チラシの裏
Nothin's Alright
by しムす
初版:2005/05/20
改訂:

Nothin's Alright

未来はないさとうそぶいて
オーバードーズでその通り

注意!

ここはチラシの裏です。サイト管理者の気分によって出現したり消滅したりします。
あんまり真面目に読まないように。

パクリと創作の関係について(2005/05/20)

northさんのところの雑記が面白い。

いつも面白がって読んでるだけじゃ、私が楽しんでることが伝わらないので、我もしてみんとてするなり、というわけで、ここに、ちょっと思ったよしなしごとをそこはかとなく書き付けてみようかと思う。ああ、勘違いしないで欲しいのは、私は誰にも喧嘩を売ってるつもりは無いし、こーいうことを考えてる奴も居る、という参考のために書いてますんで、そこのところよろしく。

創作、って何だろう。

結論から言っちゃうと、凄くつまらない、当たり前の話になるので、しばし屁理屈で遊んでみようと思う。

デリダやらバルトあたりの、偉い人達を引き合いに出して語り始めると頭が良さそうに見えるんだろうけど、何しろ最近ろくに本も読んでいないので、ハッタリでもボロが出そうなのでやめる。そもそも、最近のそっち方面の本なんぞ、全然読んでいないのである。

でも、まあ、書かれたテクストには、それ自体で意味は無い、ってなことはおぼろげに理解してるつもりである。要するに、私が「りんご」、という時、あなたがそれを、僕の思っているのと全く同じ「りんご」を想像している保証なんてどこにもない。

須磨寺や きかぬ笛きく 木下闇

はい、これ、どうですか?僕は好きですけど。
面白くない。それもアリでしょう。つか、中学生にこれを教えても、まず理解できないもの。だって、少なくとも「敦盛」または「平家物語」を知らないと、意味が判らない。で、更に、源氏物語は最低読んでて、須磨ってところに対するネガティブなイメージを持ってないと、仕掛けが生きてこない。これ、厳密には季重なりなんですよ。
でも、僕は好きですし、古典に親しんだ人なら、ううむ、と唸るくらい、よく出来た創作なんです。光源氏が流された、荒涼とした流刑地であった須磨を舞台に、笛の名手であった敦盛の悲劇を重ね、降り注ぐ真夏の陽光が形作る木影。どうです、イメージとしてこれほど秀逸な句も、そうはないです。

例として適当かどうかわかりませんが、同じテクストであっても、受け手側のバックグラウンドが違うと、全然受け止め方が変わる、って話ですね。

こういう不確かなものに対して、ざっくばらんに、創作って何よ、っていうと、もう、これは、受け手が創作だと思ったもの、ってことになると思うんですな。

構造主義もポストモダンも、私の悪い頭で突き詰めていくと色即是空(本来の意味で)ってな感じになってしまって、真理を含んでいるんだろうけれど、どうにも居心地が悪いので、強引に俺様解釈を続けて、

『創作はコミュニケーションである』

と言い切ってしまいたい。

受け手がなければ成立しないんですな。

だから、ありとあらゆる創作の形があり得るし、人間の、それどころか、コンピュータが吐き出すログに至るまで、ありとあらゆる認知可能な活動全てが創作だと言い切ってもいいとすら思ってる。
ただし、コミュニケーションというからには、そこにコンピュータ用語で言うところの、プロトコル、言語学でいうところの文法ってのが介在する必要があるわけで、その約束事には、当然、これは創作ですよ、これはノイズですよ、ってな具合に篩い分ける装置、評価する装置がないと困る。

で、その装置ってのは何か、というと、それが文化的規範とか言われるものなのじゃないのか、と。(何か哲学用語でぴったりな言葉がありそうな気がするんだけど、思い出せない)
勇み足覚悟でもっと言い足せば、その時その時の文化の規範を超越した、「絶対的な」創造なんてものは有り得ないってことにもなる。
そういう装置を介して、受け手が創造だと思えば、そいつは創造なんです。作り手の意図なんて関係無い。

ということは、原理的に、その作品というか、テクストそのものについて、はじめて生まれたものであるのか、盗作なのかを一意に決めることはできない、ってことでもあります。さっきも言ったように、作り手側の事情なんて、全く関係がない。それが創作であるかパクりであるかを見分ける方法は、原理的にはありえないんです。つか、テクストそのものは、それ自体では意味を持ち得ないんです。

とは言っても、さっき言った装置を通したとたん、様々な意味が付加されて受け止められますから、生のテクストそのものを観察する機会なんて、これまたないわけなんですけど。シュレディンガーの猫みたいな話ですな。

整理すると、創作とは、解釈装置・・・その人の属する文化的な規範に基いて、その、受け取り手個人に委ねられるべき問題である、ということですな。

二次創作って言葉についても、そういう装置の一つなんじゃないのかな、などと思うんですな。

これは何かというと、今の、日本の、アニヲタというか、そういう趣味の人という、(比較的)狭い範囲内でのみ通用する、「二次創作」という名のプロトコル、またはそのレイヤ(層)の一つなんだと思うんです。そして、そこには、詳細な項目、内容がてんこ盛りに盛り込まれてます。そして、自覚的に、その範囲内で遊びましょうよ、ってことなんだと思うんですな。

私の考えてるプロトコルって奴は、重層的な広がりを持ってますから、一筋縄ではいかない代物です。
エヴァのFFで言えば、まず、
日本人、というレイヤ(層)があって、日本語を共通言語にするけど、多少の英語は可だよ、だけど誤字脱字、慣用句の誤用は恥ずかしい、とか。
で、次にアニヲタというレイヤがあって、未成年の女の子に萌えるのは、世間が許さなくても俺は許す、とか。
次にエヴァヲタというレイヤがあって、クスリばんばん決めながら乱交三昧のアスカなんて、アスカじゃないやい!とか。つか、これはむしろLAS縛りか。
場合によっては更にWeb上のFF読み、というレイヤが重なったりして。
で、これにSF好きとか、2chエヴァ板住人とか、微妙に重なるレイヤがあったりして、総体としてその仲間内でのルールというか縛りに則って楽しんでいる、と。

で、そういう考えを踏まえると、ちょっと前話題になってたパクリの問題も、創造性とか、そういう問題とは違うのではないか、と思うわけです。

ここまでの引用なら出典がわかるからOK、だけど他のFF作家さんのテクストを丸ごとパクるってのはどうよ、という考えがある一方、じゃ、何か?キャラやら設定やら世界観をパクるのはアリでも、表現をパクるのは駄目ってことか?それ、何が基準なんだよ、ってなことにもなりますな。

そう、基準、の話なんですよ、思うに。

話を凄く単純化すると、結局、ぱくったぱくられた、ってのは、仲間内の鬼ごっこで、
「ずるいよ、よその家の庭に逃げるのはナシだよ」
「えー、でもこれくらいいいじゃん」
「公園の中だけ、って言ってたじゃん」
ってのと同じレベルの話なんだろうと思うんです、結局は。遊ぶためのルールを決めようよと。

もちろん、上位ルールとして、法律とか、怖い爺さんの存在とか、色々あるんですけど、それらのプロトコルに従うかどうかも含めて、仲間内のルールが出来ていくわけですよね。
そして、本当は先生に怒られるけど、陸橋の下は通ってもよし、とか、場合によってはより上層のレイヤのルールに反するルールが出来ていく。実際、上層のレイヤになればなるほど、適用可能かどうかを見分けるには困難が伴ってきますから、このレイヤで適用可否を決めなきゃならない側面ってものあるんですよね。

そして、そういうプロトコルは、その共同体の中での議論で、暗黙の了解で、結論の出る、出ないに関わらず、おおまかで、あやふやな合意をもとに、もやもやと形作られていく。場合によっちゃ、声の大きな者が勝つ、なんてこともあるでしょうね。

話を創作に戻すと、重要なのは、問題はパクッた奴、パクられた奴が当事者じゃない、ってことです。

私は、自分自身でやるつもりはないけれど、その作者に必然性があるならできる限り自由にやらせてあげればいいと思ってます。で、必然性があるかどうかは作り手側の事情なんで、こっちは知ったことじゃない。・・・問題は面白いか面白くないかだ、というのは至言で、受け取り手の問題なんだと思うんですよ、つまるところ。

むろん、パクりは倫理に反してます。これは人間の基本原則に近い、「殺すな、盗むな、犯すな」ってなところから発生する非常に上位のプロトコルなんだろうと思います。でも、それを物語を書く作業の中に持ち込んで良いか悪いかは、より下位のプロトコルの縛りの方が大きいわけです。だって、自覚的に、倫理的であるべきだ、というプロトコルこそ、しごく大げさに言えば、文学的には否定されるべきでしょ。思考実験としては何をしてもアリ、っていうのもまた、プロトコルになってるわけで。

むしろ、その仲間内でそれを認めるかどうか、どこで線を引くか、ってことの方が大きな問題なわけです。
そういう意味で、エヴァFF界で、パクりパクラれが論争の種になること自体は、その共同体の健全性を示す話だと思うわけですし、色んな人が言うように、「当事者だけ」の問題じゃない、というのは正にそのとおりで、「当事者の問題」ですらない、というのが私の立場なんですけど。

でも履き違えちゃいけない。
私たちにあるのは、その緩やかな共同体の参加者の一人としてルールづくりに参加する権利であって、それ以上でもそれ以下でもない、ってことです。
創作姿勢とか、個人の資質とか、そんな「見えない」ものをあげつらうのはどうなのかな、と思うわけです。ま、それは共同体の中の身内としての肉親の情みたいなものなんだと思いますけど。

商業作家がパクるケースでは、そこにお金が絡む以上、実際の法律とか、社会の掟という、より強力なプロトコルから外れてしまうから問題になるわけです。ただ、それはそのレイヤでカタがつくべき話であって、裁判で白黒つける、っていうのはそういう意味なんです。
だから、少なくとも金の絡まない範囲では、パクっても面白ければいい、ってのも大いにアリだという可能性もあっていいと思うんですけどね。

みんな、こんなことは弁えた上で楽しんでるんだと思うんです。
「空気読め」ってのは、正にその共同体のプロトコルの範囲内でないと楽しめないよ、ってことを言ってるんでしょうし、northさんあたりが考えてることって、まさにそのプロトコルの境界を、明示的に探そうっていう試みなんだと思うんですがね。

ちょっと違和感があるのは、「矜持」ってところで、理詰めで外堀を埋めようとしているところに、「矜持」なんて、作り手側に属する測定不能なものを持ってこられると、余計混乱しそうな気がするだけで。
これを読み手の側で一意に測る方法があるなら楽だとは思うけど、作者が血反吐吐きながら書いたものでも、書き飛ばしたものでも、最終的には単なるテクストにしか過ぎないんじゃないのかなあ。だって、少なくともあなたは、私が、とある文章を書くに当たって、七転八倒してたなんて知らないでしょ。ところが別の文章はすらすら書き飛ばせた、なんて判らないでしょ。でも、アクセスログからすると、後者の方がよく読まれてたりして。
判断は、常に、最終的には、受け手である個人の手に委ねられるべきなんです。

個人的には、自分が書いたものをパクられるとどうかなあ。
やっぱり面白くない気がする。でも、そこで、これはしムすの書いた奴を引いたんだよ、と書かれると、素直に嬉しいかも知れず。
といいつつ、個人的な事情で、凄く恥ずかしいと思ってる箇所をそのままパクられたら、これは絶対に嫌だろうなあ。オナニーに例えると、自分のオナニーを盗撮されて、ばらまかれるような気分だろうなあ。
残念ながら、私の書いたモノをパクろうなんて酔狂な人はまず居ないだろうから、私には永遠に判らないだろうってのが残念ですが。

だから私個人としての意志としては、
どこから持ってきたかわからないパクリはNG。
で、パクられた人が嫌がってるなら、それもNGにしません?

ってくらいですかね。ハードル、低すぎですか?

一応、私は、自分自身のルールとして、世間の規範にはできるだけ従うようにしてるつもりで、無節操なパクりは恥ずべきことと考えてます。ただ、パロディの範疇(のつもり)で、有名作品の改変をやってますから、指弾されても仕方ない、とも考えてますし、もし、あなたに、そう、読み手であるあなたが、気に障る箇所がありましたら、ご指摘、ご指導頂きたいと思ってます。要するに、この狭い業界の中のルールには出来るだけ従うから、爪弾きにしないで、仲間外れにしないで、ってことなんですけど。(笑)
当サイトでは、ロックの曲からの引用が多いんですが、それについてはhtmlの文法に従って、極力出典がわかるようにしてるつもりです。
あ、ちなみに、しゃれでつけたリンクページの副題に使ってる「Hotter Than Hell」ってのはKISS、「Heatseeker」ってのはAC/DCの曲名からです。

でも、私が大丈夫だと思っていても・・・繰り返すようですが・・・判断基準は作り手である私ではなくて、これをお読みのあなたにあるんです。

ああ、なんだか冗長な上に、なんだか自分のだらしなさや無責任さを自己弁護する文章になってしまってるなあ。
それに・・・もっと勉強しとけばよかった。哲学の本なんて、もう随分読んでないもの。ボードリヤールや東浩紀ですか。今度、読んでみます。

もちろん、これはいつだって変わり得る、ただの酔っ払いの意見ですから、この言葉が、私を含めて、誰をも拘束するものではありません。
自分の言葉に責任を持てって?
だから、そんなもの、持ちようがないんだってば。(笑)

2005/05/20