだけれど、もうお年だからね。ああして離れで寝てる。九曜のお顔を見せたかったんだけれど、怒られちゃったなあ。
 そうして怖くない怖くない、とかたわらに屈みこんで、ずっと頭を撫でていてくれたのだ。
 ――兄やは怒りんぼだけど、優しいよ。ふくろうを作るのがとっても上手いんだ。
 そう言って庭に出、薄の穂を折ってかわいらしい、丸っこい鳥の形をつくってみせてくれた。兄やが教えてくれたんだ、と七生は胸を張って言う。薄でできたふくろうはとても愛らしかったので、そんなに怖い人でもないのかな、と泣き止んだのだが、でもやっぱりそれからしばらく、あのお部屋には近づけないままだった。

◇◇◇

 ――打ち合ってみせよ。

 裏庭で薙刀を振っていたとき、ふいにそう後ろから声をかけられたのである。たまたま他の家人は出払い、一人で型をなぞっていた九曜はそう一声発した三日星に言葉を失くした。もうこのごろはきちんと起きて過ごすことも少なくなっているというのに糊の利いた着物をきっちり堅く着つけ、ゆるく癖ある髪は革紐で留めて、袖にはきりっと襷を掛けていた。手には穂先をつぶした短槍を持っていて、それをゆるりと九曜の持った薙刀の切っ先に添わせてくる。射すくめるような鋭い眼光がとても怖くて泣きそうになり、知らず知らずくちびるを噛んだ。泣くのはいやだった。そのときは、何故か、とても。
 ――まいります。
 掛声。気合。腹の底で呼吸を溜めた踏み込み。
 ――軽い。  低く、口唇の奥から押し出すような呟き。横なぐりの闇雲な一撃に、蛇のように周到な搦手。弾かれる前に切っ先をもぎ放すのがせいいっぱいで、とっさに後ろに跳んで間合いをはかった。下段に構えた薙刀を持つ、手が震えていた。歯が鳴った。
 ゆるりと、緩やかにさえ見える槍の切っ先の軌跡。繰り出される一撃一撃はそれと裏腹に重い。
 ――もっと柔らかくだ。もっと柔らかく流せ。
 息が続かない。両手で握りしめた柄が汗で今にもぬるりと滑りそうだ。泣かないと決めたのに、もう半分泣いていた。声も出ず、腰だめに構え、身体ごと突っかかっていったのは正直、ただのやけくそだ。勝ちたいと思ったわけではない、ただ、負けたくなかった。怖かった。
 刃先と刃先が触れ、激しく鳴った。
 ――それで良い。
 見たのは、両者の手から跳ね飛ばされた長柄二振り。切っ先を庭砂利に突き立て、思いがけないほど遠くにあった。そうして、叔父の顔のうえに初めて見た、満足げな笑み。
立てるか、と腕をさしのべられ、初めて自分が腰を抜かしていたことに気がついた。だいじょうぶです、とそそくさと裾についた砂を払っていた九曜は、既にきびすを返していた三日星に思い切って声をかけた。
 ――あ、あの!
 ――何だ。
 ――ありがとう、ございました。
 おじぎすると、ちょっとだけ笑って、手を振ってくれた。

 もう怖くない。

◇◇◇

 念入りに身体を拭き清め、装束をあらため、枕元に死に水まで自分で用意していた三日星が息を引き取ったのは、同日夜半のことである。
 七生はしきりに首をかしげては、「兄やはすごいなあ」と言っていた。

 九曜もそう思う。

(1024年12月・京・九曜と三日星)

(08:血)

 父と三世は、見ていて嫌気がさすぐらいにそっくりだ。

 そう言うと千影は、まるで不本意そうにくちびるを尖らせて、「なんで。すごくいいじゃないか」と云うのである。心底うらやましそうな口調だった。三世はそれを父ゆずりの――認めたくはないが鏡で自分で見てもそっくりなので仕方ない――鋭い目つきで睨み、
「ちぃ。おまえ、あの冷血漢そっくりと言われてうれしいか?」
 あきれ返ると言わんばかりの三世に年かさの少年は腰をかがめ、肩を落として「そんなんじゃないよ」と呟くのだが、しかし正直それも聞き飽きた。
「いい加減わかってくれ。ちぃが吾に味方してくれないと困るではないか。二人でこの封建家庭に反逆の烽火を挙げるのだ」
 とにかくこのごろの三世といったら矢鱈とむつかしい言い回しを使いたがるのだが、何のことはない、どうせまた漢籍の史書でも拾い読みしたのだろう。覚えたばかりの言葉を使って戦ごっこがしたいのだ。何にせよ、初陣まえのこの齢で漢籍を読むのはすごいのだが、言い回しがむやみにぶっそうなのはどうだろう、と千影は思う。
「将棋でだったら幾らでもしていいけど?」
「ふむ。してやらんこともない。盤上といえど策を鍛えるにはよいからな」
 どちらかといえば内に籠もってする遊びの方が得意の千影である。それにしてもこんな言い回しで、したり顔でうなずく幼児というのは、正直あの七代当主の実子と思っても少々受け容れがたいものがある。もう少しままごとや雛あそびの方を好きになってくれてもいい気がするのだが。
 そうこぼすと、
「実用にならぬものは好かん。ちぃは少し夢見がちにすぎるぞ」
 将棋の駒をおさめた箱を持ってきながら、しれっと言ってのける。三世は顔だちは愛らしいのだが、言動には可愛げというものがまるでない幼児であった。しかも将棋は強いときた。対手をつとめるこちらは戦々恐々、いまのところ十戦して六勝四敗の勝率は維持しているものの千影の腕前ではこれが精一杯、盤面を眺めて青息吐息の日々である。
 ぱちり、ぱちりと盤を打つ小気味よい音。
「――だからな、父上は冷血漢で人非人でどうしようもないやつなのだ。深くつきあうとばかを見るぞ。吾からの忠告だ」
 しかし黙って聞いていたらひどいことを言うなあ。
「それにしたって、何でわかるのさ。大体、まだ一月しか一緒に居ないじゃあないか」
 当主様との付き合いはこれでも、先に家に来ていた千影の方が長いのだ。確かに先に挙げたような面も無いでは無いが、千影に言わせれば人との関わりを敢えて断つのは情の深さの裏返しであるし、怜悧で苛烈な戦術眼にはこの少年は心底憧れていたし、それらの強さの表裏に滲むあやうさ脆さを感じてはとても放ってはおけなかった。とどのつまり千影は三世の言うところの冷血漢で人非人でどうにも手のつけようのない厄介な人に、それはもう力の限り傾倒しているのだった。三世は盤のむこうで眉をしかめ、
「血筋というやつだ。いやなものだぞ。あれを見て明日は我が身と思うのは」
「――なんだ、」
「なんだとはなんだ。人の深刻な悩みを」
「だって、じゃあ、似ているってわかる位には好きなんじゃあないか。当主様のこと」
「……ちぃに言われると、何か色々と様々な意味で複雑だ。どうしてくれる、この始末。」
「ああ、大丈夫。大きくなるころには大丈夫になってるよ、そのままでも」
 だから大丈夫。
 いつもは吃音で赤面症の千影がふしぎと堂々と根拠のないことを言い切るので、めずらしく、ほんとうにめずらしく、三世はぐっと言葉につまった。丁度そこに、ぱちりと盤が鳴って駒が置かれた。
「あ。王手」
 指してから気がついたというふうに、一拍おいて千影はゆっくり瞬きする。やはり根拠はないのだが、その瞬間にふしぎと確信し、しかし口には出さずにほほえんだ。

 大きくなったら、自分はきっと、この子に恋するだろう。

(1025年10月・京・千影と三世)

(9:きょうだい)

 ――大きくなったら何になりたい?
 お使いからの帰り道、通りすがりの竹林でたわむれにそんな質問を発したのは長姉の睦月であったと思う。七生は前髪の間からのぞく大きな目をきょろりと動かし、こう答えた。
 ――仙人。
 何故とはいえば霞を食べたり、雲に乗ったりしてみたかったのだ。このあいだ雲に乗っているつもりで座布団ごと縁側から飛び出し、したたか頭をぶっつけたばっかりだというのに懲りない弟であった。三日星は流石に苦笑いし、あきれたように言った。
 ――すごいな、それは。本当になりたいか?
 ――なれるよ。いっぱい修行をすればなれるって言ったもの。兄やが。
 ――あれは本に書いてあったのを読んだだけだ。おまえ、そうそう何もかも鵜呑みにするもんじゃない。
 ――ええ、だって、なれるよ。おれ、長生きするもの。
 ――七生。
 苦笑いから笑みを消し、三日星の声が厳しくなった。兄やは不確かなことを言うのがきらいだ。でも、七生は確かだと思うのでちっともためらいもせず言い切った。
 ――大きくなったら、大江山に登ってね。そうしておれは仙人になって、兄やはお医者になって、姉やはお花を活けて。当主さまはお外に出てお婿にいくでしょ。
 ――そうねえ。きっと出来るわ。
 ――姉上まで。
 ――ね、そうしましょ。わたしそうしたいもの。でもナオちゃん、仙人になったらお山かここみたいな、竹の林で暮らすのよ?さびしくないかしら?
 ――だいじょうぶ。おっきい雲つかまえて遊びにいってあげる。そしたら姉やもさびしくないでしょ。兄やも乗せてあげてもいいよ。
 太っ腹のつもりで言ったのに、兄やは何故か怒った顔をしてそっぽをむいてしまう。しばらくして、ひどく真面目な声で言った。
 ――本当に出来るつもりか。
 ――出来るよ。おれ、うんとうんと長く生きるよ。

 それから、ずっとずっと、そのつもりでいる。形も何もないけれど、七生の手箱の折り紙や貝殻の積み重なったいちばん下に、ちゃんと取ってある。
 自分は姉よりも兄よりも長く生きるだろう。だって置いていくのはさびしいから、置いていかれるほうがいい。兄やはしぶく頭巾を被ったお医者になって、姉やはきれいな着物を着てお花を活けて、そうしていつかは二つ並んだお墓になって、そうしたら都を出て、庵をつくって、竹の林で暮らそう。毎日お墓の世話をして、ずっとずっと一緒にいよう。
 ――大丈夫だよ。おれは死なないから。
 姉やより兄やより、うんとうんと長く生きるよ。

 あれから大江山に登って、降りて、結局何も変わらなかった。それでも、七生は三人きょうだいのいちばん末っ子だから、姉やのことも兄やのことも、ちゃんと見送れた。

 嘘はついていない。

(1025年2月・京・七生)

(10:水)

 ころころと優しい、水の音がする。
 地中深いところで鈴を鳴らすような、湧水のひびきだ。

 ふと目を開くと生絹のようにやわらかい女の手が頬に添えられた。彼女のくずした膝の上に頭を乗せ、少しばかり眠っていたようだった。
「寝やれ。おぬしは顔色が悪い。毎度毎度、幽霊かと思うぞ。何とかせい」
「生憎と、生れた時からこんな顔です」
 思わず口をついて出た反論をへらず口とでも思ったか、ぺちりと添えられていた両手が頬をはたいてくる。ちっとも痛くないが、もそもそと肩を動かし寝返りを打とうとしたところではたと動きを止めた。
「足。痺れませんか」
「なんの。ちっとも重うないわ。ものを食わなすぎのせいじゃろ、そのうち肋を数えてやろう」
「……いやがらせですか」
「むろん」
 えへんと肩をそびやかしてみせる、その仕草が子どもめいて思え、かれは知らず知らず笑った。
 退けようとしていた頭をそろえられた腿に乗せ直し、細腰にするりと両腕を巻きつける。しゃらしゃらと女の、貝を連ねた耳飾りが鳴った。衣の重なりの上から顔をうずめると、潮の匂いがするようだった。女は海神(わたつみ)の系譜である。一説には鱗をまとい恐ろしげな鰐の相を取るとも伝え聞くが、かれはまだそれを目にしてはいない。閨で手さぐりに触れた肌は堅い貝の中の身のように仄白く、秘めやかだ。
「少し、思い出しました」
「何をじゃ」
「生れる前のことを。まだ神世の影も人世のひかりも見ぬころのことを」
 いまと同じ音を聞いていました。
 目を閉じたままほほえむと。女の指がかれの髪を梳き、さらさらと撫でつけて通っていった。かれはさらに耳を押しつけ、地下深く、水脈(みを)の音をさぐりあてようと耳を澄ます。それは暗く、あたたかな血肉にひっそりと息づく。かつて自分も、確かにこれを聞いていた。ふたつながらの心臓で同じ鼓動をし、最も幽世に近い狭間から産声を挙げた。
 ゆっくりと女の腹に手を当て、夢見るようにひそやかに呟く。

「うづの幣帛の音だ」

 これがかれの水上であった。
 いつか、自分もこうして生まれてきたのだった。

(1025年8月・産霊屋・六道と鳴門屋渦女)



「描写する百の御題 Type:2」(配布元→追憶の苑