
「菖蒲闇」
―あやめやみ―
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郭公なくや五月のあやめ草 あやめもしらぬ恋もするかな 父が手を引いて何処かへ連れていってくれたのは、その一度きり。 ◇◇◇ 淀んだ水の腐臭と、仄かに焚きこめられた香の匂いとの落差。 やがては花筐とその香の名を言い当てることも出来るようになるが、それは幼時のかれにとっては、まだ先の話だ。 年経て飴色に変色した垂木と棟木と柱。朽ちかけたそれらが折れればひとたまりもなく、くしゃりと崩れるだろう陋屋だった。 「何のお構いも出来ませんのに」 女が言う。その影が女であることは声と、どちらかといえば小柄な影の茫洋とした円みと、ふわりと動く空気の柔らかさから推察された――或いはそれらを取り去ってしまえば音もなく、彼女が女であることもまたこの陋屋の闇に溶け去ってしまうような気もしたのだが。 「良いさ。構うてほしくて来たのではないもの」 男が言う。その男が父である。いつもの、かんと竹を刃物で割ったような晴朗な声のひびきは晴朗である分だけ、この闇の中でしんとうつろな木霊めいた。 女の手が火掻き棒に添えられ、そっと炉の灰を掻き立てるときだけ、赤味を帯びて中心に火種を孕んだ暗がりが蠢く。 闇は怖い。恐ろしい。無条件の畏怖とともに訪れる、きりきりと胸引き絞られるような甘やかな物狂おしさをその頃はまだ、言葉ではなく覚えていた。かれは無意識に父の姿に目をこらし、そうしてかれはうつむく。うつむき、それでも未練げに視線は父の左手あたりに漂った。 意味はわからねど父と女は大人の会話をしており、それを邪魔だてしてはならないのだとかれはすでに理解していた――たとえばほんの少しでも、さっき手を引いて貰った時のように触れさせて貰えばそれだけで、きっと安心できるのだとしても。 だからくちびるを噛んで、ぎゅっとこらえてうつむいていた―― 「坊や、もう、お眠?」 す、と差しのばされた女の手の白さはひどく、まぼろしじみていると思った。 闇にたゆたう花の白さよりもっと、灯火に飛び込む虫の翅の白さよりずっと。 女は家の中であるのに深く衣を被いでいて、衣には繊細な花の織模様が浮かぶ。その花の名前を、かれは知らぬ。やがて知る。ほんの二ヶ月後に。初陣と敗走を経て、悲憤と傷の痛みとに息を殺す五月皐月に。 「あやめ――」 だがそのとき、父が困惑したような声を出して呼んだのがその女の名であり、おそらくは花の名でもあるのだろう。そう感じた。直感というよりむしろ、確信に近かった。 記憶に残る母と同じしぐさ。だが母が水のようにすずしい掌をしていたのに対し、目の前の女の手にはまるで埋み火のようにたしかな微熱の気配があった。 「……あの、もしかして、ご病気なのではないのですか?」 それならきちんと夜具をかけて、あたたかくして寝なければならないのだ。口ごもりながら訥々と語ると、女は父のほうに顔をむけ、 「あらまあ意外。こんな可愛くない朴念仁から随分と、気の回る可愛い坊やが生まれたこと」 言葉に殴りつけられたようにがっくりと頭を垂れる。 「最後だというのに、変わらず辛辣でいてくれることだ――」 肩をすくめて大仰な嘆きぶり、それでも笑みはふしぎと柔らかかった。 そうしてかれは初めて、目の前のあやめと呼ばれる女を間近く見上げる。 被衣の下で、さながら猛火の跡から掘り出された菩薩のように焼け爛れたその顔を。 ◇◇◇ ひりつくような心の何処かの渇きを、今も思い出せる。 かつて父から託った通りに、六道は支度を整える。 米に干魚、菜の漬物に醤(ひしお)に薬。それから縄に挿した幾本かの銭。これらの費は都の復興の為の根回し、殊に橋を架けたり悲田院に施しをしたりするのと同じ類として計上されている。およそ二月に一度、初めて父に手を引かれ訪れたときから変わることなく続いている。 日も暮れ方。 墨染の衣に身を包み荷を用意して、六道は鍛錬のあとらしく諸肌脱いだ肩に汗を光らせる常葉に声をかけた。 「どっか行くのか?」 不審げな表情である。何処へ出かけるにしても六道が双子のどちらかを置いていくことは、かつて無かった。 「そうだ」 そうして、お前に頼みたいことがある、と付け加えた。お前にしか頼めない。 どちらも父に、かつて言われた言葉であった。 そろそろ自分も、申し送りをせねばならない齢相なのだ。今まで切り抜けて命を拾ってきた危難の数々を思えば、遅すぎたという気もしないでもない――いつであれ、死んでもおかしくはない戦ばかりしている。 常葉は鼻の頭に皺を寄せつつも、 「ちょ、待ってろよ、先に行くなよ」 あわてた足取りで井戸端へと走った。汗を流して身支度を調えるにはまだ少し、時間が要るだろう。 「ゆるりと来い。べつに急ぐ用ではないからな」 その背に微笑を投げながら、六道はふと暮れかかる空に目を遣った。 五月皐月の、茫洋と熱を孕んだ闇へと沈んでゆく黄昏。 ゆくのは夜と、幼い頃からひとり決めしている。何も見えぬのがよいのだ。眸を開いていても、何も見えぬのがよいのだ。 そう、かつてあったろう逢瀬も、この眸に映った別れも、白い菖蒲や花筐を嗅ぐたび確かに小さくひりつく心の何処かしらも。 全ては、綾目も知らぬ―― |