「蜻蛉人」
―あきつひと―


 ――ふしぎなお方でございました。

 並よりずんと丈高く、そのせいできっとあのように首かたむけてお笑いになるのでしょう。立居やふるまいはごく無造作、ひょいと裾をからげて座ったりなさるのは、すこしお行儀がわるいなあと思います。いけないなあと思います。でもそれでいて、ちいともいやな感じはしないところが、ふしぎです。
お髪を留める結紐は秋の七草、桔梗いろ。下げ髪に結うたおぐしもやはりまた秋の枯野に似て色うすく、またその流れに沿ってだんだんに色の抜けてゆく辺り、これも薄の花の穂先のような。そうして、涼しげな両のお眼の蒼いこと。度々お話にきく、よく晴れた秋の日のお空というのは、あんな色ではないでしょうか。それも、お空のうんと高い、うんと深いところの色とは、あんなふうではないのでしょうか。どれもまだ、みなのお話にきくばかりで六道は、一度もほんとうには見たことがないのですけれど。

◇◇◇

 晩春と初夏の境の時候、その夕である。
 先月より建て替えていた屋敷の普請もすんだばかり。削りたての木肌の香りに夕餉の支度のにおいがほんのりと混じる。そんな中、暗くなり始めた道にからりころりと下駄鳴らしつつ、玄関先で「ただいまあ」と声を挙げるのは、まずまずふつうのことであろう。誰だって驚きはしない。続いて、「ひろった――」と言うのも冬見家六代当主・七生にはまあまあよくあることであった。なにせ飛蝗から螳螂から、また蝸牛から守宮から蟇蛙から、さらに小鳥の巣より落ちた雛(ひいな)からうす汚い片目の潰れた赤犬に至るまで。よくよく生きものを拾ってくる子どもだったのである。異母兄である三日星にとってはもはや諦めの境地。しかし家庭の事情としては先月、いちばん末の裾子が仔犬を二頭ばかり拾ってきてしまい、いくらなんでもこれ以上は飼えぬときつく通達を出したばかりなのである。
 だからてっきりいつものように、犬か猫かとにかくその辺りを抱いて帰ってきたものと思われて、三日星は内心、不満たらたらであった。なにせ世話をするのはともかく、飼い主を探しにいくのはきょうだいのなかで何故か必ず自分の役目になってしまうので。
「もううちでは飼えんと言っておろうが。元いた処に帰してこい」
 そんな小言とともに溜め息つきつき、ぶらりと表に出てきてみれば、見慣れたよれよれの単衣姿の――面立ちはずいぶんいいのだし、あのちょっと人をぎょっとさせる風体と物言いだけでも何とかすればけっこう女人にも好かれように――異母弟と、そしてそのかたわらにもうひとり。
 まずは男の目から、しかもちらと一瞥したかぎりでも、役者みたいに様子の好いやつだ、くらいは思った。流れるような物腰にからりと陰にこもらぬ笑い。ときおりその表情の一瞬一瞬、諦観めいた皮肉げな片笑窪が浮かぶあたりは少しく癪にさわるがこれもまあ見る人によっては、つまりは相手がうら若く気性温順なる娘子だったりするならば、ひどく気の惹かれるところであろう。三日星はもう若くもなければそもそも娘子でもないのでなんとなく若気た、軽薄そうな顔をするやつだと思ったくらいである。ぜんたい質素で、地味な感じのいでたちであるにもかかわらず洒脱で小粋な色の合わせ方、ちょっと頽れた遊び人ふうの低く結んだ帯のあたり等々、なかなか隅には置けぬ玄人ごのみの男振り。
 むろん三日星は遊蕩の味も紅灯の巷も知らず、また知りたくもなしと怖気をふるう堅物であるからして、そういった仔細が知れるのも後日の話。そのときはひどく漠然と、だが同時にひどく瞭然と、なんて感じのわるい若衆だろう、と思ったっきりである。ありていに言うならば、むかついた。しぜん言葉に生えた棘をかくしもしない。うむを言わせずに弟の手をぐいと引き、かわりに一歩前に出ておくことも忘れない。
「どちら様かな」
 不肖の弟が迷惑をお掛けしたのなら仔細を事分け腹を割って話し御詫び致そう。しかし生憎見ての通りの貧乏武家、逆さに振ろうが埃ひとつとて落ちぬ身上。ものを乞うなら向こうの角を右に曲がって東市に行き給え――。
 ひどい早口だが発音は明晰、矢継ぎ早にたたみかけ、口をはさむ隙とて与えぬ話し振り。いったいこれで何人の破落戸(ごろつき)に門前払いをくわせたものやら、三日星自身も覚えていない。しかしこれでもこの方策、目の前の弟にやらせるよりはずっと穏健で、ずっと人道に叶っているのだ。なにせこの弟、はじめのころ――即ち初陣後まもない時分にはじめて市に、むろん手ぶらで出かけ、そしてその諸手を血みどろにして帰ってきた。その衣類に付着した血の量は洗い張りにしても落ちるものではなく、どう見立ててもはなはだ不穏。いつに変わらぬさっぱり要領を得ぬ弟の口舌は、どう聞き直してもはなはだ不安。おまけに当の本人、なりこそひどいが湯に浸からせてみれば傷ひとすじも見当たらず、純然たる返り血であったことは明々白々。かくて異母兄は己のかるはずみな裁量をいたく後悔し、安易に異母弟のこの時世にしてたぐいまれなる力量にまかせきりにした自分をひどく恥じた。弟の話にきくその不運な客人、つまり一見いかにもぼんくらそうな七生の風貌に目をつけ金子をたかろうとたくらみでもしたのだろう遊蕩児の行方は、今だ折りにつけ探してはいるものの、いっこうに知れない。思い出すだに持病の胃痛が悪化する挿話である。
 閑話休題。
 出てくる前に捨て猫迷い猫ときめつけられ、出てきてみたらば今度は破落戸あつかいされた御客人はべつに不快な顔もせず、ちょっとその碧眼をぱちくりさせ、じき闊達な笑声を挙げた。
「兄さん兄さん、説教もいいが――ちょいとこの顔ふたっつ、見比べてみちゃくんねえか?」
 言って、立てた親指を己の顎先ととなりの弟の鼻先へと振り向ける。そのしぐさにつられ、三日星は視線を双方に行き来させた。
 一は見慣れた、よれた着物の大人子供。笑尉もかくやの笑みを満面にひろげ、胸にこぶしをあてているところなど、まったく何かしらのいたずらをしかけようとわくわくしている子供そのものの異母弟である。
 一は遊侠の風のただよう、小洒落たなりの色男。苦笑するふうの困った眉根は、一炊の間に永きを夢みる邯鄲男というところ。見も知らぬわりにどこかで見た顔だ、くらいは思った。思いはした。いやまさかしかし、ちょっと待て待てというのにこら。
 雁首そろえてこれみよがしに肩なぞ組んでみせる二人組を前に置き、三日星は、この時点でようやっと絶句した。
 あまりに似たる顔容ふたつ、あまりに異なる身形ふたつ。
 居ずまいがあんまり違うのでいっそ気づきにくい、とこの気の毒な常識人は後日、幾度かの抗弁をこころみた。もっともである。だが弟はじめ、客人家人ひっくるめて一言で、そのもっともな抗弁も笑いながら切って捨てられた。
 とりあえず、気づくのが遅い。

◇◇◇

「説明し給え」
 重々しくも眉間にふかく皺を刻み、けっして厚いとはいえぬ肩をいからせ腕を組み、三日星はそう言った。
 いかに顔が似ているとはいえ、いかに他人と思えないといえ、まがりなりにも他所からの御客人は御客人。いつまでも門前で立ち話というわけにもいくまいと座敷に上げてさしむかい、新茶に季節の水菓子なども添え、お気遣いなくいえいえ大したお構いも出来ませんでと二、三の会話も交わされたあたりである。ちなみに兄やはこういう家向きのことに関しては大層器用で手際もよい。手を出しても邪魔になるだけなのでその間、七生は傍らから、ぼーっと見ているだけである。御客人がなぜか居心地悪そうにしているので、きのう紫陽花の葉の裏にくっついていた蝸牛の話なんかをしてあげた。やっぱりちょっといたたまれない顔ではあったものの気は紛れたようなので、うんこういうのを適材適所というのだな、とひとり勝手に納得したばかりである。
 いきなり違うところに言葉で鉾先を向けられて、七生は「ううん」と首をひねった。
「うんとね。だから、ひろったんだ。鴨川沿い。夜明かししたのが舟でね、なんか、寝ているあいだに流されちゃったみたいだって。ね、そう言ったよね?」
「お、おう」
 更に鉾先が回り、御客人はやや落ちつかなげに膝をもぞつかせる。ちなみに何故舟で夜明かしなどするのかというと、京のしかるべきところのお姐さん方にはそういう場所でご商売をなさっていることが少なからずある、ということで納得して頂きたい。さいわい異母兄はその手のことにはめっぽう疎いので、そのへんにはあえて疑問をもたずに済んだようだった。
「鴨川沿いで、きれいな子がいないかって。だから厳船寺の三毛ちゃんのところにつれてったんだけど、いなかった。でも他の子にはいっしょに煮干あげたんだ、そうだ兄や、煮干ちょうだい。もうないんだ、いっしょに猫釣りしようと思ったのに」
 頭はけっしてわるくないのにこの男、この喋り方のおかげでちょっと、いやかなり、知恵遅れのように思われがちだ。七生がこれでこの武門のあるじとして都のえらい方と渡り合ったりできるのはひとえに、此奴以外の家族の尽力のたまものである。思いついて差し出された掌は三日星に、「ぎょうぎが悪い」との叱責とともにぺしっとはたき返された。しょんぼりして叩かれたほうの手を袖の中にしまう。横で客人はすこし居心地が悪いような、いたたまれないといった顔つきで、口のあたりをもにょもにょさせていた。
「この人、璃羽さん。橘さんちの息子さんだって。」
 ようやっとそう紹介されたのを受け、三日星と客人ははたと心づいて顔と顔をつきあわせ、何故か双方ちょっとあわてた感じで中腰に「や、これは失礼を」「いやいやご丁寧にどうも」などと頭を下げ合うのであった。

◇◇◇

 馴れていないわけでもないが、よその家というのはやっぱり奇妙なものだ――
 おおよそ数えで二月にも足らぬうちから、二階の低い欄干もなまめかしい妓楼に通い初めていたという経緯を持つ璃羽にとって、今度のように馴染みない他家に投宿するというのも、けっして珍しいという部類の体験ではない。少なくとも、驚いて腰を抜かすほどのことでもなければ狼狽えて右往左往の騒ぎをするほどのことでもない。肩をすくめて首筋に片手を当てて、大抵、それでしまいである。元々あまりものに動じないたちであるのか、それとも単に馴れなのか。そのあたりは定かではないものの、飄々とした、そういう振る舞いがさまになる男なので損はあんまりしないのだ。得になった覚えもないのだけれど。
 引き合わされたところの異母兄上どのは初見の態度や、または折り目のぱきっとした袴や気むずかしそうな眉間の皺などという見かけほど頭の堅い御仁でもないようだ。夕飯を馳走になった弾みと乗りで、酒が入ると話もずいぶん盛り上がった。ちょっぴり大袈裟な感は否めないのだけれど、話のおりふし、何だか妙にしみじみとした目つきでこう言うのだ。
「話が通ずるというのは、いいものだなあ――」
 これは流石に反応に困った。上向きに眉毛を寄せつつ盃を口元にひきつけたまま、
「いや兄さん、俺ァそんな大層なこと、言っちゃいねえと思うんだがね。学だってあるわけじゃなし。」
 しかしそう言うと、いやいや、と三日星は重々しくかぶりを振るのである。
 これは極論だが、と前置きして「内容なんて、意味なんて、なくっても全然困らない」。
 ちょっと唖然としてしまった。その沈黙をどう取ったのか、かれは目を細めて器用に片眉を上げてみせる。穏やかだが意思的な眉の線をした男だ。川の流れの中の、飛び石のような印象を受ける。ひかえめだが、揺るがなくて、そつがない。「たとえば」と接ぎ穂の言葉を口にする、その瞬間がまるで不自然でも、気まずくもない。
「たとえばこう、天気の話なんかをするだろう。いい天気ですねえ。ええほんとうによく晴れて、なんて受け答えする。その、受け答えする、っていうところがいい。明快にわかりやすい答えが返る、なんてじつに素晴らしい。いいことじゃあないか?得難いことじゃあないか?な、そうだろう?」
「あ、ああうん。そうかも。そう言われれば。」
 正直、気おされながら盃の中身を舐めた。うんうん、とうれしそうに何度もうなずく様子がこの男にはまるで似合わぬ形容だが子供めいていて、そしてやっぱりまるで似合わぬ形容なのだが、それがなんだかちょっとだけかわいい。
 それにしても、と口には出さず、胸の中でひとりごちる。
 それにしても、一体この兄弟は今まで、どんなふうにして会話と意思の疎通を交わしていたものやら。
 ひととおり――と言っても現在一族総勢わずか四人、うち一人は交神中、という説明を受け、璃羽はいたくわかりやすく興味をそそられた。このように。
「へええ、姉上。おねえちゃん。齢上のひとってか。いいねえ。美人?」
「ん。まあ、身内の贔屓目と思ってもらってかまわんが。なんなら呼んでこようか、せっかくの弟の客だ。会わせないとたぶん拗ねるだろうしな。」
 三日星はいともたやすく、何の気負いもなくそう言った。しかし何気にすげえことではないのかそれは。仮といえど神様と、夫婦でしっぽりしているところに。
 良識ある一族ならば止めるところか、そうでなくとも遠慮するところだ。が、なにせ、璃羽は美人が好きだ。止めずに煽った。
「いよっ、気前がいいねえ、おにいちゃん!大統領!……ところで大丈夫かね、そんなことして?まずくねえ?」
 一抹の良心から発した疑問を、しかし三日星は落ち着き払って、なに大丈夫だ、と力づよくうけあった。つけくわえて一言。
「だまっていればわからない。」
 それでいいのか、と突っ込みたくならなかったわけではないが、美人を眺める眼福を棒に振るのはいやだ。うんうん、と深くうなずいて同意を示すに留めた。たとい戦の腕はまずかろうとも、弟の行状に日夜胃を痛めていようとも、否もしくはその分だけ、なかなかに肝っ玉のふとい御仁である。いやそれにしても楽しみだ、と銚子も空になった折に厠を借りようと座敷を出たかれはじつに機嫌よく、鼻歌なんぞ歌っていた。

◇◇◇

 梅雨どきのぬるい風が、稲穂いろの後ろ髪を吹き抜けて通っていく。ちょいとふわふわする足元を踏みしめるのも、度を過ごさぬ分にはなかなか楽しいものだ。
 手水で用を済ませ、さて座敷に戻ろうかいときびすを返したはいいが、返したところでどうやら、曲がるべき角をまちがえた。案内された覚えのない渡殿に出た。首をかしげたが所詮は酔っぱらい、さして深くも考えず、ぐるりと歩き出したところで丁度、見知った顔が出た。ついついこちらの声も出た。
「由貴?」
 橘璃羽、御齢おおよそ一歳あまり。こう見えようがああ見えようが、ひとまず一児の父でもある。呼んだのは、その息子の名前であった。さんざ悩んだすえの命名にしてはやや単純な趣もあるがこれでも自分としては、まずまず機転の利いた方であると思う。何せ当時は、息女がくるものと信じて疑っていなかった。書き出していた名前の羅列の中でいっとう息子らしい読み方が出来る名をその場の勢いで付けてしまった事実は、じつは今でも少々うしろめたい。
「由貴じゃねえか、何だ、お前も――」
 酔いどれた千鳥足のままふらふらと近づいていった足取りは、奥まった離れを背にした暗がりにぼうと浮かんだ横顔が振りむくにつれ、言葉とともにしぜんと立ち止まる。
 そのほのじろい横顔は、たしかに、かれの息子のものに酷似していた。線の細い、きれいな顔だちも。やがて伸びゆく若木めいて、ほっそりとした体つきも。
 だが彩(いろどり)が違う。眼が違う。
 眼に馴染んだ、己ゆずりの秋色をした頭髪ではなく、六月梅雨どきの宵闇にあっては溶け入らんばかりの黒髪である。削げた頬も、うっすらと窪んだ目元もぞっとするほど白く、人の肌というよりむしろ羽化する以前の、翅脈が透ける蛹の殻を連想した。
 おそらくは、いまの自分の息子よりはやや下がるほどの齢相だろう。黒目の勝った、大きくて目尻のつんとつりあがる猫みたいな形の目をして、睫をふせる仕草がびっくりするくらいそっくりだ。けれど何よりその目の色と、それとともにその目の表情(いろ)が違うのだ。昼間と異なる光をおぼろに跳ね返す、橙色の眸をしていた。
「――どちら様、ですか」
 二、三度瞬いたあと、すうっと針のように目を細める癖は、これはたしかに自分の息子のものではない。むしろ自分の、浮世ばなれした妹のほうがときどき、似たような目つきをする。人の顔より一間くらい離れたところを凝視して、どうかすると一刻くらいそのまま動かなくなるときによく、そういう目つきをする。
「お前さん、ここんちの子かい?」
 困ったふうに首筋に手を当てて、あやすように笑みを浮かべてみる。子どもは首をかしげ、それから、こく、と小さくうなずいた。細い頸に、分厚く巻かれた包帯が襟元から白く覗くのが目についた。
「――……のどもとの三ツの鱗に竜珠の眸。鹿島の神竜に御縁のおかたと御見受けいたします。冬見がいぶせ屋に御用向きならば、若輩ながらこの六道が承りまする」
 ぎょっ、とした。
 鹿島の宮に坐すといわれる竜の神使といえばかれにとり最も濃い血縁の一方で、系譜をただせば父神にあたる。ほんの数語で人ならぬ血筋を言い当てられ、我知らず掌に汗を感じた。うっそりと六月の闇に立ち尽くす人影は自分の息子と同じ顔貌をして、それがますます悪い夢にも似た目眩を呼んだ。
「御客人。御客人――?」
 やや酔うた感のある、気軽で、しかもまじめそうな声の呼びかけで我に返った。璃羽はほっとして首筋を撫でおろし、困ったままの顔を振り向ける。子どもはいつのまにか、爪を噛みかけていた左手をすっと下ろした。
 ああ、此処に。
 と、つづきかけた三日星の言葉は一瞬、噛んだ口唇とともに途切れた。それでいて遅滞を感じさせぬ物言いは流石だと思った。
「……紹介が遅れたな。この子は六道、五代様の実子で、弓を能く使う。生憎、せんの討伐での傷が重うてな。落ち着くまではと思うておったのだが――もう、歩けるか。こちらは璃羽どの、見ての通り七生と縁があって屋敷に来られた。ゆめ化性などではない、そう気を張るな」
 そうして、ぱん、と双方の背をうちたたき。
 憑き物が落ちたようだった。
 夜中の通廊、梅雨どきの夜空を渡る風、湿った大地と草の葉の露の匂いが鼻孔に届く。ぎこちない会釈と、二、三語のあいさつめいた単語。その晩は、それだけだった。
「すぐ戻る」と言い置いて、三日星は子どもの肩を抱くようにして離れの部屋へと入っていった。大きいのと、小さいのと、ふたつ背中を見送り、かれはふう――っと長い長いため息を吐いた。
 腰が抜けるかと思った。
 あと、ちょっと座敷わらしかとも思った。どうにも目つきの尋常でない童子である。べつに悪い意味ではないが。
 それやり何より、やはりびっくりした――という感想が先に立つ。いやはや御縁があるというのは、家族まで似てしまうということなのか。そうなのか。そうかもしれない。意外と。
 むむむ、と首をひねっても、どうやら答えは出そうにない。
 に、しても。
 怪我、してんのか。
 あんなに小っせえのに。
 そう思うと、意外なくらいに胸が痛んだ。

「少々、ひどい戦をしてな」
 客間――といっても母屋の、三日星が起居する自室のとなりで単なる空き部屋である――に床をのべて整えるころにはすでにすっかり酔いも醒め、いくらか沈鬱な顔つきと落ち着いた、だが少しばかり沈んだ声音をしていた。ぽつりぽつりと、問わず語りに三日星は語った。
「あの子は、死ぬところであったのだよ。上の子が庇うて、命を拾うた」

 だが、あれは命を拾い切れなかった。おのが命を拾い切れなかった。掴み切れずに落としてしもうた。
 裾子の六道より、ほんの四月ばかり上の、やんちゃで気の強い子であった。あけっぴろげで、よう笑う、気持ちの良い子であった。
 しかし足りなんだ。
 何もかもが足りなんだ。ほかの何より、俺達に、あれを救う手立てが足りなんだ。
 ああ。あれはいい子であった。
 生きてさえおれば、ずんと強うなれたであろうに。
 生きてさえおれば、俺などよりずんと強うなれたであろうに。
 生きてさえおれば。――
 ――繰言だ。らちもない、話をしたな。
 相済まぬ。

 灯心にちいさく明りを点けたままで三日星は去んだ。質実な背中は、さして大きくもない。しゃんと伸ばした背筋と腹のふかいところから声を出すので、それできっと、いつもは大きく見えるのだ。ほんとうは少し撫で肩気味で、人の見ていないところで細い、さびしい咳をする。懐紙で口元を強く押さえるときの物音が、思ったよりも静かな座敷にひびくことまでは気づいていないらしい。
 さらさらと簾が鳴り、枕元には寝酒とばかりに整えられた盆に猪口と、銚子と、小皿に盛られた塩。御厚意に甘えて、もうしばらく飲んだ。
 眠れなかった。

◇◇◇

 縁側に出された煙草盆には、唐獅子と牡丹の文様。
 劫を経た古物のみが持ち得る渋みと、人の手を経るうちに次第に描き出される独特の円み。雄渾にして繊細、美麗という言葉の下に双つを何の苦もなく調和させ、なおも閑かなたたずまいがなんとも言えぬ、味のある調度である。
「どうせいまは使わぬものだから」と三日星が奥から仕舞ってあったものを出してきたのだ。
 妓楼などではともかく璃羽としては家で吸うのは落ち着かない方なのだが、そんな心づかいもちょっと嬉しいものではあるし、なにせ見た目にもたいへん良い道具だ。使い心地をためしてみたくなるのは人情だろう。
 外は麗らかに晴れ渡る。
 午前――ゆうべから家人にほっぽらかされて拗ね気味の七生は姿が見えず(三日星曰く、「いつもの事だから気にするな。あと、突然縁の下から出てきたりするかも知れないが、あいつに悪気はないんだ。あんまりびっくりしないでやってくれ」とのことである)、御本人はぱりっと糊の利いた一張羅に角帯をきちんと締めて用事に出かけてしまった。美人とひょうばんの姉君の御到来まで、優雅に煙草でもふかして待つかという――まあ、そういう魂胆である。
 昨日に引き続き空は晴朗、風は穏やかにしてちぎれた白雲のひとひら、ふたひらが真綿めいた風情で浮かぶ。使い込まれた煙草盆を横手に縁側に身体をのばして寝そべると、じつに寛いだ気分になった。
 刻んだ葉を詰めて吸い口をくわえ、火を入れて煙管を一吹き――吐いた煙が、ぽっぽと白く輪っかを作って沈みかかり、うむ、きょうは調子が良い。
「御客人。――」
 噎せた。
 ちょうど吸い込んだ拍子の煙が喉にひっかかり、胸郭が裏っ返るかというほど激しく咳き込んだ。苦しむ璃羽を眼前に、声を掛けた子どもは大層うろたえた。たとえば、おろおろと小走りになりかける足辺り。そうして、咳が止まるまで背をさすってくれる手の辺りなど、特に。
「あの、そうだ、お水、お持ちしましょうか?」
「……っ、いや、へいき。だいじょぶ。――頼むから人の後ろに立つときにゃ足音っくらい立ててくれ。ちっとばかり心臓に悪ィや、」
 そのように言われましても、と困ったふうに眸を臥せる。内気そうな、はにかんだ子どもそのもののしぐさだった。
 育ちがいいのだろう。基本的に。
 そう思い、璃羽はあらためて、この子どもをとっくりと眺めた。きちんと櫛の通った黒髪は昼日中には時折、光の加減で翠緑の若葉のいろがきらきらする。顔色なども少なくとも昨夜よりはずいぶん良いようで、他所事ながらもほっとした。地味ながらこざっぱりとした着物をきっちり着て、端然としたいずまいからはゆうべの、病みやつれた幽霊じみた姿は結構、想像しにくいものだった。
「からだの方は平気かい?」
「けさ、床上げいたしました。おじ上もおば上もきつう心配してくださりますが、もう随分良いのです」
 ふうん、とため息と煙を一緒くたに吐き出して、かれはふっと視線を逸らした。なんとなく、見ていたくない気がしたのだった。子どもはふしぎそうな顔をして、するするとやはり足音もなく近づいてきて、すとんと隣にすわってしまう。なんともくすぐったい気分になったのは、近いには近いが、さも親しげというには少々遠すぎる、その微妙な距離感ゆえである。奇しくも、かれの息子が隣に腰を下ろすなら丁度その辺りという幅の取り方であった。
「………………たばこ、お吸いになるのですね」
 子どもが小首をかしげて呟いた一言はそんな風に、やや突拍子もないものだった。
「いやなら消すぜ?」
 困り顔で煙管の吸い口をくいと持ち上げる。子どもはゆっくり首を横に振った。
「いいえ。そのままでよろしゅうございます」
 そのままがよろしゅうございます。
 言外の意味合いには気づかないまま、璃羽はますます困惑の度を深める。なにせこのかさのかかる悪癖は、かれの自宅では母にも息子にもいたく評判が悪いのだった。こんな受け答えをされるとなんだか、ひどく調子が狂う。相手がいつもはつれない、嫌われているんじゃないかと疑念を抱くような態度の実子とふたごのように似た容貌とあって、さらに事態は複雑であった。
 くすぐったいんだか嬉しいんだか、はたまた腹が立つんだか、果たして自分が感じているのはどれなのか。自分でもよくわからない。とりあえず、いかにも聞き分けの良さそうな、素直なかんじの受け答えだけはまっすぐにうらやましい気がする。思い返せば、由貴のやつも家に来た当初はこれっくらいとは言わなくても、もう少し素直であったような覚えもあるのだが。
「――あのう、」
 気づくと何か聞きたそうな、ちょっと落ち着かなさそうな、定まらぬ視線をちら、ちら、と投げてくる。しばらくもじもじしてからようやく口火を切るあたり、これで結構人見知りをする方らしい。
「その、息子さんがおられると聞きましたが……」
 ああ。成程、そっちの方か。そういえばきのう、酔ったまぎれに口に出した気もするから、男衆のどちらかから話がいったものと見える。
「いるよ。昔はあいつもちょうど今のお前さんっくらい小っせえ、人形みてぇに可愛らしい餓鬼だったがねえ。初陣済ましたらまあ見る間ににょっきにょき伸びて、竹の子みてえっつーかなんっつーか」
「大きい方ですか。どのくらい?橘さまと同じくらい?」
 ははあ。笑いまぎれに煙の輪っかをもうひとつふかし、
「小っせえのが気になるかい。今が伸び盛りだろ?なァに、腹一杯食って、お天道さんの下で遊んで寝てりゃああっという間さ。すぐにでっかくなる、うちのももう手に負えねえ位だ、気にする事ァ無いやいな」
 べつにそんなつもりでは、と言いつつも頬を染めてうつむくあたり、当たらずとも遠からず、といったところか。派手に笑いかけ、また少し噎せた。いつも吸っているやつより上等なぶんだけ、結構きつめのたばこのようだった。つられてくすくすと笑いながら背中を叩いたりさすったりと世話を焼く六道は、いまはちゃんとすっかり、齢相応の子どもに見えた。

◇◇◇

「じきにおば上がみえられますよ。おじ上は上つ社までお迎えに出たのです」
 阿吽の門神さまですから、きょうは子丑の金神の方違えで、ぐるっと回って戊戌(つちのえいぬ)。大路の神宮のほうへ出られて、そこから戻ってまいります。――
 しかしこの子も、すっかり打ち解けてくれたのはうれしいが、話すことの半分近くはむずかしいというか、わかりにくいというか。
「そういや、夕べも言ってたろう?鹿島の親父のことなんか俺ァ話しちゃいないと思うんだが。ちいっとばかり種明かししてもらえねえか?」
 案内される途中、きのうの渡殿のあたりで尋ねると、六道はすこしばかりきょとんとして首をかしげた。が、やがて得心がいった様子で、
「種も仕掛けもありません。わかってしまうだけですから――悪く言えば、ずるをしていることにもなるのかも」
 ただ、観えるだけなのだと、そう言った。
「生まれつきです。冬見は見鬼の家なので――神さまがたの血が濃くなるにつけ、そういう者が出たし、出ているし、たぶんこれからも出るのでしょうね。眼疾も頭痛もしますから、これで結構不便なものです」
「ふうん――」
 そういえば家の妹もそういう、人に見えないものが視えるたちなのだった。ほっそりと儚げで、うすい色の髪と膚、繊細な鷺草を思わせるたたずまい。ちょっと変わっていて、あんまり口もきかないでいるので大して不便もないのかと放っておいたままなのだが、これは一度聞いておいた方がいいのかも知れない。
「そういうことなら、おじ上の方がおくわしいですよ。六道はまだまだ修行をはじめたばかりですし。みんなおじ上から教わったり、本を探してきてくだすったりしたのです」と得々ときかせてくれるので、心の片隅に書き留めておくことにした。帰るまでに思い出して、たずねておく機会があるといいのだが。
 妻戸を開き庭先に降りる子どもに従い玉砂利に足をおろすと、爪先のかたわら、すっと草履のひとそろいが差し出される。「あ。……悪ィな」「いいえ?」
 何の気負いもなく受け答えできて、目が合うとやっぱりちょっとはにかみながらもにっこりしたりする。こんなところは少々、いやかなり羨ましいかもしれない、と考え始めている自分で自分にびっくりだ。普段から息子との不仲についてはあんまり気にしないようにしていたのだが、気にしないようにしている時点で既に結構気にしているというこの事実に、璃羽じしんはあんまり気が付いていなかった。
「あちらの小さいのが御霊屋(みたまのや)、その向こうのが産霊屋(むすひのや)。おば上達もそろそろおいでになられる頃合です、お迎えにゆきましょう」
 さ。こちらに。
 差し出される手のむこう、質素な庭はいま命ふてぶてしく生い茂る初夏の時候。濃く落ちた葉陰と、枝を渡る風がひんやりと涼しく、気持ちが良かった。まだ新しい白木の匂い立つような戸口がその向こうに見え、その引き戸がちょうど扉のむこうから、からからと引き開けられていくのが見える。

◇◇◇

 ――結果。
 ちょうど戸を開けがしらに件の佳人と顔をつきあわせた璃羽は、彼女と目が合った瞬間、ぶほぉっと派手に噴いた。驚愕のあまりへんな声が出て思わず二、三歩引き、引くついでに裾まで踏んであわや仰向けにすっ転ぶところであった。色男の面子にかけてまさか女の前でそんな醜態はさらせねえとばかりに踏みとどまった辺り、根性である。
「あら。あらあらあら。如何なさいましたの?どこかお加減でも?」
 言いながら覗き込んでくる御婦人はたしかに、小作りに整った目鼻立ちといい、決して下品にならない所作といい、面食いのかれの眼鏡にもかなう麗容である。やわらかに波打つ黒髪は卵形の輪郭を縁取り、長い睫は白い頬に影を落とすさまさえ見て取れた。くっきりと大きい瞳は情感を湛えて潤い、光の加減に蒼味の差す色合いはまるで澄んだ湖水を覗き込んだよう。人妻なのがもったいない。出来ればちょっと口説いてみたい。いやいやそこまでいかなくても、そこらの茶店にちょっと出て、団子でも奢って、ついでに会話を愉しむくらいはせめて。
 等というもくろみは、あっさりと根底から覆された。
 橘璃羽、遊郭暦一年弱、(一子有り)。まさか自分の妹とおんなじ顔に欲情できるほど落ちちゃあいない。具体的に誰が悪いと言えない辺りが更にやるせない顛末だった。一体何に対する敗北感なのだ、これは。
 それでもうわずり気味にいいえどうぞお気になさらずと答えた際、手を握っておくのは忘れなかった。手指はしっとりとして、やわらかくって、いい匂いだった。
 実に惜しい。

 そんなふうな、ひとつの期待に対する傷心の顛末はさておき。
 睦月はおっとりとした風情の、ころころとよく笑う御婦人で、璃羽の顔を見てもあんまり驚いたようすも見せず、逆に頭一つ半は違うこちらの頬に手を当てて、「まあまあ、ほんとにナオちゃんにそっくりねえ。さ、もっとよくみせて」などと言うのであった。
 なんて無防備な。
 得手勝手な男ごころと他所事ながらの兄ごころが混じり合って、
「おい、いいのかい、あの姉さんの。その、なんて言うか、ええと、」
耳打ちしようとしながら言いよどんだ。三日星はいたって平静に「ああ。あれか」と答えるので、結構いつものことらしい。 「心配でないわけではないが、まあ如何ともしようがない、というのが現状だ。なにせ姉上はお強いからな」
「――強いのかい」
 あのたおやかな見目かたちで。
「今の面子では一番だ。打たれ強さなら七生に一歩譲るが、姉上の薙刀は柔剛あわせて打ち込みが鋭くてな。俺なんぞ一合も持たん。六道は素質が良いから越せるかもしらんが、まだまだ年端もゆかぬし……言っておくが、姉上はおこらすと怖いぞ、笑って喧嘩両成敗だ。逆らわん方が無難だ」
 討伐に出ればあの笑顔のままで背後に屍山血河。大江山の雪景色も、道のそこここで赤くなったとかならなかったとかいう逸話付き。
「こ、こええなあ、それ」
「こわいぞ。こわいんだ。」
 二度も言われた。しかもいたってまじめそうな、実感の重みある表情で。
 ――女って……。
 心の底からそう思った。思われた当人はちょっと離れたところで、ぶじに回復してひさしぶりに顔を見せた裾子を相手に我が事のようによろこんで、きゃっきゃっと小娘のようにはしゃいでいたりするのだが。

 やがて騒いでいる声につられたのか、それとも単にさびしくなったのか、七生が庭のどこからか出てきた。膝下や袖口ならともかく肩や頭のあたりまで埃まみれの蜘蛛の巣まみれ。今まで何処で何をしていたものやら。仔細はさておき、腕には猫を一匹ばかり抱いていた。
「また縁の下ですか」
 と、呆れ顔で六道が言うのに、どういう理由か一間ばかり離れた場所から近づこうとはせず、それでもうれしそうな顔をしてうんうんとうなずいていたりするので、べつに仲が悪いわけでもないらしい。璃羽のほうを見て、「この子。厳船寺の三毛ちゃん。うちの近所でいっとうの美人さんだよ。さわってもいいよ」
 昨日そういえば、そんな約束もしたっけか。いやしかしそれは言葉の綾というかむしろ純然たる意味の取り違えと掛け違えというか。誤解を正そうかとも思ったがなんかもうめんどくさいから止めた。かわりにさわってみた三毛はすんなりとした尻尾のまだ若い雌猫で、毛艶がよくて、うす桃いろのなんともいえぬ蠱惑的な肉球の持ち主であった。ちょっとだけ傷心を慰められた、ような気がした。気がしただけだが。

◇◇◇

 ――お帰りになるのなら、そこまで送ってゆきましょうか。ちょうどみんなでお見送りもできますし。
 二晩続けて外泊となると、さすがに家族に何と言われるか。
 そろそろそんなことが気になりだした矢先に裾子から出た、有り難い申し出である。「そうねえ、わたしも、せっかく阿吽さまから薮入りを貰ったのだし。ひさしぶりに、みんなで鰻でも食べに行く?」と、睦月が言い出したので、ついでにそういうことにもなった。外出というのでまたぞろ着物を泥まみれにしている七生が着替えさせられることにもなった。
「面倒くさいなあ。どうせこれだって汚れちゃうのに、なんでこのまんまじゃ駄目なの」
 しんから面倒くさそうな声を出すのに、璃羽は簾むこうの縁側から鷹揚な笑声を挙げた。出したままの煙草盆に置いてあった煙管をとりあげ、
「まあまあ。たまにゃあ洒落た格好でめかしこんで出かけるのも悪かねえだろ。……ほうれ、きちんと身支度すりゃあ思った通り、お前さんだって結構な男前じゃあねえか。こいつぁ江口のきれいどころの姐さんたちだってほっとかねえぜ?」
 自分と同じ顔にむかって言いたい放題である。おまけに自分と同じ顔だと思って言っている訳で、ますますもって世話はない。
 着替え終わってみればまあ、確かに結構それなりには見えるのだが。
 袴の紐が縦結びになっているくらいは御愛嬌。見物ついでに直してやっていると、七生は煙草盆のほうを見て、ぽつんと言った。
「それ。……兄やが出したの?」
「ん?ああ。なんか悪ィな、気ィ使わせちまって」
「ふうん。……それね、五代さんの。遺品。」
 あの子の、おとうさん。うちでたばこ吸うのって、あの人だけだったから。
「――、そっか。」
「あの子、なんか言ってた?」
「いや。なァんにも――にこにこして、そんで、ずうっととなりに座ってた」
 ふいに思い当たった。
(そのままでよろしゅうございます)
(そのままがよろしゅうございます)
 ああ。あの子。
 じゃあ、もしかしたら、うれしかったのか。
 よく陽のあたる縁側。むこうを向いて、だまって煙をふかす背中。
 俺なんかのとなりで、それでも、うれしかったのか。
「…………やさしい子だから。あの子」
 まったくだ。
 余計な苦労をしょいこまなきゃいいなと、憎まれ口でもきこうかと思ったが、やめにしておいた。
 傾き始めた午後のひかり、うすい金色に染まって、縁側のひだまりには誰も居ない。ちょっとだけ家にいる妹に見せて聞いてみたいような気も起きて、それもやっぱり、やめにしておいた。

◇◇◇

 家族うちそろって家を出て、何処へむかったかといえば、まずは大路近くの道の端。仕舞い間際の青菜を売る老人をつかまえて、六道は胡瓜を二本ばかり買った。
「おいでになったのが川だそうですし。お帰りもやっぱり、川からのほうが近道になるでしょうね」
 と言うのだが、そこで何故胡瓜が出てくるのか。聞こうとしたのだが、隣にしゃがみこんでいた睦月が「あら。この水茄子おいしそうねえ、お漬物にするのがいいかしら」とものほしげな上目遣いで言うのに爺が年甲斐もなく気をよくし、形の悪い蕪やら売れ残りの菜っ葉やらをすすめだし、話の流れはうやむやになった。ちなみにそれらはちゃっかりと只同然の値で買い叩かれ、いまは七生が持たされている。美人は得だ。いや、単なる家族内の役割分担かもしれないが。
 次に鴨川河畔に出て、土手を降りる。「さて、この前見たときはこの辺りだったと思うが」と言いながら辺りを見回していた三日星がやおら葦群のあたりにしゃがみこんでごそごそしだした。
 戻ってくると両手を籠にしていて、そこにつかまえているのは一ぴきの雨蛙である。何の遊びだと思ったが、しかしやっている本人はまじめそのもの。受け取る子どものほうだってまじめな顔である。「いいなあ、あれ。おれもやりたいのに」「お前にまかせたら服を汚すではないか。一体何度一張羅を駄目にしたら気が済むんだ」
 ……一部、まじめでない呟きもまじったが、ともあれ。
「白波のあるじさまにご注進。泉の守の子が渡しをお願いしておりますと伝言しておくれ。さ、こっちはご褒美。行っておいで」
 投げた。ぱしゃん、と音がして、つづいて投げ込まれた胡瓜が一瞬、水面に浮かんだ。そこにすうっと水底から魚影のような黒い影が差したと思うと、あっという間に沈んでしまった。
「さーて。これで暫く待たねばならんわけだが、その間に鰻を食うか」
「おれ鰻重ね。あと、お吸い物も。」
「食べ終わったら、御土産物を探しましょうね。璃羽さんは何がお好き?やっぱり食べられるものがいいかしらね」
 まるで物見遊山の家族連れである。さすがに気が引けて「いいって、悪いって、」とさんざん固辞したものの、結局。なごやかさに引きずられる形で、川岸近い、露台の出ている店でたらふく馳走になった挙句、しっかり土産物まで持たされる羽目になったのは、言うまでもあるまい。

◇◇◇

 川に浮かんだ小舟からは、土手に立っている人達の影がまだ目に入る。

   またおいでねえ、また遊ぼうねえと声を挙げて腕を振っていたのはもちろん七生で、これはちょっと、見ている方が気恥ずかしい。あれが自分と同じ顔かと思うとなんだか、気恥ずかしさも更に倍になる気がするのは如何してだろう。
 おだやかに手をかざし「ありがとう。楽しかった。」と言ったのは三日星で、「あんまりお話もできなくて残念ねえ。妹さんによろしくね」とにこにこしながらもちょっとさみしそうにしていたのが睦月である。六道は端っこで、何か言いたそうな、何も言えないような微妙な顔つきでいた。あんまりしんきくさいので髪をぐっちゃぐっちゃに掻き回してやったらやっと少し笑って、「違うでしょう」と言うのだ。
「なにがちがうんだい」
「する相手が。……息子さんはきっとたいへんですね。六道だったら、一晩だってゆっくりねむれません。」
 と、こうだ。まだまだこっちの胸辺りにしか頭の位置が届かないくせに、言うことがふるっている。このやろう。末恐ろしい餓鬼だ。じつにもう腹が立ち、腹立ちまぎれに更にぐっちゃんぐっちゃんの頭にしてやり、ついでに簪のひとつでもつけてやろうかと更なるいやがらせを思い立ったところで、生憎時間切れ。舟が出る時刻であった。酒でも呑める齢ならまた違ってもくるのだろうが、どちらにせよ、今はこれが精一杯。

 舳先にすわって櫂をあやつる船頭は小ぶとりの身体に蓑と笠。ぷくぷくと泡を吐くような声を出し、のんびりと「すこうし遠いからねえ、けっこうかかるよ、着くまでには。きょうなんか風もないから揺れないし、寝心地もいいよう」と言うので、ありがたく横にならせてもらうことにしよう。
 ちょいちょいと笠を直すぷっくりした手の、その指のあいだに水かきが張っている気がするのは、気づかなかったことにした。ついでに生っちろい腕の、肘のあたりからなんだか緑色がかっていることも。突っ込みたい気もしないではないが、このいかにも人の良さそうな船頭を困らせるのは気がひけるのだ。下界の人間達にも色々あるのとおんなじに、天界の神様連中も、きっと色々あるのだろう。
 腕を枕にごろりと船底に寝転がって、思いついて懐に手をやった。「おれが選んだんだよ」「いいたくはないが、なあ、七生。その金子を財布から出したのはだれだと思う?」「あら、でも、最初に御土産買おうって言ったのはわたしよ」……と、いうわけで、連名である。良い仕立ての白扇で、これから暑くなる季節に良いだろうということになったのだ。あいにくと実家の在所ではまだ雪解けちかい時候だなどと、とても言えたような雰囲気ではなかった。苦笑しながらぱらりと開くと、繊細な筆づかいの真名とやわらかな丸みの仮名で記された筆文字が目に入る。末の子どもが、「お前が一番字が綺麗だ」という理由の下に書かされたものである。ものすごく恥ずかしがって、「ここで見ないでください」といやがったので墨痕を乾かし、閉じて箱に入れたまんまで手渡された一品である。

 ――うちに帰ったら、そうだな。鰻……はむりだから、うん、そうだ。帰りがけで鮎のひと籠でも買ってくか。知り合いの鵜飼いのじいさんに安くしてもらおう、いつものところに居てくれりゃあいいんだが。……
 ギィ、ギィ、と櫓の軋みを聞きながら、そんな柄にもないことを考える。柄でもないが、満更でもない。そう思った。家に帰ったら、まずは目一杯おっかない母親に怒鳴られることだろう。浮世ばなれした妹が、ぽやっと一拍ばかり遅れて、それでもうれしそうに笑うだろう。息子に木で鼻を括ったような冷淡なあしらいを受けるかもしれないが、まあ、きょうくらいは我慢してもいい。――
 夕暮れの暗さに扇の文字は次第に読めなくなりつつある。やがて眠気が差してきて、胸のうえに広げて置いたそれに字は、こう綴られている。


    あしひきの山たちはなれ行く雲の
    やどりさだめし世にこそありけれ



B.G.M 「鯨」「円積法」
「ロタティオン」